『私が生んだのに私にちっとも似てなくて可愛くない!清のせいだ!清が悪い!清の子供のあんたが悪い!』
真っ暗闇の中で、これでもう一生聞くことはなくなったのだと思っていた声が響く。
『あんたがちゃんとお願いしないからパパが出ていったんだよ!どうしてくれるの!?役立たず!!!』
『ねえ、何で子供は働かなくて良いの?ママばっかり働かされて、ずるい!それなのに何にも出来ないのに、母親が育てないといけないし。お金ばっかりかかって損だよね』
『あーあ、何で子供なんて産んじゃったんだろ?清程度で満足しなければ、もっと良い男と結婚できたのに。子供産んだこと無かったことに出来ないのかなー?』
『にこー!お金無いの!パパのところに行ってお金貰ってきてよ!土下座するんだよ、ちゃんと!あんたそれしか出来ないんだから!』
耳を塞ぎたいのに、手足がないような感覚だけがあって、それが叶わない。だからにこは自分を責めるだけの声を呆然と聞かざるを得ない。
(もういないんだから、もう出て来なくて良いのに。どうして出てくるかな……)
不愉快な気持ちにさせてくれる声の主が、いつの間にか闇の中で佇んでいる。頭から血を流して、そこかしこに傷を作った博子が付け睫毛のとれかかった目でにこを睨みつけてくる。
『にこが優秀?何言ってんだろ、あの担任。学校の成績が良いだけじゃない。そんなに優秀なんだったら、中学校を出たら直ぐに働いて、ママに楽させなさいよ。出来ないくせに、頭良い振りするんじゃないよ、ブス!!!』
『はあ~、やっと出ていくんだ?良かった、これであんたなんかにお金使わなくて済むわ』
『給料は毎月ちゃんとママの通帳に振り込みなさいよ?それがあんたの仕事で、ついでに親孝行にもなるし?』
博子の言葉は呪いだ。忘れようとしても、体に染みついてしまって、ふとした時に蘇ってきて、にこの心を蝕む。
『今度こそ幸せになるはずだったのに』
『今度こそ失敗しないはずだったのに』
『どうして私が不幸になるの?私の代わりににこが不幸になりなさいよ。それが私への恩返しでしょ?』
『あんたができちゃうから、私は冴えない清なんかと結婚しなくちゃならなかった。あんたが役立たずだから、離婚することになった。全部全部あんたのせい!!』
『責任取ってにこが不幸になれ!!!』
血塗れの化け物の腕が伸びてきて、にこの腕を掴んだ。そこで初めて、にこは体の感覚があることに気が付く。踏ん張って、何処かへと引き摺りこもうとする化け物に抵抗するが、僅かずつ、引き寄せられてしまう。
これは夢だ。夢でなければ、死んだ博子が存在しているはずがない。そうだと分かっているのに、にこは夢から覚めない。このままでは博子の許へと連れていかれてしまう。それは嫌だ。やっと自由になったのに、また博子の呪いの中に身を投じなければいけないなんて、冗談ではない。怖くて堪らないのに声が出ない。誰か助けて。言葉は思い浮かぶのに、喉が動いてくれない。ああ、負けてしまう――
「――にこさん!」
第三者の声が耳に届いて、にこの意識は夢の世界から引き出される。目覚めても、未だ闇の中。若しかして夢から覚めていないのではないかと恐怖を抱き、体が震える。
「にこさん、気が付いた?目は覚めた?」
にこを心配する声が近くでする。少しずつ闇に慣れてきた目を動かせば、槐が不安気な表情で彼女を見下ろしていた。どうして槐が此処に居るのだろう?そうだ、同じベッドで眠っていたのだから、彼がいて当然だと思い出す。
「……えにす」
「魘されていたから起こしたのだけれど、これで良かったかな?」
「……っ、えに、す、えにす、えにすぅ~~~」
槐に腕を伸ばして、抱きつく。彼はにこを拒絶することもなく受け入れてくれた。それがにこに安心感を齎す。
「怖かったんだね。大丈夫だよ、僕がいるから。安心して。大丈夫、大丈夫だよ……」
博子が残していった呪詛は、にこの心を蝕む悪夢となって現れた。だが、にこは一人で苦しまない。槐が傍にいて、助けてくれる。それだけで安心して、彼の腕の中に逃げ込んで、今度こそ深い眠りへと落ちていく。
***************
「はい、バレンタインの御返し」
ホワイトデー当日は平日だ。一日早いホワイトデーになってしまうが、休日に渡してしまおうと考えたにこが、槐に向かってややぶっきらぼうに紙袋を差し出す。槐がにこから贈られたのは、日本酒の飲み比べセットで、三種類の酒の二合瓶が入っている。あわよくば自分も試飲をさせてもらおうという魂胆で購入したことを、にこは槐に黙っている。
「有難う、にこさん。嬉しい。僕も渡したいものがあるんだ、少し待っていて」
受け取った贈り物を一旦ローテーブルの上に置いて、槐は別室へと向かい、暫くして戻ってくる。その手には、可愛らしい包装をした袋があった。
「これは僕からにこさんへ」
槐からにこへの贈り物は、様々な花の芳香がする入浴剤のセットだ。三月は年度末ということもあり、会社の業務が忙しくなりがちで、にこは疲れた表情をしている。そんな彼女を気遣って、槐はリラックス効果のあるものを選んでくれたのかもしれない。
「……良い匂い、暫くお風呂が楽しみになるね」
単価が高そうな入浴剤を貰ったことがよりも、にこの体調などを気遣ってくれる槐の優しさが嬉しい。疲れた心と体に良い気までしてきて、気のせいだな、と、にこは首を振った。
「そういえば、仕事の引継ぎは上手くいっているの?」
カモミールティーを用意してくれた槐に問われて、にこは「うん、まあまあ?」と曖昧に答えた。
二月の終わり頃に職場のお局様が三月いっぱいで寿退社をすることになったと社長自ら発表し、彼女が任されていた業務の一部をにこが引き継ぐことになったのだ。専門の技術を必要とする特殊な業務ではないとはいえ、普段の作業にもう一つの作業が合わさるだけでこんなにも大変なのかとにこは思い知る。慣れるまでの間、きっと一日の終わりに「とんでもねえ時期に寿退社すんな」と愚痴を零すのだろう。
「おめでたですからね、悪く言いたくはないんですけどね、でも今月末で退社はないと思うんだ。まあ、高齢出産になるから、体に気をつけたいって言われちゃうと何も言えなくなるんだけどさ……」
お腹に小さな命が宿っていることを知ったお局様は、ダイヤモンドの指輪を贈ってくれた年下の男性と結婚する。おめでたいことにケチをつけたくはないのだが、にこは”できちゃった結婚”であることに少々ひっかかってしまっているのかもしれない。何せ、にこの両親は”できちゃった結婚”をして、色々なことがあって、結果的に離婚するに至ったのだから。けれども、お局様はにこの両親と同じ轍を踏むことはないだろうという気もしている。年下の夫を尻に敷いて、子育てや仕事や近所付き合いに奔走するお局様がしっかりと想像出来るから、きっと彼女たちは大丈夫なのだろうとにこは思う。根拠は全く無いのだが。
「慣れない作業で要領が掴めなくて、どうにも頭が混乱するけど……お局様も通常業務に支障が出ないように配慮してくれてますからね。忙しさのピークさえ乗り越えれば、余裕も出来るんじゃないかな」
「そこまで考えられるようになったのであれば、もう少しで新しい作業に慣れるのかもしれないね。そうだ、余裕が出来るようであれば、お花見に行かない?」
春分の頃には桜の花も咲き出しているかもしれないから、と、槐が提案をしてきた。
「ああ、でも……会社のお花見があるかな?」
「ううん、うちの会社は社員を集めてお花見はしないんだって。休める時はできるだけ、自分や家族の為に時間を使いましょうっていう、社長の方針なんだとか」
「それでは、お花見弁当を買って、桜を見ながら美味しく食べましょう」
有名な花見の場所はきっと人混みが凄いだろうから、穴場とはいかないまでも、人が少なそうな場所を見つけよう。そんなことを話していると、にこはふと、或る事を思い出す。
「ねえ、そういえば”恋人契約”って今月末くらいで期限が切れるんじゃなかったっけ?」
すっかり存在を忘れてしまっていた契約だが、途中で契約破棄をした記憶もないので、継続中となっているはずだ。にこの呟きを耳にした槐も契約のことなど忘れ去っていたようで、急激に顔色を悪くしていく。
「え、あ、あの、それは、その……っ」
「”恋人契約”だけど更新しないよ」
「えっ」
あまりの衝撃の強さに眩暈を起こしたらしい槐がぐらりと上体を揺らして、がっくりと肩を落とす。あまりの落胆ぶりに、にこは思わずぎょっとして、手にしていたクッキーを落としてしまいそうになった。
「いや、あの……ね?契約の更新をしないというだけで、槐とは恋人でいたいと思っているのですが……?」
と、にこが言えば、先程までの絶望に満ちた雰囲気は何処へやら。槐はすっと顔を上げて、希望に満ち溢れた目をしてにこを見つめてくる。にこは思った。コイツ、チョロいと。
「お互いの気持ちが冷めるまで、この関係が続けられたら良いなって思ってる」
「そしてそのまま結婚に至って、終生共に過ごせたらと僕は思っています」
「……結婚ねえ。したくて堪らない時期があったけど、今となってはそれほどしたいと思わなくなってて。元々、結婚というか夫婦とか家族に対する良いイメージがそれほどないって気がついちゃったし、親が親がだからさ。だけど、また考えが変わる時が来るかもしれないしね」
凡そ一年前の、三月も下旬の或る日の夜。再就職が上手くいかず、自棄酒をして酔い潰れていたにこと、偶々飲み会に連れて来られていた槐が偶然再会をした。
当時交際していた男に二股をかけられていた上に捨てられて、高校卒業後から勤務していた会社をやけくそで退職し、更には母親が作った借金をこれまたやけくそで肩代わりしてしまったことで貯金が消え、再就職も思うようにいかず、にこの心は荒れに荒れていた。そんなにこに根気強く付き合い、気持ちが空回りすることもあっても、自分が情けないと落ち込むことがあっても、にこに辛辣な言葉を浴びせられて泣いてしまうことがあっても、槐は彼女に手を差し伸べて続けてくれた。
誰も助けてくれないから、誰にも助けを求めない。実の親でさえ自分を見捨てたのだから、血の繋がりも何もない他人なんて、もっと無理だ。猜疑心だらけの頑ななにこの傷ついた心を少しずつ、槐は変えていって、変わっていこうとするにこを支えてくれた。そうしていくうちに、いつしかにこは槐以外の人間にも助けを求められるようになっていた。一年でこれだけの変化があったことに、にこが一番驚いている。
「結婚は無理強いをするつもりはないから、そういう選択肢もあるんだと考えてもらえるだけで構わないんだ。僕も無職にならないよに、就職活動を頑張っていくよ」
「父親と兄のコネを使えば楽勝なのに」
「それは最終手段だよ」
一年という期間は、にこだけではなく、槐にも変化を齎した。彼の笑みには穏やかさと悲しさ、楽しさの他に不敵さが加わった。
「使えるなら使うんだ、コネ?」
「勿論だよ。正社員になって稼げるようになったら、にこさんと同棲したいんだ」
いつぞやの、引っ越し先を探しているにこの居候期間が楽しかったからと、槐が笑う。
「この高級マンションでの一人暮らしも、あと一年くらいでしょ?あんた、コンシェルジュは勿論、家政婦無し、部屋数も少ない、広くもない普通のアパートで一人暮らしできるの?実家に帰った方が身の為だと思うわ」
「そこは、普通のアパートで一人暮らしをしている先輩に御教授頂けましたら幸です」
「普通のアパートの住人になったのは最近で、オンボロアパートの住人歴の方が長いわっ。普通なんか知らないんですけどっ」
頼りなさが目立っていた槐が逞しくなったような気がする。いや、生意気になった、が正解だろうか。これから先、徐々に精神面が強くなっていくであろう槐に言い負かされることが増えていきそうな予感がして、にこは怯む。
「……まあ、希望を叶えたいなら、頑張って?」
ああ、また可愛げのない言い方をしてしまった。と、にこが内心で反省するが、槐は楽しそうに笑って、「はい、そうします」と答えた。
――その余裕、崩してやる!
にこは槐の胸に飛び込んで、彼の背に腕を回すと、動物のようにぐりぐりと頭を摺り寄せる。頭の片隅で、これはマーキングではない、と突っ込みを入れながら。槐もにこの背に腕を回し、胸元に埋まっている彼女の頭に頬を寄せて、楽し気な声をかけてくる。
「どうしたの、にこさん?」
「……若さを吸い取ってやろうと思って」
槐を動揺させることができなかったにこの適当な言い訳が面白かったのだろう。槐が体を震わせる。
「三歳しか違わないのに」
「三歳”も”違うんですー」
些細なことで喧嘩をしたり、何処かへ遊びに出かけようと計画を立てたり、他愛のないことで笑い合って、喜び合って、二人で向かい合って食事をしたり、眠りについたりする。
そんな日々が続いていってくれたらと、にこは心から願う。