たつのいとしご

流れの変わり目

 太陽の光が差しこまない洞窟の中を照らす不思議な光には不思議な仕掛けがしてあり、擬似的な朝と夜がやって来る。適度な明るさは徐々に失われていき、暗闇となる夜が訪れる。そして時が経過すれば徐々に明るさが戻っていき、穏やかな朝が訪れる。そうして、毎日が繰り返される。
 丈高いオスの竜人(ジラント)が横たわっても余裕がある巨大な寝台の上に巨大な塊と、小さな塊が転がっている。前者がもぞもぞと動き、毛布の中からにょきっと顔を出し、大きな欠伸をした。朝の時間帯を知らせる明かりに反応して、フセヴォロドが目を覚ましたようだ。彼がゆっくりと身を起こすと、隣で毛布に包まって眠っているゾーヤが身動ぎをした。

「未だ眠っていても良いぞ、ゾーイカ」

 フセヴォロドはそっと声をかけて、血色の良い柔らかな頬を手の甲で優しく撫でる。艶やかな金茶色の髪の下の目は閉じられたままだが、淡い桃色の唇が幸せそうに弧を描いた。
 廃人のようにただただ日々を過ごしていたフセヴォロドが月日の流れを確りと掴み取っていくようになって、十四年目の春を迎える。赤ん坊だったゾーヤはすっかり年頃の娘へと変化を遂げたが、相も変わらずフセヴォロドを振り回しては慌てさせて呆れさせて、それでも喜びを与えてくれている。
 仲間が残していった人間の研究記録には人間は年齢を重ねていくうちに自然と親と離れて――この場合、フセヴォロドは育ての親と解釈する――眠るようになると記されていたが、ゾーヤは十三歳となった今も未だ、フセヴォロドにぴったりとくっついて眠る。彼の傍が最も安心するのだと言葉でも心でも訴えてくるのが鬱陶しく感じられないので、フセヴォロドは無理に引き離そうとはしないでいる。フセヴォロドもまた、ゾーヤの温もりを感じながら眠りにつくことが心地良いのだ。

(ゾーイカが大好きな蕎麦の実の粥を作ってやろう)

 ゾーヤが目を覚ます前に朝餉の用意を済ませてしまおう。と、いつものようにフセヴォロドは静かに寝室を後にして台所に向かう。ゾーヤの可愛い我侭を聞いているうちに、フセヴォロドは炊事や裁縫がすっかり得意になってしまったのだった。

***************

 単に生活をしていくだけで良いのであれば、それは洞窟の住居の中だけで事足りる。竜人が持つ不思議な力によって様々な仕掛けが施されているので、其処には生きていくのに必要なものが殆ど揃っている。洞窟の外で、自力で暮らそうとする方のが危険だ。

「セーヴァ。ゾーイカは外に出る。日が暮れる前には戻る」

 快適に暮らせる住居ではあっても、其処にいるだけでは満たされないものもある。止まることを知らない、ゾーヤの好奇心だ。年若いゾーヤの好奇心は住み慣れた洞窟の住居を離れて、外の世界へと向けられるようになっていた。

「ゾーイカ、熊避けの鈴は手にしているか?」
「持っている」

 フセヴォロドに問いかけられたゾーヤは腰に巻いた紐につけている熊避けの鈴を自慢気に鳴らす。フセヴォロドお手製の鈴は少々不恰好な音を出しているが、ゾーヤは特にそれを気にしている様子はない。

「小腹が空いた時の為の菓子は用意しているか?」
「持っている。セーヴァは匂いで分かる。どうして尋ねる?」

 と言いつつも、ゾーヤはにいっと笑って、フセヴォロドがちまちまと縫い上げてくれた服のポケットから布巾に包んだ林檎と焼き菓子(プリャーニク)を彼に見せ付ける。林檎に齧った跡があるので、ついつい我慢しきれず一口だけ齧ったのだろうと想像するのはフセヴォロドには容易かった。態々心の内を地を読まなくても、ゾーヤの考えていることは大体分かるのだ。

「危ない時の為にゾーイカは小刀も持っている」
「うむ、それは良い心掛けだ。だが何ぞあれば必ず我を呼ぶのだぞ」
「ゾーイカはセーヴァの指環をしている。直ぐにセーヴァを呼ぶ」
「うむ」

 ゾーヤの左手の親指にはめられているのは、フセヴォロドの黒い鱗を加工して作られた指環で、彼がゾーヤに与えたお守りの中で最も重要な物だ。その指環は所有者の声を何処からでもフセヴォロドに届けられるという、不可思議な代物だ。

「良いか、ゾーイカ。遠くへ、森の外へは向かってはならぬぞ。そして獣の子が愛らしくとも決して近寄ったり触れたりしてはならぬ。親たる獣の牙と爪がゾーイカを襲うこととなる」
「ゾーイカは理解している」

 後者については一度痛い目に遭ったことがあるので、ゾーヤはきっちりと注意を守る。だが前者については不安が残る。広大な針葉樹の森を抜けた先には、ゾーヤと同じ人間が住まう世界がある。其処に辿り着いてしまったらゾーヤは仲間を求めて、フセヴォロドの許から離れていってしまうのではないかと彼は恐れるようになってきた。けれどもフセヴォロドはゾーヤを洞窟に閉じ込めようとはしない。恐れていることが現実になったとしても、彼はゾーヤを咎めたりはしないだろう。どんなに足掻いたとしても別れがやってくることをフセヴォロドは知っているのだ。ゾーヤは必ず、フセヴォロドを置いて逝ってしまう。

「セーヴァ」

 自分を見下ろしてくるフセヴォロドの目に悲しみが宿っているように感じたらしいゾーヤが不意に抱きついてきて、頬を擦り寄せてきた。

「夜になっても戻らなかったら、セーヴァがゾーイカを迎えに来る」
「確かにそのようにするが、甘えるでないぞ。日が暮れるまでには此処へと戻って来るのだ。我との約だ」
「うむ、ゾーイカは理解している」

 約束を破ってしまったとしてもフセヴォロドはきっと許してくれるだろう。彼は自分に甘いのだということを、ゾーヤは知っている。だからゾーヤはフセヴォロドに甘えて、我侭を言うのだ。
 ゾーヤの心の内を読んでしまったフセヴォロドは肩を竦めて、やれやれとばかりに息を吐く。残念なことに、ゾーヤの言う通りなのだ。

「セーヴァ、ゾーイカは外に赴く。日が暮れるまでには戻って来る」
「うむ、怪我をせぬようにな」

 フセヴォロドが掌で彼女の頬を撫でるとゾーヤは微笑んで、ふわりと身を離し、くるりと体の向きを変える。フセヴォロドはその軽やかさをほんの少しだけ寂しく思いながらも、キラキラと目を輝かせて、外の世界へと陽気に駆けていくゾーヤの背中を見送った。

***************

 竜の山の麓に広がる針葉樹の森へとやって来たゾーヤは、短い春の間だけ顔を見せる花を愛でたり、澄んだ水が流れる小川に爪先をつけて水の冷たさに驚いたりしている。彼女が付けている熊避けの鈴の音を耳にした大きな鹿が、群れを率いて何処かへと駆けていくのを目にすると、ゾーヤは少し眉を下げた。フセヴォロドが一緒にいてくれたのであれば、あっという間に鹿を捕まえてくれる。そうなれば今夜の食卓に鹿肉料理が並んだことだろうと想像したのだ。十代も半ばという年頃になったゾーヤの食欲は凄まじい。
 気の向くままに駆け回って息を弾ませたゾーヤは、きょろきょろと辺りを見渡すと近くにある木の根元に腰を下ろして、小さく息を吐く。徐に服のポケットから布巾で包んだおやつを取り出して、先ずは林檎を齧る。酸味の利いた甘さが口の中に広がり、彼女は満足気に目を細める。その次に胡桃や蜂蜜、香辛料などで風味を付けてある焼き菓子を一つ細かく砕いて周囲にばら撒いて、森の鳥たちにお裾分けをする。餌に釣られて地上に降りてきた小鳥たちを眺めながら、ゾーヤは残った菓子を頬張る。そうしておやつを食べ終えたゾーヤは手元に残った林檎の芯を適当な場所に埋め、木の幹に背を凭れて目を閉じる。程無く、健やかな寝息が聞こえ始めた。

 ――暫くして。心地の良い昼寝をしていたゾーヤは目を覚まし、大きく背伸びをする。再び散策を開始した彼女が歩いていると、少し離れたところから物音がした。彼女はぴたりと足を止め、息を殺し、耳を澄まして音がする方向を探る。
 若しかして冬眠明けの熊が近くにいるのだろうか。そんな恐ろしい予感がしたゾーヤは熊避けの鈴を手にして、大きく音を鳴らしてみる。物音は無くならない。鈴の音には効果がないようだ。

(どうする?ゾーイカは怪我をしたくはない、痛いのは嫌だ)

 小動物ならまだしも、熊が相手では到底敵わないのは分かりきっている。フセヴォロドに助けを求めた方が良いのかと逡巡しているうちに、ゾーヤの眼前に突然何かが現れた。

「――っ」

 ゾーヤはひゅっと喉を鳴らし、瞠目する。彼女の視界に飛び込んできたのは細長い黒い影――黒貂だった。

「っ!?」

 黒貂ならば問題はないと安堵の息を吐いた瞬間、今度は明るい褐色の毛並みを持った大きな動物が駆けていったので彼女は再び身を強張らせた。ゾーヤが森の中で目にしたことがない動物はクロテンを追いかけ、やがては追いつき――獲物の首に喰らいつく。小さな体に牙を突き刺し、強靭な顎が黒貂の首の骨を噛み砕く音が聞こえたような気がした。すると何とも言い難い悪臭が漂ってきたのでゾーヤは絶句し、思い切り鼻を摘む。そうしても意味がないほどに、黒貂の最期の抵抗は凄まじい。明るい褐色の毛並みを持った大きな動物は強烈な悪臭をものともしていないようで、更には直ぐ近くにいるゾーヤの存在も意に介していないのか、獲物を口に銜えて軽やかに駆けていく。

何処(いずこ)へと向かう?)

 鼻を摘んだままでいるゾーヤは好奇心が刺激されたのだろう、その動物の後についていく。そうして暫くもしないうちに遠くの方から誰かの声が聞こえてきた。

「――おーい」

 その声はゾーヤが知っているフセヴォロドのものではないと直ぐに分かり、彼女は反射的に身を硬くする。

「ヤンタール!狩りをするのは良いけれど、森の奥の方まで行っては駄目だ。短気な父上をお待たせすると叱られてしまうのだから。それにこの森は地元の人々に竜の山の主の領域と言われて恐れられているようだし……」

 明るい褐色の毛並みを持った動物の名前はヤンタールというらしい。ヤンタールは尻尾を振りながら声の主に向かって歩いていく。その先にいたのは金色の髪に青い目をした人間の少年だった。年の頃はゾーヤと似たようなくらいではないかと推察される。
 初めて目にする自分以外の人間の存在に驚いて、ゾーヤはぽかんと口を開けて呆けた。

「うわっ、凄い匂いだな!?そうか、ヤンタールは黒貂を捕まえに行っていたんだな。よしよし、良い子だ」

 凄まじい異臭を放つ黒貂の死体を手にしていた袋に放り込み、少年はヤンタールを褒め称え、頭や喉を撫でてやる。ヤンタールはふさふさとした長い尻尾をちぎれんばかりに振り、少年に甘えた。一頻りヤンタールを撫で回した少年は不意に顔を上げる。そこで漸く第三者の存在があったことに気がついたらしく、唖然としていた。

「え、何でこんなところに女がいるんだ……?」

 馬車に乗って待っている父親や従者から耳にした情報では、これから向かう土地の人間たちはこの森には入らないという。けれども眼前には自分と同じ年頃の人間と思われる少女が突っ立っているではないか。混乱をきたしている少年と同じように、ゾーヤもまた混乱していた。

「……ゾーイカはゾーヤだ。誰ぞ?」

 初対面の少女であるゾーヤが外見に似合わず古めかしい言葉遣いをする。そのことに少年は面食らいつつも、その質問に答えてやる。

「ぼ……わ、私はムスティスラフ・ラディミーロヴィチだ。そして此方はヤンタール、私の大事な相棒だ」

 金髪の少年――ムスティスラフが正直に名乗ると、ゾーヤは「承知した」と完結に言葉を返し、視線を彼からヤンタールへと移し、こてんと首を傾げた。

「ヤンタールは何だ?狐でも鹿でも黒貂でもない。森にはいない動物だ。ゾーイカは見たことがない」
「何と言われても、ヤンタールは犬であるとしか答えられないぞ」
「犬?犬とは何だ?食べるのか?」
「い、いいや、犬は食べないぞ……」

 何だ、食べられないのか。ムスティスラフの回答が残念だったのだろう、ゾーヤは眉を下げたが、直ぐに表情を明るくする。

「ゾーイカもヤンタールに触れたい。とても良い毛並みだ。……うん?ムスティス……?」

 毎日丁寧に手入れをしているので、ヤンタールの毛並みを褒められたムスティスラフは気分を良くする。

「ムスティスラフ・ラディミーロヴィチ。ムスティーシャで良いぞ、えぇと、ゾーヤ?食べようとしないでくれるならヤンタールを撫でてやってくれ。頭を撫でてやるとヤンタールは喜ぶんだ」
「うむ、ゾーイカは承知した」

 主人であるムスティスラフに噛みつくことはないが、初対面の他人であるゾーヤを警戒してヤンタールが牙を剥く可能性がある。ヤンタールがゾーヤに触れられることを嫌がって暴れたりしないようにと配慮したムスティスラフが相棒の体を押さえるように抱き込むが、不思議なことにヤンタールは嫌がる素振りを見せない。
 ゾーヤはしゃがみこみ、ムスティスラフに言われたようにそうっと頭を撫でる。そうするとヤンタールが甘えるように鳴いたので、ゾーヤは嬉しくなり口元を綻ばせた。

「ヤンタールの毛は気持ちが良い。毛皮は剥ぐのか?」
「ヤンタールは食べないし、毛皮も剥いだりしない。……ゾーヤは本当に犬を見たことがないのか?」
「うむ。ゾーイカは初めて犬を見た」

 犬は何処にでもいるのに、ゾーヤは見たことがないと主張する。一体どんな所に住んでいるのだろうかと、ムスティスラフは怪訝な目で彼女を見てしまった。
 存分にヤンタールを撫でて満足したゾーヤが立ち上がったので、ムスティスラフもつられて立ち上がる。

「なあ、ゾーヤ。スネジノゴルスクには犬がいないのか?」

 森の向こうにある町――ムスティスラフの父親が(ツァーリ)より拝領した土地の名を口に出すと、ゾーヤは首を傾げる。ゾーヤは森の向こうにある人間の町や村の名前を知らないのだ。「スネジノゴルスクとは何だ」と問うた彼女に対して「何処に住んでいるんだ」と問い返すと、彼女は「ゾーイカは洞窟に住んでいる」と簡潔に答えた。今度はムスティスラフが首を傾げる番となる。

「は?洞窟……?いや、蝙蝠じゃあるまいし……この辺りに洞窟があるって言うのか?」

 ムスティスラフのその問いに答えるように、ゾーヤは竜の山を指差した。確かに其処には洞窟があり、その中に住まいがあるのだ。けれども、そのことをムスティスラフは知らない。元々、この土地の人間ではないからだ。
 冗談にも程があるだろうと、ムスティスラフは一笑に付す。

「――あ」

 唐突にゾーヤが声を上げて、空を仰ぐ。くすんだ青色が少しずつ変化を見せ始めているので、日暮れが近づいてきているのだとゾーヤは悟った。
 ――日が暮れるまでには此処へと戻って来るのだ。我との約だ。
 不意にフセヴォロドの言葉が脳裏に浮かんだゾーヤはくるりと体の向きを変えて、歩き出す。

「おい、何処へ行くんだ?」
「ゾーヤは洞窟に戻る。日が暮れる前に戻るとセーヴァと約を交わした」
「セーヴァ?セーヴァって誰だ?なあ、そっちはスネジノゴルスクとは反対だ」

 ゾーヤが目的地の住人だと思い込んでいるムスティスラフは彼女の腕を掴んで引き止める。歩みを止められたゾーヤは首を傾げ、自分の腕を掴んでいるムスティスラフの手をそっと剥がした。

「セーヴァがゾーイカの帰りを待っている。ムスティーシャも帰る」
「ま、待てって、ゾーヤ!」

 ムスティスラフの静止に耳を傾けることなく、ゾーヤはずんずんと進んでいく。
 熊が出るという森の中を犬も連れずに一人で突き進んでいくなんて自殺行為だと呼びかけるが、ゾーヤは振り向きもしない。ムスティスラフはゾーヤを追いかけるが、野山を散策し慣れているゾーヤと違い、整備した道を歩き慣れているムスティスラフはちょっとした石や木の根に足を取られてしまう。そうしているうちに段々と距離が開き、ゾーヤの後ろ姿が遠くなっていってしまった。

「……これ以上奥に行ってしまえば、父上の所には戻れないな」

 すっかり忘れてしまっていたが、ムスティスラフは家族と共にスネジノゴルスクへと向かっている最中だ。森の近くで休憩を取っている時にヤンタールが駆け出していってしまったのを追いかけてきただけなので、出来るだけ早く戻らなくてはならない。これ以上待たせては父親の雷が落ち、母親に小言を言われる羽目になるだろう。ムスティスラフはゾーヤを追いかけることを諦め、ヤンタールの鼻と帰巣本能を頼りに、家族が待っている場所へと戻っていく。

「変な女だったな、ゾーヤは。女なのに男みたいな話し方をする。……でも、可愛かったな」

 幼い子供のように自分のことをゾーイカと呼び、時代錯誤な言葉を使う、恐ろしいほどに物を知らない少女――ゾーヤ。柔らかな金茶色の髪に、キラキラと輝く緑色の目が印象的だった。
 ヤンタールを嬉しそうに撫でているゾーヤの顔を思い出しながら家族の許へと戻ったムスティスラフは、長時間待たされたことに立腹した父親にこっぴどく叱られ、母親にも小言を言われることとなったのだった。

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