さようなら、フンダリー・ケッタリー

地球外生命体と思えば、何とか(伍)

「……にこちゃんは、これからどうしていきたいと思っているの?これからの人生を、これまでのようにお母さんの影に怯えながら生きていくの?赤の他人だからこそ言えるのだけれど……僕は……にこちゃんとお母さんは一度関係を断ち切った方が良いと思う。そこまでしなければ、これからもずっと、同じことを繰り返していくよ。それで良いなら、僕はこれ以上何も言えないけれど……」
「……っ」

 最低最悪な母親の呪縛から逃れられない私は可哀想な存在、と言って被害者振るのはいい加減に止めたらどうか。そんな風に言われたような気がしたにこはカッとなるが――槐に何も言い返せなかった。直ぐに被害者振る博子を毛嫌いしているくせに、母親と同じようなことをしているのだと気付かされたようで恥ずかしくなったにこは、それを隠そうとして、槐を睨みつけることしか出来ない。そんな幼稚なことしか出来ないでいる自分が嫌になるが、それでも彼女は槐を睨みつける。

「……あ、あんたに借りなんて作ったら、あんた、ずっと、私に恩を売ってくるでしょ……!?そんなの嫌だ、惨めになる。結局自分一人で何も出来ないんだって、惨めになる……!あんたの手助けなんか、いらない……っ!!」

 ――本当に槐の助けがいらないって言うの?本当は、槐に頼りたいくせに。
 槐に反論をしたにこの頭の片隅で、あちこちが綻びているセーラー服を着た高校生のにこが疑問を投げかけてきた。二股男に捨てられて、母親のせいで大金を失い、就職活動が捗らない苛立ちで自棄酒をした夜、偶然に槐と再会して、槐が無理矢理に恋人契約を取り付けたからこそ、にこの現在(いま)がある。にこが槐の差し出した手を振り払っても、槐はずっと手を差し伸べ続けてくれたことを、にこは知っているはずだと、高校生のにこが訴える。

「一人の力ではどうにもならないことは、どうしてもあるよ。お母さんのことは特に、にこちゃん一人の力では解決出来ないと僕は思う。僕に借りを作るなんて思わないで、僕から言ってきているのだから利用してやると思ってくれて構わないよ。都合良く利用されることには慣れているから、僕は全く気にしない。……だから、にこさんの意見を聞かせて欲しい。僕はにこちゃんの思うように、事を進めていく。どんなことになったとしても……僕は決して、にこちゃんだけを責めたりはしない」
「そんなことない!絶対に私を責めるよ、あんたは!私が悪かろうが、そうでなかろうが、いつだって私が悪者になるんだから!誰にも迷惑をかけないようにしようって頑張ってたって、私が責められる……!あんな母親の子供だから、将来きっと母親と同じことをするって、勝手に決めつけて……っ!」

 ――槐は、私の両親とは違う人間だよ。助けてって言っても、きっと拒否したりしないよ。お母さんみたいに手を振り払わないし、お父さんみたいに私を見捨てたりしないって、気が付いてるよね?
 意地を張るな、槐を信じろ。新聞配達や家庭教師のアルバイトをして必死に貯めた入学金を母親に奪われ、心が折れても泣くことが出来ないでいた高校生のにこが暗闇の中で訴えてくる。

「……責めないよ」

 槐が前に進み出て、にこを腕の中に閉じ込める。これ以上にこに口を開かせない為ではなく、抱きしめたいと衝動的に思って、槐の体が動いていた。槐の突然の行動に驚いてにこの思考が一瞬停止するが、直ぐに我に返り、彼女は衝動のままに彼の拘束から逃れようとして必死にもがく。槐は一向に腕の力を緩めない。にこは暫く暴れたが、そのうちに大人しくなっていく。

「……誰も、私の話を聞いてくれない。親が離婚する時だって、私は本当は父親についていきたかった。今の母親と違って新しい母親は私を見てくれるんじゃないかって、子供心に期待したけど……あの親父の家族の中に、私は含まれてなかったんだよ。女は女同士の方が良いだろうって決めつけて、父親は私の親権をあっさりと放棄した。母親は母親で自分の幸せを追求するばかりで、娘の私のことなんてちっとも気にかけてくれない。気にかける時は決まって……金に困ってる時だよ」

 周囲の大人も、誰もにこの言葉に耳を傾けてくれない。やっとの思いで「助けて」と口に出しても、それは誰かの耳元まで届かないで、微風のように体を撫でていくだけだった。血の繋がりがあろうがなかろうが、誰もにこの言葉に耳を傾けてはくれない。そこににこはいるのに、誰かの目には映らない。
 そんな環境に居続けた子供はどうなるのだろうか。子供はやがて誰かを信じることを諦めて、誰かに頼ろうとしなくなり、けれども誰かに必要とされたくてもがいて、頑なに一人だけの力で生きようとする歪な大人へと成長していくのかもしれない。

「捨てたいと思っているのに、捨てられない。どこかで信じてるのかもね、母親なんだから、いつかは私を見てくれるんじゃないかってさあ。いつか目を覚ましてくれて、理想の家族になれるかもしれないって、向こうから接触してくる度にどこかで期待してる。いつかを求めているから……繋がりを残しておかないと不安になるのかもしれない……」

 博子を拒絶しながらも、”いつかきっと”を信じてきた結果はどうだろう。望みは未だ、叶ってはいない。博子は目を覚ます気配はない、否、そもそも目は覚めているのかもしれない。それなのに訪れそうもない”いつかきっと”を求め続けるのか。そろそろ、それを放棄しても良いのではないかと、高校生のにこは泥沼の中で泣き叫んだ。

「……私だってさあ、幸せになりたいんだよ。そう思ったらいけないわけ?」
「殆どの人がそう思っているんじゃないかな……?僕も出来れば、幸せな人生を送りたいと思っているよ」

 出来れば、生涯をにこと共に歩んでいきたいと言いそうになって、槐は口を噤む。
 ――ああ、そうか。幸せになりたいと私が夢を見てもおかしくはないんだ。誰だってそう思うんだ。
 にこの心の中で、何かが音を立てて罅割れる。そうしたら、心が何だか軽くなったような気がしてきた。

「自分が幸せになる為に母親を捨てても……良いよね?あっちはもう、私のこと、自分にとって都合の良い何かだとしか思ってないんだから、さ。もう、疲れた。私のことを愛してもくれない母親の為に、愛されようとして何かをするのは……」
「……世界中の誰もがにこちゃんを非難したとしても、僕はにこちゃんを責めたりはしない。にこちゃんが頑張ってきたことを、頑張っても報われてこなかったことを、それでもまだ頑張っていることを知っているから、親を捨てようとしたって、責められない」

 否定ばかりされてきたので、自分の意見を肯定されると不安になる。けれども否定されるのも嫌だ。その複雑な矛盾が胸を苦しめてきたが、今回ばかりは素直に槐の意見を聞き入れてみようか。にこは、そんな気が起きてくる。

「……うわ、クサイ台詞吐きやがった。……楽なりたいって、言っても良い?」
「勿論。僕はにこちゃんを助けるよ。今度こそ、助けるよ……」

 ”助ける”という言葉がもう一度、にこの心に突き刺さる。その刃先は罅割れた猜疑心を切り裂いて、彼女の素直な気持ちを解放していった。

「あんたさ、本当に馬鹿だよね。私なんかに手を差し伸べたって、何も良いことないのに。寧ろ、損しかしない。本当、馬鹿……っ!助けて、槐。苦しい、楽になりたい。でも、どうしたら良いのか分からない。楽になりたい、助けて……」

 ずっと言ってみたかった言葉を勇気を出して口に出してみたら、自然と涙が溢れていた。ついでに鼻水まで出てきてしまったので、慌てて鼻を啜る。にこが泣き出したことに動揺したものの、槐は兎に角、震えるにこを抱きしめ、背中を優しく撫でる。にこの顔を押し付けた胸元に温かいものが滲み渡っていく感覚があり、彼女の涙と鼻水が服についたのだと察したが、槐は彼女を引き離そうとはしなかった。

「……僕はずっと、にこちゃんの味方だよ。昔から、今も、これからも。にこちゃんが迷子の僕に手を差し伸べてくれたように、僕も手を差し伸べるよ……」

 次第に怪獣のような鳴き声を出し始めたにこの耳に、槐の言葉は届いていない。聞こえていないのであれば、何度でも言えば良い。にこに呆れられるくらい、槐は何度でも言ってあげるつもりだと意思を固める。

「……そういえば。あんた、あのオバサン相手にして、よく怯まなかったよね。私の前だとよくオロオロしてんのに……」

 気持ちを吐露して、一頻り泣いてスッキリとしたにこはソファに深く座り、元々細いが泣き腫らして更に細くなってしまった目で隣に座っている槐を見ながら、彼が淹れた緑茶を飲む。良い茶葉が使われているということもあるのだろうが、そのお茶が自分が入れるより何倍も美味しいのが悔しくても、今は憎まれ口を叩く気にはならない。
 ローテーブルの上に置かれていた湯呑を手に取り、一口飲んだところで、槐は苦笑いを浮かべて、彼女の質問に答える。

「あれは……面倒な人の相手をしなくてはならない時は、その相手を地球外生命体だと思えば何とかなるという、うちの父さんの教えを実践したから……」
「……何それ?」
「地球外生命体には、地球の人類の言葉が通じるかどうか分からないでしょう?だから、この人は地球外生命体だから言葉が通じなくて当然だと思えば、案外冷静に物事を考えられて、何とか対処出来るよ、というのが父さんの持論なんだ。……僕はまだまだ人生経験が浅いから、つい、カッとなってしまって……父さんや梓くんと違って、あの人と上手く交渉出来なかったのだけれど……」
「あー、いや、あれでも、凄かったよ。びっくりした。地球外生命体かぁ……その発想はなかった。あんたのお父さん、結構面白い人なんだね。玖璃子さんと違って、あんまり顔を合わせたことがなかったから、どんな人かは知らなかった……」

 父親は兄の梓と顔がよく似ているので、還暦を過ぎた梓を想像してみて、と槐が言うが、にこは微妙な顔をして「そんなこと言われても分かんねーわ」と返す。

「……これからどうしていくのか、二人で一緒に考えていこうね、にこちゃ……にこさん」
「……あんた、勝算があるから、あのオバサンにあんな啖呵切ったんじゃないの?」
「いや、あの、実は勢いだけで特には……にこさんを助けないと、という思いだけで突っ走ってしまって……でも、僕に出来ることをするよ。だから、安心して」
「それで安心出来る訳がねーだろーが。……馬鹿だね、あんた、本当に。私も馬鹿だけどさ……」

 手にしていた湯呑をローテーブルに置いて、にこは槐に体を預ける。そして吐息混じりに「でも、有難う」と呟いた。とても小さな声だったので槐の耳に届いたのだろうかとにこは思ったが、触れている場所から伝わってくる槐の体の震えで、彼女は何となく察した。