ネネとスー

《本編》

出逢い

 短大を卒業したばかりの寧々子(ねねこ)は企業に就職することはせずに、畜産業を営んでいる家の仕事を手伝う日々を過ごしていた。

「遊びたい盛りなんだから、我が家の家業を手伝ったりしないで都会の会社に就職でもしたら良かったのに。そうしたら好きなだけ遊べるじゃないの」

 なんて母親が言っていたけれど、寧々子は農業に精を出す今の生活に一切の不満はない。飼育している乳牛や食用の牛の世話や畑仕事は大変だけれど、母親が思っているほど寧々子には苦ではない。
 大体農業を嫌っているのであれば、農業高校を卒業しているわけがない。短大に通ったのは、母親が「高卒よりは短大卒の方がまだ就職活動しやすいから」と言ったからで、寧々子には大学はおろか短大さえも行く気がなかったのだった。
 ――女の子なのだから、将来は農業に携わらなくても良い。家は長男である兄が継ぐのだから。
 父親と結婚するまで農業とは縁のない生活を送ってきた母親にそう言い聞かせられて育ったのだけれど、母親の目論見通りに育ってあげる寧々子ではなかった。

 滅多に貰えない一日休暇を貰えた或る日のこと。趣味である散歩を楽しんでいたところ、それまでは雲一つない晴天だったというのに突然濃い霧が発生し、視界が奪われた。霧の時は下手に動かない方が身の為だ、と、野性味溢れる祖父から教わっていたので、寧々子はのんびりと霧が晴れるのを待っていたのだが――

「……んん?」

 漸く霧から解放された時、彼女は何故だか見覚えのない草原に一人佇んでいた。待ち草臥れて立ったまま寝るという荒技をやってのけてしまったのだろうか。目を覚ました方が良さそうだと判断した彼女は目を閉じて、思い切り頬を抓ってみた。物凄く、痛い。ということは、幻覚でも見てしまったのだろう。
 じんじんと痛む頬を摩りながら再び目を開けてみると――目の前に広がっているのは日本の長閑な田舎ではなくて、人っ子一人見当たらない広大な草原だった。

「……えー?」

 そよそよとそよぐ風が気持ち良いなぁなんて思った直後に眩暈がして、寧々子の意識はそこで途切れた。

***************

 次に目を覚ましてからの日々は、寧々子にとってとても安心出来るものではなかった。
 どうやら草原で失神して行き倒れていたらしい寧々子を拾い、介抱してくれたのが日本はおろか世界でも見たことがない人間(?)だったからだ。
 視界に入ってきたそれは、人間によく似た顔をしているものの、動物の――それも虎の様々な部分をくっつけたかのような巨大な”何か”だったのだ。漫画や小説、テレビゲームなどに出てくるような”虎人間(?)”を生まれて初めて目撃した寧々子が、混乱して直ぐにまた失神してしまったのはやむをえないことだと思われる。

「……これは若しや、漫画とかで言うところの異世界トリップとかいうやつでしょうか?」

 地球の何処かの地域に迷い込んでしまったのではなくて、全く別の世界へとやって来てしまったのかもしれないと納得するのが早かった寧々子だが、寝台を貸し出してくれているらしい虎人間――いや、これは失礼か。虎さん(仮)とでもしておこう――が実は人畜無害だということに気がつくのには少々時間がかかった。何せ、虎さん(仮)は人相(虎相?)があまり宜しくなかったので。そのうち絶対に頭からぼりぼり食べられてしまうに違いないと思い込んでいた寧々子は、ゆっくりと眠れない日が続いていた。
 一方、何日経過しても一向に襲いかかって来ない虎さん(仮)は、怯えて警戒心を丸出しにしている寧々子を気遣ってくれているのかどうかは全く分からないが、不思議と一定の距離以上は近づいてこようとはしない。その代わりに虎さん(仮)の餌食になってしまいそうな兎によく似た女の子たちがやって来ては、何も分からず戸惑っている寧々子の世話を焼いてくれた。

(来ちゃ駄目だよ、兎ちゃんズ(仮)!そこの虎さん(仮)に確実に食べられちゃうよ!?目の前で凄惨な光景見せられるのはちょっと頂けないんだけど!?)

 と心配したのは数知れず。だが、虎さん(仮)は寧々子も兎ちゃんズ(仮)も食べない。いや、若しかすると兎ちゃんズ(仮)は別の意味で食べられているのかもしれないけれど。

 そんな日々を過ごしていると段々と、彼らは見た目は違うけれど寧々子と何も変わらないのだと思うようになっていた。彼らの姿を見ても怯えなくなった頃、寧々子は勇気を出して家主であるらしい虎さん(仮)に近づいてみた。
 絨毯の上でクッションに凭れるようにして座っていた虎さん(仮)は寧々子に気が付くと黒いアイラインが引かれている鋭い眼を向けてきたけれど、それ以上のことは何もせずに静かに寧々子を見つめている。
 恐る恐る虎さん(仮)の隣に座り、黒い縞の入った赤茶色に近い色合いの毛で覆われた大きな手に触れる。猫の毛よりは少し硬めだけれど、その手はふかふかとしていて触り心地が良かった。断りもなく手に触れてきた寧々子の手を振り払ったりしないでいてくれる虎さん(仮)の目を確りと見つめて――物凄く怖いけれど――言わなければと思っていた言葉を口に出した。

「助けてくれて、それから面倒を見てくれて有難う」

 何とか笑みを作ってはみるが、緊張しているので引き攣ってしまっているかもしれない。そうすると虎さん(仮)は少し目を瞠ってから、小首を傾げた。強面な見た目とは裏腹なその可愛らしい仕草に、寧々子は初めて「あれ?この人案外可愛いかもしれない」と思った。

「あー、やっぱり日本語じゃあ駄目だよねー……」

 これまでの日々で実感していたが、彼らが使用している言語は日本語とは全く異なる。彼の服装は、寧々子のいた世界で言うところの中東地域の人たちのものと似ているので、其方の言葉なら通じるのだろうか?だが、生憎と全く分からない。寧々子に話せるのは、簡単なカタカナ英語くらいだ。

「うーん……こういう時は……ジェスチャー?いや、スキンシップ?駄目だ、思いつかない……」

 自宅の側にある牧場で飼育している牛たちとは、毎日世話をしているせいかそれとなく意思の疎通がとれていたのだけれど、相手は虎さん(仮)だ。虎とは動物園の防護ガラス越しにしか接したことがないので勝手が分からない。
 ――ああ、虎語が話せたらなぁ。なんて考えがよぎったので、虎語って何だろうと心の中で突っ込んでおく。

「……駄目もとでやってみるかぁ!」

 深呼吸をして息を整えてから豊かな胸――何故か女友達によく揉まれた――に手を当てて、寧々子は自己紹介をした。

「あたしは草森(くさもり)寧々子といいます。寧々子って呼んでください。ね・ね・こ!」
「……ネ・ネ?」

 眉根を寄せながら、虎さん(仮)は深みのある低い声で呟く。

「おお、名前だけなら通じそう!?」

 然し”寧々子”とは呼んで貰えなかったので、もう一度。

「寧々子」
「ネネェクォ」

 惜しい、後もう少し!それから二度三度ほど試みてみるも、虎さん(仮)には”寧々子”は難しいらしい。仕方がない、日本人に外国語の発音が難しいように、外国人には日本語の発音が難しいのだ。虎さん(仮)にもそれは当てはまるのだろう。
 ふむ、三文字が駄目なら二文字でも良いか。

「ネネ」
「ネネ」

 家族や親しい友人たちが使う愛称を試してみると、今度は綺麗に呼んで貰えた。それが何故だか嬉しくて、寧々子はふんわりと微笑んだ。

「ネネ!」
「ネネ」

 それが正しいのだと肯定するように首を縦に振ると、虎さん(仮)はほんの少しだけ笑って――いるように見えた気がした――もう一度寧々子の愛称を呼んでくれた。

「貴方の名前は?」

 人を指差してはいけませんと教育を受けてきたけれど、他のジェスチャーが思いつかなかったので失礼を承知で虎さん(仮)を指差した。すると虎さん(仮)は「失礼な奴だな!」と憤慨することもなく、腕を組んで暫く考えこんでから、のろのろと自分を指差した。その様は「若しかして自分の名前を訊いているのだろうか?」と言っているように見えたので、「そうです、貴方の名前を教えてください」という思いをこめて寧々子は大きく頷いた。
 寧々子の思いが通じたのか、虎さん(仮)はクッションに凭れかかっていた背をゆっくりと伸ばすと、大きな手を胸に当てて、虎さん(仮)の名前だと思われる言葉を口にした。

「……スーリヤ」
「………………………………スー……?」

 耳慣れない異世界の言葉の響きに、寧々子の頭は混乱をきたす。”スー”の後に何か続いているのは分かったのだけれど、その部分が聴き取れなかった。幾度か試してみたのだが、発音がどうにも難しい。

「……”スー”で良いですか?スーで……」

 心が折れた寧々子がしょんぼりとしながら尋ねてみると、ぽん、と頭の上に肉球のついた手が載せられた。虎さん(仮)の手はその図体に見合っていて、とても大きい。寧々子の頭など、間単に握りつぶせてしまいそうなほどだ。
 ――あ、死ぬかな?
 この虎さん(仮)は良い虎さん(仮)なのかもしれないと思い始めていたのだが、矢張り食べられる運命にあったのかと己の人生を儚んだ寧々子に反して、その手は寧々子の頭をわしわしと乱暴に撫でるだけだった。
 躊躇いがちに顔を上げると、虎さん(仮)はもう一度自分の胸に手を当てた。

「スー」

 これは若しや「もう良いよ、スーで。諦めた」ということなのだろうか?

「……スー?」

 淡い期待を胸にそう呼んでみると、”スー”は大きく頷いて再び寧々子の頭を撫で始める。

「も、もうちょっと加減して……首の骨が折れる……!」

 そうなったら確実にぼりぼり食べられる。と、心底心配した寧々子だったが、それから何日経過しても”スー”が”ネネ”を食べることはなかった。

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