伯母の末娘である美空さんが起こした騒動が原因で、それまでは屋敷で共に暮らしていた武藤さんは、父が与えたアパートで一人暮らしをすることとなったのです。
一度も訪れたことのないその場所は、男性の住居であるとは思えないほど片付いていて少し驚いてしまいました。
「どうぞ、中へ」
頑なに拒絶をする私の背中をやんわりと押して、リビングのソファに座るように促されました。ですが私はそうはせずに、窓際のカーペットが敷かれていないフローリングの上に正座をして、そっぽを向きます。そうすると、リビングの隅に荷物を置いていた武藤さんが小さく溜め息を吐いたような気がしました。
――子供か。
と、呆れているに違いないです。私自身もそう思います。
そろそろ見限ってくれるだろうと思うのですがそうはしてくれず、彼は私の前で同じようにフローリングの上に正座をしました。
「朝雪お嬢様、お腹は空いてませんか?」
彼は長年の付き合いによって、私の機嫌が悪い時はお腹が空いている時か、疲れている時か、眠たい時かのどれかが多いことを知っています。
で・す・が、今回は、違いますから。
「……」
彼の問いに答えず顔を背けるとお腹が、ぐぅ、と音を立ててくれました。
空きっ腹は正直ですね、こうなっても仕方がないことは分かっています。ここ数日まともにご飯を食べていなかったので、そのツケがきたのだと思います。
然し、よりにもよってこういう形でばらされてしまうとは……!
「簡単なものでしたら直ぐにでも作れますから、お待ちください」
「お気遣いは無用です、今すぐにでも出て行きますから」
有限実行しようとすると、またしても腕を掴まれて阻止されてしまいました。
「……待っていてください」
真剣な表情でもって言われたので、何故か逆らえませんでした。
彼はキッチンに立つと手際良く料理をし始めます。私は彼と目を合わすまいとずっとカーテンと睨めっこをしているので、何を作ってらっしゃるのかは分かりません。暫くすると良い香りがしてきて、空きっ腹を刺激してきます。
ソファの前に置かれた机の上に出来上がった料理が並べられていく音が聞こえました。意地でも其方を向くものかとカーテンとの睨めっこを続けていたのですが、気配を消して背後に忍び寄った武藤さんにより身体の向きを変えられてしまいます。
忍者ですか、貴方は!
「……」
目の前には大盛りのチャーハンと卵の入った中華スープ、そして湯飲みに注がれた緑茶がありました。料理人はアイルランド出身のはずの外人です。――国籍は日本ですが。
西洋の人が作ったのが中華料理とは、何だかアンバランスですね。と、思わず笑みを溢してしまいそうになったので慌てて顔を引き締めます。
「どうぞ、召し上がってください」
「……」
ほかほかと湯気のたっている料理に手をつけないでいると、彼もまた手をつけないでいます。
何をしているのでしょうか、折角作った料理が冷めてしまいますよ。
私は何が何でも食べません、施しは受けませんからね!
「…………………食べないのですか?」
口を利くまいとしていたというのに、つい口を開いてしまいました。だって、料理が勿体無いです。
「お嬢様は召し上がられないのですか?」
「お腹は空いていません」
「先程、空腹を告げる音を聞きましたが?」
「……気のせいでは?」
と強がると、お腹が限界ですとばかりに大きな音を立てます。
ああ、言い逃れが出来ない。
「毒など入れていませんから、安心して召し……」
「どうして私に構うのですか」
彼の言葉を遮り、膝の上に置いた両の拳を強く握り締めて、対面している彼を睨みつける。
「約束なんて守らなくて良い。伯母が言っていましたよ、貴方は優秀な人材だから追い出すことはせずに、伯父の秘書にするのだと。可愛い美空さんにくれてやるのだと。私を匿ったりしたら、貴方の約束された将来がなくなってしまうことは理解出来ているのでしょう?……ああ、暇潰しですか?何もかもを失くした私に優しくする振りをして、飽きたら適当なところで放り出して絶望させて、陰で嘲笑うつもりですか?……悪趣味!」
湧き水のように滾滾と溢れ出てくる言葉を一つも余さずに、彼にぶつける。酷いことを言っていると、八つ当たりをしていると分かっていたけれど、止められませんでした。
彼は表情を失くして、私を見つめてきます。
――何だ、図星だったのか。楽しめなくて残念でしたね。
「……違います」
「何がですか」
未だ白を切るつもりなのですか、貴方は。
「身寄りがなくて頼るもののない心細さを知っているから、僕は貴女を放っておくことが出来ません」
いつの頃だったか父から伝え聞いた話によれば、彼は故郷であるアイルランドで日本人の養子となる以前、孤児院にいたのだそうです。養子となって数年後に日本へとやってきて、彼の養父と懇意だった父に頼まれて私の”子守”をするようになってから間もなく、彼は養父を亡くして再び天涯孤独になりました。
そんな時に、母のいない寂しさを知る私と二度も天涯孤独になった彼は他愛のない約束をしたのです。
「お嬢様がどんなになかったことにしようとも、僕は、あの約束を守ります。あの約束があるから、僕は……」
「貴方は、馬鹿です」
貴方ほど利口な人が、どうしてそんなものに縋るのですか。貴方なら、私と違って一人でも上手く生きていけるのに。
「同情などいりません。約束なんてどうでもいい。……貴方も、結局は私を追い出すのでしょう?だったら早いうちに済ませてください。……そうでなくても、自分から、出て行くと、言っている、じゃ、ないです、か……っ!」
私の心は頑なで、どんなに拒絶をしても手を差し伸べることを止めようとしない彼を信用したがらない。なのに、目からは涙が零れ落ちてくるのです。本当は彼の言葉を信じていて、心から嬉しいと思っているのでしょうか?
そうなのだとしたら、私は天邪鬼です。
「……どのように申し上げたら、どのように行動で示したら、お嬢様は僕のことを信じてくださいますか?」
その声があまりにも弱々しくて思わず顔を上げると、彼は静かに泣いていました。
「どうして、貴方が、泣くの、ですか……っ」
「お嬢様に信じて頂けないことが、悲しいからです……。教えてください、どのようにしたら信じてくださいますか?」
「何をしても、何を言われても、私は、貴方を信じない」
今の状態では、何も信じられない。これは事実です。
彼は涙を拭うと大きく息を吐いて、潤んだ青灰色の目で真っ直ぐ私を捉えます。
「……それでは、信じて頂かずとも結構です。僕は、僕の思うように行動します。お嬢様のお傍にずっといますので、覚悟してください」
「そうですか。………………えぇ?」
予想もしていなかった武藤さんの回答は、私を呆然とさせてくれました。
え?ずっと傍にいるとか仰いましたか、武藤さん?
「此処で共に暮らして頂きますね」
え?何ですって!?勝手に決定しないでください!
突然のことに動揺して硬直してしまっている私に向けて、武藤さんはそれはそれは美しく目映い笑みを浮かべてこう仰いました。
「……逃がしませんからね?」
この時まで私は綺麗に忘れ去っていたのです。
私も大概頑固ですが、彼も負けないほど頑固だということを。
――これは絶対に逃がして頂けない。
ですが、分かっていても抵抗してしまうのです。まだ子供と大人の中間ですので。
素早く立ち上がって走り去ろうとしましたが、あっさりと捕まり、逃げられないようにと腕の中に収められてしまいました。
「……離してください」
「逃がさないと言いましたので、逃がしません」
「…………………………分かりました、逃げません!大人しく此処にいます!だから離してください、汗臭い!」
そこら中を走り回って私を捜していたらしいので、彼のシャツは汗まみれでした。既に乾いてはいますが微かに汗の匂いがします、この至近距離ですので。
「失礼致しました」
負けを認めると、彼は離してくれました。
深く深く溜め息を吐いた私は、来客用の座布団の上に座って手を合わせます。
「……頂きます」
こうなったら自棄です、施しを受けないと誓ったことは忘れてご飯を食べます!あれはあれ、これはこれ、それはそれ、です!
開き直った私はレンゲを手に取って、すっかり冷めてしまった卵の入った中華スープを口にします。
――美味しい。
味わって食べたいのは山々ですが、お腹を満たす方が先決です。はしたなく矢継ぎ早にチャーハンをかっこんでしましまいた。
最後に緑茶を一気に飲み干して――。
「……ご馳走様でした」
「お粗末様です」
私がご飯を食べたので、彼は安堵して美しく微笑みます。今度は背後にどす黒いオーラは見えませんでした。
空いた食器を片付けようとして立ち上がると、武藤さんに制止されます。
「片付けは僕がやりますから、お嬢様はゆっくりなさってください。今日は疲れましたでしょう」
「世話にならざるをえなくなったのですから、これくらいはします。それと、お嬢様と呼ぶのは止めて頂けませんか。私はもう、それには該当しないので。朝雪で結構です」
「承知致しました、朝雪様」
「……様付けはいりません。呼び捨てで構いません」
「…………朝雪さん」
今までの習慣からか、私の名を呼び捨てることに抵抗があるようです。さん付けくらいは妥協してあげましょう。貴方の世話にならざるをえなくなってしまいましたので、ね!
「流し台に持っていくだけならば良いでしょう?」
「はい」
恐らく、彼が止めたのにはこんな理由があるのだと思います。
私はそそっかしいので、洗い物をさせようものなら食器を割る可能性が高いと。強ち間違ってはいません、屋敷にいた頃もよく食器を割っていたのですから。
流し台に置かれた桶の中に食器を入れた後、ソファのところまで戻り、私は武藤さんの目の前に正座をして向き合います。
「武藤さん」
「はい」
「大変不本意ではありますが、これからお世話になります。不束者ではありますが、貴方にご迷惑をおかけしませんよう尽力致しますので、何卒宜しく御願い致します」
使用人のばあやに仕込まれた作法に則り、三つ指を立てて深く頭を下げます。彼もまた行儀作法を確りと学んでいるので、綺麗な所作でもって礼をし返してくれます。
「此方こそ、宜しく御願い致します。ところで。僕のことは”武藤さん”ではなく、これまで通り”クィン”と呼んで頂けませんか?」
「丁重にお断り申し上げます」
これまでの関係は終わりましたので、区別はきっちりとつけた方が良いと思うのです。貴方は保護者、私は養われる身の上――これからの関係は、こうでしょう?
はっきりと申し上げると、武藤さんの美貌に憂いの色が浮かんでいました。
「それと……先程は、酷いことを言ってしまって……すみませんでした」
貴方を信用しきったわけではないけれど。でも、これだけは謝りたかったのです。落ち着いた今なら謝れそうだと思ったので、謝りました。
「……いいえ。今日一日で色んなことがあって混乱していたのだと思っていますから」
彼は笑って許してくれます。いつだってそうです。
彼が怒るのは本当にしてはいけないことをして反省していない時くらいです。あの暴言はそれに該当すると思うのですが、彼はそう思っていないようです。
――怒ってくれていいのに。
少しだけ、腑に落ちませんでした。
「一つ、尋ねたいことがあるのですが」
「はい、何なりと」
「私を匿っていることが伯母たちに知られたらどうするのですか?無職になってしまいますよ?」
「……ああ、乾氏の私的な秘書でしたらお断りしてきました」
「はい?」
武藤さんは今、断ってきた、とか仰いませんでしたか?
聞き間違いですよね?
「お嬢……朝雪さんを追い出したと乾夫人から伺った後に、今後は乾氏の私的な秘書をするようにと命じられましたが丁重にお断り申し上げました。僕が仕えるのは今は亡き旦那様と朝雪さんであって、乾家や他の親族の方々ではありませんので。それと僕はあのお嬢さんが苦手ですので逃げました」
武藤さんは清々しい笑みを浮かべています。それはもう「ああスッキリした!」と言わんばかりの。
ということは、私が悶々と悩んでいたことは無駄だったということですよね?貴方が職を失ってしまうのではと心配したことは無駄だったと。
もっと早く仰ってくださいませんか……!?
「……私の心配を返してください」
「はい?」
消えそうな声で呟いた言葉は彼の耳には届かなかったようです。
――聞かれても困るのですが。
それから後はどちらが先に風呂に入るか、どちらがベッドかソファで寝るかで揉めに揉めましたが、レディファーストの精神を亡き養父に叩き込まれているらしい武藤さんは頑として譲らず、私はまた負けてしまいました。
柚子の香りがする入浴剤を溶かし込んだお湯に浸かりながら、どうやったら武藤さんに勝てるのだろうかと頭の中で作戦会議をしようとしたのですが、今日一日の疲れがどっと出て、強烈な眠気が襲ってきました。
私がお風呂に入っているうちに新しいシーツに取替えられたベッドはふかふかで、直ぐに眠りに落ちてしまいました。但し何か遭った時に即対応出来るよう、竹刀を抱きしめて。寝室の鍵は確りとかけて。
ばあやが言っていました、「穏やかな殿方であろうとも、夜は狼に変身するのです」と。
意味はよく分かりませんが、寝込みを襲われてはいけませんので忠告は守ります。