春を告げる熊さん

こんな私で宜しゅう御座いますか?

『そう思ってくれるなら、ジュジが俺の嫁さんになってくれよ』

 髭面の熊男アンドラーシュにそう言われてから、幾日が経過した。ジュジャンナは未だうわの空だが、仕事をする手だけはしっかりと動いている。作業部屋の机の対面で娘の仕事の手伝いをしている母エルジェーベトは、虚ろな目をしている娘の様子がおかしいことに気が付いている。針仕事をしている手が止まる頃合を見計らって、エルジェーベトは彼女に尋ねてみた。

「ねえ、ジュジ。何か悩み事でもあるのかしら?母さんに話せることなら、話してみなさいな。誰かに話すことで、問題が解決することもあるわよ?」

 話せるなら、とエルジェーベトが前置きをしてくれているので、ジュジャンナは話せそうな部分だけでも話してみようかという気になり、口を開く。

「あのね、母さん。私……嫁さんになってくれって言われたの」
「……誰に?」
「……それはちょっと、言えない。内緒」

 アンドラーシュに言われたのだと言うのは何故だか躊躇われた。エルジェーベトは驚いているようだが深く追求することはせず、ジュジャンナの言葉を茶化したりもせず、ふふっと微笑んだ。その反応が意外で、ジュジャンナも驚く。

「そう言って貰えて良かったじゃないの。それで、どうしてそのことで悩んでいるのかしら?」
「……だって、私は碌でもない肩書きを三つも持っているのよ?そんな私と結婚なんてしたら、相手の人に悪い噂が立つかもしれないじゃない。私のせいで家族が嫌な思いをしてきたことを知っているのだもの、そうなるのは嫌だわ。それを覚悟して、ほいほいと嫁にいけるほど……私は度胸はないわ」
「このまま嫁に行かないで実家に居続けていても、結局はご近所さんに何かを言われてしまうけれどね」

 とエルジェーベトに言われたジュジャンナは、それもそうだけど、と思うのでぐうの音も出ない。彼女は口元を引き攣らせて、黙ってしまう。

「ジュジがうわの空になるほど悩むということは、貴女も少なからず結婚したいという気持ちがあるのね。母さんは安心したわ」

 私、キシュファルディ・ジュジャンナは一生結婚をしません。これからは仕事に生きます。仕事万歳!
 なんてことをジュジャンナが宣った日のことは今でもはっきりと覚えていると、エルジェーベトはおどけながら言う。

「……結婚を申し込まれるまで、相手のことを一度たりとも意識したことがないのよ。そんなの、相手に失礼じゃない」
「それでも良いじゃないのよ。結婚してから相手のことを少しずつ知っていくというのもありよ。見合い結婚なんてね、その典型よ?」

 ジュジャンナが住んでいる田舎町は未だに見合い結婚の方が恋愛結婚よりも割合が多い。エルジェーベトは今よりももっと見合い結婚が多かった時代に恋愛結婚をしている。そんな母親の意見を聞いてみようかと、ジュジャンナは唐突に思い立った。

「母さんは、父さんのどこが良くて結婚しようと思ったの?」

 父親のカーロイは平凡な顔立ちをしていて、背丈も低くはないが高い方ではないし、体つきも逞しくはなくて、ひょろっとした細身だ。一言で言うなれば、やや貧相な男性。それでもカーロイは大黒柱然として立派に振舞うので、性格は比較的男らしい。但し、カーロイが実際はエルジェーベトの尻に敷かれているということは彼らの子供たちは全員知っている。
 若かりし頃はもてにもてていたのだと自称しているエルジェーベトは、そんなカーロイの何処に惹かれ、結婚を決意したのだろうか。参考意見を聞いて、ジュジャンナは自分の身の振り方を考えようとしている。

「父さんはね、素敵な服を作って、母さんに贈ってくれたのよ。『僕と結婚してくれたら、一生貴女の為だけの服を作って贈り続けます』って言って。その時に貰った服はとても素敵だったのだけれど、しっかりと採寸をして作ったわけではないから母さんの体には合わなくて、結局は着られなかったわ」

 それでもカーロイの熱意が伝わってきたこと、彼に結婚を申し込まれて嬉しかったこと、将来の展望が見えたような気がしたことが結果としてエルジェーベトにカーロイとの結婚を決意させたらしい。カーロイは宣言した通り、毎年一着は必ずエルジェーベトの体型に合った服を作り、彼女に贈り続けている。

「……父さんと結婚して良かったって思ってる?」
「時々喧嘩はするし、これまでに大変なことは沢山あったけど……それでも父さんと一緒になって良かったって、今は思っているわ」

 結婚の良さは結婚してみないと分からないものだと、エルジェーベトは経験則に基づいて語る。

「結婚の申し出を受ける受けないも、それはジュジの自由よ。ただ、どちらの選択をしても後悔だけはしないようにね。貴女、年齢的に立派な嫁き遅れだから。どうしても不安なら……相手の人ととことん話し合ってみるのも良いかもしれないわよ?」
「母さんは何かあった時、父さんとじっくり話し合う?」
「ええ、勿論。でも殆どの場合、母さんが勝つわね。そういう時に父さんは必ず言うのよ、『惚れた弱みだから、エルジに負けても仕方がない』って」
「……父さんはそれで良いのかしらね?」
「本人が良いって言っているのだもの、それで良いのよ」

 エルジェーベトはにっと笑いながら、なかなか凄いことを言ってのける。
 そうか、不安に思っていることを相手にぶつけてみるもの手か。アンドラーシュは結婚の申し出を断られても逆恨みはしないと断言していた。それが本当であるのならば、彼と話し合ってみるのも良いかもしれないとジュジャンナは考える。

「好きだと言われてから急に意識し出した現金な女だけど、良いのかしら?」
「そのことは一生黙っておくというのも戦略の一つよ、ジュジ」

 人生の先輩の助言を受けたジュジャンナは、少し勇気が出てきた。区切りの良いところまで仕事をしてから、ジュジャンナは道具を片付け、席を立つ。

「母さん、出かけてくるわ。帰りが遅くなってしまったら御免なさい。先に言っておくわ」
「その時は母さんが何とかしてあげるわ。女は度胸と開き直りが武器よ。健闘を祈るわ、ジュジ」

 エルジェーベトに背中を押されたジュジャンナは足早に目的地まで歩いていく。ジュジャンナを悩ませていた、相手の家へと。

***************

 今時分、アンドラーシュは何処にいるのだろうか。家にいるのだろうか、畑にいるのだろうか、それとも羊の放牧に出かけていってしまっているのだろうか。

……まあ、とりあえずは家に行ってみようかしらね)

 家にいないのであれば畑に向かえば良いし、畑にいないのであれば大人しく家に帰ろう。ジュジャンナはアンドラーシュが何処に羊の放牧に行っているのかを知らないので、アンドラーシュと羊の群れを探しに行くことは出来ない。
 それにしても、どうしてこんなにも緊張するのだろう。そわそわしているジュジャンナはアンドラーシュの家に到着すると、古びた木の扉を叩いて彼の名前を呼んでみる。返事はない。アンドラーシュは家の中にいないようだ。
 ジュジャンナは次に畑へと足を向けてみる。其方にも、熊のような大男の姿を見つけることが出ない。

(ドーリは放牧に行っているのかしら……?)

 何となくジュジャンナは羊小屋に向かってみる。すると近づくにつれ羊の鳴き声が聞こえてきた。ということは、アンドラーシュは放牧には行っていないようだ。わんわん、と犬の鳴き声が聞こえたのでジュジャンナが其方へと目を向けると、アンドラーシュが買っている牧羊犬のミクローシュとマーチャーシュが尻尾を振りながらジュジャンナの許へと駆けて来るのが見えた。

「ミクローシュ、マーチャーシュ、お客さんかぁー?」

 のんびりとした太い声がした後、羊小屋の中から藁に塗れたアンドラーシュが表に出てきた。どうやら彼は羊の世話をしていたらしい。

「……こんにちは、ドーリ」
「お、おう、こんにちは、ジュジ」

 アンドラーシュはジュジャンナの姿を見つけると少しだけ動揺したようだ。けれども直ぐにいつも通りの暢気そうな表情に戻り、彼は体についている藁屑を手で払い落としてから、のっしのっしと彼女の許へとやって来た。

「何か用でもあるのか?」

 じゃれついてくる二匹の犬を撫でるアンドラーシュは、何故かジュジャンナと目を合わせずに尋ねてきた。

「話があるというか、訊きたいことがあるというか。時間がないなら、また今度にするわ」
「いや、良いよ。丁度休憩にしようかと思ってたところだ」

 アンドラーシュは羊小屋の外に置いている木箱の上に腰を下ろすと、もう一つの木箱の席をジュジャンナに勧める。

「あ、悪い。何か敷くもの……」
「良いわよ。それほど汚れている訳でもないし」

 木箱の上に被っている砂埃を手で払ってから、ジュジャンナは木箱の上にちょこんと座り、徐に空を見上げると口を開いた。

「ねえ、ドーリ。私に嫁さんになってくれって言ったのは……本気?」

 唐突に話を切り出されたアンドラーシュは一瞬体を強張らせるが直ぐに体の力を抜いて、明後日の方向に目を向けたまま、ふっと笑みを浮かべた。

「半分本気で半分冗談。ジュジがまともに取り合ってくれるとは思わなかったしな」
「……若しも私がその場で即決して、良いわよ!なんて言ったらどうするつもりだったのよ?」
「そりゃあ喜ぶさ。長年の片思いが実ったって」

 何せ十五の年からずっとジュジャンナに片思いをしていたのだから。アンドラーシュはジュジャンナの方に顔を向けると、にいっと悪戯小僧のように笑う。ジュジャンナは不覚にも、アンドラーシュの言葉と表情にどきっとしてしまった。早くなりかけている鼓動を落ち着けさせようとジュジャンナは深呼吸をし、それから再び話を切り出す。

「あのね、ドーリ。私、結婚式の日に花婿に逃げられた女だけど?」
「あれは本当のことを隠していたあいつが悪いだろ。ジュジが悪いわけじゃない」
「親が決めた相手だからって安心しきっていたのよ、あの頃の私は。今では……それがいけなかったのよねって、思うようになったわ」

 そう思うようになったのなら、ジュジも大人になったんだな。とアンドラーシュに言われたジュジャンナは恥ずかしくなり、ぷくっと頬を膨らませる。その反応の仕方は、未だ子供のようだ。

「それから。私、知らなかったとはいえ結果として不倫してた女だけど?」
「そもそもは男の方が悪いだろ。妻子持ちであることを隠してたんだからな。まあ、顔が良くて金持ってそうだったからジュジの好みに嵌ってたよな、あの自称画家」
「……でも私、奥さんがいるって分かっても別れたくなかったわ。出来れば奪い取ってやりたいって思ってたのよ?」
「そういうこともあるだろうな。俺には良く分からないけど」

 アンドラーシュが笑い飛ばすので、ジュジャンナは呆気にとられる。前向きというか、暢気というのか。何かあると自分に酔いたくなるジュジャンナにはない発想だ。

「後は……そうそう。私、婚約者を妹に寝取られた女って言われているけど?」

 この場合もジュジャンナは過去の失敗を取り返そうとして必死になっていたので、周りが見えなくなっていて、相手の気持ちを理解しようとしていなかった。ジュジャンナと元婚約者が見合いをしたその日、彼女の妹のボルバーラと元婚約者は恋に落ちていたのだ。気付いていないのは親同士と、ジュジャンナだけだったのだと後で知った。

「本当に男運がないな、ジュジは」
「その男運のない女が好きなドーリは女を見る目がないんじゃないの?」

 軽く笑い飛ばされたのが何だか癪に障ったジュジャンナが言い返すと、アンドラーシュはきょとんとする。

「そうか?ジュジは男運はないけど、働き者だし、料理は上手いし、器量も悪くないじゃないか。話し方に可愛い気がないからとっつき難いって言われてるらしいけど、俺はそんなことは思わない。ジュジと他愛のないことを話すのが好きだよ、俺は」
「……私もドーリと話すの、好きよ。変に猫を被らなくても良いもの」
「そうか、そいつは嬉しいね」

 ああ、この暢気なところが良いのかもしれないわね。気を張らなくても良いから、とにかく気持ちが楽だわ。と、ジュジャンナは思い、苦笑いを浮かべる。

「ねえ、私が嫁さんでも良いの?性格、あんまり可愛くないわよ」
「能天気な俺には、多少生意気なジュジが丁度良いんだよ。その性格も、それなりの付き合いで慣れてるから平気さ」

 生意気は褒め言葉ではないのでは、とジュジャンナは口元を軽く引き攣らせたが、アンドラーシュに突っ込み入れず、話を続ける。

「私を嫁さんにすると、きっと周りから色々と言われるわよ」
「言わせておけば良いさ。そのうちに言い飽きて、忘れるだろ」

 強がってはいるが、ジュジャンナはこれでも世間体を気にはしている。言わせておけば良いと言い切ってしまえるアンドラーシュは、のほほんとしているようで心が強いのではないだろうか。ジュジャンナには言えない台詞を言えてしまうアンドラーシュに、彼女は尊敬混じりの目を向ける。

「それから、えーっと。私、仕立ての仕事が好きなの。止めたくはないわ」
「止めなくても良いさ。家計の足しになるなら、大歓迎だ」

 両手を上げておどけるアンドラーシュに「未だ言いたいことはあるのか?」と問われたジュジャンナは、「訊きたいことは殆ど聞いたわ」と答える。するとアンドラーシュは急に真剣な顔になって、ジュジャンナを見つめてきた。

「ジュジは自分で良いのかって言うけどさ、それは俺の方だ。金持ってそうな小奇麗な顔した男じゃないし、熊みたいな大男で稼ぎも多くはないし。そんな俺でも良いなら、ぜひとも嫁さんになって欲しいと思ってるよ、ずっとな」

 優しい黒い目に見つめられて、ジュジャンナの胸はときめく。ほんの数日前まではそんな風にはならなかったのに、だ。それはアンドラーシュを意識している証拠なのだろうと、彼女は考える。

「……私のどこが良いの?」
「うん?そうだなぁ……気が強くて、直ぐにはめそめそしないところかなぁ?」

 それがいけないところだと言われることが多かったのに、とジュジャンナは大笑いしてしまった。ジュジャンナが笑う理由が分からないアンドラーシュは、何かおかしなことを言ってしまったのかと呆気にとられている。

「……私ね、思ったのよ。色々と考えて、こうしてドーリのことを見ていて……人間の顔じゃないわよねって」
「………………へ?」

 しん、と痛いほどの沈黙が訪れる。何か様子がおかしいと気が付いたジュジャンナが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているアンドラーシュを視界に入れて、数秒。ジュジャンナは己の過ちに気が付き、一瞬で顔を真っ赤にした。

「ち、違う、違うのよ!人間は顔じゃないわよねって言おうとしたのよ!言い間違えただけよ!」
「あ、ああ、そうか!流石にびっくりしたよ……」

 顔を真っ赤にして息巻くジュジャンナを落ち着けようとして、アンドラーシュは彼女の細い肩を大きな両手で、ぽんぽん、と軽く叩く。彼女が落ち着くのを待ってから、アンドラーシュは立ち上がり、彼女の前に跪いた。そして彼女の手をとり、真剣な面持ちで彼女を見上げてきた。

「……ジュジ。俺の嫁さんになってください」

 女が喜ぶような気の利いたな長台詞ではなく、実に簡潔な言葉だ。それでもジュジャンナの胸には響いた。

「……喜んで」

 恥ずかしそうにジュジャンナが求愛に答えると、アンドラーシュは嬉しそうに目を細める。ジュジャンナもつられて、口元を綻ばせ、アンドラーシュがおずおずと両手を広げてきたので、彼女は勢い良くその胸に飛び込んだ。
 なかなかの勢いだったので、アンドラーシュは体勢を崩して後ろに倒れこみそうになったが、持ち前の筋力で何とか耐えた。彼は自分の首に噛り付いているジュジャンナをいとおしそうに抱きしめる。

「もっと早くに結婚の申し出をしてくれても良かったんじゃないの?」

 ついそんな口を利いてしまったジュジャンナは反省する。アンドラーシュは「はははっ」と笑ってから、理由を話してくれた。

「俺がジュジの好みの男じゃないってことを知ってたからな。それに弱ってるジュジにつけこむのもなぁとか思ってさ。まあ、ジュジに結婚を申しこんで断られるのが怖かったんだ」
「見かけによらず、結構繊細なのね」
「そうだよ。熊男のアンドラーシュは純情青年なんだ」

 恋人だとか結婚だとか、恋愛や将来についての話題が出るとジュジャンナは物凄く不機嫌な顔になっていた。その顔が滅法怖かったので、アンドラーシュはずっと言い出せなかったのだと白状した。
 そんなに怖い顔をしていたのか、とジュジャンナは少し落ち込んだ。

「そうね……確かにその話題が出ると、過剰に反応していたわね、一時の私は」

 ジュジャンナ以外の人々には幸せな春が訪れるのに、ジュジャンナには春は訪れない。そのことを嘆いたジュジャンナの心はとても荒んでいた。私は恋人が出来なくても、結婚をしなくても平気だと強がって豪語していたものの、弟妹たちが幸せそうにしているとジュジャンナは明らかに嫉妬していた。

「私、夢を見すぎていたのね。だから、こんなにも近くに良い熊男がいることにちっとも気が付かなかったんだわ」
「気付いてくれて有難う」

 のほほんとした笑みを浮かべる髭面の熊男が何だか可愛らしく見えてきたので、ジュジャンナは思わず目を擦ってしまった。改めて見てみても、そう見えたので、彼女の中の何かが変わったのだろうと思われる。

(この表情、好きかも知れないわ)

 ジュジャンナは上体を離すと、アンドラーシュの髭に埋もれた唇にちゅっと自分の唇を重ねる。ジュジャンナがそんなことをしてくるとは思っていなかったアンドラーシュは不意を突かれて、目を丸くした。

「……もう一回お願いします」
「それは良いけど、今度はドーリからして欲しいんだけど?」

 大きな手でジュジャンナの頬を包んで引き寄せて、アンドラーシュはそっと彼女に口付ける。もじゃもじゃの髭が顔に当たってちくちくとするが、ジュジャンナは今、幸せな気持ちの方が勝っている。
 ――自分の殻に閉じこもって、うじうじしていたのが莫迦みたいだわ。と、彼女は頭の隅で考えていた。アンドラーシュは唇を離すと、頬をほんのりと桜色に染めたジュジャンナに問うてきた。

「なあ、ジュジ。俺のこと、つい最近まで全く意識してなかっただろ。それなのにどうして、俺の嫁さんになろうって思ったんだ?」

 立ち上がったアンドラーシュは腕の中にジュジャンナを閉じ込めたまま、じっと見下ろしてくる。『黙っておくというのも戦略の一つ』という母エルジェーベトの助言が頭の中をよぎったが、ジュジャンナはついうっかり、ぽろりと言葉を零してしまう。

「……正直に言っても怒らない?」
「……内容にもよるけど……なるべく怒らないように気をつける。訊いたのは俺だし」
「……嫁さんになってくれって言われたのは吃驚したわ。でも、この数日、色々と考えて……結婚してからドーリを好きになっていくのも良いんじゃないかって思ったの。仕事に生きるわって言ったりしたけど、本当はやっぱり、結婚して幸せになりたかったし……。だからドーリと話をして、それで今後の身の振り方を決めようかな、なんて思って勢いに任せて来ました」

 とても自分勝手な理由なので、流石のアンドラーシュも腹を立てたのではないだろうか。これで結婚話は露と消えるのかもしれない。と、不安になったジュジャンナが恐る恐る見上げると、アンドラーシュは呆気にとられた後、彼は怒ることもなく、豪快に笑い飛ばした。

「そうかそうか。これから俺のことを好きになっていってくれるのか。それは楽しみだ」

 能天気もここまでくると才能よね。なんて思ってしまったが、ジュジャンナはアンドラーシュの前向きな言葉が嬉しい。何だか照れくさくなった彼女は、彼の分厚い胸板に顔を押し付けた。

「あ、そうだ、ジュジ。あんまりくっつくな。忘れてたけど、俺、羊小屋の掃除してたからそこら中が汚れてるんだよ」
「もう遅いわよ。汚れがついちゃってるわよ。……でも、良いわ。気分が良いから、気にしないわ」

 くすくすと喉を震わせたジュジャンナが顔を上げると、アンドラーシュが顔を近づけてきた。彼女はそれに反応して、そっと目を閉じるが――いつまで経っても唇と唇が触れ合わない。どうかしたのだろうかと思って彼女が目を開けると、アンドラーシュはばつの悪そうな顔をして、ぽりぽりと頬を掻いていた。

「キス、しないの?」
「しようかと思ったんだけど……これ以上やると止まりそうにないなって思って……止めた」
「……二人ともいい年なんだもの、別に大丈夫よ」
「……いやいや、初夜まで待つのが常識だろ」

 前向きで能天気な熊男は意外にも常識を大事にするらしい、と判明する。驚いたジュジャンナは目を瞬かせた。

「頭、固いのね」
「……まあ、良いじゃないか。これから結婚して、することはするんだし」

 明後日の方向を見て苦笑いしているドーリに、「もうちょっと別の言い方があるんじゃないの?品性に欠けるわ」なんてジュジャンナは返すが、彼女も苦笑を浮かべている。アンドラーシュの発言を、彼女はそれほど不愉快に思っている訳ではないようだ。
 多少生意気で気が強くて、直ぐにはめそめそしないところが良いと言われたので、亭主を尻に敷く女房になっていってやろう。覚悟しなさいよ、ドーリ。ジュジャンナはそう心に決める。

「ドーリ。うちの両親に挨拶に来てくれる?」
「そりゃあ勿論。挨拶しないと拙いだろ。あー、熊男が相手だと反対されるかな?」
「うちの両親はドーリのことを悪く言ったことはないわよ。良い毛糸を作れる奴に悪い奴はいないなんて、父さんは言ってるくらいだし。私が結婚するってことには驚かれるとは思うけれどね」

 結婚を申し込まれていることを悩んでいると打ち明けたので、母親のエルジェーベトは驚かないだろう。だが、その他の家族は、ジュジャンナがこのまま一生独身でいるのだろうと思っていると思われるので、それはもう盛大に驚かれるだろうとジュジャンナは予想する。

「……ねえ、ドーリ。本当に私と結婚しても良いの?」
「なるようにしかならないさ。心配ばっかりしてると気が滅入るぞ」

 アンドラーシュの大きな手で背中を撫でられて、その手の温かさに安堵を覚えたジュジャンナはこれから待っている試練に向けての覚悟が少しずつ出来ていくような気がした。