貴方はわんこ。貴女はにゃんこ。

晒される本音

どのくらいの時間、そうしていたのでしょうか。
いつの間にか武藤さんの黒髪を撫でる手を止めて、私はぼんやりと彼の寝顔を眺めていました。私の手を握っている大きな手にはもう力が入っておらず、そっと離そうと思えば出来るのに、敢えてそうしないでいます。
風邪をひいたり、体調を崩して寝込んでしまっている時は漠然とした不安に襲われて心細くなったりすることがあります。そういった時、誰かに手を繋いでいてもらうと安心出来ることを、私は彼に教えてもらいました。
――だから、そのままに。

「……一人にしないでください、か……」

初めて聞いたのではないでしょうか、貴方の弱音らしい弱音を。そして、それを聞くことが出来て嬉しく感じるのは何故でしょう?
だけど私は貴方を目の前にすると、してはいけないことをしてしまうのです。

「……どうして私は、貴方に反発をしてしまうのでしょうね?」

あの日から、貴方に優しくされればされるほど私は貴方を傷つけるような台詞を吐いてしまうのです。
あの日に”お嬢様”と”子守”という関係が終わりを告げて、ただの”巽朝雪”とただの”クィンラン・ディアルムド・フェラン・武藤”になったことが原因でしょうか。
”お嬢様”の役割を持たない私にはもう、貴方に我侭を言って困らせる権限がありません。こうして世話になることが出来ているだけでも有難いのです。
”子守”の役割から解放された貴方はもう、私のご機嫌をとる必要がないのです。私を養うことなんて、しなくても良いのです。
そうなってしまったのだと気付いた私は貴方にそれを理解してほしくて、嫌われるような口をきいてしまうようになったのでしょうか。

「眠っている貴方に言っても仕方がありませんが……」

いいえ、貴方が寝ている今なら素直に言えそうです。

「……私を捜してくれて有難う」

あの時は自暴自棄に陥っていたから、貴方の言動は全て演技であると決め付けて、信じなかったけれど。だけど本当は、嬉しかったのです。貴方は、貴方だけは私を見捨てないでいてくれたのだと。
言いたかった言葉を一度溢したら、止まらなくなりました。

「あの時も今も、酷いことを沢山言ってしまって御免なさい。強がっている憎まれ口をきいてしまう私を許してくれて有難う。でも、もう私をお嬢様扱いしてくれなくて良いです。生意気な小娘だなぁと思ったら、怒ってくださって構わないのです。笑って許してくれなくて良いのです」

甘やかさないで、いい気になってしまうから。

「高校にも行かせてくれて有難う。行かなくても良いと言いましたし、思ったりもしましたけれど、本当は嬉しかったのです。あと……約束も本当に守ってくれなくて良いのです。何と言いましょうか……有効期限が切れてしまっているように思います。だから、私のことは放っておいても問題はないですし、そうしたとしてもお父さんが化けて出てくることもないでしょう」

だから、だからどうか。

「あんな他愛もない約束に縛られないでください……」

そう思う一方で、私は新たに出来上がったこの関係を気に入ってしまっているのです。出来うることならば、このまま続いてくれたら良いのにと思い始めているのです。
私はとても自分勝手です。
貴方から離れなくてはと思っているのに、貴方の許にいさせて欲しいとも思っているのです。
――でも。

「現状に飽きたら、いつでも私を見限ってください。甘んじて受け入れますから。でも、このままでも良いと思ってくださるのでしたら……暫くの間でも良いですから……一緒にいさせてください。なるべく、あんな口をきかないように尽力します……から……っ」

貴方を信用しない。
そう心に決めたけれど、無理でした。貴方の優しさは、やさぐれた私の心を解していってしまうから。でも、それを認めたくなくて、私は貴方に反発をしてしまうのです。

「信用しないなんて言って、御免なさい……っ。沢山、沢山、傷つけるようなことを言って、御免、な、さい……っ」

目頭が熱くなったと思った途端、大粒の涙が零れ落ちていました。涙がどんどん溢れ出てきて視界がぼやけ、留まりきらない涙が頬を伝って落ちていきます。
拭っても拭っても、涙は止まってくれません。

「いきなり、泣き出すなんて……情緒不安定……?」

考え事をしていたら、結果的にこうなってしまいました。泣き出してしまうようなことを言い出したのは、どの辺りでしょうか?まさか、最初から?

「……ぐすっ、訳が分からないです……」

全くもって。
このままでは声まで出してしまいそうです。そうなってしまったら、眠っている武藤さんを起こしてしまいます。起きた彼は「どうして泣いているのだろう」と訝るに違いありません。
泣くなら、別室で。
そう思った時、ぐいっと腕を引っ張られて、バランスを大きく崩した私は何かに顔をぶつけました。

「ふえっ?」

ぶつかったのは武藤さんの胸板で、私は彼に抱きしめられているのだと分かりました。いつの間に彼は起きていたのでしょう。いえ、起こしてしまったのでしょうか?
どうしてどうしてと混乱している私の背中を、彼は優しく擦ってくれます。落ち着けるようにと。でも、私は気になることがあるので落ち着けそうにないです。

「……まさか、起きて……ました?ぐすんっ」
「……途中から」

ということは、始めからではないにしろ私の独り言が聞かれてしまっていた、と。

「……え……と、どの辺り、から?」
「……」
「……ど……して、黙るのです、か?」

聞かれていないだろうからと高をくくって溢した本心がどの程度聞かれてしまったのか。
私は急に恥ずかしくなり、寝室から飛び出していきたくなりましたが、彼の腕の力が強くて逃げ出せません。ならばと、顔を見られないように彼の胸に顔を埋めます。未だ熱が高いのでしょう、彼の身体はとても熱いです。ホッカイロみたいです。

「……約束を守らなくても良いなどと……言わないでください。他愛ない約束ではないです。僕にとっては大切な、とても大切な約束、です」

背中を擦る大きな手が止まり、私を抱きしめる腕に力が入ります。少し、苦しいです。

「あの約束があるから、僕は……っ。憎まれ口をきいてくださって構いません。酷いことを言われたとしても、何とか堪えます。沢山傷ついても良いです。だから、僕から離れていこうとしないでください……。じいちゃんや旦那様のようにいなくならないでください……っ」

そんなことを言わないで。
貴方に甘えてしまう、より一層離れていきたくなくなってしまう。

「どうして、そんなことを、言うの?」
「朝雪さんが仰ったではないですか、素直に本音を言ったら良いと……」

ああ、あの小さな呟きは矢張り聞こえていたのですね。

「……僕の言葉は、信用出来ませんか?なら、何度でも言います。信じてくださるまで、何度でも」
「……約束に縋りつかなくても、生きていけますよ?」
「僕は、縋りついていたいです」
「……どうしても?」
「どうしても、です……」

彼は頑として引こうとはしてくれません。一度決めたら、それを貫く人だから。

「……」

彼が本音を曝け出してくれたのだから、私もそのようにしても良いのでしょうか。

「……此処に、いても良いですか?」
「勿論」
「……お嬢様扱いはしないでください。不器用ですけれど、出来ることはお手伝いしたいです。もう少し、お手伝いの量を増やしてください」
「……善処します」

何故、善処?
矢張り、私がお皿を割ると思っていらっしゃるのですか?

「……私が憎まれ口をきいたら、腹が立ったら、ちゃんと怒ってください」
「……善処します」

だから、どうして善処なのですか?

「……私を甘やかさないでください」
「それはお断りします。僕は朝雪さんを甘やかしたいです」
「……何故ですか」
「どうしても、です」

どうにも腑に落ちないので睨み付けてやろうと顔を上げたら、武藤さんはとてもイイ顔をしていました。至近距離で彼の美貌を拝んだら、何だか急にとても恥ずかしくなったので、また彼の胸板に顔を埋めます。

「僕のお願いもきいてくださいますか?」
「……何でしょうか?」

貴方のお願いなんて、あまりきけるものではないです。私にも出来ることがあるのだと思うと、嬉しくなります。

「”武藤さん”はそろそろ止めて頂けませんか?他人行儀で嫌です」
「だって私は養われている身の上だから、あの頃のように貴方を”クィン”とは呼べません。確りと区別をつけないといけないと思うのです。……どうしてもと仰るのでしたら、貴方も私のことを朝雪と呼び捨てにしてください」
「……努力します」

努力しないと呼び捨てに出来ないとはどういうことですか?

「呼吸が荒い、ですよ?熱がまた上がったのでは!?長々と話している場合ではないです、早く横になってくださいっ!」

彼の腕の中から何とか抜け出して、彼をベッドに押し倒します。すると、武藤さんは此方をじっと見てきます。何でしょうか?

「……添い寝してください、一人で寝るのは寂しいので」
「はい?」

今、何と仰いましたか?
二十歳を越えた成人男性が添い寝をしろと仰いましたか!?子供ですか!!?

「何にしろ、眠たくなったら此処で寝るのでしょう?」
「う、確かにそう言いましたけれども……」

だったら良いじゃないですかと、麗しの主夫は仰います。この人は理解していらっしゃる、こういう言い方をしたら私が引かなくなるということを。

「……分かりました、添い寝をしたら良いのでしょう!?」

この人がこんなことを言うのは熱があるせいです、熱があるせいなのです。他意はない、はずです……!
己にそう言い聞かせて、布団の中に潜りこみます。

「……」

向き合って寝るのは気恥ずかしいので、私は彼に背を向ける格好で寝転がっています。
それにしても彼と同じ布団に入るのは何時ぶりなのでしょう。保険体育の授業を受けて、性別の差を意識するようになって以来――ではないかと。

「……ふふ、懐かしい。朝雪さんが小さな頃はよく一緒に寝ていましたね」

夜が怖いと言って泣きじゃくる私を見つけては、貴方は私を安心させようとして一緒に寝てくださいましたね。それは私が小学校の高学年になるまで、貴方が高校生になるまで続きましたね。
懐かしいけれど、今は恥ずかしいです。

「……早く寝なさい、体調が良くなりませんよ」

照れ隠しにそんなことを言うと、背後から苦笑する声が聞こえた気がしました。

「はい。でも、最後に一つだけ……。僕は約束に縛られているのではないです。それを大義名分にして、朝雪さんを縛り付けたいんです……」
「え?」

答えを知ろうにも、彼は既に寝息を立てていました。
言い逃げをされたとも思いましたが、彼は今、病人なのです。無理をさせてはいけません。
――私を縛り付けたいとは、どういうことですか?
そうすることで貴方は何を得るのですか?謎は解決していません。

「……お腹が空きました……」

空腹を訴えるお腹を擦って宥めているうちに、布団の中がぽかぽかと温かいこともあって、うとうととし始めます。

「……おやすみなさい、クィン……」

貴方が寝ている隙に、その名を呼びます。
また聞かれていたらどうしましょう。
重たく感じる瞼がおりてきて、私は眠りについていました。その夜は眠りが深かったのか、夢を見ることはありませんでした。
久し振りに、確りと眠れたように思います。