蒼い春

ウチの真面な家族は

 その日の予定になかった出来事があったので、帰宅時間が大幅に遅れてしまい、既に夜になってしまっていた。そのことを注意しようとしていた母親の美沙子だが、娘の星凛の泣き腫らした顔を見て、叱ることを止める。これは何かあったに違いない。母親の勘がそう告げて、美沙子は娘を誘導して、リビングのソファに座らせる。夕飯の支度途中でもあったので、使用していたガスレンジのスイッチを切って、漸く娘の隣に腰を下ろす。憔悴している星凛の肩をそっと抱いて、声をかけた。

「どうしたの?何か悲しいことでもあったの?話せることならママに話してみて?」
「……酷いこと、言われたの、憧れてた先生と……そのカノジョ面してる女に……」

 星凛の言う”憧れてた先生”とは、塾講師のアルバイトをしている大学生のことだったと美沙子は記憶している。恋愛に憧れていた星凛は彼と授業中に言葉を交わせるだけで舞い上がっていたので、親しくしているとまでは認識してない。そんな人物とプライベートで何が起こったのだろうか、美沙子は探りを入れていく。

「先生、カノジョがいたのね。残念ね。ねえ、その先生に釣り合うってことは、どんな人だったの?」
「パパの……前の奥さんの娘……全然可愛くないし、美人でもない、ブス」

 それを耳にした途端、美沙子は体を強張らせた。すっかり落ち込んでしまっている星凛はその反応に気が付かず、話を続けていく。

「パパもママも、前の奥さんと娘のこと、碌でもない人間だって言ってから、二連木先生が騙されてるといけないって思って助けようとしたら、先生はウチの話全然聞いてくれなくて、あいつの味方するんだよ?あいつもあいつでパパとママ困らせまくったくせに、被害者ぶってんの。二人とも絶対頭おかしい!!!」
「……がう」

 間近に顔があるのに声が聞き取れず、不思議に思った星凛が漸く顔を上げる。美沙子は真っ青な顔をして、カタカタと震えていた。

「違う、違うのよ、星凛!ママとパパは不倫なんてしてないのよ!!!」

 星凛は打ち明けたことに対する返答としては随分とおかしい。美沙子の様子もおかしい。”不倫”という言葉を口に出した覚えがない星凛はぽかんとする。そんな娘を放置して、美沙子は主張を始めた。
 夫の清とは彼の離婚が成立する前に出逢い、真剣な交際を重ねていた。やがて妊娠が発覚して、清の離婚も成立して、二人は晴れて結婚するに至ったのだ。だから決して不倫の末の略奪婚ではない。清の離婚の原因は、前妻の金遣いの荒さと男癖の悪さが原因なのであって、決して清と美沙子の不倫疑惑が原因なのではない。前妻の子供を引き取らなかったのは、女同士の方が何かと都合が良いと考えた清が一人で決めたことで、美沙子は何も口を出していない。
 養育費もそれ以外の金も払ってやったのに、前妻の娘は恩を仇にしてくれた。何も知らない異母妹に、お前の両親は不倫をしていたのだと吹聴するなんてとんでもない悪女だ。

「パパの離婚はね、ママのせいじゃないの。前の奥さんが全面的に悪いの。だってあの人、育児放棄して遊び歩いていたのよ。家事も全然しなくて、家の中はいつも汚くて、食事も作らなくて、洗濯もしないからパパはいつも着ていく服に困ってたのよ?だからママはパパが可哀想になって、お弁当を作って、服の洗濯をして、食事の用意もして……。あの女が死んで、これで平和に暮らしていけると思ったら、今度は娘!?全く、娘も娘だわ。母親にそっくり!自分が可哀想な人間だと思い込んで、嘘を吐きまくって、周りに迷惑ばかりかけて!大丈夫、大丈夫よ、星凛!ママとパパがあの悪魔から星凛を守ってあげるからね……っ!」

 歪んだ笑みを顔に貼り付けて、一方的に捲し立てた美沙子は細い腕で娘を抱きしめる――が、星凛はその腕の中から逃げ出した。取り乱したとか言いようのない母親が恐怖でしかなかった。

「パパとママ、不倫してたの?あいつ、そんなこと一言も言ってなかったよ?被害者面はしてたし、パパのこと悪く言ってたけど、不倫のことは全然言ってなかったよ……!?」
「……えっ?」
「ママ、テレビで不倫の話題が出ると、そんなことするなんて許せないって言ってたくせに、自分が不倫してたの?そのくせして他人の不倫に文句言うって、おかしくない?」

 星凛が言おうとた、二連木やにこにされた酷いこととは、思い込みによる正義感の暴走を咎められ、二人にきついお灸を据えられたこと。美沙子は星凛の言葉を聞いて、その内容を確認することなく、前妻の娘に出会ってしまったということだけに焦点を当て、略奪婚をした事実を暴露されてしまったのだと思い込んでしまった。
 醜態を曝してしまった美沙子は恥ずかしくて、唇を噛んで、わなわなと体を震わせる。

「待って……あいつ、被害者面して当然なの?ウチの家族が加害者だったの……!?」
「違うのよ、星凛!パパの前の奥さんはね、それはもう酷い人で……っ!」
「パパが離婚する前に付き合ってたなら、絶対に不倫じゃない!何で嘘吐いてるの!?パパもパパだよ!育児放棄する母親だって分かってたのに、あの人のこと引き取らなかったんでしょ!?最低!!!」

 両親の隠し事を知ってしまった星凛の脳裏に、再びあの日のフェンス越しの異母姉の目が浮かんできた。そんな事情があるのなら、異母姉のにこが星凛たちを睨みつけたくなる心情が理解出来る。
 ――自分も父親の子供なのに、あっちの子供と扱いが違うのは何で?
 ――どうしてあの子たちはお父さんとお母さんに守ってもらえるの?私がお父さんとお母さんに守ってもらえないのはどうして?
 あの目は、そう問いかけていたのかもしれない。

『……失敗作って言われたくないなら、ちゃんと考えて、行動出来るようになりなさい』

 にこは実の父親に失敗作だと言われて、捨てられたのだ。星凛の父親は自分の子供にそんな言葉を平気で投げつけられる人間なのだ。星凛の母親も、自分に都合の悪いことを隠して、子供たちに嘘を教えるような人間なのだ。
 何と形容したら良いのか分からないどす黒い感情に胸が塗り潰されていく感覚に襲われる。

「パパとママ、最低。こんなのが親だなんて、ウチ、最悪じゃん……」

 呆然としている美沙子をリビングに残して、星凛は自室に逃げ込んで、鍵をかける。ベッドを占領していた縫いぐるみたちを投げ落とし、布団を被って、目と心を閉ざす。
 部屋の外で、追いかけてきた美沙子が娘の名前を呼んで、狂ったように扉を叩く。ウルサイ、静かにしろ、声を聞きたくない、顔も見たくない。星凛は頑なに無視を決め込む。
 そのうちに帰宅した父親の清も加わり、扉を叩く力が強くなり、嫌な音が部屋に響く。呼びかけはやがて怒号へと変わっていったが、それでも星凛は無視を決め込んだ。扉が破られたらどうしようという恐怖を抱えながら。
 ――どれくらい、両親によるしつこい呼びかけが続けられたのだろう。真っ暗な布団の中で、スマートフォンの画面を覗き込む。時刻は深夜を回っていた。時間の経過を自覚した途端、腹の虫が泣いた。夕飯を食べ損ねたからだ。けれど食料を求めてキッチンへと向かえば、美沙子が待ち構えていそうな予感がしたので、星凛は空腹に耐えながら、朝がやって来るのを只管に待った。

WEB拍手