ネネとスー

《本編》

振り向いてよ、スー

 異世界へと迷い込んでしまってから二年近くの月日が流れた頃には、寧々子は言葉の壁をすっかり乗り越え、この場所での暮らしにも慣れた。
 平均的に寧々子よりも頭一つ分ほど背が低い”兎の亜人(アルミラージ)”で構成されているタウシャン村での生活は、例えるなら明治時代以前のようで、平成の世に溢れる文明の利器の利便性を知ってしまっている寧々子には不便なことが多い。けれど不便であればあるほど祖父や父親に植え付けられた百姓魂が燃え上がり、農業高校や実家で学んだ知識を駆使して不便さを改善していったところ、気が付けば彼女は村人たちから尊敬されるようになっていた。
 今では”スーリヤ”とちゃんと呼べるようになった虎さん(仮)にも「お前みたいな逞しい人間の女は見たことがない」と褒められ――そういうことにしている――たのだった。

 タウシャン村に、人間は寧々子しかいない。もっと遠くへ行けば人間が住んでいる町があるとスーリヤが教えてくれたのだが、シル○ニ○ファ○リーを連想させるどこか愛らしい村人たちは寧々子を迫害したりしない――寧ろ便利屋扱いしてくれている――ので、特に移住しようとは思わなかった。
 ただ、いつまでも居候しているのも悪いなぁと思ったので村長に相談して新しく住居を建てて貰おうかと考えていたところ、「別に迷惑だとは思わないから、好きなだけ此処に居ても良い」と家主のスーリヤが投げやり気味に言ってくれたので、「よっしゃぁ!大きな出費しなくて済んだ!」と喜んだ寧々子は、彼の言葉に甘え、今でも居候している。

 そんなこんなで、寧々子同様に村で唯一の”虎の亜人(ドゥン)”であるスーリヤへの誤解もすっかり解けた。
 ”亜人”と”動物”は別物であるらしく、虎の特徴を持っているといってもスーリヤは人間も”兎の亜人(アルミラージ)”も襲って食べたりはしない。余談だが、彼は”兎の亜人(アルミラージ)”の可愛い子ちゃんたちも別の意味で美味しく頂いたりはしていないらしい。
 口数は多くはない方で更には素っ気ない態度のスーリヤであるが、根は優しく面倒見が良いので村人たちに慕われている。寧々子もまた、そんな彼のことを好ましく思うようになり、共に暮らし続けているうちに段々と別の感情が芽生えていったのだった。

***************

 或る昼下がり。
お隣の家に住んでいる仲良しの”兎の亜人(アルミラージ)”、ヤセミーンと恋話に花を咲かせていた寧々子が家に戻ってくると、生業としている”隊商(ケルヴァン)”の護衛を終えて久し振りに帰宅したスーリヤが、居間の絨毯の上に巨躯を横たえて微睡んでいるのを見つけた。
 足音を立てないように慎重に歩いて近付いたつもりだったのだが、隣に座ろうとした際にスーリヤの目がうっすらと開いて閉じられたのが見えた。どうやら目を閉じているだけで、起きているらしい。

「今回は長旅だったから、疲れてる?」
「んー……」
「お疲れ様、スー」
「ん……」

 声をかけても返ってくるのは愛想も素っ気もない生返事だけ。そんなやりとりだけれど、寧々子は幸せな気持ちになる。スーリヤがこんな姿を見せるのは、気を許してくれている証拠なのだと知っているから。
 人間のものと変わらない触り心地の髪を撫でたり、虎耳の裏を擽るように指で摩ったりしても彼は怒らない。ただ、尻尾だけは勘弁して欲しいと言われたので寧々子はそれを律儀に守っている――本当は物凄く触りたいのだけれども。
 寧々子に撫でられているのが気持ち良いのか、スーリヤの口元が僅かに緩んで、太くて長い尻尾がゆらゆらと揺れる。

(そんな顔、あたし以外に見せちゃ駄目だよ?)

 ”亜人”というだけあって、スーリヤの顔は人間に非常に近い。けれど耳は虎のそれだし、首や腕、足などには虎と同じような黒い縞の入った赤みの強い茶色の毛や白い毛が密に生えている。掌や足の裏には肉球が付いていて、爪も猫科の動物のように出し入れが出来るようだ。

(スーの服の下って、どうなってるのか未だに知らないんだよね……。脱いでって頼んだら、『嫁入り前の女がはしたないことを言うな』って父親みたいに叱られたし……)

 物思いに耽りながら、首の後ろを撫でていた手を喉元に移動させると、スーリヤは擽ったいのか身動ぎした。それでも構わずに手を動かしていると、あっという間に大きな手に捕らえられて、横向きから仰向けになったスーリヤの腹の上に上体を押し付けられていた。

「……ネネ、擽ったいから止めろ」
「だって、スーの喉元の毛って他のところと違ってふわっとしてるから触り心地が良いんだもん。喉元を撫でられると気持ち良いでしょ?」
「……猫じゃねえから喜ばねえぞ、俺は」

 いや、耳と首の後ろは喜んでたじゃないの。と、喉まで出かかった反論を飲み込んで、寧々子はスーリヤの厚い胸板に突っ伏した。久し振りに会えたのだから、喧嘩などしたくない。そのまま黙りこくっていると、スーリヤの手が寧々子の背中を撫でてきた。寧々子が拗ねてしまったと思い、彼なりに宥めようとしているのか。

「……」

 子ども扱いされているように感じられなくもないけれど、スーリヤの体温や匂いに包まれていると寧々子の心に彼へのいとおしさが込み上げてきた。

「スー、好きよ、大好き」

 溢れ出てくる気持ちを抑え切れなくなって、徐に言葉に出していた。スーリヤへの思いを自覚してからの寧々子は、時折こんな行動をとる。

「ん……あっそ……」

 望んだ答えは返してはくれないけれど、スーリヤは寧々子の気持ちを否定したりはしないし、拒絶もしない。だから寧々子はどんどん欲深くなっていってしまうというのに。

「スーは、あたしのこと、好き?」
「……嫌いじゃあねえな」

 この台詞は、もう何度も聞いた。好きではないなら、はっきり言ってくれた方が諦められるのに。そうしてくれないから、執拗に彼を求めてしまうのに。

「じゃあ、あたしのこと食べたいとか思う?」

 そう尋ねると、「あのなぁ」と言って溜め息を吐かれた。

「前にも言っただろ……”虎の亜人(ドゥン)”は人間を食ったりしねえって……」
「あたしって美味しそうに見えない?」
「……ネネ、どこか調子が悪い……」

 寧々子の背中を撫でていた手を止めて上体を起こしかけているスーリヤの口を、寧々子は自分のそれで塞ぐ。胸の上に置いた手から、彼が身を強張らせたのが伝わってきた。

「スー、大好き……」

 太い首に腕を回して、ちゅっちゅっとわざと音を立てながら何度もスーリヤに軽く口付ける。

「あたし、スーが欲しい……だからね……あたしを食べてよ……」
「……」

 もう一度唇塞ごうとすると、寧々子の唇に掌が触れた。スーリヤが寧々子の口元を手で覆って、彼女からの口付けを制止したのだ。

「忘れたのか?人間は人間と番えって言っただろ……」

 以前スーリヤに自分の気持ちを打ち明けた時と同じ言葉が返ってくる。
 この村は隊商の行路に入っているらしく、稀に休息をとりに来た人間と遭遇することもある。スーリヤや村長が、人間同士の方が何かと都合が良いだろうと彼らに話をつけてくれようとしたけれど、寧々子は首を横に振るばかりだった。
 彼らと会っても、「ああ、あたし以外にも人間っているんだなぁ」と思うだけで、共に暮らしたいと思うことはなかったからだ。

「……あたしはスーが良いの」

 人間は人間と、亜人は亜人と番うのが常識だってどれだけ言われたって、非常識な人間のあたしは亜人の貴方にしか胸が高鳴らないの。
 口元をそっと覆っている手を外して、掌に頬を寄せる。硬めの肉球と毛の感触を楽しんでいると、スーリヤが何度目か分からない溜め息を吐いたのが感じられた。

「……物好き」
「物好きはスーの方でしょ……?言葉も通じない、何処の誰かも分からない人間を拾って面倒を見て、ずっと住まわせて……」

 この世界では亜人と人間とが共存している村や町があっても、一つ屋根の下で暮らしているというところは少ないらしい。村の兎ちゃんズは受け入れてくれているけれど、時折やってくる人間は寧々子とスーリヤが同居していることを知ると怪訝そうな顔をしていたから、あまり歓迎されることではないのだろうと薄々は感じていた。
 それでも寧々子はスーリヤから離れ難くて、彼の優しさにつけこんで居候をしている。あわよくば襲おうと企んでいて、今まさに実行に移している。

「あたしが鬱陶しいなら、はっきり言って。そうしてくれないと分からない。……あたしはもうこっちの言葉は話せるし、仕事も出来るようになったから、追い出しても大丈夫だよ?気紛れに部屋の隅に転がしておくようなことはしないで、勘違いするから……」

 だから、不毛な恋心にけりをつけようと思って、行動に出た。吉と出れば幸い、凶と出たら彼の許から去っていこう。スーリヤが留守にしている二ヶ月の間に、寧々子は覚悟を決めていた。

「……嫌じゃねえから困ってんだっつーの」
「え……っ?」

 黒のアイラインが引かれた虎の目を細めて、困ったように笑うとスーリヤは寧々子の唇を奪った。驚いて硬直している寧々子を押し潰してしまわないように慎重に動いて体を反転させて、彼女の上に覆い被さり、口付けをより一層深くした。

(あれ、虎の舌っておろし金と同じようなものって図鑑に書いてなかったっけ……?やばい、ディープキスしたら口の中が血塗れの紅葉おろしになる!大惨事だよ!)

 咄嗟に動物図鑑で見た事柄を思い出して真っ青になった寧々子だが、幸いなことにスーリヤの舌はおろし金ではなかった。鋭い犬歯は生えているけれど、舌は人間のものとは変わりないようだ。それでも、寧々子のものよりはざらざらしている。

「ん……ふ……っ」

 長く肉厚な舌に口の中を蹂躙され、寧々子の体から余計な力が抜けてくると、漸く口付けから解放された。

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