蒼い春

大人げないオトナ

 カフェの中は冷房が効いているけれど、星凛たちがいるテラス席には冷房はない。当然だ、屋外なのだから。今は梅雨、じめっとした暑さを感じるのが当たり前なのに――どうして寒気を感じるのか。

「確かにね、にこさんのお母さんの言動には思うところは沢山あるよ。でもね、実の親子だからという、にこさん本人にはどうしようもない理由で、にこさんの価値を決めつけて、悪者に仕立てるのはどうかと思うんだ」

 二連木は笑っている。声も穏やかだ。それなのに、彼にじっと見つめられると背筋が寒くなる。星凛は訳が分からなくて、混乱してくる。

「悪気がなければ、何をしても良いということはないよ。にこさんは貴女に失礼な発言をしたけれど、そもそも、貴女が彼女に暴言を吐かなければ、そんなことにはならなかったね?」
「で、でもっ、その人、二連木先生には似合わないよ!先生のカノジョは、先生と同じレベルじゃないとダメだよ……」
「僕と同じレベルの人とは、どういった人のことを言うの?」

 二連木が優しく、且つ威圧的に星凛に問う。彼は今怒っているのだと、星凛は直感で理解して、戦慄しながらも、回答しようとしてしまう。沈黙は許されない、そんな気持ちにさせられている。

「綺麗で優しくて、頭も良い人……に決まってる。その人、全然綺麗じゃないし、失礼だし、ブスのくせに上からだし。パパがその人のこと、テストの成績だけは良かったって言ったことあるけど、頭が良さそうには見えないし」

 彼は知っているのだろうか。彼とにこが手を繋いでいると、周囲の人間が奇妙なものを見る目で見ていることを。つまり他人から見たら、二人はお似合いではないということだ。星凛は主張する。

「その思い込みで、貴女は失礼なことをしてしまったんだね、にこさんに。僕には分からないのだけれど、僕が大切にしたいと思う人を、貴女に決めつけられないといけないのかな?貴女にその権利があるのかな?」

 憧れの先生を助けようとしただけなのに、救いの手を差し伸べた自分がこんなにも非難されなければいけないのか。二連木はもう正常な判断が出来ないほどに、にこに洗脳されてしまっているのかもしれない。こんなことになるのなら、正義感に駆られて行動を起こさなければ良かった。
 悔しさ、悲しさ、恥ずかしさが綯い交ぜになった感情が昂り、結晶となって目から零れ落ちていく。俯いて黙り込んでしまった星凛を見て、にこが頭を掻きながら口を開いた。

「あのさあ、優しい顔して、優しい声で言ってるけど、殺気が出てるから。中学生相手に大人げないよ、槐。自分なりの正義振りかざして突っ走って大失敗したガキんちょを追い詰めたら駄目でしょ」

 どうしてウチがこんな奴にフォローされなくちゃいけないの?悔しさのあまり握り拳に力が入り、掌に爪が食い込んで痛くて、余計に星凛の涙が零れる。

「今は未だ未成年だから、中学生だからっていうだけで、失礼な真似しても悪気がないと言えば許してもらえることは多いよ。だけど、大人になっていくにつれて、それはどんどん通じなくなっていく。……失敗作って言われたくないなら、ちゃんと考えて、行動出来るようになりなさい」
「にこさんもはっきりと言い過ぎなのではないかな?……いいえ、何でもないです」

 どうしてこんな奴が、自分にも二連木にも偉そうに物を言うのか。星凛の我慢が限界に達し、彼女は勢い良く顔を上げた。

「パパとママに迷惑ばかりかけてた奴に、何で偉そうに説教されないといけないの!?養育費を貰ってたくせに、それ以上にお金を欲しがって、パパがお情けでくれるからって家に押しかけて……っ!パパが仕事で頑張って働いて稼いだお金を、ママが頑張って節約して貯めてたお金を横取りして、パパとママを困らせてたくせに……っ!」
「……養育費は子供だった私が持ってる権利に基づいて支払われるもの、貰って当然のものだよ。私があんたの家族にかけた迷惑じゃない。それ以外の金の無心は、母親の養育費の使い込みが原因の迷惑」

 自分の責任でもないのに、父親の所に行って頭を下げて金を貰って来いと言われて、家kら追い出されてしまった子供の気持ちが想像出来るのか。にこの問いに、星凛は言葉を失う、

「父親と母親が揃っていて、清潔な家の中で毎日お腹いっぱい御飯が食べられて、温かいお風呂に肩まで浸かれて、清潔な布団で眠れて、清潔な服が着られて、誕生日を祝ってもらえて……何不自由なく”当たり前の生活”を送ってこられたあんたには、こんなこと想像も出来ないよね」

 にこの細い目が怖い。遠いあの日、フェンスの向こう側から星凛や兄、母親を睨みつけていたあの目と同質の恐怖を感じる。このまま何をされるのか、怖くて堪らなくなる。

「あんたがやらかしたことは水に流す。あんたの父親の流儀だと、嫌味タラタラの電話攻撃をするんだけど、私はしない。あの親父と同じ人間になりたくないし、これ以上あんたたち家族と関わりたくないから。自分が可愛いんだったら、二度と私に近づいてこないで」

 星凛に言いたいことを全て言ったにこは腕時計で時間を確認し、半分近く残っていたコーヒーを一気に呷る。それから二連木に何やら耳打ちをすると、席を立って、何処かへと歩いて行ってしまう。

「……どうして、あんなこと言われないといけないの?先生もどうしてあんな奴の味方するの?絶対おかしいよ……っ」

 自尊心を徹底的に傷つけられた星凛の涙が止まらない。そんな彼女に二連木はハンカチを差し出すこともなく、「そう思うのであれば、今後は僕にも関わらない方が良いね」とだけ告げてきた。星凛は慰めの言葉を期待したのに、二連木はそれに応えてくれなかった。

「あ……あいつ、も、酷いし、先生、も、酷いっ。ウチが何したの?」

 爽やかな香りのするレモンティーの最後の一口を飲み終わった二連木が静かに答える。

「……言い忘れていたのだけれどね。今日はね、少し早い誕生日祝いを彼女がしてくれる予定だったんだ。駅で待ち合わせをして、街を少し散策してから、彼女が予約してくれたレストランで食事をして。今日がやってくるのを心待ちにしてたのだけれど……こんなことがあっては、何事も無かったかのようには楽しめないだろうね」

 特別な日を楽しく過ごす他人の権利を妨害してくれて有難う。二連木の言葉は、星凛の心に深く突き刺さった。

「ああ、そろそろ帰らないと暗くなってしまうね。それでは、さようなら。受験勉強、頑張ってね」

 冷たい笑みを浮かべた二連木も席を立ち、先に行ったにこを追いかけていく。いつでも穏やかな二連木の別の面を目の当たりにしたショックが大きくて、星凛は暫くカフェのテラス席から動けなかった。

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