朝も早くからこんなことを言われてしまうと気が滅入る。憂鬱だ、とても憂鬱だ。ジュジャンナは深く長い溜め息を吐いてしまう。
「私があんまりにも幸せだから、ジュジお姉ちゃんは妬んでいるのよ。でもお姉ちゃんのせいで、私、碌でもない三つの肩書きを持つ女の妹だって言われて、物凄く嫌な思いをしたんだからね!幸せになったって良いじゃないのよ!何がいけないのよ!」
幸せになりたいと強く願うことは何も悪くないわよ、ロージ。と、口から出かかったが、ジュジャンナは何故だか言葉にする気がなくなったので黙殺した。
昨晩のことを掘り返してきたロージャは朝食の後にそれだけを言うと、店の手伝いもせずに何処かへと出かけていってしまった。恐らくは、恋人のティボルの所だろうとジュジャンナは推測する。
ジュジャンナの人生のおける三大事件のせいで家族に迷惑をかけてしまったことは事実だ。今はこうして穏やかに暮らせているけれど、噂が飛び交っていた頃は仕立ての注文が減ってしまったし、弟妹たちにも嫌な思いを沢山させてしまった。
ジュジャンナは自分の行いが悪かったのだと思っている。けれど昔のことなどに触れられると、ついかっとなって言い返してしまう。自分には幸せが訪れないのに、周りには順調に訪れていることを妬んでしまうこともある。
それは未だに大人になりきれていない証拠だろうか。
(花婿に逃げられた女の妹、不倫女の妹、妹に婚約者を寝取られた女の妹の他にも、姉から婚約者を寝取った女の妹もあるわよ、ロージ)
三歳年下の妹ボルバーラもやらかして、更には隣町に逃げたじゃないの。迷惑をかけたのは私だけじゃないわよ。
そんなことを思ってしまうあたり、ジュジャンナの精神はまだまだ未熟者なのだろう。
***************
家の中にいると気が滅入って仕方がないので、ジュジャンナは昨日と同じように川原へと向かった。広場の木の下は、またロージャたちの痴話喧嘩を見てしまいそうな気がしたので避けたのだ。
土手に座り込み、心地良い風を受けながらジュジャンナは無心になってレースを編んでいく。
「……あら」
漸くレースが出来上がったと喜んだジュジャンナが顔を上げると、太陽が大分傾いていた。二日連続で母親に叱られるのは頂けないと、手芸道具を手早く片付け、ジュジャンナは立ち上がる。さあ帰ろうと踵を返した時、沢山の羊と二匹の牧羊犬を引き連れたアンドラーシュが向こう側から歩いてくるのが見えた。アンドラーシュはジュジャンナに気がつくと、大きく手を振ってくれた。
「よう、ジュジ。今日も外でレース編みか?精が出るな」
「こんにちは、ドーリ。貴方はどうしたの?羊の放牧の帰りかしら?」
「その通り」
まあ、見たら分かるわよね、とジュジャンナが呟いた瞬間、彼女の腹の虫が豪快に鳴いた。その音の大きさにジュジャンナもアンドラーシュを目を丸くする。
「……ジュジ。お前、いつから此処に居たんだ?」
「えーと、朝から」
「まさかとは思うけど、昼飯食ってないんじゃないだろうな?そろそろ夕方になる頃だぞ」
「ええ、お昼ご飯の存在をすっかり忘れていたわ」
あっけらかんとして答えるジュジャンナに呆れて、アンドラーシュが溜め息を吐く。腹の虫が追い討ちをかけるように存在を主張してくるので、ジュジャンナは恥ずかしくなる。
「ちゃんと飯を食わないと駄目だぞ、ジュジ。お前は細っこいんだから。ほら、ついてこい」
アンドラーシュはジュジャンナの背を軽く叩いて、自分についてくるようにと促す。ジュジャンナは羊や牧羊犬たちと共に、彼の後を追う。
「ねえ、何処に行くのよ、ドーリ?」
「俺ん家。何か少し食ってから家に帰れ。空きっ腹のままだと危ないからな」
空腹のせいで思考が鈍り、壁にぶつかったり、刃物で指を切ってしまったりしたことがあるのだとアンドラーシュは笑いながら言った。
「貴方、一人暮らしよね?そっちの方が危ないと思うのだけれど?」
「うん?俺は紳士だよ。不埒なことなんてしないよ」
「紳士は自分で自分のことを紳士なんて言わないでしょう」
「それはそうだな。まあ、安心しろって。久しぶりに誰かと飯を食いたいなって思っただけだ。変なことは絶対にしないから、ちっとばかし付き合ってくれよ。実は俺も昼飯を食いそびれたんだ」
アンドラーシュは羊の放牧に行った際に、昼食にとパンとチーズを持っていったのだが、油断した隙に羊に食べられてしまったらしい。そんなアンドラーシュは成人して間もなく両親を流行り病で亡くしてしまい、それ以来ずっと一人で暮らしている。生まれてからずっと実家暮らしで、両親も健在のジュジャンナはアンドラーシュが抱えているほんの少しの寂しさを垣間見たような気がした。
「……ねえ、食材はちゃんとあるのよね?」
「あるに決まってるさ、自炊して暮らしてるからな。自慢じゃないが、俺が作った
「そう。それじゃあ、私が料理を作るわね、貴方が作る料理はちょっと怖いし」
「はははっ、失礼だぞ、ジュジ。でも、それは良いな。是非ともそうしてくれよ」
誰かが作ってくれる料理食べるのも久しぶりだと、アンドラーシュは嬉しそうに目元を緩める。その様子にジュジャンナは料理を作ると申し出て良かったと思ったのだった。
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町の外れに近い所に、アンドラーシュの家と羊小屋、そして広々とした畑がある。羊たちを小屋へと戻し、二匹の牧羊犬に御褒美の餌をあげてから、二人は家の中へと入っていく。
(あら、思ったより綺麗に片付いているわ)
男の一人暮らしということで、ジュジャンナはアンドラーシュの家の中はぐちゃぐちゃの酷いことになっていると勝手に想像していた。然し実際はというと、彼女の予想は見事に裏切られ、家の中はきちんと片付けられていた。
そのことに驚いたジュジャンナは、きょろきょろと辺りを見渡して粗を探そうとする。小姑根性丸出しだ。ジュジャンナが試しに家政婦でも雇っているのかと尋ねてみると、そんな余裕は無い、とアンドラーシュは返事をした。ということはつまり、彼が掃除をしているらしい。マメな仕事をすると評判のアンドラーシュは、普段の生活においてもマメなのかもしれないとジュジャンナは結論付けた。
台所の隣にある食材の貯蔵庫を覗いてみると、美味しそうな野菜や燻製された肉が置かれていたのでジュジャンナはどんな料理を作ろうかと目を輝かせる。
「ねえ、ドーリ。食材は好きなように使っても良いの?」
「ああ、良いよ」
アンドラーシュの了解を得たジュジャンナは張り切って食材の確認をし、献立を考えていく。彼女が料理をしている間、アンドラーシュは外で農作業に使う道具の手入れをして時間を潰している。
気分良く料理をしていたジュジャンナは食卓の上に並べた皿や器の数を数えて、我に返った。
(しまったわ。軽食のつもりだったのに、しっかりと作ってしまったわ……っ!)
空腹の状態は危ないとアンドラーシュが言っていた通りだ。空腹になると感覚がおかしくなり、あれもこれもと欲が出てしまい――ジュジャンナは料理を作りすぎてしまった。台所の窓の外に目をやると、夕暮れ時の空が見えた。遅めの昼食は、早めの夕食になってしまったことをジュジャンナは知った。
「ドーリ、食事が出来たわよ」
頃合良く家の中に入ってきたアンドラーシュに声をかけると、彼は食卓に並んだ数々の料理を見るなり「沢山作ったなあ」と笑いながら言った。二人を食卓を囲み、祈りを捧げてから食事を始める。アンドラーシュが美味しそうに料理を平らげていくので、ジュジャンナは安心した。実は肉料理を少し焦がしてしまったのだが、アンドラーシュは気がついていないようだ。
二人とも腹を空かせていたので、食事が終わるのは早かった。ジュジャンナもアンドラーシュも、空きっ腹が満たされたことに満足している。
「はー、美味かった。やっぱり一人で飯を食うよりも良いな……」
「それは良かったわ」
そう言って貰えると、料理を作った甲斐がある。ジュジャンナはにこにこしているアンドラーシュにつられて、にっこりと笑う。
「さて、飯は食ったし……家まで送っていくよ、ジュジ」
「え?洗い物をしないと……」
「洗い物は自分でするさ。若い女がいつまでも男の家にいるのはまずいあろ?ほら、支度しな」
「……私を家に呼んだのって、貴方よね?」
自分で紳士であると言うだけあって、アンドラーシュは紳士的だ。無理にジュジャンナを引き止めようとはしてこないし、不埒なことも一切してこない。アンドラーシュは手際良くランタンに火を点すと、家の外に出て行って二匹いる牧羊犬のうちの一匹、ミクローシュを呼び寄せた。
「私、若い女とは言い難いわよ。もう二十四歳だもの」
「俺よりも三つも若いだろ。充分に若い女じゃないか」
お世辞なのだろうとは思うが、アンドラーシュの気遣いが少し心地良い。我ながら現金な女だとジュジャンナは思う。
「若い女扱いされたのは久しぶりね。ずっと、碌でもない女扱いされることが多かったから……何だか新鮮だわ」
「まあ、気にするなよ。俺もよく熊男って言われるし」
「その見かけじゃあ無理ないわよ」
「ははっ、酷いな、ジュジ。事実だから仕方がないけどさ」
牧羊犬のミクローシュを侍らせて、ジュジャンナとアンドラーシュは夜の暗い道をランタンの明かりを頼りに歩いていく。この時分になると町の人々の姿は殆ど見当たらず、町の中はしんと静まり返っている。普段通りのつもりで声を出すと周囲に響いてしまうので、少しだけ音量を落として、ジュジャンナはぽつぽつと話す。
他愛のない軽口を叩けるのは楽しい。自然とそうさせてくれるアンドラーシュは、周囲の人々に言われているように気の良い男だとジュジャンナは素直に思う。
「昔から思っていたけれど、貴方って本当に人が良いわよね。損をしたとしても恨み言は言わないし、他人の悪口なんて全然言わないし。私みたいに敬遠される女にも変わりなく声をかけてくれるし。どう考えても私より断然人当たりが良いのに……何故か独り身よね。不思議だわ」
「見た目が熊なのがいけないんじゃないか?」
森の熊のような外見はともかく、内面は兎に角良い。結婚相手の条件に”優しさ”を求めている女性ならば、間違いなくアンドラーシュに食らいつくと思うのだが、と、ジュジャンナは考え、小首を傾げる。
「それなら、そのもじゃもじゃの髭を剃ってみたらどうかしら?それだけで印象が随分と変わると思うけれど?」
「あー、一度髭を剃ってみたんだけどなあ、直ぐに生えてくるんだよなあ。俺、髭もそうだけど全体的に体毛が濃いから。とまあ、それは置いといてだな。そうだなあ、縁がないんだろうなあ。一人で暮らしていくには充分だけど、家族を養っていけるほど稼いでるわけじゃないから、経済力の無さも原因の一つかもな。人間としては好きだと言ってもらえても、結婚相手として好きだとは言われないんだよ、残念なことに」
「……皆、見る目がないのね」
御伽噺に出てくる王子様のような男なんて、現実には存在しないのに。
ジュジャンナはそれは自分にも言えることだと自嘲する。十代の頃のジュジャンナは恋に恋して暴走して、何でも上手くいくのだと思い込んで、過信していた。それが花婿(予定・元)に逃げられ、自称画家と不倫をすることになり、婚約者が妹に手を出すことに繋がったのかもしれない。
今のジュジャンナが過去に戻ることが出来るのならば、あの頃の自分に会って「目を覚ませ」と言って、横っ面を叩いてやりたいと思う。
「そう思ってくれるなら、ジュジが俺の嫁さんになってくれよ」
「え?」
思ってもみない言葉が耳に入ってきたので、ジュジャンナは足を止め、隣にいるアンドラーシュを見上げる。
「俺は昔から、ジュジが好きだよ」
アンドラーシュは苦笑いを浮かべているが、目は真剣だった。彼は嘘を吐いていないと、ジュジャンナの女の勘が告げる。
「……下心、あったのね」
ちっとも気がつかなかったわ。アンドラーシュが変わらずに接してくれたのには背景があったのだと知ったジュジャンナは、思わずそんな言葉を口に出していた。
「まあな。でも、言うつもりはなかったよ」
「どうして?」
「ジュジの好みは、金持ってそうな小奇麗な顔をした男、だろ?ジュジが目で追ってるのは大体そんな男ばっかりだった。俺はどう見てもそうじゃないし、金持ちには程遠いから望みはないなって思ってた」
確かにアンドラーシュは、ジュジャンナの好みには該当しない部類の男性だ。だからジュジャンナは彼を恋愛対象の男性であると意識したことはなかった。ジュジャンナによるアンドラーシュの位置づけは、気軽に話せる昔馴染みだ。
何て言葉を返したら良いのだろうと悩んでいるうちに、ジュジャンナの家の近くまでやって来ていた。彼女の少し前を歩いていたアンドラーシュは振り返り、優しい目をしてジュジャンナを見下ろしてきた。
「ま、考えるだけ考えてみてくれよ。返事はいつでも良いし、嫌なら嫌だってはっきり言ってくれて構わないからさ。断られたからってジュジを逆恨みすることはないから、それだけは安心してくれよ」
戸惑っているジュジャンナを安心させるように、アンドラーシュは彼女の肩をぽんぽんと軽く叩く。
「じゃあ、またな。おやすみ、ジュジ」
「……うん、またね、ドーリ。おやすみなさい」
去り際にアンドラーシュがふっと微笑んだので、ジュジャンナはドキッとする。そんなことはこれまで一度もなかったというのに、何故、突然に。
好きだよ、と言われたことでジュジャンナは急にアンドラーシュを意識し始めたのかもしれない。なんて現金な女なのだろうとジュジャンナは自分でも思わずにいられない。
混乱して頭がいまいち働いていないジュジャンナが裏口からそっと家の中に入るが、あっさりと母エルジェーベトに見つかってしまった。昨日と同じように叱られるが、ジュジャンナは上の空で母親の小言を四分の三以上聞き流している。
(駄目だわ、悶々として眠れない)
隣で健やかな寝息を立て、時折寝言を言っている妹のロージャが羨ましい。その夜は、昨日の夜よりも眠りにつくのが困難だった。
熊男の一撃はジャブではなく、ボディブローのようだった。