たつのいとしご

空想と現実の違い(3)

 ムスティスラフは誠実で真面目な少年で、フセヴォロドに提示された条件を律義に守ってくれている。

「ゾーイカ、それは文字なのか?だとしたら何て読むんだ?」
「む、間違っているのか?文字は難しいな……」

 自宅から持参したという幼児向けの本を片手に、ムスティスラフはゾーヤに読み書きを教えている。これまでは、本というものはページを捲って眺めるもの、と認識していたゾーヤは模様だと思っていたものが文字であると知り、衝撃を受けていた。読み書きを習いだした頃に比べたら随分と文字を書けるようになったが、まだまだ形の似ている文字を間違えて書いたり、書き損じしてはムスティスラフに注意されている。

「ムスティーシャ、熱心なのは良い。然しゾーイカの頭が煮えている。休憩をとってはどうだ。茶と菓子を用意した」
「セーヴァはゾーイカに甘いんじゃないか?……僕もお菓子が食べたいから、一旦休憩にしようか」
「うむ、そうしよう!」

 勉強から解放された喜びで、ゾーヤは隣の席のムスティスラフに勢い良く抱きつく。彼が一気に顔を真っ赤にして、しどろもどろしている様子をフセヴォロドは愉快そうに眺めていた。
 フセヴォロド手製の菓子と、彼の昔話を目当てに此処へとやって来るのだとムスティスラフは主張するが、心の内を覗き込んでしまうフセヴォロドの目は誤魔化せない。ムスティスラフの目的は、ゾーヤとの交流だ。彼はゾーヤに淡い思いを抱いている。一方のゾーヤはというと、精神年齢が幼児に近い為か、ムスティスラフを異性として全く意識していない。何となく気の毒に思うが、手塩に育てたゾーヤをあっさりと奪われるのも面白くはないので、フセヴォロドは静かに見守ることを徹底している。決して、二人の仲を邪魔しようとしているのではないと思いたい。

「ムスティーシャ、親御に見つかりそうになったな?」
「ああ……うん、ちょくちょくヤンタールを連れて馬に乗って遠出をするから怪しまれたんだ。だけど、村の周辺のことをよく知っておくことは後々領主になった時に役立つだろう?と言ったら、それで一先ずは納得してくれた。……此処のことも、二人のことも知られてはいないと思う。誰かに尾行されていたら、ヤンタールが気が付くからな」

 他者の心を読み取る不思議な力で隠し事を露呈されて、ムスティスラフがばつの悪そうな顔をして、足元に伏せていたヤンタールの頭を撫でる。その行いを責めているのではないとフセヴォロドが告げると、彼はほっとしていた。

「……僕はゾーヤとセーヴァと過ごす時間が好きだ。男爵家の跡取りとしてではなく、ただのムスティスラフとして対等に接してくれるから……心が安らぐんだ」

 家族はムスティスラフを愛してくれていて、彼も同じように家族を愛している。けれど、爵位の後継者として領地を守り、発展させていくことを期待され、常に誰かの目線を感じているのが時折とてつもなく辛くなる。後継者ではないムスティスラフには何の価値もないのかと想像しては、勝手に落ち込むのだ。そういった家に生まれてきてしまったのだから仕方のないことだと言えば、そうなのかもしれない。胸の内を吐露したムスティスラフが寂しげに笑う。

「……あのさ、近いうちに村でお祭りがあるんだ。覗きに来てみないか、二人とも。村の外からも商人や観光客が沢山やって来るから、多分、二人が紛れ込んでも怪しまれないと思うんだ。みんな浮かれているから、注意散漫になっているだろうし……」

 人間であるゾーヤは兎も角として、竜人(ジラント)であるフセヴォロドはどうしたって無理だ。姿が違い過ぎる。そのことはムスティスラフにも重々理解出来るているはずだと、フセヴォロドは彼の目を覗き込む。
 二人に今以上に人間と交流を持って欲しくて提案したのではなく、彼は三人で祭りを楽しみたいようだ。同じ年頃の友人は村にもいるが、彼らは対等な間柄とは言い難い。貴族であるムスティスラフと、村人である自分たちとの間に見えない壁を構築していて、どこか余所余所しい。ゾーヤたちを誘わなくても祭りを楽しめるだろうが、何となく寂しさを覚えるような気もするのだろう。
 悩める少年の心の欠片を受けとめたフセヴォロドは、やれやれと言いたそうに息を吐いた。

「我がゾーイカを送迎する。ムスティーシャ、ゾーイカを守るのだぞ」

 自分は遠くで見守っているから、二人で存分に祭りを楽しんでおいで。フセヴォロドがそう告げると、二人は顔を綻ばせる。

「承知した。ゾーイカは祭りを楽しんでこよう」
「有難う、セーヴァ。僕の我侭を聞いてくれて……」

 甘え下手のムスティスラフの頭をわしゃわしゃと撫でてやれば、彼ははにかみながらも嬉しそうに目を細める。村の人間たちがゾーヤを見ても不審に思わないように気を付けろとだけ釘を刺して、フセヴォロドはうきうきと胸を弾ませている二人を眺める。

 今日もフセヴォロドは美味しい茶を淹れて、ゾーヤに茶碗を差し出す。ムスティスラフが根気強く教えた成果だろう、茶を飲むゾーヤの仕草が美しくなっている。

「セーヴァ、ムスティーシャと森の散策をしてくるね。熊避けの鈴は持っているし、ヤンタールも一緒だから安心して」

 ムスティスラフを介して、村人とも交流することが増えたからか、ゾーヤの言葉遣いが変わった。フセヴォロドのような古めかしいものから、女性らしいものへと。表情も喜怒哀楽がはっきりと出るようになり、二つの感情を併せ持った表情まで出るようになっている。
 ゾーヤの人間としての成長を嬉しく思う反面、寂しくもある。やはり人間社会の中で育った方が彼女の為だったのではないかと。ゾーヤの心を覗き込んでみても、彼女は自分の境遇が不幸であると思っていないし、フセヴォロドとの生活に幸せを感じている。そして、人間社会への興味も日に日に増しているのだ。
 同胞が残してくれた人間に関する書物を参考にしてゾーヤを育ててきたが―― 竜人のフセヴォロドでは教えきれないことがあったのだろう。その補足をしてくれたムスティスラフには感謝の念を抱くしかない。

「ゾーイカ、ムスティーシャと行動を共にするのは楽しいか?」
「うん、楽しい。ムスティーシャは色々なことを知っていて、私がこれは何?って訊くと教えてくれるの。私が知らないことやものがあっても馬鹿にしないで、丁寧に教えてくれるのよ。ムスティーシャは優しくて、頼りがいがあって……好きよ」
「……そうか」

 ゾーヤの心に色とりどりの花が咲き乱れる。粘り強く、誠実な少年の片恋が終わりを迎えるのは近いうちだろうと予感して、感慨深くなったフセヴォロドは少し冷めた茶を飲んだ。

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