眠っているのだということに気がついた時に、体の周りの感触が違うことにも気がついた。いつもであれば硬さと寒さを感じるのに、何故か今は柔らかさと温かさを感じる。何かがおかしい、と、にこは重たい瞼をこじ開けた。程好い闇と、何処かから差し込んでくる光の存在を感じる。
「……何処だ、此処?」
徐々にピントが合ってきた視界に映ったのは、覚えのない天井だった。
状況が飲み込めず、漠然とした不安を抱えたにこがのろのろと体を起こしてみる。彼女は上質のベッド――それもキングサイズはありそうな大きなベッド――に寝かされていた。差し込んでくる光の先に視線を動かすと、扉が開いていて向こう側の部屋が垣間見えた。恐らくはリビングだろう 。誰かの家の寝室にいるのかもしれないと、ぼんやりとした頭で理解した彼女は、徐に自分を見た。いつの間にやら安物のスーツの上着が脱がされていて、ベッドの脇に置かれた椅子の背凭れに掛けられていた。上着が皺にならないようにと配慮してくれたのかもしれないが、どうせならハンガーに掛けてくれていると尚良かったと、にこは図々しく思っていた。
「……おお」
胸元の違和感に気付いて、にこは視線を落とす。着古したブラウスのボタンも幾つかと、何故かブラジャーのホックも外れていた。寝ているうちに自分で外したのだろうか。そうなのだとしたら、にこは器用だ。
「此処、ホテル……?」
それにしては華美な内装ではないし、更には多少の生活臭――加齢臭のようなきついものではないが――があるような気がする。ふわふわとして温かい羽根布団の上に突っ伏したにこは、頭を両手で抱えて考える。
自分は飲み屋街にいたはずだが、どうしてこんな所にいるのだろう。何とか思い出そうと唸っていると次第に頭がずきずきと痛みを訴えてきて、胃もむかむかとしてきた。
――そうだ、自分は酒に酔っていたのだ。
そのことを思い出した途端に、彼女は強烈な吐き気に襲われる。こんなに上等なベッドの上で吐いたら弁償させられると焦ったにこはベッドから這い出し、開け放たれている扉の向こうを目指した。するといきなり影が現れ、にこは行く手を阻まれる。
――やばい、此処でゲロをぶちまける。
にこは青くなっている顔を一層青くし、ぶるりと体を震わせた。
「目が覚めた、にこちゃん?ええと、ああ、吐きそう?もう少し我慢して……」
あんたが邪魔してんだよ、と罵倒したくても出来ないにこを支えながら、若い男は彼女をトイレに連れて行った。中に入ると自動的に蓋が開く機能がついた高級そうな便器に顔を突っ込んで、にこは遠慮なく吐く。あともう少し遅かったら、大惨事になっていたに違いない。彼女がケロケロと鳴く蛙と化している最中、男はずっと彼女の背中を労わるように撫でていた。
「――っ、はぁ……っ」
胃の中のものを全て吐き出してすっきりしたにこは、大きく息を吐く。頭痛は未だしているが、耐えられないほどではないので一先ずは安心だ。饐えた匂いを放つ吐瀉物を水に流してしまうと、彼はにこを寝室ではなく、広々としたリビングへと連れて行き、ソファに腰かけさせた。
――何このソファ。絶対高い。
ソファベッドにもなりそうな、ゆったりと出来るサイズの革張りのソファは心地良い手触りがした。上等な物品を見るとついつい値段を想像してしまいたくなる。そんな妙な癖があるにこがリビングに置かれている家具の勘定をしていると、いつの間にか姿を消していた男が、彼女の前に急に現れた。にこはびっくりして、妙なポーズをとってしまった。彼は柔らかく微笑むと彼女の目の前ではなく、斜交いに跪く。そして、水の入った青い切子硝子のコップを彼女に差し出してきた。これもまた、値が張りそうな一品だ。
「少し、気分は良くなった?喉は渇いてないかな?水なのだけれど、良ければ……飲む?」
「はあ、どーも……」
嘔吐した直後ということで、口の中が不味くて仕方がない。にこは遠慮なくコップを受け取り、水を一気飲みした。口の中もすっきりしたにこは、漸く相手を見る余裕が出てきたので、無遠慮に目の前で正座をしている男を観察する。
にこを気遣うように見つめているのは、随分と見目の良い若い男だった。彫りの深くない瓜実顔をしている、黒髪に黒目の色白の、純和風の美青年といった感じだ。今は白いシャツの上にグレーのカーディガン、黒のチノパンといったラフな洋装をしているが、和装をするとより魅力が引き立つだろう。その端整な面差しの中に、ほんのりと幼さが残っているようにも見えるので、年の頃は大学生か、はたまた童顔の社会人か。
(然し……誰だ、こいつ?)
どうやら彼はにこを知っているようなのだが、にこには全く覚えがない。こんなにも綺麗な男なら、面食いの自覚があるにこは確りと脳内メモリーに記録しているだろうに。切子のコップを両手で握りしめたにこは無遠慮に、怪訝な目を彼に向ける。
「誰よ、あんた。何で私のクソみたいな名前知ってんのよ……」
親切にしてくれた相手に対して、随分と失礼な口を利く。此処までついて来てしまっているのに、彼女は今更警戒心を剥き出しにしている。今の彼女には、敬語を使う気遣いはなかった。
「え……?」
黒々とした長い睫毛に縁取られた目を見開いて、青年は呆然としている。親切にした相手に礼を言われるどころか、失礼なことを言われたのだ、呆然としてしまってもおかしくはない。
「ねえ、此処、何処よ?ホテル?若しホテルだったら、悪いんだけど、私、ホテル代払えないから。今ね、大してお金持ってないの」
肩を落としているように見える青年のことなどお構いなく、にこは捲し立てる。失礼の上塗りをしている自覚は、彼女にはないようだ。
「此処は……僕が暮らしているマンションなので、ホテルではないよ」
「あ、そう。それで、酔っ払いなんて連れ込んでどーすんの?強姦でもするの?それとも強盗?さっきも言ったけどさ、お金持ってないの。馬鹿親のオバサンが色んなお金を滞納した挙句に男と逃げてさ、オバサンの代わりに金払わされて、すっからかんなの!更には無職でさ!失業保険もそろそろなくなりそうだし、生活していくのが大変なのよ!」
「うん、大変だったね。頑張っているんだね、にこちゃん。――それで、話を戻すのだけれど。あのね、大学の同級生と飲んだ帰りに、酔って動けなくなっている君を見つけて、そのままにしておけなかったから自宅に連れて来ただけなんだ。酔っているにこちゃんに何かをするつもりは毛頭無いよ。安心して」
彼はにこの頭を撫でて、ゆっくりとした口調で経緯と目的を話す。彼の言葉が本当だというのであれば、彼は相当なお人好しだ。お金持ち――こんな所に住んでいるのだから、きっとそうなのだろう――は考えることが庶民とは違うらしい、と、にこは思った。
「はあ、そーですか。態々介抱してくれてありがとーございましたー。世の中捨てたもんじゃないですね、多分。御恩は返せません、お金持ってないので。ごめんなさーい。……はあ、帰ります。お邪魔しました――」
「あ」
相手がお人好しならば、逃げるのは今のうちだと思ったにこは立ち上がろうとする。けれども体内に未だ酒精が残っていたようで、くにゃりと足が縺れた。前に倒れこんだにこを受け止めようとした彼には全体重を預けてくる彼女を支えきれず、二人は重なるように床に倒れこんだ。
「あたた……。硬いだけでクッションにならねーな、男はよ……」
倒れた時の衝撃で、頭痛が酷くなる。割れそうなほどに痛みを訴えてくる頭を押さえて、にこは下敷きにしてしまった青年に暴言を吐いた。恩知らずにもほどがある。
「大丈夫?どこかを打ちつけたりはしていない?頭が痛い?待っていて、頭痛薬を……」
親切を仇で返されているというのに、彼は未だ、にこを気遣ってくる。
――こいつ、頭の中どーなってんだ?お花畑なのか?
顰めっ面をしながら上体を起こしたにこは、彼に跨ったまま、彼を睨みつけるように凝視した。
(何なんだよ、こいつ。男のくせに妙に綺麗な顔しやがって……。然もこんな所に住んでる金持ちだし……。こちとら胴長短足の顔普通の金無しだってのによ……)
性別が違うとはいえ、同じ人間であるというのにこの差は何なのだろう。不公平すぎではないだろうか。不公平は良くない、絶対。ここは一つ、天に二物以上も与えられた幸運な人間に是非とも理不尽な目に遭って頂きたいものだ。と、何だか無性に腹が立ってきたにこは、にこの下から這い出ようともがいている彼に言い放った。
「突然のお知らせです。お世話になった礼は体で払うことに決めました。おい、一回ヤらせろ」
「――は?」
彼が呆気に取られている隙にカーディガンごとシャツを捲り上げた。露になった彼の肌を、にこはじろじろと値踏みするように見る。
「にこ、ちゃん?急に、どうしたの……?」
「……何だ、腹筋割れてねーのか。顔に似合わず筋肉質かと思ったら、そーでもねーのか……がっかりだよ」
「御免なさい……」
引き締まっているが、鍛え上げられている訳ではない腹を撫で回して、にこは吐き捨てる。彼は何も悪くないはずなのだが、何故だか反射的に謝っている。そんな彼の肌は男にしては肌理が細かくてすべすべとしており、触り心地が良い。一応は若い女であるにこの肌はというと、美容に全く精を出していないので、かさかさしている。特に手は、がさがさしている。お肌の曲がり角までは未だ猶予はあると思っていたのだが、現実は甘くなかった。
――肌の質が男に劣っている。
想像だにしていなかった事実を突きつけられたにこは腹立ち紛れに、シャツの下に隠れている乳首を探り当て、思いきり抓った。彼女は大人気なく、八つ当たりをしている。
「い……っ!?」
「ごめんねー、痛かった?気持ち良くなれるかは知らないけど、用事は直ぐに済ませるからさ、暫く辛抱してねー。あははっ」
「だめ、だよ、にこちゃん……っ」
逃げようともがく彼を体重をかけて押さえつけ、にこは彼の唇を自分のそれで塞いだ。滑らかな肌をしている彼の唇は潤っていて、柔らかい。そのことにも立腹したにこは、「こいつ絶対あんあん泣かせてやる」と決意し、いやらしく唇を貪る。顔を反らされると追いかけ、無理矢理割り開いた口の中にある舌を絡めとり、溢れてくる唾液をわざと大きな音を立てて啜る。にこが唇を離す頃には、顔を赤くして荒い息を吐いて、くったりとしていた。
「……ふふっ」
彼が大人しくしているうちに彼の上からどいて、にこはいそいそと服を脱いでいく。全裸になった彼女は再び彼に跨ると、しっかりと雄の反応を見せている彼の股間に自分の股間を擦りつけ始めた。
「んっ。あんた、こんな所で暮らしてるんだもん、金持ちよね?あんたとセックスして妊娠すれば、あんたの子です、責任取ってよねって脅迫して、金とれそう。ふふふっ」
我ながら最低なことをしている。酔った勢いで、勝手に腹を立てている愚かなにこの行為を眺めている別のにこが、冷たく呟いたような気がした。だが、にこは止まらない。淫らに腰を揺らめかせて、感度を高めていく。
「にこちゃん、止めて、お願い、だからっ。僕、女の人と、したことない、から……っ!」
にこに良いようにされている彼は潤んだ目で彼女を見つめ、途切れ途切れに訴えてきた。その内容が予想外で、にこは目を点にした。
「……はあ?その年で、その顔で童貞?放っておいたって女が勝手に群がってきそうなのに、童貞?ああ、あれか、ゲイか。それもケツ掘られる方か」
「違う、ゲイじゃ、ない……っ。僕はずっと、にこちゃんが……あぁ……っ」
必死の訴えをさらりと無視して、にこは体の向きを変える。彼に背を向けているにこは、自らの愛液で濡れてしまっている彼の膨らんだ股間を指で突いた。その刺激で、彼は艶っぽい喘ぎを漏らす。ファスナーを下ろし、そこから覗く下着を下ろして、すっかり硬くなっている彼の性器を取り出す。黒ずんでいない性器は、童貞の証拠のように見えた。
「マジで童貞かい。ま、いいか。使い物になりそうなチンコで安心したー。だけど顔良し、金持ちのチンコって普通だね、つまんねーの……。まあ、あの糞野郎みたいな包茎シメジじゃないだけマシかー」
「やぁ、やめ、て、にこちゃ……うぅ……っ!」
指先で撫で回したり、手で包み込んで上下に擦るだけで、彼の分身は硬さと熱さを増していく。指で、唇で、舌で彼の性器を嬲りながら、にこは自身の性器も弄る。
「う、わぁ……っ」
丁度顔の前に、にこの臀部が来ている。愛液が溢れ出ている彼女の性器を、彼は顔を真っ赤にしながらも、食い入るように見つめている。一度は目を逸らそうとしたのだが、内から湧き出てくる本能に負けてしまったらしい。にこから溢れ出てくる”女”の匂いが、嗅覚を刺激する。蠱惑的に揺れる臀部が、性器を弄る艶かしい指の動きが、視覚を刺激する。いやらしい水音が、聴覚を刺激する。彼は抵抗することを完全に忘れ、それらに釘付けになっていた。
「……これくらいでいっかー」
彼の性器を弄んでいた唇と指を話したにこは起き上がり、気だるげな動きで彼を振り返った。
「ところで。あんた、ゴム持ってる?……なわけないか、自称童貞だし」
妊娠して脅迫してやる、というのは冗談だったのだろうか。彼女は避妊具の有無を確かめてきた。その問いで、彼は沸騰寸前だった頭の中が冴えてきて、我に返ることが出来た。
「っ、コンドーム、は、持ってないから、止めよう、にこちゃん……っ」
「いや、止めないけど。やる気満々だよ、あんたのチンコ。ほら」
「ぅわぁ……っ」
「……あーあ、何してんの」
わざと強く性器を握ると、彼は射精してしまった。呆れたにこが、力を無く萎れてしまったそれを扱き、再び勃起させる。振り返って見てみると、彼は両腕で顔を隠して、歯を食いしばっていた。
「……何やってんの?」
どうしてそうしているのか分からないにこは立ち上がり、三度彼の上に跨ると、彼の性器を自らの性器にあてがい、腰を落としていく。彼に見えるように、態とゆっくりと。
「ん……っ。ねえ、ほら、見てみなよ。あんたの童貞チンコ、入っちゃってるよ?はい、童貞卒業おめでとう~」
「うわ、あ、あぁ……っ!」
にこの中はぬめぬめとしていて、熱くて、柔らかくて、彼の分身をきつく締めつけてくる。初めての感覚に、彼は言葉を失う。根元まで彼女の中に納まった途端に、彼は再び射精してしまった。
「……お坊ちゃま、早漏かよ。ださ……」
「……っ」
にこの心無い言葉が胸に深く突き刺さったのだろう。彼は体を震わせると、ぼろぼろと涙を零し、小さな嗚咽を漏らした。にこは、彼を泣かせてしまった。
「泣くことないでしょ。早漏だっていーじゃない、あんたの場合、顔で誤魔化せるんだからさー」
「ぼ、くは、顔、だけ……っ?」
情けない表情を見せている青年は、鼻声で尋ねてきた。馬鹿にされたことを怒るでもなく、ただ悲しげな目をして、にこを見つめてくる。そんな目で見つめられることが嫌で、にこは目線を彼の顔から喉元に移し、体内にある彼の分身を弄ぼうとして、腰を動かし始めた。
「んっ、世の中、顔と金、でしょ?その両方が揃ってんだもん、あっ、人生勝ったも同然じゃない。良かったね、お坊ちゃま。ただ、さ。こんな女に童貞を奪われたのが汚点になっちゃったね、ははっ。はぁ……っ、可哀想にね、お坊ちゃま」
嘲笑を浮かべているにこの目が、どこか悲しげに見えるのは気のせいだろうか。やがて騎乗した状態で腰を振るのに疲れたにこは、青年の性器を自身の中から抜いて、深く息を吐いた。
「ん?」
ぐらりと体が揺れたと思った瞬間、にこの目に映る世界が一回転していた。そして強かに、床に後頭部をぶつける。地味に痛い。じんじんと痛む後頭部に手をやろうとして、自分を覗き込んでいる濡れた瞳と視線がぶつかってしまい、にこは言葉を失う。
「……」
青年の上に跨っていたはずのにこはいつの間にか、彼に覆い被さられる体勢に入れ替わっていた。形勢逆転というやつだろうなと、他人事のように彼女は考えていた。
――やりたい放題にしたからなー。こりゃあ、一発か二発は殴られるかなー。
と、怯えているにこに降ってきたのは青年の拳ではなくて、唇だった。彼は、触れるだけの口付けを何度もしてきた。
――ナニコレ。下手糞すぎるんだけど、キス。
”大人のキスとやら”を覚えたばかりの中学生のような、技術もへったくれもないキスだと、にこは感じた。
「にこちゃん、泣かないで……。僕が、いるよ……」
無理矢理に童貞を奪われたことで自棄を起こしているのかもしれない、と思われた青年の口から出た言葉に、にこはまた唖然とした。一体、何を言っているのだろう。
「にこちゃん、にこちゃん……ずっと、逢いたかったんだよ……。思い出してよ……にこちゃん」
「ん……っ」
今度は彼から、にこの中に分身を埋めてこようとする。慣れていない為か手つきがたどたどしくて、なかなか上手く入らなかったが何度か試しているうちに、するりと入ってきた。
「にこ、ちゃん、にこちゃん……」
彼は一所懸命に動いてはいるものの、本能のままに腰を振っているだけなので、にこは興奮しない。けれど切なげに自分の名前を呼ぶ声には、少しだけ、ぐっときた。
「思い出してって言われてもさ、誰だか分からないんだって……」
どうしろって言うのよ。消え入りそうな呟きと苦笑するにこの目から、ぽろりと涙が一粒零れ落ちる。それに気がつかない彼女は、青年に体を揺さぶられ続ける。そうしていると急に睡魔が襲ってきた。彼女はそれに抗うことなく、眠りの世界に落ちていく。