たつのいとしご

小さな命

 地元の人間たちが”竜の山”と呼んで恐れ、近づくことをしない峻厳たる山がある。その山の洞窟に、黒い鱗を持つ雄の竜人(ジラント)がたった一人で暮らしている。蜥蜴にも鰐にも似た強面に、天を突くほどの巨躯、そして鋭い鉤爪を持つ竜人は簡素な作りの椅子に腰掛け、退屈を紛らわせる方法はないかと物思いに耽っていた。
 ――嘗て竜人は”竜の山”ではない場所で暮らしていた。だが、竜人とその一族は不思議な力を有していた為に人間に迫害され、住処を追われ、流浪の旅の果てにこの山へと逃れて来た。その後も人間に襲われることもあったが、境界をはっきりと示したので、やがて彼らは竜人の領域に足を踏み入れることはなくなり、竜人の一族は安寧を手に入れることが出来たのだった。
 その時分には仲間が沢山いたので黒い鱗の竜人は退屈を覚えていなかった。けれども月日が経つにつれて、迫害を受けたことで心に傷を負った一人の仲間が更なる安住の地を求めて旅立ち、もう一人の仲間が寿命を迎えて死出の旅路に着いたりとで徐々に仲間の数が減っていき、最終的に残ったのは最も若い黒い鱗の竜人だけだった。
 一人残された竜人は心を許せる仲間を求め、旅に出ることは考えなかった。自身が持つ不可思議な力を恐れられ、再び迫害されるだけだと思ったからだ。辛い思いをするくらいならば寿命を迎えるまで、この洞窟の中で静かに過ごしていたら良い。幸いなことに、洞窟の中は外の世界よりも快適に暮らせるようにと他の竜人たちが細工を施していってくれたので、生活をしていくには全く困らない。ただ問題なのは、竜人の寿命が人間や他の亜人よりも遥かに長いということ。短くても五百年、長ければ二千年以上も生きるのだ。その間、孤独と酷い退屈に悩まされることまでは、黒い鱗の竜人は考えていなかった。竜人は常に、退屈と戦っている。

(書庫にでも向かうか)

 空想に耽ることが好きだった仲間が書き記したり、集めたりしていた書物の山はとうの昔に読み終わってしまっている。もう何度も読んでいるので、或る程度は記憶に定着してしまっていて、改めて読む必要がないほどだ。

(ならば植物園に向かうか)

 植物の世話や改良が好きだった仲間が残していった植物園は、今日の分の世話を終わらせてしまっている。もう一度向かってもやることはない。精々、怪しげな実をつける樹木や匂いを放つ花を観賞するだけだ。

(掃除でもするか)

 仲間と協力して洞窟の中に作り上げた居住空間は広い。黒い鱗の竜人一人では掃除をするのも一苦労なほどに。ただ、まめに掃除をしているので、洞窟の住居の中は清潔だ。これ以上に掃除をする必要はどうやっても見当たらない。それならば食事でも取るか、とも思ったが、それはもう既に済ませている。昼寝をしようにも眠気が全くないので、する意味がない。
 あまりにもやることがなくて、酷い退屈に殺されてしまいそうだ――と竜人は思ったが、竜人の長過ぎる寿命は未だ尽きる気配を見せてはくれない。毎日毎日同じことの繰り返しで、これが現実なのか夢なのか定かではなくなってくる。己は生ける身であるのか、死している身であるのかと憂鬱なことを考えてしまう始末だ。そんな時には洞窟の外に出て、山の麓に広がる針葉樹の森を散策するのが良い。”今”が朝なのか、夕なのか、季節は短い春か、雪に閉ざされる長い冬なのか、それだけは確認出来る。
 竜人は重い腰を上げて、洞窟を後にした。

 洞窟の外へと赴くのは何時振りのことか。そんなことも思い出せないくらいに、竜人の時間の感覚は狂っているようだ。外の世界へとやって来た竜人は徐に空を仰ぐ。空は日光を遮る黒い雪雲に覆われていて、その為か、何となくどんよりとした雰囲気を醸し出している。視線を移すと、針葉樹の森には薄っすらと雪が積もっている。この積もり具合は序の口、本格的な冬は未だ訪れていないようだと判明する。
 当てもなく、竜人は寒々しい姿となった森を歩く。森に生息している獣たちは冬眠に入っているのだろうか、気配がない。そこかしこに縄張りを示す匂いだけが残っている。人間は此処へと近づくことはないので気配も匂いも勿論無い――筈だった。
 全体の中程まで歩いたところで竜人は異変を察知する。周囲を警戒しながら、ゆっくりと歩を進めていく。すると朽ち果てた木の根元に座り込んでいる人間の男を見つけた。竜人は人間のことに詳しくないので年齢については分からないが、未だ若い男だということだけは分かる。その男は随分と汚らしい格好をしており、頬はこけて目も落ち窪み、骨と皮だけといった状態で腕に赤ん坊を抱いている。赤ん坊は男とは対照的にふくふくとしていて、健やかに寝息を立てていた。
 竜人は男をじっと見つめて、彼が”今考えていること”を読み取る。男はゾーヤという名前の女の赤ん坊を早く安全な場所に連れて行きたいと考えているのだが、弱りきった体が悲鳴を上げて足が止まり、座り込んで動けなくなっているようだ。

(ほう、我が子を守ろうとするのは竜人も人間も変わらぬのか)

 竜人は音を立てずに男に近づき、彼を覗き込むように膝をつく。急に目の前が翳ったことで漸く他者の存在に気がついた男が顔を上げるが――男の目は酷い栄養失調に陥っていることで視力を著しく落としているようで、自分の側にいるのは人間だと思い込む。

「――」

 男は口を動かすが声は出ず、息の漏れる音が出るばかりだ。だが他者の心情を読み取ることが出来る竜人には、男が腕に抱いている我が子を助けて欲しいと願っていることが理解出来ていた。竜人は鉤爪のついた大きな手で、男の肩に触れる。そうすることで竜人は他者の過去を垣間見ることが出来るのだ。
 ――男は森を抜けた先にある、小さな村の住人だ。今年の夏に謎の伝染病が村に蔓延したことで村人の数が激減し、更に悪いことに作物の出来も悪かったことで飢饉にも陥ってしまい、餓死者も次々と出る始末だった。このままでは一家全滅は免れないと危惧した男は、妻と乳飲み子を連れて別の村へと逃げることを決意する。だが、そうする前に産後の肥立ちが悪かった妻が死んでしまった。愛しい妻の死を嘆き悲しんでいる余裕は無く、ほんの僅かに残った食料と水を手に赤ん坊を連れて村を抜け出したものの、別の村までの道程は遠く、あっという間に食料も底を突いてしまう。途方に暮れた男は食べ物を求めて、人々が近寄ることを恐れる”竜の山”の麓の森に足を踏み入れた。自分は飢えても良いが、妻の忘れ形見となってしまった我が子を飢えさせるわけにはいかない。何か果実のなる木でも生えていないだろうかと期待していたのだが、冬を迎えた森には葉が落ちた樹木と枯れ草しか生えていない。それでも何かないかと探し続けているうちに男は力尽き、朽ちた木の根元に座り込んで動けなくなってしまった、ということだ。
 過去を覗き見ていた竜人が現の世界にも戻ってきた時、男の命の灯火は消えてしまっていた。それでも腕は確りと、すやすやと眠っている我が子を抱きしめていた。竜人は暫し考え込むと、徐に息絶えた男の腕から赤ん坊を取り上げる。竜人の掌に乗ってしまいそうなほどに小さな命は、父親とは違う温もりに反応したのか、目を覚ました。異形の姿をした者を緑色の目に映しこんだ赤ん坊は――にこにこと笑った。それが意外で竜人は瞠目し、じっと赤ん坊を見つめて心を読み取ろうとする。言葉を覚えていない赤ん坊の心情は正確に読み取れなかったが、赤ん坊の心が恐怖に染まっていないことだけは理解出来た。

「何も知らぬが故に我を恐れぬか、(いとけな)い命よ」

 赤ん坊――ゾーヤは愛らしい笑みを浮かべて、竜人に向けて小さな手を伸ばす。竜人が太い人差し指を差し出してみると、小さな手が指をきゅっと握ってきた。傍から見ると、指に触れているだけのように見えるが。
 竜人の冷たい人差し指に、その指の第一関節ほどもない小さな手の温もりが伝わってくる。じわりじわりと、何かが解けていくような、不思議な感覚だ。

「……退屈凌ぎに稚い命を育ててやろう。どのように育つか……我は決して保証はせぬぞ、人間よ」

 命の灯火が消えてしまっている男に語りかけるが、当然、返事はない。竜人が掌を男に翳すと、何処からともなく現れた炎が男の体を背後にある朽ちた木を包み込み、燃やしていく。男の体と木はあっという間に燃え尽き、残った灰は風に吹かれて儚く霧散していった。
 竜人は踵を返し、何も知らず、何も分からず笑っているゾーヤを腕に抱いて、洞窟の住処へと戻っていった。

***************

 竜人が人間に対して抱いている感情は決して良いものではない。己が持ち得ない力を持つ者を恐れ、有る事無い事を言い触らして周囲の不安を煽り、やがては徒党を組んで異物の排除に熱心になる。竜人はそんなことをする生き物に追われた身であるから、人間などに関わってやる義理などなく、まして拾い育ててやる義務もない。だが退屈から逃れようとしていた竜人は思いの外、真剣に子育てに向き合っている。
人間の生態について研究していた物好きな仲間が残していった研究書を片手に、竜人は子育てに四苦八苦する。何分、竜人と人間ではあまりにも子育ての仕方が異なっているのだ。

(人間の嬰児は雌親が出す乳を飲み育つだと?我にはそのようなものは備わっておらぬぞ。母乳とやらが出ぬ場合は家畜の乳を変わりに与えることもなるとな?我が住処には家畜もおらぬ)

 竜人の子供は母親が産んだ卵から孵ると、直ぐに成人と同じ食事をとって成長していく。けれども人間は卵ではなく、母親の胎内から生まれ、相当な手間をかけて育てていく生き物であると知り、竜人は溜め息を吐く――随分と面倒な生き物を拾ってきてしまったようだと、今更ながらに後悔して。
 幸いなことに植物の改良が趣味であって仲間が遊び半分で作った面白い植物が、牛の乳によく似た白い液体を蓄える果実を実らせていたので、母乳の代わりにそれをゾーヤに与えてみる。匙で掬い、慣れない手つきで与えられるそれを、ゾーヤは美味しそうに沢山飲んだ。ゾーヤの体に拒絶反応が現れなかったので、それはゾーヤに害のないものだと分かり、竜人は暫く間それを与えていた。
 問題はゾーヤの食事だけではない。排泄の世話はしなければならないのは勿論、時間を問わず突然泣き出すゾーヤをあやしたり、寝かしつけたりと竜人は忙しさに目が回りそうになる。
 退屈のあまり廃人となりかけていた竜人は、今度は育児の疲れが溜まり過ぎて廃人となりかける。けれどもそんなことは赤ん坊のゾーヤには関係が無い。ゾーヤは思う存分に、竜人を振り回した。竜人もまた、己の吐いた言葉を後悔しながらも、それを違えることをしたくはないと奮闘する。
 忙しくて首の回らない日々にうんざりすることもあったが、退屈からは逃れることが出来ている。ゾーヤと過ごす時間が徐々に心地良くなっていることに、竜人は気付いていない。

 寝転がっていることしか出来なかったゾーヤは四つん這いになることを覚え、その体勢で這い回ることも覚えて竜人をおろおろとさせる。勢い良く突進して、家具の角に頭をぶつけることが幾度となくあったのだ。その度に大泣きするので、竜人は頭をぶつけても大丈夫なようにあらゆる家具の角に緩衝材となる物を貼り付けていく。家具の外観が犠牲になったが、わんわんと泣かれるよりはずっと良いと竜人は己に言って聞かせた。
 ゾーヤは四つん這いから二本の足で立つことを覚え、覚束ない足取りで歩き始めた。竜人がゾーヤの名を呼ぶと、よたよたと危なっかしい足取りで竜人の許まで歩いていけるようにまでなる。そして竜人が油断していた隙に小走りを覚え、竜人を愕然とさせた。ゾーヤは機敏な動きで竜人を翻弄するのだ。
 食事も木の乳から麦の粥に変わり、少しずつ、竜人と同じようなものを食べるまでになってきた。ゾーヤの考えていることは彼女が喋らずとも理解出来ていたが、竜人は敢えて言葉に出すようにして、ゾーヤに言葉を少しずつ覚えさせる。その労が報われて、ゾーヤは自分の名前であるゾーヤ、やがてはその愛称である”ゾーイカ”を一人称に使うようにもなった。
 ――或る日の晩。ゾーヤを寝かしつけようと、竜人が仲間が書いた絵本を読み聞かせていると、ゾーヤが竜人をじっと見つめてきた。竜人もまた、ゾーヤをじっと見つめる。彼女は「我の名前は何?」と問いかけようとしていた。”我”とは、竜人のことだ。竜人が自身を”我”と呼んでいるので、ゾーヤはそれが彼の名前であると思っているのだが――どうやらそれは違うのではないかと思ったらしい。竜人が読み聞かせている絵本が”名前”について語っているものだったので、それで疑問に思ったのだろう。

「ゾーイカ、どうしたのだ?」

 彼女の口から出てくる質問は分かっているが、竜人は敢えて問う。
竜人はゾーヤを育てるようになってから、少しだけ言葉遣いが変わった。出来るだけ分かりやすいように、難しい言い回しなどはしないようになっていったのだ。

「ゾーイカの名前はゾーヤ。我の名前は、我?」

 彼女の口から出てきた質問の答えとして、竜人は首を横に振った。問われるまで綺麗に忘れていたが、己には名前があることを思い出した。気が遠くなるほどの長い間、呼ばれることも、自身で呼ぶことも無かったので忘れ去ってしまっていた自身の名前を。

「我が名は……我の名前は、フセヴォロド」
「……せぼ?」

 まだまだたどたどしい言葉遣いのゾーヤには、竜人の名前――フセヴォロドを呟くのは難しかったらしい。とりあえず口に出してみたものの、何かが違うと不満そうな表情をしている。

「フセヴォロドが我の名前だ。ゾーイカには難しいか?」
「むずかちい」
「……ふむ。ならば、セーヴァと呼んでみると良い。我とゾーイカは親しい間柄だ、ゾーイカは我をセーヴァと呼んでも良い」
「セーヴァ?」
「そうだ、セーヴァだ」
「セーヴァ!」

 長きに渡って呼ばれることのなかった竜人の名前を、ゾーヤがはしゃぎながら何度も何度も呼ぶ。たったそれだけの出来事だったが、竜人――フセヴォロドは心が温かくなったような気がした。その晩は興奮しているゾーヤを寝かしつけることに苦戦したが、フセヴォロドは満足気な顔をして眠っているゾーヤの頬を撫でながら、暫くその余韻に浸る。
 フセヴォロドを困らせることばかりするゾーヤだが、同じくらいに彼に幸福な気持ちを与えてくれる。赤ん坊のゾーヤを拾ったことを後悔していた気持ちは、いつの間にかフセヴォロドの心から消え去っていた。

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