チャンドラとフェレシュテフの件についての話し合いの席を設けて貰えるように、ムスタファー村長に相談してくる。そう告げると、スーリヤは足早に村長宅へと向かっていった。その場に残された寧々子たちはそれぞれに息を吐いて体の力を抜き、ほんの少しの静寂を招く。
「……紅茶の御代わり、いる?」
張り巡らせている緊張の糸の一本が解けて放心しているチャンドラとフェレシュテフに、寧々子が声をかける。はっと我に返ったチャンドラが挙動不審気味に硝子製の器の中身を空けて、差し出してきたので、寧々子はそれを受け取った。
(えっと、フェレシュテフさんはこっちの言葉が分からないんだよね?)
普段使っている言葉で会話をしていると、チャンドラがフェレシュテフに通訳をしているので、そうなのだろうと判断した寧々子が身振り手振りで意思の疎通を図ろうとしたのだが、残念ながらフェレシュテフには通じない。彼女は申し訳なさそうに眉を下げて、ちらりとチャンドラを見た。
「私も御代わりください、だって」
「あ、はい。良かったら、お茶菓子も食べてね!遠慮せず、もりもりと」
状況を察したチャンドラがフェレシュテフに通訳をしてくれ、寧々子が伝えたかったことを理解した彼女はチャンドラと同じように一気に器の中身を空けて、器を差し出した。それを笑顔で受け取って、寧々子は御代わりの紅茶を器に注ぎ、再びフェレシュテフに手渡す。フェレシュテフは微笑んで、片言で「アリガトウゴザイマス」と御礼の言葉を寧々子に述べた。
場の雰囲気が少し柔らかくなった、と感じ取った寧々子は、思ったことを切り出してみる。
「あのね、チャラが人間のお嫁さんを連れてくるなんて思ってもみなかったから、物凄く驚いちゃった」
「そうだろうな。そうだとしか思えねえ顔芸を披露してたな、あんた。……あー、俺も、こうなるとは思ってもみなかった」
照れ隠しで仏頂面を決め込んでいるチャンドラだが、隣で紅茶を飲んでいるフェレシュテフをいとおしそうな目で見ている。それを目にした寧々子がこっそりと微笑んだのには、幸いなことに彼には気付かれていない。
(あら?)
ある程度の時間が経過して人見知りが緩和されたのだろうか。いつの間にやらカルナがとてとてと歩み寄って来ていて、はにかみながら、フェレシュテフを見上げてくる。未だほんのりと赤味を残している顔を綻ばせて、手にしていた器を一旦床の上に置き、カルナを警戒させないようにゆっくりと手を動かして、幼い子供特有のぷにぷにとして柔らかい頬を撫でる。自分に触れてくる手に敵意がまるで無いことを察したのだろう、カルナはにぱっと笑い、フェレシュテフもつられて破顔一笑した。
「何だかさ、チャラ、性格が丸くなったんじゃない?前はもうちょっと、こう……トゲトゲしてたというか?フェレシュテフさんの御蔭で丸くなったの?」
「……まあな」
不貞腐れたような態度ではあるものの、自身でも「そうなのかもしれない」と思うところがあるらしく、チャンドラは寧々子の言葉を否定したりはしなかった。以前のチャンドラであれば「五月蠅い!」と声を荒げていただろうに、と、チャンドラの変化を実感した寧々子は「良い出逢いだったんだね」と呟いて、紅茶を一口飲んだ。不愛想で無口で、けれども根が優しい
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スーリヤが相談をしに行った結果、「話し合いは出来るだけ早い方が良いだろう」と、気を利かせてくれたムスタファー村長との約束が取り付けられた。
チャンドラがフェレシュテフを連れてタウシャン村にやって来た翌日の朝。チャンドラはフェレシュテフを寧々子の傍に残して、スーリヤと共に村長宅へとやって来た。
「やあ、いらっしゃい。スーリヤの弟の……チャンドラだったね?」
其処には気の良さそうな老村長ムスタファーの他に、彼とは対照的に厳しい表情をしている
――これは確実に歓迎されていないな。
きっとそうに違いないと想像して、それでも気合を入れてやって来たのだが、実際にそういう場面になっていると、チャンドラの胸の内が不安で真っ黒に染まるの仕方がないのかもしれない。だが彼の不安とは他所に、話し合いは順調に進んでいき、その結果、チャンドラとフェレシュテフはタウシャン村の住人となることを許されたのだった。
「亜人と人間が番うことを、この村の全ての住人が受け入れていると断言は出来ないが、まあ、スーリヤとネネの例があるからねえ……」
禁忌を破ってしまった二人が村で暮らしていても、神の怒りともとれる不幸な出来事や不利益な出来事などは起こっていない。寧々子とスーリヤが番いになる前と、なった後とで特別な変化があった訳ではない。只々、平穏な生活が続いているだけ。そのことが村人たちの、禁忌に対する意識に変化を齎してきている。
「亜人と人間の番を全て受け入れる、とは断言出来ない。だが、門前払いにすることもしない。交渉をして、両両者が妥協出来ることを見つけ出して、それを守って生活していけたら、両者は共生していけるのではないかと我々は考え始めている」
「今の我々に出来ることは、成り行きを見守り、起こってしまった理不尽に向き合っていくことだけだ。そして我々はお前たちの味方になり、敵にもなり、時には傍観者にもなる存在だ。……少しずつ、けれども確実に世の中の意識を変えていけたら良いね。道無き道を切り拓いていくのは、お前たちだ」
「タウシャン村はチャンドラとフェレシュテフを歓迎する。新しい風が吹いてきた。その風が齎すのが吉兆であることを祈ろう。……というわけで奥さん、酒をじゃんじゃん持ってきておくれ。今からチャンドラの歓迎会をするからね」
「はいはい、心得ておりますよ。皆さん、どうぞ楽しまれてくださいね」
村長夫人のスィベルは、この話し合いが酒宴に変わることを予測していたらしい。彼女は娘や孫たちを伴って奥から現れ、慣れた動作で宴の席を設置していく。こうして真昼間の宴会が始まり、状況を把握出来かねている
「……物凄くあっさりしすぎてねえか?良いのか、これで?いや、認めてもらわねえと俺たちはまた何処かに行かなきゃならねえんだが……」
「俺とネネの時もこんなもんだったぞ」
「そ、そうか。何つーか……心配過ぎたのが莫迦みたいだ。いや、心配事はまだまだある。仕事を探さねえと、住める場所があっても、生活していけねえ」
「そんなお前に朗報がある。バイェーズィートがお前を雇っても良いと言ってる。虎の亜人を二人も雇ってると他の商人に自慢出来るから、是非とも俺の所に来いってさ」
「何から何までスーリヤに甘える訳にはいかねえ……って格好つけたいところだが、甘えさせてもらう。番がいるんだ、これから家族が増えていくだろうし、いつまでもお前の家に居候していられねえから家を建てなくちゃならねえし……兎に角、生活していくには金が要る。だから、何でもやらねえとな……」
「……お前、本当にチャラか?」
自分が知っている双子の弟はこんなにも確りと将来を考えているような男だっただろうか。精神年齢が成長したらしいチャンドラの変化に驚いたスーリヤは、思わずチャンドラを疑いの目で見てしまったのだった。
村長主催の酒宴はとても盛り上がった。お調子者の話芸は聞いていて楽しく、ほろ酔いの村長による弦楽器の調べは耳に心地良く、用意された酒も食事も大変に美味だ。酒の席があまり好きではないチャンドラも、居心地が良いと感じている。
それにしても兎の亜人たちは小さな体の何処に酒を流し込んでいっているのかと思うほどに、沢山の酒を飲み、そして酒に強い。スーリヤもまた平然とした表情で酒精の強い酒を水のように飲んでいっている。彼の双子の弟のチャンドラはというと、勧められるがままに飲んでいるうちに酔い潰れてしまった。酒豪とも言えるスーリヤとは違い、チャンドラは下戸なのだ。
ふっと気が付くと、柔らかく、温かいものに触れていた。誰かが自分の髪を撫でている感覚も徐々にしてきて、そこで漸くチャンドラは自分が意識を失っていたことを知る。重たい瞼を開けてみれば、心配そうな表情をしているフェレシュテフの顔と見覚えのある天井が見えた。フェレシュテフの顔を見上げていて、後頭部に柔らかさと体温を感じることから察するに、どうやらチャンドラは彼女に膝枕をしてもらっているらしいことも知る。
(……ああ、スーリヤの家に戻って来たのか……)
部屋の中が薄暗いということは、今の時間帯は昼か、夕方か。場所が変わり、傍にフェレシュテフがいるということは、スーリヤが自分を連れて帰って来てくれたのだろうと容易に想像出来る。酒の力に支配されて、思考が鈍っているチャンドラがぼんやりとフェレシュテフを眺めていると、彼女は彼が目覚めていることに気が付き、美しい花を咲かせた。
チャンドラはどうやってスーリヤの自宅に戻って来たのか、彼とスーリヤが留守の間はどのように過ごしていたのかなどを呂律があまり回らないチャンドラがゆっくりと、ぽつぽつと尋ねる。彼女はゆっくりと、穏やかな声で質問に答えてくれる。
「村長にこの村で暮らしても良いって言って貰ったって、フェレシュテフに伝えたか?」
「はい、御兄様に伺いました。それから、私たちの家も村の敷地に建てて良いということも。土地の交渉は村長様と、御兄様の御知り合いの方が引き受けてくださるそうですね。ですから、ヴァージャさんに頂いたお金がまだ残っていますから、そのお金を家の資金に充てましょう」
ヴァージャとは事情があって生き別れていた、フェレシュテフの実父ヴラディスラフのこと。彼は港町のマツヤを出て故国に戻っていく際に、娘が生活に困らないようにと数えきれないほどの金貨や銀貨を残していった。それらはフェレシュテフたちがタウシャン村を目指す旅の資金として利用していたのだが、二人の性分からか節約して旅をしていたので、まだまだ沢山残っているのだ。
「良いのか?フェレシュテフの為の金を当てにして……」
「生きていく為には、お金はどうしても必要です。自分で稼いだお金ではないので、私も自尊心から、それを使うことに気が引けてしまいますけれど……でも、使おうと思います。遊んで暮らす為に使うわけではないので、お金が底をついたとしても、ヴァージャさんは呆れたりはしないと思うことにします。恐らく、ですけれど。それに、御兄様たちの御宅にいつまでも居候させて頂くわけにはいきません、これから、家族も増えますから……」
「……うん?家族”も”増える……?」
その一言で、ぼんやりとしていたチャンドラの思考がはっきりとする。フェレシュテフに膝枕をしてもらっていた彼は気怠い体をゆっくりと起こして、彼女の体面に座り、彼女の表情を窺う。彼女は下腹部に手を当てて、伏し目がちに照れ臭そうにはにかんでいる。
「……赤ちゃんができたかもしれないんです」
チャンドラとスーリヤが留守にしている間、寧々子たちや、遊びにやって来た隣家のギュル親子と身振り手振りで意思の疎通を図りつつ、楽しく過ごしていたのだが、急にフェレシュテフが体調不良を訴えた。それを心配した寧々子がギュルの制止も聞かずに家を飛び出していって、薬師を連れて戻ってきたので、彼女は薬師に一先ず診察をしてもらい――次に産婆を紹介された。
「気分が悪くなったのは病気ではなくて、つわりではないかと薬師の方や産婆の方が仰ったんです。そう言われてみると、思い当たる節がありますので……きっとお腹に赤ちゃんが宿っているのだと、私は信じます」
「……そうか。それじゃあ、俺たちは親になるんだな」
「はい」
酔いが残っているからか、チャンドラは普段の彼では恥ずかしがってやらないようなことをする。彼が腕を広げて、言葉ではなく態度で「おいで」と伝えると、フェレシュテフは腕の中に飛び込んで、逞しい胸に顔を埋めた。
――ああ、幸せだ。
甘えて胸に頬擦りしてくるフェレシュテフを抱き潰してしまわないように、彼女の体の輪郭を捉えるくらいの力で、チャンドラは幸せそうに目を細めて、フェレシュテフを腕の中に閉じ込める。
「男でも女でも、どちらでも良い。元気に生まれてきてくれよ。フェレシュテフも、体を壊さねえように……」
「はい……」
一昨日までは物置だった部屋、昨日から暫くはチャンドラとフェレシュテフの私室となる部屋の中に、幸せな空気が満ち溢れる。間仕切りとなっている布の隙間から中の様子を窺い見ている気配にも気が付かないほど、二人は幸せな気分に浸っている。
小さな影は足音を立てずに小走りで居間へと向かい、布膳に並べられた夕食をつまみ食いしている父親の大きな背中に抱きついた。
「どうした、カルナ?チャラ叔父さんたちは?」
酔い潰れたチャンドラの介抱をしているフェレシュテフに、夕食を食べるかどうかを聞いてきてほしい、という簡単なお使いをスーリヤはカルナに頼んだのだが、てってってっと元気良く歩いて行ったカルナがフェレシュテフを伴ったりしないで戻ってきたので、理由を尋ねてみる。
父親の背中に張り付いていたカルナは体を離し、自分の腕で自分の体を抱きしめるような動きをして「ぎゅ~してた!」と元気良く答えた。それを見て、スーリヤは何となく察した。
「……あ~、それじゃあ、邪魔しちゃあ悪いな」
「そうだね~、邪魔するのは悪いよね~」
台所から大皿を持ってきた寧々子は父子の会話が聞こえていたらしい。スーリヤと寧々子は、にやり、と笑い合い、夕食は家族で先に頂くことにして、フェレシュテフには後で食事を持っていくことにしようと決めたのだった。
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それからの日々はというと、チャンドラとフェレシュテフの愛の巣が完成するまでの間、スーリヤ一家とチャンドラ夫妻はとても賑やかに過ごしていくことになる。
寧々子とチャンドラが唐突に口喧嘩を始めると、それに慣れていないフェレシュテフがおろおろとするので、スーリヤが「あれは似た者同士がじゃれあっているだけだから心配することはない」と助言をして、「似た者同士じゃない!」と寧々子とチャンドラが声を合わせて反論をしたり。
自分にないもの――例:おしとやかさ、刺繍の腕――を持っているフェレシュテフが羨ましくて、事ある毎に寧々子が落ち込んだり。
フェレシュテフが少しずつ草原の村の言葉を覚え、片言の会話が成立するようになると、寧々子と仲良くなっていった。そうして、肝っ玉母さんというに相応しい寧々子の逞しさに憧れ、「ネネさんのように逞しくなりたい」とフェレシュテフがぽつりと呟いて、「フェレシュテフはフェレシュテフ、ネネはネネだから!な!?」とチャンドラが必死に止めたり。それを聞いていたスーリヤが噴き出して、チャンドラが恥ずかしさのあまり憤死しそうになったりと、兎に角、賑やか過ぎるスーリヤ一家とチャンドラ夫妻の同居の日々。