さようなら、フンダリー・ケッタリー

ハイパー綺麗事ドリーマー(壱)

 槐曰くの地球外生命体こと、にこの実母である博子との連日のやりとりで、にこは彼女が思っていた以上に心身共に疲れきっていたようだ。槐にぶつけるように、ぐちゃぐちゃになった気持ちを吐露して安堵を得て、座り心地の良いソファに腰掛け、隣にいる槐の体温を感じているうちににこは強烈な眠気に襲われる。そのうちに彼女は、こっくりこっくり――というよりはがっくんがっくんという擬音をつけたくなるような舟を漕ぎだした。それに気が付いた槐が「眠たい?それじゃあ、ベッドに……」と声をかけてくるが、「もう無理、そこまで行くのは無理」と返事をする前に、にこの上半身がゆっくりと崩れていく。眠りの世界へと旅立ったにこは健やかな寝息ではなく、不規則で不快なメロディーを轟音で奏で始めた。

「……物凄く疲れてたんだね」

 鼾をかいて眠るにこを見るのは初めてではないが、ここまで豪快な鼾をかいているのを見るのは初めての槐が唖然としながら、彼女の寝顔を覗き込む。彼女の目の下にはどす黒い隈が出来ていて、唇は乾燥でカサカサになっており、口の周りには小さな吹き出物がぽつぽつと出来ているので彼女の体調は万全ではなかったのだ。
 槐は暫しの間、切れ毛が多くて手に引っかかる感じがする彼女の髪を撫でる。それから肌荒れしている頬にも触れてみたが、にこは起きる気配を全く見せない。そして漸く、槐は彼女を持ち上げ、寝室へと連れて行った。

***************

 ――槐の自宅のソファに座っていたはずなのだが、にこはいつの間にか住み慣れたオンボロアパートの部屋で胡坐をかいていた。部屋の電気は点いていないようだが、物の判別がある程度つくくらいには明るい。カーテンが敷かれていない窓に目を向けてみれば、白んでいる空があった。頃合いは明け方かもしれないと、にこは感じ取る。夕焼けとは異なる色の移り変わりは、不安で眠りに就けず、徹夜してしまった日によく見ていたものと似ていた。
 にこが顔を前に戻すと、部屋の中で変化があった。使い古された卓袱台の向こう側に誰かがいるのに気が付いて、彼女は曖昧な明るさに慣れていない目を凝らして、その人物を見た。にこの対面には、くたびれたセーラー服を着た、高校生だった頃のにこがいて、彼女はにことは対照的にきちんと正座をして席に着いていた。  
 理由は分からないが、ありえないことが起きているようだとにこが動揺していると、俯いている高校生のにこが顔を上げ、彼女に言葉を投げてきた。

「ねえ、何で急に槐の力を借りようなんて思ったの?変わり身が早すぎるんじゃないの?ありえない、何考えてんの、私?」

 先程は成人しているにこに槐を信じるようにと訴えかけてきたのに、この高校生のにこは真逆のことを言っている。変わり身が早いのはお前もだろうが、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、にこは大人の対応をしようと試みてみる。そのようなことが出来るのか、特に自信はないのだが。自分は学生ではなく社会人なのだから、というちっぽけな優越感からくる行動かもしれない。

「私一人だけだったら、いつもと同じようなことをして、悪循環から抜け出せそうにない。だけど今回は……お節介なお坊ちゃまの力を借りたら、どうにかしていけるんじゃないかって思ったんだよ」
「ふぅん……それで失敗したら、全部槐のせいにして、自分は悲劇のヒロイン面して、逃げるんでしょ?あの母親みたいに……」

 高校生のにこが吐き出す言葉が刃となって、成人のにこの胸に突き刺さっていく。それはじりじりと肉を抉り、切っ先が深いところまで侵入してきて、灼けるような痛みを伴う。深く息を吸い、長く息を吐いて呼吸を整えてから、成人しているにこは嘗ての自分の顔を凝視する。怒り雑じりの猜疑心を丸出しにしている目は潤んで充血しており、その周囲も赤く腫れている。彼女は泣いていたのか、これから泣こうとしているのか、どちらなのだろう。

(これは……完全にいじけちゃってからの、私か……?)

 槐を信じろと訴えてきた高校生のにこは、まだ他人を信じてみようと思うことが出来た頃のにこで、敵意を剥き出しにしている高校生のにこは希望を博子に粉砕され続けて、もう誰も信じないと決心してからのにこなのかもしれないと、成人しているにこは根拠もなく、そのように感じ取った。

「……そう、だろうね。物事が上手く進んでいかなかったら、きっとあの母親と同じように、自分を守るために他人を悪者にするだろうね。ずっとそうしてきたから、体に染みついちゃってるし」
「うわ、最悪最低の人間だね、私」
「あの母親を反面教師にしてきたはずなんだけど、結局は同じようなことをそれなりにしてたわ。遺伝の力って怖いわー……」
「ほら、早速、遺伝を悪者にして自分を正当化してるわ。自分のやり方を変える気なんて、これっぽっちもないんじゃない、私は」

 流石は捻くれてしまっているにこ、揚げ足をとったり、相手の痛いところばかりを突いてくる。そう感心してしまうのと同じくらいに、腹が立つ。然しここで反撃してしまっては”いつものコース”になってしまうかもしれないので、成人のにこはぐっと堪える。だが、口元がひくひくと痙攣してしまうのまでは堪えきれなかった。

「あ、あ~~、まあ、ね。急には変われないけど、少しずつでも変わっていけるように努力していくよ。頼んでもいないのに私を助けようとしてくれる奇特なお坊ちゃまの力を借りながらでも……」
「あ~嫌だ、他力本願で。ていうか私は何で槐にだけは上から目線になるの?あっちの方が何もかもが私よりも上なのに。身の程を弁えていますか、私は~~!?」
「いや、だって、あいつ、私相手だとどうしてか下手に出るから……つい……」
「変わろうとしてるなら、それ、直しなさいよね。このままだと、本当にあの母親と同じ生物になる」
「はい、気を付けます……」
「あ~あ、他力本願の上に目標が曖昧過ぎて、計画性がまるで無い。何がやりたいの、私は?」
「……変わることが出来た自分ってのがどうにも想像出来ないから、曖昧になるんだろうね。それでも今のままなのは嫌だから、とにかく踠いてんだよ……」

 成人のにこを言葉の刃で容赦無く突き刺し、ざくざくと切りつけてくる高校生のにこ。ほんの先程まで、こんな状態だったのだと思い返し、成人のにこは苦い気持ちになる。傷つくことが怖いくせに、他人を傷つけるような真似しか出来なくなっていたにこを相手にして、槐は気落ちしたりしても、根気強く付き合ってくれていたものだと感心したが――若しかしたら地球外生命体として扱われていたのかもしれないという疑いの気持ちが湧き出してきてしまい、それを払拭しようと頭を左右に振ってみる。

「どんなに抵抗したって、あの母親は死ぬまで私を利用するに決まってる。どんなに頑張ったって、誰も認めてくれない、愛してくれない。私に失望する。そうなるって分かってるのに、どうしてまだ頑張ろうとするの?ねえ、また諦めようよ。その方が良いよ、それが私の為だよ」

 悲痛な面持ちで訴えかけてくる、高校生のにこ。然し考え方に変化が出てきた成人のにこには、その姿が己の身を襲う不幸に酔いしれているように感じられる。鏡がなければ自分で自分の顔を見られないので知らなかったが、にこは不幸な目に遭う度に、悲痛の皮を被せた恍惚の表情を浮かべていたのかもしれない。槐にも、にこがこう見えていたのかもしれない。そう思うと、徐々に高校生のにこの姿が哀れになってきた。その思いは、幸せを求めてばかりで周囲がまるで見えていない母親の博子に抱いているものと同質なのだと気が付いた。
 こんなことばかりしていてはいつの間にか近づいてきていた幸せが恐怖を抱き、ロケットエンジン搭載の乗り物で逃げていってしまう。だから一向に寄りついてきてくれない訳だと、成人のにこは納得する。

「……今はまだ形の見えない将来の私の為に、そうやって直ぐに自分を可哀想がることとか、他人の責任にしがちなこととか、止めていきたい」

 唐突に呟かれた成人のにこの言葉に、暗い喜びを噛みしめていた高校生のにこが我に返り、彼女を凝視してくる。その台詞が高校生のにこが想定していたものと違っていたから、動揺しているのかもしれない。
 次第に空が明るくなってきているのか、部屋の中にいても相手の顔が目を凝らしたりしなくても良く見えてきた。細い目を目一杯広げても大きさが大して変わらないので、瞠目しているようにはいまいち見えないのが切ないが、にこは言葉を紡ぐのを続ける。

「どんなに頑張ったって過去は変えられないけど、頑張った分だけ、未来には何か良いことがあるかもしれないって思ったって……罰は当たらないんじゃない?そりゃあ、それを信じ込んで、思いっきり突っ走るお花畑脳になるのは止めておいた方が良いと心から思うけど」
「依存出来そうな人間が現れたっていうだけで強気になるの、あの母親にそっくり。都合の良い綺麗事を言うの、止めてくれない?虫唾が走る」
「似てるところがあるのは、仕方がない。私はあの母親と、あの親父の遺伝子が混ざり合って出来ている人間だし。それでも、その両方に似ていない部分をこれから作っていけたら、私は私の親のことを悲観したり、不必要に恨んだりしなくなっていけるかもしれない。あの二人に与えられた言葉の呪いをぶっ潰して、自分に自信を持てるようになるかもしれないよ」
「どうせ、失敗する。失敗して、振出しに戻って、『嗚呼、私は何て可哀想な人間なの』って自分に酔うんでしょ?」
「間違えたのはここかな?ってところでやり直す。何度も失敗したって、躓いたって良いから、少しずつ変わっていきたい」
「……さっきから綺麗事しか言ってこないから寒いのを通り越して怖くなってきたわ、私」

 うん、私も自分で自分が怖い、と正直に言ってみると、高校生のにこがぽかんと唖然とした。

「たった一人でも味方がいるんだって思えるだけで、あんまり後ろ向きなことを考えなくなってくるみたいだよ。私っていう人間は本当に、単純なんだよ。あんなに自分を哀れんで、不幸な状況に浸りきることが好きだったくせに、今はもう、そんなことしてる暇があったらやれることをやって、あの母親ときちんとさようならしようって心に決めてしまうんだからさ」
「切り替えが早すぎる。もっと確りと考えて、行動に移しなさいよ」
「あの母親曰く、私という足枷があるから幸せになれないんでしょ?だったら絶縁して、あの母親も私も自由になったらいい。その上で幸せになれないんだとしても、もう、私の責任にはされない」
「……絶縁したって、私とあの母親は血縁関係のままじゃない。法律に従って正式に絶縁したとしても、あの母親には通じない。あの母親は自分が見たいものだけを見て、自分が聞きたいものだけを聞いて、自分が求める他人の反応だけを認識している、槐曰くの地球外生命体そのものだよ」
「それでも、私が本気になったんだってことを見せないと、形で証明しないと、私が変わっていけない。いつまでもあの母親の、私を捨てた父親の影に怯え続けるのは嫌だ。母親のせいだって、父親のせいだって喚いて自分を守る、最低な自分のままでいたくない」

 この気持ちが変えずにいられたら、これからのにこは変わっていけるかもしれない。だが、博子はどうなのだろうか。そこまでされて漸く目が覚めるのか、それでもまだ夢を見続けて、にこを蔑み、束縛しようとするのだろうか。その答えは、にこには分からない。答えは、さようならをしてから分かるのだ。

「……あの母親から逃げ切れる自信があるんだ?」 「私一人で立ち向かったら、万が一がきっとある。だから槐に協力してもらう。槐もそうしたいって言ってくれてるし……私もいい加減に槐を疑うことを止めたい。槐だけでも信じたい」

 そうして気持ちも生活も落ち着いたら、やりたかったことに挑戦してみようと思うと成人のにこは告げると、猜疑心がだらだらと滲み出ている渋い顔をしていた高校生のにこの顔色が変わった。

「働きながら、大学に通おうと思う。通うのが大変だったら、通信制も考える。大学に通うにはまずは受験に合格しないと話にならないから、勉強を頑張るよ。勉強し直さないといけないことが沢山あるだろうから、きっと大変だろうけど、でも頑張る」

 母親の博子には到底期待などできないからと、にこは必死になって目標としている大学の入学金の費用を貯金していた。あともう少しで目標の額に届くというところで、母親の博子が男に振り向いてもらいたいが為ににこの貯金を奪い、にこのささやかな夢は粉砕されてしまった。預金通帳と印鑑を同じ場所に隠していたにこにも少々の責任があるかもしれないが、家探しをして娘の貯金を盗んでも平然としている博子には倫理観というものが備わっていないのだと痛感した出来事だった。
 大学受験を諦め、就職活動を始め、母親に頼めないことで父親の水沼に助けを求めた際に放たれた無情な言葉も心の奥底に深々と突き刺さったままだ。
 母親と父親の仕打ちを忘れ去ることは出来ないかもしれないが、それらに固執していては視界が狭まって、自分が叶えられなかったものを叶えられた人間を羨んで、妬んでばかりだ。それはとても空しいのだと、成人のにこは感じるようになってきた。
 にこの内面が変化してきていることを伝えると、高校生のにこはくしゃりと顔を歪め、充血して潤んでいる目でにこを見つめてきた。

「高校を卒業して、大学受験をして、合格したら大学に通って卒業して……就職活動に励んで、その上で社会人になって、いつかは結婚して、ちゃんとした家庭を築き上げていきたかった。普通の人間になりたかった。私は母親とは違うんだって証明する為に、私を捨てた父親を見返してやる為に」
「うん……予定していた人生設計はそうだったね。だけどさ、それって空しい。私は両親への恨み辛み、普通の人間への羨望、嫉妬に縛られてる。順番は違っても、叶えたかった夢、目標、一つずつ叶えていってみようよ。そうしていくうちに、私は私を可哀想な人間だと思わなくなっていくかもしれない」
「一先ずあの母親の問題が片付いたとして、夢や目標を叶えていこうとしたとして……今度は槐に裏切られるんじゃないの?私を助けるって目標を達成したら、槐は私のことなんていらなくなるに決まってる」
「あ~、槐に関しては掌が壊死されたとしても、私の自業自得だと思う。槐を試すようなことばっかりして、態と傷つけるようなこと言ったりしたし……何より、強姦しちゃってるし……」
 その件について槐に訴えられたら、にこはどうやっても裁判に勝てない自信がある。全ての非は、にこにある。言い訳など出来るはずもない。

「……兎に角さ、自分と槐を信じて、やれることをやっていくよ。ふんだりけったりの人生から抜け出していく絶好の機会だろうから」
「これまでの自分を否定して、無かったことにするんだ?」
「頑張ってきたのに駄目だったって嘆いて、卑屈になった私がいるからこそ、ここに辿り着いたんじゃないかと思う。遠回りだったのか、案外近道だったのかは分からないけど、これまでの私を否定したら……それは今の私じゃない」
「上手くやっていける?」
「それは分からない、でも、やってみる」

 明け方から朝になったのか、部屋の中が随分と明るくなっていて、高校生のにこの表情が良く見える。彼女は渋い顔をして暫く黙り込んでいたが――大きな溜息を長々と吐くと、しっかりと前を向いて、成人のにこを睨みつけてきた。

「……失敗したら、これでもかっていうくらい責めてやるから」
「その時はその時で深く反省するわ」
「……馬鹿なんじゃないの!要領が悪すぎる!」

 ふんっと鼻息荒くそっぽを向いた高校生のにこの口元が綻んでいたように見えたが、もう一度確認しようにも周囲がいやに明るくて、彼女の姿が消し飛んでいる。
 ――後悔しないように頑張りなさいよ。
 そんな言葉が聞こえたような気がした時、にこの視界は真っ白な闇に覆われていた。

***************

 ――ああ、現実でも朝が来たのか。
 自然と目は開いたが、焦点が定まっていない視界はぼやけていて、かろうじて色が判別できるくらいだ。暫く待機していると白いものの正体が、天井だと分かる。高級な羽根布団の心地良い肌触りと、程好い温もりに体を包まれているからだろう、戻りつつある眠気のせいで瞼が落ちてきそうになるので、にこは乱暴に目を擦り、もう一度視界をぼやけさせた。
 それから品性の欠片もない大きな欠伸を一つして、にこがごろんと体の向きを変えてみる。隣に、槐がいた。にこが目覚めていることには気が付いていないようで、彼は小さな寝息を立てている。

(……あー、そうだ。こいつん家に連れて来られて……いつの間にか寝ちゃったのか。その辺に転がしておけば良いのに、態々ベッドにまで運んでやるとか……流石は出来の良いお坊ちゃま、大変よく気遣いできますことで……)

 にこは槐の好意に呆れて、頭を掻く。その際に、見慣れない袖が視界の端に移る。布団の中でもぞもぞと動いて確かめてみると、にこが昨夜着ていた服ではなく、槐が用意してくれたらしい上質な寝間着を着ているのだと知る。御丁寧にブラジャーも外されていた為、寝苦しさを感じることもなかったようだ。

(……他人の裸を見るのをあれだけ恥ずかしがっていた奴が、他人が寝てる隙に服を脱がせて着替えさせるとか……いやあ、成長しましたね、純情お坊ちゃまも)

 にこは衝動のままに手を伸ばし、槐の鼻を摘む。そうしても鼻の油が滲み出てこないことが、恨めしい。もう少しだけ、指に力を入れる。
 呼吸を阻害されて数秒、自身を襲っている異変に気が付いた槐の目が勢いよく開く。にこはそれに驚いたが、彼の鼻を摘む手は離さない。未だ覚醒しきっていないのか、はたまた状況が把握できていないのか、強制的に目覚めさせられた槐はぱちぱちと細かい瞬きをして、仏頂面をしているにこを見つめるばかりだ。

「……おはよう」

 私は一体何をしているのか。漸く理性を取り戻したにこは普段より幾分か低い声で挨拶をして、何事もなかったかのように彼の鼻を摘んでいた手を離す。

「お、おはよう、にこさん……」

 摘まれていた部分が赤くなっている鼻を摩りながら、槐は寝起き独特の掠れた声で挨拶を返す。「どうして鼻を摘んでいたのか?」と尋ねられるかとにこは構えていたが、彼は一向にそうする気配を見せない。このまま知らん振りしても良さそうだ、と、自分勝手に判断したにこは起き上がり、ベッドから出ていく。

「あ、あのね、にこさん。今朝は僕が食事を作るよ。とは言っても、トーストを焼くくらいになってしまうのだけれど。未だ時間に余裕はあるし、昨日のことできっと疲れているだろうから、にこさんは仕事に行くまでの間、少しでもゆっくりしていて」
「いや、遠慮するわ。冷蔵庫の中を見て、自分で適当に作る。……あんたの分もちゃんと作るから、安心しなさいよ。気持ちだけ、貰っておくわ」
「そ、そう……」

 いやに腹が空いているので、トーストだけでは満足できないだろうと判断したにこは、その旨は伝えずに槐の申し出を断った。槐がしょんぼりとしている気配が伝わってきたが、にこは振り向くことなく、寝室を後にして、キッチンへと足早に向かった。

(やっぱり一筋縄じゃいかねえわ、この性格を矯正していくのは……)

 冷蔵庫の扉に額をくっつけて、にこは落ち込んでいる。冷蔵庫の冷気で額を冷やしてみると何か良いことがあるかもしれないと思ったのだが、扉はたいして冷たくはないので、目的は達成できなかった。

(槐には何をしても良いと、思っちゃってるんだろうなー……それって、あのオバサンと同じことしてるってことだっての。落ち込むわー……)

 羨望が姿を変えた嫉妬の衝動に駆られて手を出し、口からは優しさの少ない言葉ばかりを吐き出してしまう、にこ。このままではいけないと分かっているのに、どうにも醜い感情が顔を出してしまうので、自分は変わることが出来ないのではないか、と焦燥感が湧き出してくる。

「……朝飯を食べて、気分を変えよう。それから、槐にも相談してみよう。ゆっくりでも、確実に。焦るな、私……」

 時間制限が存在するのであれば仕方がないが、焦っても良いことはない。「やっぱり無理なんだよ」と諦めても、良いことはない。にこは思っていることを態と声に出して、自分に言い聞かせてみる。
 そうすると少しだけ気分が持ち上がったので、彼女はやっと冷蔵庫の扉を開けて、中身を確認し始めた。