春を告げる熊さん

三つの肩書きを持つジュジャンナ

 キシュファルディ・ジュジャンナは世間様からこう言われている。――三つの肩書きを持つ女、と。

 一つ目の肩書きを手に入れたのは、ジュジャンナが十六歳の時のことだ。
 互いの両親が縁談を纏め、彼女は結婚することになった。清い交際を経て、いざ挙式へ。然し結婚式の当日に、彼女は花婿(予定・元)に逃げられた。花婿(予定・元)と共に逃げたのは、彼よりも十歳年上の子持ちの未亡人だった。
 手と手を取り合い、結婚式に集まった人々の視線を集めて逃げていく花婿(予定・元)と年上の女性の姿をジュジャンナは鮮明に覚えている。彼らの目は希望に満ち溢れていて、キラキラと輝いていたからだ。一方のジュジャンナの目は、絶望に満ち溢れることになったのだが。
 そうしてジュジャンナは”花婿に逃げられた女”という肩書きを手に入れることとなり、暫くの間、人々の格好の噂の種となってしまったのだった。

 二つ目の肩書きが加わったのは、ジュジャンナが十七歳の時のことだ。
 ”花婿に逃げられた女”ということで、ジュジャンナにはなかなか良い縁談が来なくなってしまっていた。然し或る日、都会からやって来た画家だという男に出会うこととなる。ジュジャンナは田舎町の野暮ったい男たちとは違う洗練された男と恋に落ち、結婚の約束まで取り付けたのだが――男の妻だと主張する女性が出現したことで、それは崩れ去ることとなった。男は画家でもなければ独身男でもなく、実際は妻子持ちの男だったのだ。知らなかったとはいえ、ジュジャンナは結果的に男と不倫をしていたことになる。
 ジュジャンナは男と別れたくなくて泣いて縋ったが、男は妻と別れる気はなく、ジュジャンナとはお遊びだったのだと言い捨てて、結局は妻と元の鞘に収まった。
 残されたジュジャンナは”不倫女”と呼ばれることになり、縁談が持ちかけられることは絶望的になった。

 三つ目の肩書きが加わったのは、ジュジャンナが十九歳になった時のことだ。
 娘の幸せを切に願ってくれている父親が知人に熱心に頼み込んでくれ、隣町の年頃の男性との縁談が持ち上がった。父親の熱意に報いようと、今度こそは失敗しないようにとジュジャンナは意気込んだ。然し、現実は優しくなかった。
 両親に呼ばれたジュジャンナが居間へとやって来ると、両親、婚約者、婚約者の両親、そして何故かその場にいる三歳下の妹のボルバーラが項垂れていた。状況が把握出来ていないジュジャンナに、父親のカーロイが涙目で語った。婚約者がボルバーラに手を出し、妊娠させてしまったと。それを知ったジュジャンナは気絶して、その場に倒れた。
 その衝撃の事実にジュジャンナの両親は激怒したが、婚約者(予定・元)の両親は息子の不始末を良しとしたらしく、息子とボルバーラを駆け落ちさせて、自分たちの手元に匿ったのだ。ボルバーラは勘当され、それ以来、一度も実家に顔を出していない――勘当された上で実家に顔を出せたら大したものだが。
 こうしてジュジャンナは三つ目の肩書き、”妹に婚約者を寝取られた女”を手に入れる羽目になった。

 ”花婿に逃げられた女”、”不倫女”、”妹に婚約者を寝取られた女”。この三つの肩書きの御蔭で、ジュジャンナには近寄ってくる男はいなくなった。そして縁談も持ち上がることもなくなった。両親は嘆き悲しんだが、その時のジュジャンナは何故か妙に落ち着いていた。
 ――ああ、私には春は訪れないのね。
 そう結論付けたジュジャンナは、一人で強く生きていこうと心に誓ったのだ。

***************

 時は現在。すっかり恋愛沙汰から遠ざかってしまったジュジャンナはというと、父カーロイが経営している洋服店で仕立ての仕事を手伝っている。手先が器用な父親に似た御蔭かジュジャンナの仕立ての腕はなかなかのもので、特にレース編みの技術は一品だ。その証拠に彼女が編み上げたレースは、キシュファルディ洋服店の売れ筋商品の一つとなっている。
 私は仕事に生きるのよ、と、心に決めたジュジャンナは居間のソファに座って、黙々とレースを編んでいる。細かい作業なので集中したいのだが、集中することが出来ない。何故ならば彼女目の前で、四歳年下の弟ゾルターンが最近出来たばかりの恋人といちゃついているからだ。彼らはジュジャンナの存在に全く気がつかず、遠慮なくいちゃついている。あちらが気にしていないのだから、此方も気にしなければ良いのだとジュジャンナは自分に言い聞かせて作業を続けるが――段々といちゃつきの度合いが激しくなってきたので、彼女は我慢が出来なくなった。

「ねえ。いちゃつくならいちゃつくで一向に構わないんだけど、人の仕事の邪魔をするのは勘弁してくれないかしら」
「うわぁ、ジュジ姉ちゃん!?何でこんな所に!?いつの間に!?」
「きゃあっ!?」
「私は最初から此処にいたわよ!貴方たちが後から来て、いきなりいちゃつきだしたのよ!そんなに恋人といちゃつきたいなら自分の部屋に行きなさいよ、ゾリ!!!」

 唖然としている恋人たちにぎろりと一瞥をくれてやってから、ジュジャンナは居間から出て行く。裏口へと向かおうとしたところで、井戸端会議を終えて帰ってきたらしい母親のエルジェーベトに出会した。

「あらジュジ、何処へ行くの?」
「外でレース編みをしてくるわ。家の中じゃあ、落ち着いてやってられないの」
「それはいいけれど、夢中になりすぎて夜までやっているんじゃないわよ?ところでゾリを見なかったかしら?薪割が終わったら、お父さんと店番を交代してって頼んでおいたんだけど……」
「ゾリなら女の子を連れ込んで、居間か自分の部屋でいちゃついてるわよ」

 ジュジャンナはそう言い残して、振り返りもせずに裏口から外へと出て行く。その僅かの後に、家の中から母親の金切り声が聞こえてきた。仕事をサボっていたゾルターンに母親の雷が落ちたのだろうと思うと、ジュジャンナの胸はすっとした。

 町の略中心にある公園には、とても大きな木がある。風が吹く度に聞こえてくる木の葉擦れの音が心地良いその木の下が、ジュジャンナのお気に入りの場所の一つだ。

(ふう、これで落ち着いてレースが編めるってもんだわ)

憩いの広場でくつろぐ町の人々を眺めたりしつつ、ジュジャンナが仕事に精を出していると、穏やかなその空間に突然耳を劈く女の声が響き渡る。何事かと驚いたジュジャンナは勢い良く顔を上げ、硬直した。

「誤解だよ、ロージ!」
「何が誤解なものですか!私、この目で見たのよ!?昨日のこの時間に貴方がエリカと仲良さそうに歩いているのをね!」

 大声で痴情のもつれを繰り広げているのは、ジュジャンナの六歳下の妹ロージャとその恋人のティボルだ。唖然としながらもジュジャンナは、ついつい二人のやり取りを見てしまう。

「仲良さそうにって……エリカは幼馴染なんだ。気軽に話をするくらい問題ないだろう!?」
「嘘よ、そんなの嘘よ!貴方がそんな不誠実な人だとは思わなかったわ!私たち、もう終わりね、別れましょう……っ!」

 よりにもよって、こんな公衆の面前で別れ話を切り出さなくても。人々の視線を集め、悲劇のヒロイン宜しく涙を見せる妹のロージャと身内であると思われたくない。と、ジュジャンナは思ってしまい、手芸道具を手早く纏めるとそそくさとその場から逃げていく。

「別れるなんて……冗談じゃない!僕が愛しているのはロージただ一人だ!」
「ティビ……!私もよ、私も愛しているのはティビだけよ……!」
「ロージ!」
「ティビ!」

 別れ話が出ていたというのに、彼女たちは既によりを戻している。彼女たちが一体何がしたかったのか、ジュジャンナにはよく分からない。彼女はロージャに見つからないように気をつけながら、人気のない場所を求めて歩を進めた

 おかしい。予定ではレース編みが順調に進んでいるはずだったのに。
 ジュジャンナが溜め息を吐きつつ道を歩いていると、十代半ばくらいの少年少女が手を繋いで歩いているのが見えた。その二人は買い物帰りのようで、それぞれ片手に野菜などが入った買い物袋を持っている。

「ヨージ?」

 ジュジャンナが声をかけると、くるくると巻いた赤毛の少年は此方に顔を向ける。九歳下の弟のヨージェフは姉に気がつくと顔を赤くし、繋いでいた手を慌てて離した。

「ジュ、ジュジ姉ちゃん!どうしたんだよ、こんな所で!?お店にいるんじゃないの!?」
「いや……ちょっとね、落ち着ける場所を求めて放浪しているというか……。ヨージは買い物?」
「うん、そう。あ、そうだ」

 ヨージェフは少女に向き直ると、彼女に姉であるジュジャンナを紹介し、ジュジャンナに少女の紹介をする。波打つ金髪を緩やかに二つに結っている可愛らしい少女は、ヨージェフが見習いをさせて貰っている料理店の店主の娘らしい。

「初めまして、シャーラです」
「初めまして。ヨージェフの姉のジュジャンナです」

 互いに挨拶を交わすと、ジュジャンナはヨージェフたちと別れる。一番下の弟にも春が訪れていたのか、と、ジュジャンナが苦笑いを浮かべつつ歩いていると、後ろから話し声が聞こえた。

「ヨージのお姉さんって、碌でもない肩書きを三つも持っているっていう、あのジュジャンナさんよね?とてもそんな風には見えないけど……」
「ひぃっ!しぃーっ!駄目だよ、シャーリ!姉ちゃんに聞こえたら、僕が殺される……っ!!」

 聞こえてるわよ、ばっちり。私ったら地獄耳かしらね。
 今は他人様がいる手前、ジュジャンナは聞こえなかった振りをする。ジュジャンナは外面を良くしたい、見栄っ張りなところがあるのだ。但しヨージェフが家に帰ってきたら、彼女は遠慮なくヨージェフにお仕置きをするつもりだ。
 宛てもなくさ迷い歩いたジュジャンナは、町の近くの川原へと辿り着いた。町中ではないので、人の姿はまばらだ。此処ならば落ち着けるだろうと、彼女は草が生い茂っている土手に座り込み、中断していたレース編みを再開した。

***************

 ふと気がつくと、辺りが暗くなってきている。ジュジャンナはレース編みに夢中になるあまり、時間による空の変化にまるで気がつかなかった。夜になる前に家に帰らなければ母エルジェーベトに叱られると、手芸道具を片付け始めた時、ジュジャンナは後ろから声をかけられる。

「こんな所にいるなんて珍しいな、ジュジ」

 振り返った先にいたのは、彼女が見知った大男だ。黒々とした髭面の、熊のように体格の良いその男性はアンドラーシュといい、親同士が知り合いということもあってジュジャンナは幼い頃から彼のことを知っている。

「ちょっと気分転換にね。今から帰るところよ。貴方こそ、どうしてこんなところに?」

 農夫をしているアンドラーシュは農具を手にしている。農作業をしていたのだとは分かるが、彼が所有している畑は彼の自宅近くだ。畑で農作業をしていたのであれば、こんなところにはいないはずだが。

「うん?ああ、他所の畑の手伝いをしてたんだ」

 ジュジャンナの問いに、アンドラーシュは答える。今の季節は種蒔きの時期で、どこの農家も猫の手を借りたいほどに忙しい。農家同士で助け合い、農作業をしているようだ。

「ふうん、そうなの。それじゃあね、ドーリ」

 昔から知っているし、会えばそこそこに話す仲ではあるが、ジュジャンナとアンドラーシュは特別に親しい間柄というわけではない。挨拶もそこそこに立ち去ろうとするジュジャンナを、アンドラーシュは引き止める。

「待てよ、ジュジ。家まで送っていくよ。もう直ぐ夜になる。女が一人で夜道を歩くのは危ない」
「そう。ご自由にどうぞ」
「ああ、そうする」

 アンドラーシュの親切な申し出にジュジャンナはついつっけんどんに返してしまう。過去の出来事により男性に不信感を抱いてしまって以来、ジュジャンナは家族以外の男性にこんな態度をとるようになってしまった。

(しまったわ。ドーリは悪い人じゃないって知ってるのに……)

 ジュジャンナは自分の態度を反省する。然しアンドラーシュはジュジャンナの態度は特に気にしていないようだ。それなりの付き合いなので、ジュジャンナのその態度には慣れているのかもしれない。
 夕方の薄暗い川原を、ぽつぽつと話をしながら二人は歩いていく。

「ドーリが育てている羊は毛質が良いって、父さんが褒めていたわ。良い毛糸だから、服を作るのがより楽しくなるって」
「ジュジの親父さんみたいに腕の良い職人に褒められると嬉しいな。有難う」

 ジュジャンナがあの三つの肩書きを手に入れてしまってからも、アンドラーシュは変わらずに声をかけてきてくれる。完全に心が荒んでいた頃は「良い人ぶりやがって」と思ってしまったこともあったが、心が落ち着いてからはアンドラーシュにはそんなつもりは全くないのだと分かってきた。それからは、ジュジャンナはアンドラーシュを酷く警戒しなくなったのだった。
 気軽に話せる数少ない男性の一人となっているアンドラーシュと話をしているうちに、いつの間にかジュジャンナの家――キシュファルディ服店の裏口に着いてしまっていた。

「送ってくれて有難う、ドーリ」
「どういたしまして。またな、ジュジ」

 優しい顔をした、もじゃもじゃの髭面の熊男の背中をジュジャンナは静かに見送る。のしのしと大股で歩くアンドラーシュの姿が本当に熊のようで、ジュジャンナはつい苦笑してしまう。彼の広い背中が夜の闇に消えていくまで見送ってから、ジュジャンナは裏口から家の中に入った。

「ジュジ。母さんは言いましたよ。夜になる前に帰ってきなさいと」
「御免なさい、次は気をつけるわ」

 眉を顰めた母親の小言は耳半分にして、ジュジャンナは家事の手伝いをし始めた。

***************

 そろそろ眠りに落ちたいのだが、ジュジャンナは眠りに落ちることを許されない。今日の昼間に広場で大騒ぎをしていた、三女のロージャの惚気話に付き合わされているので。一つの部屋をジュジャンナとロージャの二人で共有しているので一人きりになることは出来ず、えてしてこうなってしまうのだ。
 初めての恋を実らせたロージャは恋人であるティボルとのあれこれについて、誰かに聞いて貰いたくて仕方がないらしい。嘗ての自分もそうだったのだろうと思いはするが――妹とはいえ、他人の惚気話などなかなかどうでもいい。嘗て親兄弟たちが自分に抱いたであろう心情が今更に理解出来て、ジュジャンナはそこはかとなく虚しくなる。

「はいはい。ロージとティボルが幸せなのはよく分かったわ。もうお腹いっぱいだし、疲れているからもう寝るわね」

 これ以上はきついです、とジュジャンナが白旗を揚げると、ロージャは不満そうに唇を尖らせる。

「ちょっとジュジお姉ちゃん!未だ寝ないで!未だ続きがあるのよ!」
「……無理、もうお迎えが来てる」

 喋り足りないロージャは眠りに落ちようとする姉の肩を揺さぶるが、ジュジャンナは起きようとはしない。姉が相手をしてくれないことに、ロージャは腹を立てる。

「……若しかしてお姉ちゃん、私にヤキモチを焼いているの?私が幸せだから」

 確かに少なからずロージにヤキモチは焼いておりますが、同じ話を延々と聞かされることに耐え切れなくなっただけです。とは口に出さず、ジュジャンナは黙って寝た振りを決めこむ。

「あのね、お姉ちゃん。いつまでも昔のことを引き摺っているから、私にヤキモチなんて焼いてしまうし、お姉ちゃんに幸せが訪れないのよ。新しい恋をしなくちゃ駄目よ、お姉ちゃん。私がティビに言って、男の人を紹介して貰いましょうか?そうよ、それが良いわ!ねえ、お姉ちゃんの好みってどんな男の人?ほら、お姉ちゃん、言ってみなさいよ、ほら、ほらほら~♪」

 ジュジャンナは寝た振りを止めて起き上がり、にやにやとしているロージャを白い目で見る。よく見てみると、彼女の額には青筋がくっきりと浮かんでいる。ジュジャンナは酷く苛立っているようだ。

「ロージ。貴女が今言っていることはね、余計なお世話って言うのよ。人の心配をするよりも、自分の心配をした方が良いわ。ティボルを他の女にとられないように気をつけることね」
「な、何よ!?折角気を利かせてあげたのに、その言い草はないわ!幸せのお裾分けをしてあげようとしたのに……!」
「頼んでないわよ、そんなことは。それよりも、早く寝たらどうなの?明日の朝食当番、貴女でしょう?」

 反論をしたことで少しだけ溜飲が下がったので、ジュジャンナは布団に潜り込んで、黙りこんだ。尚もロージャは何かを言っていたが、ジュジャンナが全く取り合わないのでやがて諦め、不貞腐れながら眠りについたようだ。

(恋する乙女って怖いわぁ……)

 周りが全く見えていないし、自分が幸せならば他人にもそれを分けてあげなければという考えをしてしまう。以前の自分もああだったのだと思うと、とてもいたたまれない気持ちになる。

(頭の中が春になるって、怖いわぁ……)

 ジュジャンナはもやもやとした気分になり、その夜はよく眠れなかった。