所謂高級住宅街の路地をとぼとぼと歩いていくと、交通量の多い大通りへと出ました。
車に乗って帰路へと着く人、バスを待つ人、友達と楽しげに話しながら歩いていく人たちの間を潜り抜けて、只管に歩いていきます。
そんな大荷物を抱えて何処へ行く気なんだろう?という視線を感じながら、進んでいくと小さな公園の前に辿り着きました。
真っ赤な夕焼け空はもう夜の帳をおろしており、遊具で遊ぶ子供たちの姿はありません。公園の中を見渡すと、滑り台がついているドーム型の遊具には、大人でも入れそうな穴が開いていました。それを見つけた私は吸い寄せられるように其処へと赴き、身を屈めて中へと入ります。中は思っていたよりも空間が広く、荷物を周りに置いても狭苦しく感じることはありませんでした。
「……ああ、そうでした……」
伯母から受け取った封筒の中身を確認しなければ。
念の為にと入れておいたペンライトを点けて中身を確認すると、意外なことにお札は全て万札で私は思わず驚いてしまいました。
――これは夢でしょうか。
疑心暗鬼になっている私は、自分で自分の頬を思い切り抓りました。涙が出るほど痛かったです。
「……夢では、ない。ですね……」
自分のとった行動が馬鹿馬鹿しくてたまらなくて、私は肩を震わせて笑い出しました。笑いながら、泣き始めました。
「うぇ……ふえぇ……どうしよぅ……っ」
嗚咽混じりの情けない声が本当に情けなくて、より一層涙が溢れてきます。
私にはもう縋れる人がいないのだと、独りで生きていかなくてはいけないのだと頭では理解出来ています。けれども何をするべなのか見当もつきません。
手も足も出せないでいるこの状態が苦しくて、恐ろしくて、不安でたまらない。
「お父さん、助けて、ください、助けて……っ」
そんなことを言っても無駄です。
父はもう、この世の何処にもいないのですから。
「クィン、クィン……何処ですか……あの時まで、は、傍にいて、くれたの、に……っ」
いつの間に傍からいなくなってしまっていたのですか。
若しかして、伯母とグルになっていたのですか。
そうなのか、そうではないのか、どちらでもいい。彼はもう私の”子守”ではなくなってしまったことだけは確かなのだから。
次々に溢れ出てくる気持ちの整理がつけられず、私は声を上げて泣きじゃくることしか出来ません。
――ああ、今日は泣いてばかりですね。
こんなにも泣けば流石に涙も枯れるようで、泣きたくてもこれ以上は涙が出てきてくれません。体中の水分を搾り取ってしまったようで、喉が酷い渇きを訴えてきます。
今時分は何時頃なのでしょうか。
ペンライトを点けて腕時計を確認してみると、時計の針は二十一時過ぎを指し示していました。この時間帯ともなると完全に人の気配は途絶え、時折車が通り過ぎる音が聞こえてくるくらいです。
「……とりあえず、今日の宿は此処にしましょうか」
大荷物を持ってうろうろつぃていたら、巡回している御巡りさんに捕まってしまうことは必然。ですので、私は此処で野宿をすることを決意します。初めての体験ですので、どきどきします。
若しかすると不審者に遭遇する危険性もありますので、いつでも振り回せるようにと竹刀を袋から取り出して、手にしておきます。
「喉が渇いているのです缶ジュースでも買いに行きたいのですが……荷物を置いて離れる訳には行きませんよね……」
バッグの中には大切なものが入っているのです。盗まれようものなら、今度こそ発狂してしまうかもしれません。
どうしようか、と考えあぐねていると公園内に誰かが入ってくる足音が聞こえてきました。
「……っ!」
反射的に竹刀を持つ手に力が入ります。
突如として現れた闖入者は走っては止まり、走っては止まりを繰り返しています。何かを探しているのでしょうか?段々と足音が近づいてきて、荒い息遣いまでもが耳に入ってきます。
――まさか、これが変質者というヤツでしょうか!?
そんな輩に捕まってしまっては一大事です。いつでも返り討ちに出来るように構え、息を潜めます。足音は、私がいる遊具の直ぐ傍で止まりました。
その人物はゆっくりとした足取りで穴に近づきます。そして穴の中を覗こうとした瞬間に、私は先手必勝とばかりに竹刀
寸でのところで私の懇親の一撃を回避した不審者はバランスを大きく崩してその
で突きを繰り出します。「やぁっ!!!」
「わぁっ!?」
寸でのところで私の懇親の一撃を回避した不審者はバランスを大きく崩してその場に尻餅をつきました。
――あれ?
今の声は聞き覚えが……。
折角逃げる隙を作ったというのに、私はそんなことをすっかり忘れて、恐る恐る穴の外に顔を出していました。
「……朝雪お嬢様」
其処には月明かりに照らされたクィンがいて、地面に膝をついてました。喪服姿のままでそこら中を駆け回っていたのか、汗にまみれていて、肩で息をしています。
「こんな所にいらっしゃったんですね。見つけられて……良かった……」
少し癖のある黒髪に泣き黒子のある青灰色の目をした、目鼻立ちがくっきりとした眉目の異国の青年――但し日本語はぺらぺら――は、安堵の息を吐いて優しく微笑んできます。私を安心させてくれる、見慣れた笑顔。
「……っ」
助けて欲しいと、傍にいて欲しいと懇願したその相手が現れたことに喜び、涸れ果てたと思っていた涙が溢れ出しそうになりましたが、寸でのところで止まりました。
――どうしてこの人は私を捜したの?
一番傍にいて欲しい時に、貴方はいてくれなかった――何処にいたの?
私は何もかもを失ったのに、貴方は何も失わずに済んだ――私は愚鈍で、貴方は優秀だから。
私に関わったとしても、貴方には何の利益もない――それなのに関わろうとしてくる理由は何?
温かくなりかけた私の心は、急速に冷えていきました。
この人は伯母と同じように私を絶望のどん底に突き落とすつもりだ。
「……何か御用でしょうか、”武藤さん”」
クィン――クィンラン・ディアルムド・フェラン・武藤さんに感情を押し殺した声で尋ねます。彼は何故か瞠目して、一瞬言葉を失っていました。
「……乾夫人から聞かされました。朝雪お嬢様を追い出した、と。ですから、お嬢様を捜しておりました」
日本での暮らしが長い彼は正確無比な発音でもって、海外の方には難解であろう敬語も難なく操ります。母国で使用していた英語やアイルランド語も堪能ですから、相当な語学力を有しているのでしょう。
「ええ、それは紛れもない事実です」
乾夫人――伯母は、私を嫌っているから。表情もなく淡々と答えると、武藤さんは悲しげな表情を浮かべます。どうして、そんな演技をされるのですか?
「何処かへ行かれる宛てはあるのですか?」
「宛てはありませんが、今日の宿を確保する知恵は有しておりますので問題はありません」
そう、此処で野宿をすると先ほど決めたのです。その後のことは明日になったら考えます。ですから、貴方はさっさと帰ったらいい!
「……では、僕が暮らしているアパートにいらしてください。其方で、これからについて話しませんか?」
そう言って、武藤さんは手を差し伸べてきます。よく私の頭を撫でてくれた、大きくて温かい手を。
「……何ですって?」
彼の進言が理解出来ない。
貴方はもう私と関わりがないじゃないか。利益にはならず、害にしかならない私のことなど放っておいて!!!
鬱屈させていた感情が爆発した瞬間、私は彼の手を思い切り叩いて払いのけていました。結構な力で叩いたようで、右手がじんじんと痛んで、熱を持っています。私よりも白い彼の手は、赤くなってしまっているかもしれません。
「……っ」
けれど、そんなことには構っていられない。私は不倶戴天の敵を見つけたかのように、精一杯彼を睨みつけていました。そうでもしないと泣いてしまいそうだったから。
痛むであろう手を労わることなく、ただ凍りついている彼に向けて、言葉をぶつけます。
「父が亡くなり、このような状態に陥った私はもう、お嬢様とやらではありません。貴方ももう、私の”子守”ではないでしょう。雇っている側と雇われている側の関係はもう終わったのですから、私のことなど放っておけば良いのです」
こう言えば貴方は引き下がってくれると思ったのですが、駄目でした。
彼は、動かない。退かない。
「……僕はお嬢様と約束をしました――お嬢様の傍にいると、お嬢様の味方でいると」
遠い日に交わした他愛もない約束を守る為に、私を捜して此処へ?
――ありえない。
守ろうとしてくれたのならば、あの時傍にいてくれなかったのは何故ですか?
「その約束はもう無効です。これまで律儀に守ってくださって有難う御座いました」
穴の中に潜って荷物を取り出し、担ぎます。予定を変更することにしました。
「これまで大変お世話になりました。この御恩は決して忘れません。……それでは、ごきげんよう」
深々と頭を下げて、そそくさとその場から立ち去ろうとしました。けれど、それは出来ませんでした――彼が私の腕を掴んで離さないので。
「……腕を離して頂けませんか?歩けません」
「……嫌、です」
整いすぎているとも言える眉目を苦しげに歪めて、彼は拒絶しました。空いている方の手で私から荷物を奪うと、腕を掴んだまま歩き出します。
まさか本当にアパートに連れて行くつもりなのでしょうか?
「離してと言っているでしょう、武藤さん!」
「嫌です」
何とか逃れようと抵抗しますが、男女の力の差は歴然でびくともしません。
「離して!私のことは放っておいてください、放って、おいて……!」
「……」
私を逃がさないようにと腕を力強く握る彼の手は、やっぱり温かくて。やさぐれかけている私の心が移ろいだして、気付けば泣いていました。
今日一日で、数え切れないほど泣いています。
「……どうせ、貴方もっ、伯母と、同じことを、するの、でしょう……っ!?だったら、放って、おいて……!」
「……」
彼は答えません。
前を歩く大きな背中を睨みつけながら、私は引きずられるようにして彼の住むアパートへと連行されたのでした。