夢見るゴリラ

夢ではありません、現実です。多分。

 何だか肌寒いような、と稲穂が感じ始めて少しも時間が経過する間もなく、両頬に鋭い痛みが走り、暗闇の中に火花が散る。重たい瞼をやおらこじ開けてみると――視界に飛び込んで来たのは、夕方の赤い空だった。

「――ゴリラ、起きろ」
「ひでぶっ!?」

 冷たく、且つ低い声が稲穂の鼓膜を叩いたのと同時にもう一度頬に鋭い痛みが走る。じんじんと痛む頬を押さえながら、稲穂は勢い良く体を起こして周囲を確認する。すると、細い目を一層細くして仏頂面を決め込んでいる弟の麦穂が直ぐ側にしゃがんでいた。

「麦、なまら目が怖えべ。どうしたよ?」
「どうかしてんのはゴリラ、お前の方だべ。夕方の搾乳の時間になっても帰って来ねえから母ちゃんに言われて迎えに来てみれば……こんな林の中で下半身丸出しで寝てるなんて……」
「は?下半身丸出し……?」

 未だ頭がぼんやりとしている稲穂は徐に自分の体に目を向け――真っ青になった。ついでに目も確りと覚めた。自分の下半身を覆っているのは岩海苔のような濃い体毛のみ、つまり、下半身だけ半裸の状態だ。自分の見に何が起こったのかを瞬時に思い出した稲穂は反射的に立ち上がり、股間のバナナをぷらんと揺らした。

「自分の兄ちゃんが露出狂だったなんて思ってもみなかったべ。服を脱ぎ捨てるのでなく、破り捨ててまで下半身を空気に晒したいとか……あ~、やだやだ、変態ゴリラが兄貴だなんて信じたくねえべ。他人の振りするしかねえべや……」
「違え!俺は露出狂じゃねえべ!野菜泥棒が隠れてるのかと思って此処に来たら、いきなり襲われて、繋ぎを破り捨てられて――って、はあっ!!!逃げろ、麦!お前まで餌食にされちまうべ……!」
「はい?いきなりどうしたんだべ、ゴリラ」

 顔面蒼白になり、冷や汗を滝のように流している稲穂がぶんぶんと首を振って周囲を警戒するが――自分を襲い、あんなことやこんなことで快楽へと導いて、疲労の海に突き落としてくれたモンスターガール(仮)の姿が全く見当たらないので、稲穂は首を傾げた。
 兄は露出狂としての才能が開花してしまったらしいと誤解している麦穂もまた、彼の言動が分からず、眉間に皺を寄せながら首を傾げた。

「……あれ?四本も腕がある、ちっぱい姉ちゃんがいねえべ……?」
「は?四本も腕?ちっぱい?……すみません、仰っていることの意味が分かりません。未だ夢の中にいるんじゃねえですか、変態ゴリラ?」

 兎に角、二人の近くにはあのモンスターガール(仮)はいないらしいと感じとった稲穂はほっと一息を吐く。そして下半身を丸出しにしていることは忘れ、冷たい目をしている麦穂に林の中で諸事情を話していく。とりあえず稲穂の言い分に耳を傾けていた麦穂だが、そうしたことを直ぐに悔いた。

「腕が四本も生えてる、おっぱい丸出しの外人の姉ちゃんに美味しく頂かれましたって……どういう都合の良い夢だべ。それが現実だと言われても、ネネちゃんの子供の”かうな”みたいに実際に目にしねえと、到底信じられねえべ」

 彼女いない暦イコール年齢の兄がついに妄想をこじらせ、夢と現実の区別がつかないまでに病状を進行させてしまったようだとしか麦穂には思えなかったようだ。

「夢じゃねえって、本当なんだって!見てみろ、この繋ぎの残骸を!俺の手じゃこんな風に切り裂いたり出来ねえって!!!」
「はいはい、早く家に帰って母ちゃんの飯でも食って、風呂入って、お布団でぐっすりと寝ましょうね、ゴリラ」
「駄目だ、1ナノミクロンも信じてくれてねえ!!!」

 異世界が存在していることを妹の寧々子は自らの子供を連れていたことで証明出来たが、残念なことに稲穂にはモンスターガール(仮)の存在を証明する術がなかった。

「……麦、服を貸してくれ。このままの状態で家に帰ったら、俺は怒り狂った母ちゃんに必殺のスリーパーホールドを決められちまうべ」
「よく見ろ、ゴリラ。俺も繋ぎを着てるだろ。貸せる訳がねえべ。んなことしたら、俺が変質者になっちまうべ。……仕方がねえ、残ったTシャツをズボンのように穿くしかねえ。上半身裸ならお巡りさんに許して貰える可能性がまだあるかもしれねえ」
「そんな……Tシャツの首の部分から俺のキャベンディッシュ・バナナがぽろりと出ちまうだろ……」
「どう見てもそれはキャベンディッシュ・バナナじゃねえ、島バナナだべ。稲ちゃん、見栄を張って偽りの申告をすると来るべき日に花嫁から罵倒されちまうべ?」
「お前は本当に俺には容赦ねえべな!ネネに対する優しさの三分の一くらいはくれても良いんじゃねえか!?」
「無理。色々と無理。ごちゃごちゃ言ってねえで、とっとと帰るべ、変質者」

 情け容赦のない麦穂は呆気にとられている稲穂を置いて、さっさと歩いていってしまう。弟の非情さ加減に腹を立てた稲穂は仕方がないのでTシャツをズボンのように穿き、首の部分から島バナナを出して、麦穂を追いかける。

 畑の隅に駐車していた耕運機を操り、稲穂と麦穂は帰路に着く。道中では醜い兄弟喧嘩を繰り広げながらも、幸運なことに二人は他人に見つかることなく――そもそも、人口密度が低い地域なので誰かと行き違いになることは殆どない――無事に帰宅することが出来た。

「俺が母ちゃんたちを惹きつけておくから、さっさと着替えて来い」

 兄の不始末が見つかってしまうと、絶対に面倒なことになる。そうなってしまった場合は自分も母親から説教をくらうのだろうと予測した麦穂は一計を案じる。彼は顔を向けずに稲穂に声をかけてから、家族が集まる居間へと去っていった。

(何だかんだ言っても兄が好きなんだな、麦よ……)

 麦穂の計算を優しさと捉えた稲穂はこそこそと家の中に入り、注意しつつも急ぎながら自室へと向かう。母親に見つかる前に着替えて、何事もなかったかのように振舞いたいのだ。
 けれども、どうにも現実というものは稲穂には優しくない。あともう少しで自室に辿り着くというところで、彼は不幸にも、自分とよく似たゴリラ顔の父親、草森家の大黒柱である豊作(ほうさく)と鉢合わせしてしまったのだ。出来れば弟以外の家族にはこの姿を見られたくなかった稲穂はこの世の終わりのような顔をして凍りつき、想像もしていなかったものを目にしてしまった豊作はすうっと表情を消して、変わり果てた長男の姿を上から下まで眺めた。
 ――痛い沈黙が、その場を暫く支配した。そして唐突に、豊作が目を潤ませ、涙を流した。

「気を確りと持て、稲穂。希望は未だあるはずだべ……!」

 男の価値は外見の良し悪しだけではない。そのことに気が付いてくれる異性は必ずいるはずだ。だからこそ、父さんは母さんと結婚することが出来たんだ。
 突っ立っている息子の肩をがっしりと掴み、豊作は「女性にモテないからといって、まだ人生を諦めるな」とばかりに熱く説いた。そして、唖然としている稲穂をその場に置いて、豊作はドスンドスンと大きな音を立てながら早歩きで去っていく。

(……親父の奴、絶対に何か誤解したぞ)

 むさ苦しさたっぷりの熱を受けた稲穂は、とりあえず笑って誤魔化した。色々な気持ちを。それから彼は自室の扉を静かに開閉し、一抹の空しさを抱えながら服を着替えた。

***************

 稲穂がモンスターガール(仮)に襲われ、一部の家族にいらぬ誤解を与えてしまったあの日から、数ヶ月が経過した。未だに稲穂は合コンでの連敗記録を更新しており、更には一ヶ月に一、二度のペースで問題を起こしていた。その問題というのは、草森家が所有している人気の少ない土地の何処かで下半身を丸出しにして気絶する、という謎の発作だ。どうしてそんなことを起こしているのか、原因が分からない草森家の人々は頭を抱えるばかりだ。

「頼むから、俺以外の奴にも姿を見せてくれよ……そうじゃねえと、俺は益々家族に白い目を向けられるから……っ!!!」

 四本の腕を持つ、上半身裸の褐色の肌の美女はどういう訳か稲穂の前にしか現れない。故に、家族はその存在を信じてはくれない。故に、「稲穂は結婚を焦るばかりに酷い妄想をするようになったらしい」「妄想を爆発させて服を破り捨てる変な性癖に目覚めた」と彼らに誤解されている。

「はあ~、俺がこんなに落ち込んでるのに、お前さんたちはすくすく育ってんなあ。……何か、物凄く元気じゃねえかい?」

 今年は天候が不順で、作物の成長に影響を及ぼしていると農家の間では言われているのだが、不思議なことに草森家の畑や牧草地は頗る好調だ。作物の世話を担当している稲穂とは反対に、作物たちには生気が漲っている。それだけは不幸中の幸いといったところだろうか。最終的には精も根も尽き果てて気絶するのがオチだが、美女に襲われ、非常に良い気持ちになれるのは間違いないので実際には不幸というほどのものではないのだが。

「そういえば、そろそろ二週間くらい経つなあ、あの姉ちゃんに最後に襲われてから。今日あたりにまた襲われちゃったりして。だははは――」

 能天気に稲穂が笑った瞬間、背後で物音がした。俄かに曇り空の下、畑を見回る仕事をしているのは稲穂一人。他の家族はそれぞれの持ち場で仕事に励んでいる。誰かが手伝いに来てくれたのだろうか、と、考えたかったが――現在の稲穂は一味違う。背中から伝わってくる薄ら寒い気配に覚えがある稲穂は恐る恐る振り返り――凍りついた。
 波打つ黒髪を靡かせて、褐色の肌をした四本腕の美女がにたあっと笑って、其処に佇んでいた。

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