どの雲も裏は銀色

《本編》

風花の訪れ

 フェレシュテフの姿を認めるなり、彼女の母親の墓前に佇んでいた異国の中年の男性は驚きを露にし、「ナージャ」と呟いた。その言葉の意味を知らないフェレシュテフは、きょとんとして小首を傾げる。呆然と彼女を見つける男性は直ぐに我に返ったのか、表情を曇らせて俯き、何かを払拭するように首を振り、溜息を吐いた。その様子は、どこか悲しげに見える。

(……ああ、そうだったわ。私、お母さんのお墓参りに来たのだったわ)

 いつまでも馬鹿みたいに突っ立っているのはおかしいだろう、そう感じたフェレシュテフはゆったりとした足取りで、人間と亜人の二人連れの許へと歩み寄る。

「こんにちは」

 出来るだけ軽やかな声音で声をかけた後で、フェレシュテフは気が付く。一目で異邦の地からやって来たのだと分かる彼らに、はたしてマツヤの言葉が通じるのだろうかと。然し彼女の心配は無用だったようで、人間の男性の方は流暢に、亜人の方は片言気味にマツヤの言葉で「こんにちは」と挨拶を返してきてくれた。彼らには言葉が通じるのかもしれないと思ったフェレシュテフが彼女の母親の墓前までやって来ると、彼らは其処から退き、場所を空けてくれる。場所を譲ってくれた彼らに会釈をし、フェレシュテフはその場に跪くと、既に手向けられていた豪華な花束の隣に彼女が持参した花束をそっと置く。この場で眠る母親の冥福を祈り、これまでの日々を何とか過ごすことが出来たことを母親に報告し終えたフェレシュテフは立ち上がり、振り返る。先客は未だその場に留まっていたので、彼女はもう一度声をかけてみることにした。

「あの……母を、ナーザーファリンを御存知の方ですか?」

 フェレシュテフの亡き母の墓前に佇んでいたということは、恐らくはそうなのだろうと察しはついているが、敢えて尋ねてみる。
 鰐に良く似た容貌の黒い鱗に覆われた巨躯の亜人は、自身の鳩尾の辺りに頭がある人間の男性を静かに見下ろすだけで返事は無い。じっと見下ろされている中年の男性はというと、何かを躊躇っているのか、暫し視線を彷徨わせると、漸く口を開いた。

「ええ、私は……ナージャ、ナーザーファリンの、知り合い、です」

 鼻声になってしまっている中年の男性は、先程まで泣いていたのだろうか、充血してしまっている目を伏せ、表情を曇らせる。しん、という音が聞こえてきそうなほどの妙な沈黙が訪れ、フェレシュテフは表情にこそ出さないが、内心では困惑していた。
 次の会話に繋がるような事柄がないものか、と考えを巡らせているフェレシュテフは、ふっと中年の男性に目をやる。後ろに撫でつけられている金茶色の髪、未だ潤んでいる緑色の瞳。その二つの色は、フェレシュテフも有している。話の切っ掛けになりそうだと、フェレシュテフは瞬時に思い込んだ。

「あの、若しかして貴方様は雪国の……スネジノグラードという都市のお生まれですか?」
「え?ええ、その通りですが……何故お分かりに?」

 フェレシュテフの口を突いて出た唐突な問いに、中年の男性はとても驚いていたが、きちんと答えを返してくれる。フェレシュテフは予想が当たったことに、小さな喜びを得た。

「物心つく前に亡くなった父が貴方様と同じ髪と目の色をしていて、スネジノグラードという雪国の生まれの人だったのだと母から聞かされていたものですから、若しかしたら同郷の方ではないかと思い至りまして、突然お尋ねしてしまったのです」
「そう、ですか……、成程。確かにスネジノグラードには、この色の髪と目の色をした者が多いですね」

 沈黙に耐えられなかったから、とは流石に言えなかったフェレシュテフの珍妙な言い分を受け入れたらしい男性はどこか寂しさを含んだ薄い笑みを浮かべる。

「申し遅れました。私はナーザーファリンの娘、フェレシュテフと申します。母のお知り合いの方……とのことですが、御名前を伺っても宜しいでしょうか?」
「フェレシュテフ……」

 フェレシュテフの名前を呟いた彼は、赤くなってしまっている目を潤ませていく。それを目にしたフェレシュテフは何か気に障ることをいってしまったのだろうかと、動揺してしまう。

「あの、どうかされましたか?」
「ああ、いえ、ナージャに娘さんがいることは知っていましたが、既に大人の女性になられているとまでは知らなかったもので、少し、驚いてしまいました。髪と目の色は違いますが、貴女はナージャによく似ています。先程は彼女と間違えてしまったくらいに」

 ナージャとは、どうやらナーザーファリンの愛称のようだ。彼女をそう呼ぶくらいに、この男性とナーザーファリンは親しい間柄だったようだとフェレシュテフは窺い知る。
 金茶の髪に緑色の目、黒髪に黒い目という違いはあれど、フェレシュテフとその母ナーザーファリンは姿形が良く似ていた。そのことはよく言われていたので、フェレシュテフは誰かにナーザーファリンと間違えられたとしても気を悪くしたりすることはない。今の自分は若かりし頃の母親によく似ているのだろうか、と、思うくらいだ。

「私はヴラディスラフ・ネクラーソフと申します。貴女のお察しの通り、スネジノグラードから此方へとやって来た者です。以前ナージャに大変に世話になりまして、その時分の頃からの……友人です。そして此方は私の親友のフセヴォロドです。なかなかの強面をしていますが、見た目に反した穏やかで優しい人物ですので安心してください」
「……ヴァージャ、セーヴァは全くもって怖くはない。……こほん、セーヴァはフセヴォロドという、以後、見知っておいて欲しい」

 ヴラディスラフの風変わりな自己、親友紹介に、半目になったフセヴォロドが反論をする。だが、燻し銀を思わせる渋い低音に怒気が全く含まれていないので、不服はあるようだが怒る気はないようだ。このやり取りを見ていたフェレシュテフは、彼らはとても仲が良いようだと理解した。

「遠方よりお越しくださいまして、有難う御座います。ネクラーソフ様とフセヴォロド様に来て頂けて、母もきっと喜んでいますわ。……あら?ところで、この場所はどのようにして御存知になったのですか?」

 異邦よりやって来た父親と恋に落ちた母親は、駆け落ちの果てにマツヤへと辿り着いたのだと、いつしか言っていた。よって、ナーザーファリンには頼れる身内が全くいない。知人の存在もナーザーファリンからは知らされていなかったので、フェレシュテフは彼女の死を誰かに知らせることはしなかったと記憶している。

「ヴァージャ、フェレシュテフ。よく陽の当たる場所で長話をするのは辛い。あちらの木陰に移動した方が良い」

 唐突に口を開いたフセヴォロドに促され、フェレシュテフたちは木陰へと移動する。足が悪いらしく、右足を引き摺って歩くヴラディスラフを支えていたフセヴォロドは「セーヴァは席を外している。二人で気兼ねなく話し合うと良い」と言い残して、別の木陰へと向かっていった。

***************

 容赦なく照りつける陽光を枝や葉が遮ってくれるので、木陰は過ごし易い。時折吹く微風が心地良くて、つい気を抜いていたフェレシュテフにヴラディスラフが声をかけてきたので、彼女は僅かに驚き、慌てて意識を彼に向け直す。

「……改めて、先程の質問に対する答えですが――」

 上質の布で作られた上着の内から一通の白茶けた封筒を取り出したヴラディスラフは、それをフェレシュテフに差し出してきた。彼女はそれを受け取り、視線を落とす。封筒にはナーザーファリンが書いたのだと分かる文字が羅列していて、マツヤで使われている文字と、見慣れない文字の二種類が記されている。マツヤで使われている文字で、表にはヴラディスラフの名前、裏にはナーザーファリンの名前と住所が記されているので、見慣れない文字も同じことが書かれているのだろうとフェレシュテフは予想する。

「数ヶ月前に随分と遅れて……私の許へとこの手紙が送られてきました」
「読んでも、良いのですか?」

 フェレシュテフのその問いに、ヴラディスラフは首を縦に振る。彼の許可を受けたフェレシュテフは封を空け、便箋に目を通す――が。

「申し訳ありません、ネクラーソフ様。この手紙には何が書かれているのでしょうか?私はマツヤで使われている文字は読めるのですが、母の故郷である砂漠の国で使われているものは読めないのです。母の故郷の言葉は聞き取ったり、話したりすることは出来るのですが……」

 便箋に羅列している文字は、ナーザーファリンの故郷で使われている文字だということが分かるくらいで、彼女には読めないものだった。差支えがないのであれば手紙に綴られていることを教えて欲しいと頼んでみると、ヴラディスラフは快く内容を教えてくれた。その手紙には、病に冒された身となったナーザーファリンの余命が幾許もないこと、彼女が亡くなってしまうと独りぼっちになってしまうフェレシュテフの身を案じていること、出来ることなら自分の代わりにヴラディスラフにフェレシュテフの行く末を見守って貰えないだろうかという願いなどが記されていると。

「母が、ネクラーソフ様に、手紙を……」

 封筒に付けられている消印――マツヤで押されたものなので、マツヤで使われている文字で記されている――は、四年も前のものだった。その時分はというと、フェレシュテフが娼婦となったことで病床のナーザーファリンを医師に診て貰えるようになったものの、ナーザーファリンの病状は悪化の一途を辿り、床から起き上がれない日が増えてきた頃だっただろうか。と、フェレシュテフは思い返しながら、ヴラディスラフに手紙を返す。
 フェレシュテフの知らないところで、起き上がることも辛くなっていっていたナーザーファリンが知人であるヴラディスラフに手紙を出していた。そのことを、彼女はこの時初めて知った。

「この手紙を読んだ後、出来る限り急いで此方へとやって来たのですが、手紙に記されていた住所にナージャと貴女の姿がなく……。町で聞き込みをして、漸くこの共同墓地へと辿り着いて……」
「申し訳ありません。以前に暮らしていた家は母が亡くなった後……借金の返済に充てる為に売ってしまったのです」
「貴女が詫びることはありません、事情があったのですから。時機が悪かったのだと、私は思っています」

 不測の事態があったとはいえ、ナーザーファリンが亡くなる前にマツヤへやって来ることが出来なかった。そのことをヴラディスラフはとても悔いているように、フェレシュテフには見えた。
 浮かない表情をしたヴラディスラフは一瞬視線を迷わせると、意を決したような表情をして、口を開く。

「突然ですが……不躾なことを伺っても宜しいですか?」
「何でしょうか?」
「貴女は未だ、色町で娼婦をしていらっしゃるのですか?」

 これは確かに不躾な質問だ。フェレシュテフは面食らい、言葉を詰まらせる。ヴラディスラフは何故、フェレシュテフが娼婦であるのかと尋ねてきたのか。ナーザーファリンの手紙にそのことが記されていたのか、はたまた聞き込みをした際に耳にしたのか。動揺しながらもフェレシュテフが尋ねてみると、その答えは前者であることが判明する。
 自分が病に倒れたことで、唯でさえ余裕があるとは言えなかった生活が更に困窮してしまい、生活費や自分の薬代と稼ぐ為に一人娘が娼婦になってしまったことを、手紙の中のナーザーファリンはとても気に病んでいた、と、ヴラディスラフは静かに語る。

『貴女が健やかであってくれることが、お母さんの何よりの幸せなのよ』
『お母さんのことを思って、こんなことをしたの?馬鹿なことをしたわね……でも、貴女のその気持ちは嬉しいわ。貴女が稼いでくれたお金は、大切に、大切に使わせて貰うわね。一日でも早く体を良くして、一所懸命に働いて、借金を返していくわ』
『貴女がここまでしてくれたのに、ごめんなさいね。自由にしてあげられなくて、ごめんなさいね』

 もう何年も前の出来事だというのに、フェレシュテフの脳裏にナーザーファリンの柔らかい声が鮮やかに蘇ってきて、胸を締めつけてくる。母の死を乗り切れたと思っていたけれど、心の奥底では未だ割り切れていなかったようだとフェレシュテフは悟る。

「……母の診療代や薬代が結構嵩んでしまいまして、借金が少しずつ増えていってしまいましたけれど……、母が亡くなってから、少しでもお金に換えられるものは全て売り払って借金の返済に充てましたから、そうですね、あと二、三年ほど働けば利子も含めて完済出来そうな額にまではなっています」
「そうですか。ならば、私が貴女の身請けを致しましょう。そうすれば、ナージャの最後の願いを叶えられますから……」

 ヴラディスラフの突然の申し出に、フェレシュテフはまたしても面食らう。

「借金を早く返済したいと思っておりますけれど……だからといって、それをネクラーソフ様に肩代わりして頂くことは出来ません。母の御友人である貴方様に、そんなことをしていただく訳には……」

 今日初めて出会った人物に身請けを引き受けると申し出られて、あっさりと承諾出来るほどフェレシュテフは図太くない。娼婦になったことは自分で選んだことだから、という強い自負がフェレシュテフに頑なにヴラディスラフの申し出を断らせようとする。然し、フェレシュテフが断りを入れても、ヴラディスラフは何故か引き下がろうとはしない。

「私は昔、ナージャを裏切ってしまいました。だからずっと、ナージャに償いをしたかったのです。けれどそれが叶わなくなってしまった今、彼女の願いを叶えることで、償いをしているのだと思いたいのです。勝手なことを申していると、分かっています。ですがどうか私に、その機会を与えては頂けないでしょうか?」

 哀しみと深い後悔を物語る緑色の目が、同じ色をしたフェレシュテフの目をじいっと見つめてくる。この人は引き下がらない、自分が首を縦に振るまでは。フェレシュテフの直感がそう告げてくる。
 ヴラディスラフの申し出を受けてしまえば、母親の願いを叶えられるのは事実だ。娼婦という職業から足を洗うことを、誰よりも望んでいたのはナーザーファリン。ここは流れに身を任せてしまった方が良いのかもしれない、とフェレシュテフは考え直す。

「……分かりました。ネクラーソフ様に身請けをして頂いても、宜しいでしょうか?」

 フェレシュテフが是の答えを出すと、ヴラディスラフは明らかに安堵の色を浮かべ、フェレシュテフが所属している娼館の名前や、借金の詳細な額などを尋ねてくる。フェレシュテフはそれらの問いに、正直に答えた。身請けは果たして叶うのだろうか、という僅かな疑念を抱きつつも。

「明日、必ず娼館に伺い、店主に身請けの話をつけます。それでは、ごきげんよう」
「ごきげんよう、ネクラーソフ様。”ソーマの雫”にて、お待ちしております」

 薄い笑みを浮かべたヴラディスラフは踵を返し、離れた所で待機しているフセヴォロドを呼び寄せ、歩いていく。彼らを見送るフェレシュテフの視線に気が付いたフセヴォロドは首を彼女の方へと向け、小さく会釈をしてくれた。

***************

 彼らが共同墓地を去るまで見送りをしていたフェレシュテフは木陰から抜け出し、再び母親の墓前にやって来て、ぽつりと呟く。

「これで良かったのかしらね、お母さん……?」

 自分の選択が正しかったのか、それとも間違っていたのか、フェレシュテフにはよく分からない。だからこそ、どうしても不安な気持ちが生じてくる。

「お母さんに友人がいたなんて、知らなかったわ。どうして教えてくれなかったの?」

 彼が持っていた手紙に書かれていた住所は間違いなく、以前住んでいた家のものだった。そこに記されている字も、見慣れたナーザーファリンの字だった。だからこそフェレシュテフは、ヴラディスラフはナーザーファリンの知人であると信用したのだ――その時は。
一人になって、少しずつ冷静になってきたところで、彼は本当にそうなのか?という疑念が浮かんでくる。ナーザーファリンのことをよく知っている人間が現れた喜びで、フェレシュテフは浮かれてしまったのかもしれない。

「今更疑っても仕方がないわね」

 なるようにしかならない、というのはこれまでの経験で分かっているので、フェレシュテフは楽観的に物事を捉えることにする。世の中そんなに甘くないことも、彼女は重々承知しているのだがそうした方が気が楽なのだ。

「あら?今気が付いたけれど……ネクラーソフ様に身請けされたら、私、マツヤを離れなくてはいけないのかしら?」

 身請けとは、多額の金を払うことで娼婦を買い取るということ。娼婦の主人が娼館の主から身請けをした者に変わるということ。フェレシュテフの新たな主人となるヴラディスラフがスネジノグラードに戻るのであれば、彼女も共に其方へと赴くことになるのだろうか。

「それは困るわ。お母さんのお墓は移せないし……」

 身請けしてもらった先のことを、ヴラディスラフに尋ねなければ。そう心に決めたフェレシュテフは小さく息をつき、香りの良い花束が手向けられている母親の墓に顔を向け、「また来られるようだったら、来るわね」と告げて、踵を返す。
 これから本当にどうなるのだろうか。僅かな期待と不安を抱えながら、フェレシュテフは色町へと戻っていった。

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