どの雲も裏は銀色

《本編》

言い分(肆)

 心地の良い静寂の中で過ごしているうちに、一夜が明ける。
 空が白み始めた頃にフェレシュテフは目を覚まし、隣で眠っているチャンドラを起こさないようにと慎重に動いて、壁から壁に渡した紐に干してある服に手を伸ばす。精一杯背伸びをして、腕を伸ばしてみるがサリー以外のものが手に取れなくて苦戦していると、後ろから白い毛に覆われた太い腕がにゅっと現れて、黒地のシャツなどを彼女の代わりに取ってくれた。驚いたフェレシュテフが振り返ると、いつの間にか目を覚ましていたチャンドラが背後に佇んでいたのだ。

「ほら」
「あ、有難う、御座います。……おはよう、御座います?」
「ん、おはよう」

 服を取って貰った礼の後に、フェレシュテフは疑問符をつけながら朝の挨拶をした。未だ仄かに夢心地らしいチャンドラは違和感に気付くことなく、挨拶を返す。フェレシュテフは再び浴室を借りて、手早く着替えた。確りと水分を絞っておいたので、服はある程度乾いている。然し実際に着てみると、生乾き特有の臭いがしたので、フェレシュテフは苦笑を浮かべた。

(そろそろ、お暇しなくてはいけないわね。天気は……どうなっているのかしら?)

 窓の外を覗いてみると、夜のうちに雨は止んでいたようで、空には雲がない。未だ湿っているサンダルを履いて外に出てみると、水分をたっぷりと含んでぬかるんでいた地面は硬めの泥程度になっていた。

「一人で帰れるのか?」

 フェレシュテフが徐に振り返ると、入り口の枠に凭れかかっているチャンドラが、どこか眠たそうな声をかけてきた。

「ええと……」
「一人で帰るのが怖いなら、途中まで送ってやる」

 何と答えたら良いのかを逡巡していると、チャンドラは彼女の回答を待たずに告げてくる。その気持ちがとても嬉しかったのだが、フェレシュテフは申し出を断る。激しくうねっていた波が凪いだ今、心は落ち着いている。更には勇気が出る呪いまでして貰ったので、何があったとしてもきっと立ち向かっていけるだろうと、フェレシュテフは思ったのだ。
 申し出を断られたチャンドラはというと機嫌を悪くすることはなく、薄っすらと微笑んで「そうか」と答えた。その柔らかい表情に、フェレシュテフの胸がとくんと高鳴る。

「……チャンドラさん。お願いが、あるのですけれど……」
「何だ?まあ、言ってみろ」
「っ、か、屈んで頂けますでしょうか……っ!?」
「はあ?……別にいいけどよ」

 突拍子もないフェレシュテフのお願いに呆気にとられつつも、チャンドラは素直に背を屈めて、人間の大人が幼い子供に視線を合わせるような体勢をとってくれた。

「このくらいで良いのか?」

 高いところにあったチャンドラの顔が近づいて、彼の青い目とフェレシュテフの緑色の目がぶつかる。それだけのことでフェレシュテフの心臓は鼓動をより一層、早くしていく。
 チャンドラの顔を両手で捉えたフェレシュテフは背伸びをし、目を閉じて、彼の唇に自らのそれを重ねる。触れている部分から、彼がびくりと身を強張らせるのを感じた。ほんの僅かな時間だけ唇を触れ合わせると、彼女はすっと身を引く。
 フェレシュテフが閉じていた瞼を開けると、呆然としているチャンドラの顔が目に飛び込んできた。何が起こっているのか、彼は把握出来ていないように見えた。

「一晩、お世話になりました。後日、御菓子を持って御礼に伺いますね。それでは……」

 背を屈めて硬直しているチャンドラにそう伝えて、フェレシュテフは踵を返す。一度も振り返ることなく、彼女はチャンドラの家を後にしていった。

「~~~~~っ」

 放心状態のままフェレシュテフの背中を見送っていたチャンドラは、漸く我を取り戻す。顔を真っ赤にした彼は口元を押さえるなり、その場にしゃがみこんだ。

(……はあっ!?いきなり何すんだよ、フェレシュテフの奴!?訳が分からん……!!)

 自分の唇に、彼女の唇の感触が残っている。彼女の唇はあの時と同じように、柔らかかった。そんなことばかりに意識が向いてしまっていることに気がついて、チャンドラは乱暴に頭を振り回した。

***************

 ――ああ、勢いでチャンドラに口付けをしてしまった。
 指先で唇を撫でながら、フェレシュテフはマツヤの町を目指していた。もうそろそろ町の入り口に辿り着くというところで、彼女は真っ黒な影があるのを見つける。其処にはフセヴォロドが佇んでいて、フェレシュテフをじっと見つめていた。彼はフェレシュテフが自らに気がついたのを確認してから、ゆったりとした動きで彼女に近づいてきた。

「……昨日は、大変申し訳ないことを致しました」
「セーヴァは気にしていない。フェルーシャがチャンドラの許にいたことは知っている。ヴァージャにも伝えている。その上で謝罪をするというのであれば、ヴァージャに。距離を置いた方が良いと言っていたのだが、ヴァージャは内心ではフェルーシャのことを憂慮していた」
「……はい」
「ふむ、チャンドラが頬の手当てをしてくれたのだな。セーヴァは安心した。さあ、帰ろう。ヴァージャが待っている。フェルーシャと話し合いをしたいと、ヴァージャは願っているのだ」

 話し合いということは、ヴラディスラフの口から真実を告げられるということだろうか。望まない真実を告げられた時、自分は耐えられるのだろうか。漠然とした不安から、顔色を悪くし、俯いたフェレシュテフの肩をフセヴォロドが軽く叩いた。

「案ずることはない。フェルーシャの傍にはセーヴァがついている」
「はい」

 フセヴォロドと共に、フェレシュテフは朝焼けに彩られた亜人の居住区を歩く。
 自宅に戻ってきた二人は居間へと向かい、食卓の席についていたヴラディスラフに迎えられた。

「只今、戻りました。あの……飛び出していってしまって、申し訳ありませんでした……」

 混乱していたとはいえ、罵倒するようなことも言ってしまったことを反省していると、フェレシュテフがしおらしく謝罪する。そんなことは気にしなくても良いのだと、ヴラディスラフは微笑み、ゆるゆると首を左右に振った。彼はフェレシュテフを罰しようとはしなかった。

「おかえり、フェルーシャ。戻って来てくれて……有難う」

 フェレシュテフに対しては丁寧に話すことが多いヴラディスラフの口調が、砕けたものへと変化している。そのことにほんの少しだけフェレシュテフは驚いて、彼の顔に視線を向けた。落ち着いた様子のヴラディスラフの目は充血していて、隈も出来ている。顔色も芳しくない。恐らくは一睡もしていないのではと彼女は推察する。
 ヴラディスラフがフェレシュテフに対面の席に着くようにと促す。するとフセヴォロドが自分用の巨大な椅子を持って来て、彼女の左隣に陣取った。「困ったことがあれば、直ぐにセーヴァに頼るのだ」と、一言を添えて。フセヴォロドは味方になってくれているのだと感じて、フェレシュテフの胸がじんわりと温かくなった。
 三人が着席したところで、ヴラディスラフは感情を抑えた声音で話を切り出した。

「先ず始めに、はっきりと伝えておきたいのは……ナージャは、君の母親は私の愛人などではないということだ。私の……内縁の妻だ」

 何から話していこうと、ヴラディスラフは一晩中考えていた。フェレシュテフが最も知りたい事実は何であるのかと熟考した結果が、ヴラディスラフとナーザーファリンの関係についてだったのだと彼は付け加えて、話を進めていく。
 二十年以上も前のこと、放浪の旅をしていたヴラディスラフは砂漠の国に立ち寄った。其処でナーザーファリンと出逢い、やがて二人は恋に落ち、結婚の約束をする仲とまでなっていった。

「ナージャの家族に結婚の許しを得ようとしたのだが、それは叶わなかった。彼女の故郷では、肌の色の違う異国人との結婚を忌避する風潮があって……彼女の父君に激しく反対をされたんだ。止む無く私たちは駆け落ちをして――内縁関係の夫婦となった」

 それには、ヴラディスラフが貴族であったことが関係する。彼の故国では貴族と庶民の婚姻は許可されておらず、更には国外の人間との婚姻も認められていなかったのだ。
 ナーザーファリンと正式に結婚したいと、ヴラディスラフは強く考えていた。彼女を連れて故国に戻り、自身の家族、親族を説得しようと考えもしたのだが、貴族としての誇りに重きを置いている彼らがヴラディスラフの話に聞く耳を持ってくれるのか。若しかしたらナーザーファリンと引き離されてしまうのではないかとも考え、ナーザーファリンを伴っての帰国を恐れた。
 付け加えると、ヴラディスラフは自身の家族と――特に父親と、あまり折り合いが宜しくなかった。伯爵家の次男として生まれたヴラディスラフは、事あるごとに父親に長男である優秀な兄ロスティスラフと比較されていた。『ロスティーシャには簡単に出来ることが、お前にはどうして出来ないのか』と罵られるのは日常茶飯事のようなものだった。そのことが、ヴラディスラフに父親への嫌悪感を抱かせる原因となっていた。だからこそ国外の旅に出たのを良いことに、ヴラディスラフは態と音信不通にしていたほどだ。そのことにナーザーファリンは何も言わず、ヴラディスラフに付いて来てくれた。
 そして落ち着ける場所を求めて、ナーザーファリンと共に彷徨い――やがて二人はマツヤの町に辿り着いたのだった。

「この町で暮らしていくうちにナージャが身籠って、娘が生まれた。それがフェルーシャ……君だよ。私とナージャの、大切な宝物だ」

 フェレシュテフの生まれた日のことは、今でも鮮明に覚えている。あれは長雨が過ぎ去り、晴れ上がった日だったと、ヴラディスラフが懐かしそうに目を細めて語る。
 父親の正体がヴラディスラフであった、という点を除けば、ここまでの経緯は大凡ナーザーファリンから聞いた話と合致している。確認作業をするように、フェレシュテフは口を挟むことなく、相槌を打つように頷いていた。
 これから先の出来事に、フェレシュテフが知らされなかった事実があるのだろう。彼女は気を引き締めて、ヴラディスラフの語りに耳を傾ける。

「フェルーシャが生まれて、気持ちに変化が起きた。私やナージャに若しものことがあった時に、フェルーシャが途方に暮れないようにしなければと、考えるようになったんだ。スネジノグラードにいる家族がどんな反応をするのか、容易に想像出来たのだが、それでも、妻子が出来たことだけでも伝えておこうと考えて……私は初めて、スネジノグラードに手紙を送った」

 思えば、それが運命の分かれ道だったのかもしれない。きっと返事は来ないものだろうとヴラディスラフは予想していたのだが、予想に反して、スネジノグラードから母親の直筆で手紙が送られてきた。手紙には、ヴラディスラフに内縁関係の妻子が出来ていることには一切触れずに、ネクラーソフ伯爵家の跡取りであるヴラディスラフの兄が流行り病に罹り、死に瀕していることが記されていた。

「ロスティーシャ……兄に若しものことがあれば、弟である私が爵位を継ぐことが決まっている。兎に角、一度スネジノグラードに戻ってきて欲しいと、書かれていた」
「それで……ヴァージャさんは、スネジノグラードに戻られたのですか?」
「いいや。私は帰国しようとは思わなかった。私が異国で勝手に妻子を持ったことを知った家族が世間体の為に私を連れ戻そうとして、兄が病に伏していると偽っているのではないかと邪推したのと、爵位を継ぐ気がさらさらなかったのと……蟠りのある父に会いたくなかったのと、様々な理由があってね」

 頑なに帰国を拒むヴラディスラフを諭したのは、ナーザーファリンだった。
 手紙の内容が真実なのだとしたら、病に伏しているヴラディスラフの兄を見舞ってやらなくてはと。それが偽りであるのならば、それでも構わない。一度だけでも家族と向き合って話をしてはどうか。勘当されたら勘当されたで構わないからと、ナーザーファリンが懇願してきたのだ。

「ナージャは二度と故国に戻らない覚悟で私と共にやって来てくれたが……心底では、砂漠の国にいる家族のことをいつでも案じていた。時折寂しそうに目玉のお守り(チェシィ・ナザール)を眺めていることを、私は知っていたよ。私には未だ家族を説き伏せる機会があるのだと思って、私を思ってくれたナージャのことを思って、帰国を決意したんだ」

 妻子を伴いたかったが、赤ん坊のフェレシュテフはやっと首が据わってきた頃で、一月近くもかかる船旅やその先の陸路での移動に耐えられそうもない。悩んだ末に、ナーザーファリンとフェレシュテフをマツヤの町に残し、ヴラディスラフが一人で帰国することとなった。

『此処で、フェルーシャと二人で、あなたのお帰りを待っています。どうか何事もなくお帰りくださいませ』
『出来るだけ早く戻ってくるよ。君にも、フェルーシャにも土産を買ってくる。……若しも家族の許しを得ることが出来たら、その時は君とフェルーシャを迎えに来るよ。君とフェルーシャに、スネジノグラードの雪景色を見せてあげたいんだ』

 なかなか戻って来られない可能性もあるので、その場合には手紙を寄越す。勿論、ナーザーファリンが手紙を書いて寄越してくれても構わないのだと言って、ヴラディスラフはスネジノグラードの文字で書かれた住所をナーザーファリンに教え、客船に乗って港町のマツヤを出て行った。
 妻子と離れ離れになった寂しさに耐えているヴラディスラフが故郷であるスネジノグラードに辿り着くと、久方振りに戻ってきたネクラーソフ家の屋敷は深い悲しみに包まれていた。
 ヴラディスラフがスネジノグラードに戻ってくる一週間前に、ヴラディスラフの兄が病死していたのだ。母親との再会の挨拶もそこそこに、ヴラディスラフは直ぐに伯爵である父親に書斎に呼び出され、早速、爵位継承権の話を切り出された。予てから心を決めていたヴラディスラフは父親に条件を出した。ヴラディスラフが爵位を継ぐ場合は、マツヤの町に残してきた妻子を正式にネクラーソフ家に迎え入れることを。その条件は受け入れられないと、父親は激怒した。それでも尚、ヴラディスラフは説得を試みる。結局、父親はナーザーファリンとフェレシュテフを迎え入れることを良しとしなかった。未開の地の野蛮人をネクラーソフ家に入れることなど言語道断だと、切り捨てられた。

「それならば、私は爵位継承権を放棄すると申し出た。私には姉と妹がいたので、彼女たちが入り婿を貰って、その人物に、或いは従兄弟や叔父たちの中の誰かに爵位を譲渡したら良いと。父は聞く耳を持たなかったがね」

 自分の意見を決して曲げようとしないヴラディスラフに、どこか様子のおかしい父親はこんなことを言ってきた。彼の兄ロスティスラフの婚約者であった貴族の女性と結婚して爵位を継げ、と。

「そんなことなど出来る訳がないと訴えたのだが、父は何としてでも婚約の……延いては結婚の話を進めようとしていた」
「それには理由があったのですか?」
「そう、理由があったんだ。後々に判明したことなのだが、兄と婚約関係にあった女性の父親は公爵という地位にある方でね、更には随分な資産家でもあった」

 その年、スネジノグラードは異常気象に見舞われ、農作物が不作となっていた為に食糧不足に陥っていた。追い討ちで致死率の高い流行り病も蔓延し、領民も領主であるネクラーソフ伯爵家の者たちもとても苦しんでいたのだ。その状況を打破しようとして、ヴラディスラフの父親は、かの人物に援助を求め、公爵はそれに応じた。だがそれは、ネクラーソフ伯爵家と姻戚関係になることが約束されているからこそ成り立っているものだった。跡取りであるロスティスラフが病死したことで婚約が解消されたのであれば、縁もそこまでだ。
 伯爵家繁栄の為にも公爵家との繋がりを絶ちたくないヴラディスラフの父親は、必死だったのだろう。

「姻戚関係を結べられたら良いのであれば、親族の男性の何方かが婚約者となったら良いのではないでしょうか?ヴァージャさんのお父上様は何故、ヴァージャさんに拘られたのでしょうか?」
「近しい親族の男性の多くは既婚者であったし、公爵令嬢と見合った年頃の男性は兄と同じ病で亡くなってしまっていてね。どうにか都合がつきそうだったのが、私だけだったようなんだ」

 妻子がいるといっても、所詮は内縁関係だろう。それも、何処の馬の骨とも知れない野蛮人の女というではないか。そんな女など多少の手切れ金でも握らせておけば問題なく消え去るだろう。そう主張してくる父親に、遂にヴラディスラフの堪忍袋の緒が切れた。

「冗談ではないと父を怒鳴りつけた私は、何が何でもマツヤに戻ろうとした。だが、不注意で大怪我をしてしまって……身動きをとることが出来なくなってしまった。その時の後遺症で、右足が不自由になったのだよ」

 歩けないのであれば、這ってでも逃げれば良い。ヴラディスラフは手段を選ばず、屋敷を逃げ出そうとしたが――家族に限らず、親族、屋敷の使用人までもがヴラディスラフの敵となり、逃亡を阻んだ。ヴラディスラフの抵抗も空しく、父親と公爵の手によって着々と準備が進められ、ヴラディスラフは公爵令嬢と強制的に結婚をさせられてしまったのだった。

「奥方様、は、全てのことを……内縁関係の妻子がいることを承知された上で、貴方と結婚をされたのですか?」
「貴族同士の婚姻というものは、互いに愛情を育んだ末に行われるものではなくてね。両家の一族を繁栄へと導く為の手段なのだよ。夫婦の間に愛情があろうがなかろうが、それは然程重要ではない」

 多くの貴族は政略結婚を自らの務めとして享受している。だが、ヴラディスラフは違った。愛する妻と娘の許に帰りたい、この結婚は不毛であると、家族、親族、”社会に認められている妻”にも訴えたが、それは何にもならなかった。

『貴方は、わたくしを瑕物にした挙句に追い出すと仰るの?そのようなこと、公爵たるお父様がお許しになると思って?よくよくお考えあそばせな、ヴォロージャ』

 ヴラディスラフの故国では、どのような理由があれども離婚をするということは最大の恥の一つとされている。彼女が離婚に応じようとしなくても仕方がないと、理解は出来ていた。それでも尚離婚を求めるヴラディスラフに、貴族としての誇りを強く持っている正妻は決して首を縦に振ろうとはしなかった。

「無意味な日々が過ぎていくばかりで私は焦りと不安で、すっかり参ってしまっていた。そして遂に、私は至極最低な過ちを犯してしまった」

 ――解放してほしいのであれば、両家の血を受け継ぐ子供を作れ。そうしたらお前は病死でもしたことにして、解放してやろう。離婚ではないのだから、彼女にも、公爵家にも納得して頂けるだろう。
 悄然としているヴラディスラフに、父親は吐き捨てるように言ってきた。とんでもない条件だと思ったものの、その時のヴラディスラフには冷静な判断をする気力がなかった。彼は藁にも縋る思いで、その条件を飲んでしまったのだ。

「一刻も早くマツヤに戻りたいばかりに、私はナージャを裏切った。目的を達成する為に、結婚相手と関係を持ってしまった。彼女が懐妊するまで、幾度も。その結果として、キーリャが……キリールが生まれた。彼はフェルーシャの、異母弟だ。私は喜んだ、これで貴族の身分から解放される、ナージャとフェルーシャの許に帰れるのだと」

 人として最低なことをしたのは、全て妻子のためだったのだと言い聞かせていた自分は愚かとしか言いようがないと、ヴラディスラフは自嘲の笑みを浮かべた。

(昨日、若様から聞いた話と少し違うような気がするのだけれど……?)

 父母や周囲の者たちの説得に応じ爵位を継承すると決意したヴラディスラフは、予てより婚約話が持ち上がっていた令嬢と結婚したのだと、キリールは言っていた。然し、ヴラディスラフの言い分は違っていた。

『正当な妻であるというのに父上に愛されズ、伯爵家存続の道具として扱われてテ……! 』

 キリールの言い分と、ヴラディスラフの言い分には相違点があるようだと、フェレシュテフは気付く。どちらの言い分が正しいのか、はたまた、どちらの言い分も正しいのか。話を最後まで聞かなくてはと、フェレシュテフは意識をヴラディスラフの語りに戻した。

「だが、それは叶うことはなかった。父は初めから、約束を守るつもりなどなかったんだ」

 まるで其処に不倶戴天の敵がいるかのように、ヴラディスラフは何も置かれていない食卓を睨みつけた。

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