季節は秋から冬へと移り変わろうとする頃の、少し肌寒い土曜日の朝。
喫茶店のアルバイトへと向かおうとする麗しの主夫――武藤さんを玄関まで見送ります。
「昼食は冷蔵庫の二段目の棚に入れておきましたので、お腹が空いたら食べてください。夜の七時過ぎには帰ってくる予定ですが、お腹が空いて夕食まで耐えられそうになければ、同じく冷蔵庫に入っているプリンを食べて頂いて結構ですよ」
武藤さんは出かけられる際、私のお腹の空き具合を心配されます。きっと私のことを”食欲の権化”だと思っておられるのでしょうね。強ち間違っていないと思いますので、否定は致しません、ええ。
「はい、畏まりました……?」
頭二つ近く高いところにある顔を見上げた私は、ふと違和感を覚えました。首を傾げている私を見下ろしている彼もまた、不思議そうに首を傾げています。
「どうされました?」
「……目の下にうっすらと隈が出来ています。それにどことなく疲れた顔をしておいでです。折角の美貌が陰っていますよ?」
全身から仄かに滲み出ている疲れは、憂いを帯びているように見せる効果を伴っているのか、彼の美貌をより一層際立たせているようにも見えてしまいます。
――美形、恐るべし。
「……美貌?」
あら?貴方ほどの日本語通でも分からない日本語があるのですね?意外です。
「美貌、意味は顔貌の美しいこと」
言葉の意味が分からなかったのかと思いましたので簡潔に説明を致しましたらば、そうではなかったらしく、武藤さんは困ったように苦笑されました。
「いいえ、そういうことではなくて……。ここのところ、アルバイトや大学院の課題で忙しかったので、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていて、顔に出てしまったのかもしれませんね。体調を崩さないように気をつけます。心配してくださって有難う御座います」
どうして嬉しそうに笑うのですか、貴方は。
「……別に……心配なんて……していないです。いえ、御飯の心配はしております。貴方が倒れたら、私の御飯が……」
素直に心配していると言っても良いのに、どうしても素直になれなくて、何故だか御飯の心配をしていると言ってしまいました。確かに御飯の心配をしてはおりますが、ここで言うべきことではないと思うのです。
「そうですね、僕が倒れたら朝雪さんにひもじい思いをさせてしまいますね」
爽やかに肯定しないでください、前言撤回出来なくなってしまうではありませんか……!
私でも、コンビニやスーパーにお買い物に行けますから!この前、クラスメイトの
それに、お湯を入れて三分ほど待つという調理方法ならば私でも出来るのです。……あれならば、何方でも出来ると思いますけれど。
「それでは行って参ります。戸締りを確りとお願い致しますね」
「はい。いってらっしゃいませ」
流し目気味にふわりと美しい微笑みを浮かべて、武藤さんは出かけていかれました。
「……」
”あの頃”は気にしたことはありませんでしたが、この頃気がついたのです。あの人の綺麗な笑顔は目の毒である、と。
ほら、何となしに触れてみた頬が仄かに熱を持ってしまっているではありませんか。
ド、ドキドキなんてしておりませんよ!?
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本日は休日ですので、学校の授業はありません。ですが剣道部の練習が午後からありますので、普段よりも幾分早めにお昼御飯を頂きます。
ふわふわの入り卵を挟んだ卵サンドに、ハムやチーズ、しゃきしゃきの野菜を挟んだハムサンド、昨夜の残りの南瓜のポタージュスープに、デザートはブルーベリージャムの入ったヨーグルトです。
私の胃の中に収まる量を熟知していらっしゃる武藤さんは、ご自分が食べられる量よりも多く作ってくださいます。私を養うことで、確実に食費が上がったことでしょう。それでも見捨てないでくださっている彼に感謝しながら(本人の前では絶対に言いませんが)、非常に美味しいお昼御飯を堪能します。
「……御馳走様でした」
今日も今日とて、大変美味なお食事で御座いました。
空になった食器を持って、流し台へ。ゆっくりと慎重にやればお皿を割ったりしないということが判明してからは、皿洗いや掃除を手伝わせて頂けるようになったので、出来るだけ自分で後片付けをするのです。それに気付くまでにお釈迦にしてしまった食器さんたち、申し訳ないです。
片付けを終えたら準備をして、きちんと戸締りを確認してから学校へと向かいます。
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剣道部の練習を終えて帰宅したのは、夕方の5時過ぎ頃です。
先ずはベランダに干してある洗濯物を取り込んで、あまり上手ではありませんが畳みます。それから私服に着替えて、途中までやっていた宿題の残りを片付けつつ、矢張り小腹が空きましたのでプリンを頂きます。
そうしているうちに時計の針は7時を過ぎ、玄関の鍵と扉を開ける音がしてきました。武藤さんが帰って来られたこうです。
「……只今帰りました……」
「おかえりなさい……?」
リビングから玄関の方へ顔を出した私は、直ぐに異変に気がつきました。武藤さんの様子がおかしいと。
「朝雪さん、お腹空いてますよね?今から夕食を作りますから……」
ふらふらとしながら此方へと歩いてくる彼はバランスを崩してぐらりと大きく身体を傾けて、とっさに壁に手をつきました。
慌てて駆け寄って見上げると、彼の顔は赤く、目は潤んでいるし、肩で息をしているではありませんか。背伸びをして額に手を当てると、とても熱くて……。
「熱があるではないですか、早く休んで……っ」
「ですが、朝雪さんの御飯が……」
「自分の身体の不調よりも、夕食の心配をするなんて貴方は馬鹿ですかっ!一食抜いたくらいで人間は死にはしませんっ!」
突然声を荒げた私に驚いたのか、武藤さんは瞠目しています。大人しくなった彼の手を引いて寝室へと連れて行き、ベッドに横になるように言います。
「……すみません、朝雪さんの寝る場所をとってしまって……」
「元々は貴方のベッドですが」
「……僕はソファで良いです……」
「病人は大人しく此処で寝なさい!眠たくなったら私も此処で寝るので問題ないです!」
んん?今、私は何を口走りましたか?男性との同衾を宣言しませんでしたか?勢いに任せて。
自分の発言に驚いて青くなっていると、武藤さんが弱々しい声で「はい……」と仰ったので、後に引けなくなりました。
うう、武士に二言はないのです!と、自分に言い聞かせます。
「ええと……」
兎に角ですね、武藤さんにお薬を飲ませなければなりません。幸いなことに薬箱は直ぐに見つかったものの、症状が分からないのでどのお薬を飲ませたらよいのか見当がつきません。
「……頭が痛いのですか?」
まあ、熱があるということはそういうことなのだとは思いますが。ですが、時折違う理由でそういう場合がありますので、尋ねます。
「……頭痛と……あとは……喉が少し痛い……です……」
ということは、風邪薬で良いのでしょうか?薬箱の中には風邪薬が入ってますし、冷却ジェルシートも入っているので額に貼ってあげましょう。
「着替えられますか?」
「……何とか」
クローゼットの中から出した着替えを渡して、私は一度寝室から出て行きます。
「お薬を飲む前に、お腹に何か入れないと……」
お粥を作ってあげたいのはやまやまですが、私に作ることが出来るのはお粥になるはずだった炭です。何かないかと冷蔵庫の扉を開いてみると、お昼に食べたヨーグルトの残りを見つけました。
「これなら、喉が痛くても食べられますよね……?」
お盆の上にコップと水の入ったペットボトル、風邪薬に冷却ジェルシート、そして器に移したヨーグルトとスプーンを載せて寝室へ戻ります。
「……入りますよ?」
「……はい」
ノックをして了承を得てから、中へと入ります。
座ることもしんどいでしょうから、背中を預けて座りやすいように彼の背中とベッドのヘッドボードとの間に幾つかクッションを置きました。良かった、少しは楽そうにしてくれています。
「何も食べたくはないでしょうけれど、お薬を飲むのでしたらお腹に何かを入れた方が良いです。冷蔵庫の中には食べやすいのはこれくらいしかありませんでしたので、我慢してくださいね?」
「……すみません、有難う御座います」
「はい、あーん」
スプーンでヨーグルトを一口分掬って、彼の口元に運びます。が、彼は唖然とするだけで口を開けてくれません。
「……あの、自分で食べられますから……」
あら?若しかして、戸惑っていらっしゃいますか?
「私が寝込むと、貴方はいつもこうしてくれていたではないですか」
だから同じようにしているのですが。
何か問題があるのなら言ってくださらないと分かりませんよ。と、言いたげにじろりと睨むと、溜め息を吐かれました。引き下がる気がないと悟ったのでしょうか?
「……」
恥ずかしそうに目を逸らしながら、ヨーグルトを食べさせてもらう麗しの主夫。おお……滅多に見られる光景ではないので新鮮ですね……。
器とスプーンを取り上げようとする彼の手から逃れつつ、もう一口分掬ったスプーンを差し出します。頑として譲らない私に呆れたのか、抵抗する気力もないのか。それからはなすがままに、ヨーグルトを平らげました。
「……薬は自分で飲みます」
「……そうですか」
お薬はどうやって飲ませようかな、と考えていましたらば先手を打たれてしまいました。渋々、お薬と水の入ったコップを渡します。
いつも構って頂いてばかりですので、その逆が出来て新鮮でしたのに――。
「はい、寝てくださいな!」
お薬は飲んだので、後は寝て頂くだけです。仰向けになった武藤さんの額に、ぺたりと冷却ジェルシートを貼るのも忘れません。
……シートを貼ったら、流石に美形の壁が崩れ落ちるかと思ったのですが、そうでもないですね。
ああ、そうでした。
「明日のご予定は?」
「……明日はアルバイトも大学院の講義もないので……一日休みです……」
「そうですか。では、ゆっくりと休んでください」
未だ宿題が残っているのでリビングへ戻ろうとすると、不意に腕を掴まれ、宙に浮いた腰はベッドの縁に逆戻りしました。
「?どうされましたか?」
「あ……いえ……すみません……何でもない……です……」
私を引き止めたのが予想外の行動だったのか、武藤さんは驚いていらっしゃいます。私の腕を掴んだ熱い手が、力なく離れていきました。
若しかして、と思い、私は徐に口を開きます。
「……貴方が弱っている隙に何処かへ行こうなんてしません。宿題をやりにリビングへ行こうとしただけです」
私が逃げようとした、と思ったのでしょう?そう問えば、図星だったのでしょうか、彼は言葉を失います。
そんな傷ついたような表情をしないでください、心が痛みます。貴方に対してこんな物言いしか出来なくなってしまった自分がほとほと嫌になる。
「……素直に仰ってくださったら良いのに、本音を」
そうしたら、私も少しは素直になれそうだから。
ぽつりと小さく呟いてしまったのが聞こえてしまったのでしょうか。
「……心細いので、一人にしないでください……」
顔を背けて、泣き出しそうな声で、搾り出すように彼は言いました。ベッドの上についていた手に彼の熱い指先が触れて、躊躇いがちに彷徨い、そして大きな手が私の手を握り締めていました。
「……はい」
こんな姿の彼を見たことがなくて、少し驚いてしまいました。
私の知っている彼は私を安心させることに心を砕いていて、不安にさせないようにしてくれる人で弱味を見せてくれるようなことがなかったから。
気が付けば私は空いている方の手で、少し癖のある黒髪を撫でていました。幼い子供をあやすように。そうしていると青灰色の目がゆっくりと閉じられていって、彼は静かに眠りに落ちていきました。