さようなら、フンダリー・ケッタリー

いつでもにっこり、にこにこにこちゃん

 未だ少し肌寒い、三月下旬の日。
 明るい月が東の空から昇り、中天に座す頃の飲み屋街には続々と人々が集まってくる。昼とは違う賑やかな夜の世界には、成人を迎えて飲酒が可能になったことを喜んでいる大学生のグループ、結婚が決まったことを上司や同僚に祝福されている会社員などがいれば、号泣して飲んだくれている四十代前後の女や、仕事で失敗をして酷く落ち込んでいるまだまだ若手と思しき会社員などもいる。飲酒目的でやって来た人の他にも、食事を楽しみにやって来た人、誰かとの語り合いを楽しみにやって来た人などもいる。
 様々な喜怒哀楽の感情が入り混じった特殊な空間というのが、飲み屋街の面白いところなのだろうか。

「お先真っ暗だわー。どーやって生きていけっつーのよぉー……」

 賑やかな通りから外れた小道にある、シャッターが下ろされた店舗の前で座り込んでいる女が一人。外見で判断するところ、二十代と思われる小柄な若い女だ。彼女の周りにはビールの空き缶が四本転がっており、手には蓋を開けたばかりの五本目の缶ビールが握られている。納まりの悪いショートボブの黒髪の下のにある目は、酔いが回っているせいか、据わっている。寝不足のためか、目の下にどす黒い隈も出来ているのでなかなか人相が悪くなっている。

「なーにが景気は上向いてます、だよー。ちっとも良くなってねーよ。そんなの、大企業様だけで、中小企業にゃ関係ねーよ」

 ほぼ毎日のように職業安定所に通っては、就職先を探しているのだが――なかなか思うような職につくことが出来ないでいる。事務職に有利な資格は学生の頃に取れるだけ取ったので、彼女は次の職は都合良く見つかるだろうと高を括っていた彼女だが、現実はそれほど、いや、かなり甘くはなかった。カツラ疑惑のある、やる気のなさそうな職員に適当に勧められた企業に面接に向かっては玉砕する日々が続いたので、彼女は少し、いや、盛大に落ち込んでいた。

「募集する必要はねーけど、役所に頼まれたからとりあえず募集出してますー、みたいな空気がダダ漏れだよ、ハゲ親父!てめー、絶対、キャバクラ通いしてるだろ!そんな顔してんだよ!職安も職安だよ、ったくよー。んなとこを職業検索ページに記載すんじゃねーわよ、職安の利用者騙してどーすんだよ、お役所様よぉ!」

 もう職員の言うことには耳を貸さないと決めた彼女は、自分が求めている条件に合った企業に手当たり次第に履歴書を送ってみたのだが――やはり玉砕が続く。就職活動を応援していますと謳うイベントにも通った。派遣会社にも登録した。それでも、内定はなかなか貰えない日々が続いていたが、今日は企業の面接に向かうことが出来た。それは喜ばしいことだったのだが、結果としては喜ばしくなかった。彼女の前に面接を受けていた女性には笑顔を浮かべていた面接官が、彼女の面接をしている時には渋い顔をしていたのだ。きっと、この会社には就職出来ないのだろうと、彼女は直感で理解した。

「やっぱ愛想だな。愛想だよ。ねーよ、そんなもん。何処かに落としてきたよ……。そんなに必要かよ、愛想。愛想はないけど、仕事はそこそこ出来るんだよ、私は……」

 沢山の資格を持っていても、彼女には愛想がいまいちなかった。彼女の前に面接を受けていた女性には、愛想がちゃんとあった。そこが決め手だったのではと、彼女は何故だか勝手に解釈している。それが正解であるのかどうかは、その面接官以外には分からない。彼女は今、以前に勤めていた会社のパートのおばちゃんによく注意されていたことの大事さを痛感している――何故なのかは、酔っ払っている本人にもよく分かっていないが。

「ははっ、愚痴るのは誰にだって出来るわ。それだけ出来たって、何にもならねーわ。はいはい、明日も頑張って職安に行きますよー、行ってやるよ、こん畜生……」

 こうなったら時給の良い事務職は諦めて、工場のロングパートにしようか。その方が募集している企業が多いかもしれない。月給は安くなってしまうが、生活が成り立たないほどではない。今住んでいるアパートの家賃はなかなか安いので生活費を切り詰めれば、やっていけないことはない。失業保険がそろそろ切れそうなのだけが、不安材料か。それまでには何かしらのパートに就きたい。そうしたら貯金をしつつ、通信教育で新しい資格を取って、また就職活動に励もう。そう考えていくことにしよう。

「だーれも助けてくれねーんだもの、自分で何とかするしかねーわ。これまでだって、そーしてきたもんねー。はは……」

 最後の一本を飲み干した彼女は、周りに転がしていた空き缶を拾い集めて、コンビニの袋に入れていく。立ち上がると、体が大きく揺れて、シャッターに肩をぶつけてしまった。大分、酔っ払ってしまっているようだ。

「さーて、帰りますかね……」

 築年数がかなり経っている、ぼろっちいアパートの一室へ。万年床になりつつある煎餅布団に潜り込んで、早々に寝てしまいたい。そんなことを考えながら、片手にビニール袋を提げている彼女は街灯に照らされている通りへと向かい、駅へと続いているその道を千鳥足で歩いていく。その途中でゴミ捨て場を見つけたので、空き缶を捨てようとして進行方向を急に変える。すると足が縺れて、彼女は転んでしまった。

「いたた……」

 転び方が良かったのだろうか。幸いなことに怪我はしていないようだが、腕と膝を思いきり地面にぶつけてしまう。物凄く痛くて、涙が滲んだ。このままでは通行人の邪魔になってしまうのでささっと立ち上がろうとするのだが、彼女が思っていたよりも酔いが深く、それが出来ないでいる。通りすがりに「邪魔だよ」「何してんだよ、酔っ払い」と言葉を吐き捨てる人はいても、蹲って動けないでいる彼女を助けようとする人はいない。何とも言えない気持ちになった彼女は、地面を見つめながら、自棄気味に笑った。

「はは……やってらんねーわ……」

 困っている人がいようが、誰も助けようとはしない。誰もが自分のことで手一杯で、他人に手を差し伸べる余裕などない。自分だって、そうだ。だから通り過ぎていく他人に文句など言えない。大きく息を吐いた彼女が渾身の力を出そうとしたその時――

「大丈夫ですか?気分が優れませんか?」

 直ぐ傍で、気遣うような、控えめな男の声がした。気のせいだと思ったが、先程まで明るかった目の前の地面に影が出来ている。誰かが彼女の傍にいるらしい。蹲っている酔っ払いに声をかけるなんて奇特な奴がいたもんだ、と思った彼女が顔を上げると、見覚えのない男が彼女の顔を覗き込んでいたので、彼女はびくっと身を強張らせた。街灯の明かりはあるのだが丁度逆光になってしまっているので、男の顔はよく分からない。声の感じからすると、年若い男の可能性がある。

「……にこちゃん?」

 どうして彼は、その名前を知っているのだろう。碌でもない親に付けられた、碌でもない名前を。”にこ”という彼女の本名を。その名を付けられた張本人がどんなに好ましく思っていなくても、一生付き合っていかなくてはならない負の財産を。

「……はい、そーですよ。いつでもにっこり、にこにこにこちゃんです。……それがどーしたよ、ばかやろー……」

 しょうもないキャッチコピーの通りにつけられた本名と悪態を口に出した途端、にこは吐き気に襲われた。口元を両手で覆い、前のめりに蹲る。吐き気を堪えていると、顔が分からない男が背中を優しく撫でてきた。

「その口の利き方は間違いなく、にこちゃんだね。……歩ける?」

 歩けるなら、こんなことになってねーよ。にこは彼にそう突っ込みを入れたかったが、気力が湧かない。

「……もち、わる……。っきそ……っ」
「駅のトイレまで我慢出来そう?出来ないなら、この中に吐いて。落ち着いたら、移動しよう」

 気持ちが悪い、吐きそう。喉に力を入れているので、上手く言葉にならなかったが、彼は理解したらしい。にこが手にしていたビニール袋を奪い、中から空き缶を取り出すと、袋の口を広げて彼女の前に差し出してきた。
 ――公衆の面前でゲロを吐けってのかよ。冗談じゃねえよ。意地でも吐いてやらねえからな。
 喉元まで込み上がってきたものを何とか飲み込んだはいいものの、吐き出してすっきり出来なかったにこはぐったりとする。彼女の体を支えている男は懐から携帯電話を取り出すと、何処かに電話をかけはじめた。

「もう直ぐ、タクシーが来るからね」

 大丈夫だよ、心配しないで。と、男は優しく声をかけ、にこの丸まった背中を擦る。
 ――タクシー呼んだって言われても、タクシー代払えねーよ。余計なことしてくれやがったな、このやろー。どーしてくれんだよ。
 この他にも思いつくだけの罵詈雑言を心の中で呟いているうちに、にこの意識は遠のいていき、やがて小さく寝息を立て始めた。暫くするとタクシーがやって来たので、彼は運転手と協力してにこをタクシーに乗せ、自分も乗りこんだ。彼に目的地を告げられた運転手は客がしっかりと後部座席に座っていることを確認してから、ゆっくりとタクシーを発進させる。

「ねむ……もちわる……」
「うん。もう少しだけ、我慢して……」

 にこの肩を抱いて支えている彼は、何処かへと辿り着くまでの間、だらりとしている彼女の手を大切なもののように握りしめていた。