たつのいとしご

空想と現実の違い(1)

 その日のゾーヤは御機嫌な様子で帰ってきた。口元を綻ばせている彼女の顔を見た瞬間に、フセヴォロドはその理由を理解した。けれども彼は問うことはせずに彼女を迎え入れ、しずしずと菓子と茶の準備を始める。
 他者の心を読めるフセヴォロドは会話を必要としなくても問題はないのだが、幼い頃のゾーヤに「ゾーイカはセーヴァと話したい!心を読むのはいけない!」と叱られて以来、出来るだけ彼女の口から言葉が紡ぎだされるのを待つことにしているのだ。

「セーヴァ、聞くのだ!ゾーイカはムスティーシャとヤンタールに出会ったのだ!」

 食卓の席に着くや否や、ゾーヤは声を弾ませて、森の中で起こった出来事を語り始める。自分以外の人間――ムスティスラフを初めて目にしたこと、ふさふさの毛を持った犬という生き物――ヤンタールに触れたことを話すゾーヤを、フセヴォロドは複雑な心境で眺めている。彼には表情といえるものがないので、ゾーヤはそのことに気づくことはない。

「……人間は恐ろしくはなかったか?」

 思ったままに、感情のままに話をしているゾーヤに手を伸ばしたフセヴォロドは彼女の頬を撫でる振りをして、彼女の記憶を読み取る。流れ込んでくる彼女の記憶には、ムスティスラフやヤンタールに対する恐怖などは一切無い。彼らもまた、ゾーヤに危害を与えているようではないと分かり、フセヴォロドはそこで漸く安堵の息を吐いた。

「人間も犬も、ゾーイカは恐ろしくなどなかった」
「そうか。良きことだ」

 ゾーヤの心は好奇心で満ち溢れている。だからなのだろうか、初めて出会った同胞や犬に恐怖心を抱かなかったのは。そして、彼女の中に人間という種族に対する知識が乏しかったことも一因となっているのかもしれない。フセヴォロドは過去の出来事から人間のことを快く思っていない。けれども、ゾーヤに人間に対する偏見を植え付けるようなことをしてはこなかった。彼が教えたのは、自身は竜人(ジラント)という種族で、ゾーヤは人間という種族であること。二人は同じ生き物ではない、違う生き物であるのだ、ということくらいだった。それが幸か不幸かは、フセヴォロドにもゾーヤにも分からない。
 フセヴォロドはわざとらしく咳をして、彼女の意識を此方に向ける。そして、彼女に伝えておかなければならないことを口に出した。

「ムスティーシャという人間に、我のことを伝えてはならぬぞ」
何故(なにゆえ)に?」
「……我は人間を恐ろしいと思っている」

 人間に居場所を知られないように暮らしてきたので、いつまでもそのように暮らしていきたいのだ。と、フセヴォロドが答えると、ゾーヤは首を傾げながらも、頷いた。彼女がもっと幼い頃であれば、純粋な心で問い詰められていただろうが、年頃の少女となったゾーヤは大人に近づいた分だけ、”何か”を察するようになっていた。
 彼女は菓子を食べることを止めると寂しげに目を伏せて、ぽつりと呟く。

「ゾーイカはムスティーシャを、人間を恐ろしいと思わなかった」

 それはいけないことなのだろうか、と問われ、フセヴォロドはゆるゆると頭を振った。

「人間は我を恐れる。我もまた、人間を恐れている。我は人間と関わりを持ちたいとは思わない」

 気紛れに人間の赤ん坊を拾って、その手で育てているのに何を言っているのだろうか。フセヴォロドは内心で、己を嘲笑う。フセヴォロドの考えがそうであるからといって、ゾーヤまで同じ道を歩む必要はないのだと言おうとした時、いつの間にか席を立っていたゾーヤが直ぐ傍までやって来ていた。
 表情を曇らせたゾーヤは徐に彼に抱きついてきて、彼の首筋に頬を摺り寄せてきた。

「ゾーイカはセーヴァを恐れていない」

 言葉と同じことを、彼女の心も訴えている。彼女は偽ることなく、思いをフセヴォロドに伝えてくる。小さく息を吐くと、フセヴォロドは彼女の背中を優しく撫でた。

「我も……ゾーイカを恐れていない」

 ゾーヤだけは特別なのだと伝えると、彼女の体が微かに揺れて、沈んでいた心の色が喜びで明るくなっていくのを感じとる。彼女につられて、フセヴォロドの心の色も明るくなっていく。けれども、小さな影は完全には消え去ってはくれない。
 いつまでも穏やかな日々が続いていって欲しい。フセヴォロドはこれ以上の変化を望まない。だが、変化は必ずやって来るのだということフセヴォロドは経験で知っているのだ。

***************

 短い春が終わりを告げる頃。
 ゾーヤは日課とも言える森の探索に出かけていた。いつものように持参したおやつを小鳥たちに振舞いながら食べ、一時の昼寝から目覚めると、耳慣れない音が遠くから聞こえてきているような気がした。眠たい目を擦り、頭を振って眠気を払ったゾーヤは立ち上がり、音のする方へと顔を向ける。

「ゾーヤ!」

 ゾーヤより低く、フセヴォロドよりはずっと高い声の主は、ムスティスラフだった。彼は相棒のヤンタールを連れ、馬に跨って現れた。馬を見たことのないゾーヤがあんぐりと口を開けているうちに、彼らは彼女の目の前までやって来ていた。ちぎれんばかりに尻尾を振るヤンタールが撫でてくれとばかりに体を摺り寄せてくるので、ゾーヤは流されるままに頭を撫でてやる。

「遠乗りのついでに立ち寄ってみたら、ヤンタールがゾーヤに気が付いたんだ」

 そう言って、ムスティスラフは軽やかに馬から下りる。そして、はにかみながら面を上げてみるとゾーヤが瞠目して馬を凝視していたので、思わずぎょっとしてしまった。

「ムスティーシャ。これは食べるのか?」
「……食べない」

 以前にもこんなやりとりをしたなぁ。と、がっくりしながら、ムスティスラフは馬の説明をゾーヤにしてやった。ゾーヤの目には基本的に動物は食べるものとして映っているらしいと、彼は改めて知る。

「スネジノゴルスクの人々に聞いたんだけど……この森は竜の山の主のものだから人間は近づいてはいけないんだってさ。早く離れた方が良いぞ、ゾーヤ。竜に見つかってしまったら食べられてしまうと、大人たちが言っていたよ」

 あれから森の向こうにある町――スネジノゴルスクで生活をするようになったムスティスラフは、その土地の人々と交流し、様々なことを知っていった。その中には竜の山の主の噂もあり、人々があまりにも竜の山の主を恐れているので、ムスティスラフはこの森に近づくのを止めようとしていたのだ。
 だが、彼には気になる存在がいた。古めかしい、男のような口を利く少女――ゾーヤだ。竜の山の主は怖いが、あの森へと行けば彼女に会えるかもしれないと考えたムスティスラフは家の者には勿論、スネジノゴルスクの人々にも内緒で此処へとやって来たのだった。
 一人でやって来るのは怖かったので、相棒と馬を御供にして。つまり、遠乗りと言うのは嘘である。
 スネジノゴルスクの人々によって恐怖を植え付けられているムスティスラフは早々に此処から立ち去りたい。突っ立っているゾーヤの腕を掴んで連れて行こうとすると、彼女は彼の手を振り払った。

「竜などいない。ゾーイカは森の奥の洞窟に住んでいる。帰るなら、其処へ行く」
「前もそんなこと言ってたよな。だけどさ、洞窟に住んでるなんて……冗談だろ?」

 スネジノゴルスクの人々も近づかないという場所だ。余程危ないに違いない。そんな場所に女の子が一人で住んでいけるはずなどない。ゾーヤは冗談を言ってムスティスラフをからかっているのだろうと、彼は考えたようだ。すると緑色の目が吊り上り、彼女は肩をいからせて、ムスティスラフに詰め寄った。

「ゾーイカは冗談など言っていない。ゾーイカはセーヴァと共に洞窟で暮らしている。偽りであると言うのであれば、ゾーイカについて来るが良い」

 ムスティスラフに馬鹿にされたと受け取ったゾーヤは向かっ腹を立て、フセヴォロドが吐露した心情のことを忘れ去り、証拠を見せてやると宣ってしまった。ぷんぷんと怒っている彼女は唖然としているムスティスラフを置いていき、大股でずんずんと森の奥へと進んでいく。

(……何で怒ってるんだ?)

 ゾーヤは嘘を見抜かれてしまったことが悔しかったのだろうか。見当違いのことを想像したムスティスラフは、一先ず怒りを静める為に彼女の思う通りにさせてやることにする。

「ゾーヤ!馬に乗れよ」
「……馬に?どのようにして?」

 馬を知らなかったゾーヤは、当然のように乗馬の作法を知らない。そのことには呆れはせず、ムスティスラフはゾーヤを先に馬上に乗せると、その後ろに乗った。それから彼女に案内をしてもらいながら、森の奥へ、竜の山の方へと進んでいく。

(良い匂いがするし、柔らかい……)

 ゾーヤの細い腰の腕を回すようにして手綱を握っているムスティスラフは、彼女の体の感触や、漂ってくる匂いにどぎまぎしている。彼には妹がおり、また、スネジノゴルスクには同じ年頃の少女がいる。けれども彼女たちに対してはこうはならないので、それが不思議だった。
 ぼんやりとしていると急にゾーヤが振り返ったので、ムスティスラフはどきっとして思いきり身を強張らせた。

「ムスティーシャ、此処で止まれ」

 彼女にそう言われて初めて、ムスティスラフは洞窟の前までやって来ていたことを知る。

「行くぞ」
「えっ。う、うん……」

 陰鬱として怪しい雰囲気が漂っている洞窟に怖気づいていると、ゾーヤが颯爽と馬から下りる。彼女に続いて、おずおずとしながら馬から下りたムスティスラフは近くにある木に馬を繋ぎ、ヤンタールに馬の番を任せてから、ゾーヤの後についていった。
 ムスティスラフは洞窟の中は真っ暗なのだろうと思っていたが、それは入り口の辺りまでだったようだ。奥の方へと進んでいくにつれて、明るくなっていっている。それは目が闇に慣れたからなのではなく、不思議な淡い光が宙に浮いていて、洞窟の中を照らしているのだと分かり、その得体の知れない光にムスティスラフは少しばかり恐れを抱く。
 然し、前を行くゾーヤが臆することもなく進んでいっている。少女が平然としていて、少年がびびっている。その事実はムスティスラフの自尊心に傷をつけた。

「セーヴァ!ゾーイカは戻った!」

 突然ゾーヤが大声を出す。その音量に驚いたムスティスラフの心臓が跳ね上がる。恐る恐る周囲を見渡してみると、岩壁とは違う材質の壁や扉などが視界に入ってきた。ゾーヤの言った通りに、洞窟の中には住居があったことにムスティスラフは驚き、唖然とする。
 すると、幾つかある扉のうちの一つが開くような音がして、その向こうから影が現れた。その影がゾーヤの言う”セーヴァ”なのだろうとムスティスラフは察したのだが――人間にしては、その影はやたらと大きい。忘れていた恐怖が、さあっと姿を現して、ムスティスラフの心に宿る。

「ゾーイカ、大きな声を出すな。我の耳には確と届いている。……嗅ぎ慣れぬ匂いがする。何ぞ持ち帰って来たのか?」

 二人の目の前までやって来たのは人間ではなく、天を突くほどの巨躯と黒い鱗を持った、蜥蜴に似た亜人だった。
 これまで比較的都会と呼べる地域で、それも人間ばかりが生活している場所で育ってきたムスティスラフは突然の亜人の登場に驚愕する。新しく生活をし始めたスネジノゴルスクにも、亜人はいなかった。故に亜人という存在をあまり目にしたことのないムスティスラフは、人間と似ているようで、けれども体の造りが違う種族に恐れをなし、声を失う。
 若しやこの亜人こそが人々の言っていた、竜の山の主なのか。恐怖心を抱きながらも、ムスティスラフはどうにか異質な存在を凝視する。大きく裂けている口の中には鋭い牙があり、更に視線を落としてみると、その手には鉤爪と――レースがあった。

(……ちょっと待て。何でレース?)

 何か手にしているのであれば、そこは鉈か鋸か、その他のものだろう。よりによって何故、この異形の亜人はレースを持っているのだろう。然もそのレースは素人目にも見事な代物だと思うほどの出来だ。まさかとは思うが、この亜人がこのレースを編んだというのだろうか。
 ――竜の山の主に見つかってしまうと食べられてしまうんだよ。
 スネジノゴルスクへとやって来てから、大人や子供問わずに言われてきたが――この竜は恐らくは、人間を食べたりしないのではないだろうか。と、ムスティスラフが直感で思ってしまえば、牙があろうと、鉤爪があろうとも竜への恐怖心はあっという間に薄らいでいってしまった。

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