夢見るゴリラ

バナナではありません、ゴリラです

 午前中の労働を終えて、家族揃って昼食をとって、一息吐いたところで落ち込むゴリラ――もとい稲穂は農作業を再開する。午後からはトラクターを駆り、野菜の植え時を迎えた畑を耕すのだ。

「あ~……結婚してえ~。嫁さんが欲しい~。出来れば金髪碧眼巨乳美女のゴリラマニアで宜しく御願いします、結婚の神様」

 作業は丁寧にやっているものの――丁寧にやらないと家族に本気で叱られるので――稲穂はどこか上の空。どうやら稲穂はそれなりに結婚への焦燥感に駆られているらしい。稲穂が一生独身者のままかもしれないと危機感を抱いてしまうのには、深いようで、そうでもないような理由が存在しているのだ。
 ――切っ掛けは、数ヶ月前の冬の或る日のこと。
 稲穂は三人兄弟の一番目である長男で、三番目の次男である麦穂との間に二番目の長女である寧々子(ねねこ)という名前の妹がいる。けれども寧々子は数年前に忽然と行方不明となり、消息を絶ってしまっていたのだが――これまた忽然と姿を現したのだ。それも子連れで。その子供というのがどこからどう見ても外国の血が入っていると分かる顔つきと肌の色をしていたので、寧々子が行方不明先で誘拐をしてきたのではないかと稲穂と麦穂は危惧をした。無鉄砲で大胆な行動をとる草森家の乳牛(ホルスタイン)――命名は稲穂――もとい、寧々子ならばそれくらいはやるかもしれない。彼らはそう思ったのだろう。
 感動の再会を通り越して一頻りじゃれ合ったところで寧々子に事情を尋ねてみれば、何と、彼女は異世界へと迷い込んでしまっていたのだと言う。――何言ってんだろ?寒すぎて頭の血管がどうにかなっちゃったのかな?と、内心で思ってしまっていた兄弟だが、その言い分を信じざるを得ない証拠を目にした。寧々子と夫との間に生まれたという子供には虎の耳と尻尾が生えており、よくよく見てみると虎縞のある密な体毛も生えており、更には掌と足の裏にはプニプニの肉球がついていたのだ。
 妹が異世界へと行ってしまっていた。その事実に驚愕した稲穂。然しそれ以上に驚いたのが、”あの寧々子”が”結婚をしていた”というもう一つの事実だった。世の男性を種牛、種豚程度にしか考えていなかった――兄ゴリラの偏見です――寧々子が、男っ気など微塵も無く、また、恋愛沙汰にはまるで興味を持たなかった、あの寧々子が!さらりと麦穂も打ち明けてきた、遠距離恋愛をしている仏像フェチの彼女がいると!
 恐らくは年齢順に結婚をして独立をしていくのだろうと、或いは寧々子は一生独身で農業に勤しむ生活を送っていくのだろうと妄想していて、生涯の伴侶探しに本腰を入れていなかった――というゴリラの強がり――稲穂を置いて、妹と弟は次の段階へと進んでいってしまっていた。稲穂は、膝から崩れ落ちるしかなかった。
 ――やばい、このままじゃ俺だけが一生独身のままだべ……!!!
 漠然とした恐怖を抱いた稲穂はこれまで以上に結婚活動に励むことにしたのだが、連戦連敗というボディブローを食らう羽目にもなったのだった。

「あ~、俺も異世界に迷い込みたいなぁ~」

 寧々子が子供と共に、夫が待っている異世界へと戻っていったあの日、麦穂が言っていたことを不意に思い返し、稲穂は夢想する。

『異世界には”アレ”でも良いっていう強者がいるみたいだから、稲ちゃんも迷い込んだら結婚するチャンスが増えるのかなー、なーんて―― 』

 麦穂の何気ない言葉に一縷の希望を見出した稲穂は霧の向こう側へと消えていった妹と甥っ子を追いかけたのだが、異世界への扉は二人は通しても、ゴリラは通してはくれなかった。だが、稲穂は未だ可能性を諦め切れていない。ほんの少しだけでも良いので、異世界に行ってしまえたらなぁと夢想して、傷ついた心を慰める。

***************

「――よし、これで終わりだな」

 黙々と作業をしているうちに畑を耕し終えたので、稲穂は畑の端に移動してからエンジンを止めて、耕運機から下りる。小休止することにした稲穂は持参していたペットボトルの蓋を取って、ごくごくと喉を鳴らしながら水を飲む。

「ぷっはぁ~!一仕事した後の水は美味いべ~!」

 半分ほどまで中身を減らしたペットボトルを耕運機の座席の上に置くと、同じ姿勢を長時間続けたことで強張ってしまった背中や腰の筋肉を解そうとしてストレッチを始める。岩海苔が貼り付いているかのような毛深い両腕を上げて、掛け声を出しながら動いている姿がゴリラのお遊戯に見えないこともないが、本人は至極真面目に体を労わっている。

「あ~、すっきりした~。苗を植えるのは明日で、今日は畑の土を耕すだけだから……夕方の乳搾りを手伝いに戻るべ」

 毎日必ず牛の乳房に触れる仕事は嫌いではないが、出来れば金髪碧眼巨乳美女を相手にその仕事をしたい。などと邪にもほどがある妄想を繰り広げようとしたその時、何気なく目をやった先で人影のようなものが動いたのが見えた。稲穂が目をやったのは、畑の向こう側にある林だ。草森牧場は大農家というほどの規模はないものの、ほどほどに広大な土地を所有しており、その範囲内には林が存在しているのだ。

(ん?今更になって誰かが手伝いに来たんだべか?)

 と考えてみるが、恐らくそれはないと脳が答えを出してきた。今時分、祖父母はビニールハウスで仕事をしているし、父親は地域の農家の会合に顔を出しにいっているので未だ暫くは帰って来ないだろうし、母親と弟の麦穂はこの畑からは離れた牧草地で仕事をしていることを稲穂は知っている。
 それでは一体誰があの場所にいるのか?近所の人がやって来たのかとも考えてみるが、その可能性も低い。あの林が草森家の所有地であることを知っている彼らは軽率に土地に侵入してくることはない。ともすれば、林の中に見えた人影は不審者ということになるのだろう。この辺りで不審者といえば二種類存在する。ウィンタースポーツをしにやって来て私有地と知らずに侵入してくる観光客と、野菜泥棒だ。季節は春と言うことで必然と前者は選択肢から除外されるので、後者の可能性が高い。

(おいおい、農家が汗水垂らして精魂込めて作った野菜を何の努力もしないで盗んでいこうなんてイイ度胸してんじゃねえかい……)

 これからの季節は野菜泥棒が増える。野生動物ならば山へと追い返したり、地域で話し合って駆除したりと出来るが、人間が相手となるとそれも出来ない。仮に人間を野生動物と同じ扱いをしてしまうと、間違いなく警察沙汰になってしまうことは、稲穂は理解している。
 野菜泥棒かどうかはさて置いて、兎に角正体を確認しに行こうと決めた稲穂は耕運機の鍵をかけてから畑の向こう側へと向かっていく。

「あれ?確かにこの辺を歩いてたはずだべ?」

 怪しい人影を目撃した場所までやって来たのだが、其処には人影はおろか気配さえもない。裸眼での視力の良さが自慢の稲穂は見間違えるはずがないと思っているので、首を傾げて、暫し考え込む。そして徐に空を仰ぐと、林の木の枝葉が揺れる音がして、稲穂は何かと激突して、仰向けに倒れた。

「いってて……っ!」

 倒れた時に思い切り後頭部を地面にぶつけたので、その箇所がずきずきと痛むと同時に脳味噌がぐらんぐらんと揺れる感覚に襲われる。後頭部に怪我をしていないか確かめようと腕を動かそうとするが――何故かびくとも動かない。其処に意識を向けて初めて気がついたのだが、ひんやりとした何かに腕を押さえつけられている上に腰の辺りにもずっしりとした重さを感じた。

「一体何だってんだよ、全く!重い!!」

 何の恨みがあって圧し掛かってくるのか、と、稲穂は首を動かして、腹の上にいる何かを睨みつけた。怒りの表情をしているが、内心では冬眠明けの羆ではありませんようにと願っている。

「……へ?」

 視界に収めたのは、見覚えのない女性だ。目鼻立ちがはっきりとした顔の造形に、褐色の肌をしたその人物は明らかに日本人ではないと判断出来る。
 ――何でこんな辺鄙な所に外人のねーちゃんがいるの?
 目を点にしている稲穂の頭は混乱しており、反射的に動いてしまった口からは「アナータハドチラサーマデースカー?」と片言の日本語が出てきてしまった。けれども相手には通じていないようで、彼女は涼しい顔をして体の下に敷いた稲穂を見つめている。

(え?ちょっと待て?あのー、小さめのおっぱい、略して”ちっぱい”が丸見えなんですけど?露出狂の外人女性?此処ってヌーディストビーチならぬヌーディストフォレスト?んなはずねえべや!!!)

 この世に生まれてから一度たりとも、このように女性に凝視されることなどなかった稲穂は動揺し、彼女の顔から下の方へと視線を移動させ――より一層動揺する羽目になった。波打つ黒髪と不気味に輝く目をした女性は幾重にも首飾りをしているのだが、何故か上半身が裸だ。下半身には薄い布を巻きつけているので秘密の花園まで丸見えではなくて稲穂は安心するが、多少、がっかりもする。

「スミマセーン、オモターイデース。ドイテクーダサーイ」
『……ヴァナラ?』
「は?バナナ?持ってねえべ???」

 稲穂のそれなりに切実な要求をさらりと躱した女性が呟いた言葉を彼は見事に聞き間違える。そして、「ここにあるバナナは俺の股間に生えているバナナだけです」と酷い下ネタを危うく吐き出してしまいそうにもなったので、それはいけないと理性が諭し、彼は何とか喉元に押し留めて、ごっくんと飲み干した。

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