我は希う、混沌の其の先を

御前会議

無数の星を鏤めた夜の闇が去り行き、燦々と輝く太陽と伴った朝が訪れる。
“ヴァルキリャ”のシグルーンが寄越してきた馬車に揺られ、皇帝の住居であるヴァラスキャールヴへと向かう。

(……ヴァラスキャールヴとはかような外観をしておるのか)

神々が謀で手に入れたとされる銀で覆われた館の名を冠する皇帝の住居。伝承の通りに銀で覆われてはいないといえ、白亜の大理石で作られた屋敷は美しい。広々とした庭には丁寧に手入れされた芝が敷き詰められ、庭木の種類も豊富だ。門と屋敷の入り口を繋ぐ石畳の周りに植えられている薔薇は丁度満開の時期を迎えたところで、赤々とした豪奢な花を咲かせ、濃厚な香りを漂わせていた。
ヴァラスキャールヴの使用人を束ねる執事に通されたのは、ヴァルハラ宮の謁見の間に勝るとも劣らない広さを有した広間だった。上座には皇帝のみが座ることを許されている玉座(フリズスキャールヴ)が置かれており、その眼前に設置されている巨大な円卓には、皇帝の勅命により召喚された皇族や公爵たちが席に着いていた。

「ようこそ御出でくださいました、“黒鋼”の君」

広間へと足を踏み入れたゼルダを迎えたのは、扇情的な身体つきと反対に涼しげな表情を持つ女性だった。

「おや、“ノルニル”のヴェルザンディがいるとは珍しいこともあるものですね……」
「何だ、知り合いか?」
「まさか。ただの顔見知りです」

爪に神聖な“魔術文字(ルーン)”を刻んでいる彼女は今回の御前会議を取り仕切る役目を任せられているようで、ゼルダたちに決められた席に座るようにと指示をしてきた。
五十年振りにアスガルドへと舞い戻ってきた末の皇女――姿は男だが――を視界に入れると、彼らは様々な反応を見せる。好奇や侮蔑の視線を送る者、ゼルダの存在を意に介さない者など。ゼルダの機嫌は急降下していくばかりだ。

「私と殿下はお隣のようですね?」
「そのようだな」

玉座とは対面になる位置にある席が二つ空いている。
向かって右側の席に皇族のゼルダが、左側の席に公爵のヨハネスが腰を下ろし、その後ろにベルガたちは控える。

「……どうして私の隣が“出来損い”なのよ……」

敢えて気付いていない振りをしていたというのに。ゼルダは眉間に皺を寄せ、不愉快な声を発する人物を見やる。“ウマヅラダ”という蔑称をくれてやっている異母姉――第三皇女“氷晶”のヴァルブルガは、ゼルダに負けじと睨みつけてくる。

(是非も無いこととはいえ、気が滅入るな……)

皇族の並び順は、玉座に近い方から第一皇子、第二皇子と、生まれた順となっている。ゼルダは末子であるので対面であるとはいえ玉座からは最も離れた席となり、異母姉のヴァルブルガは第九子である為必然と隣席になるのだ。
気の置けない関係であるヨハネスが左隣であることが救いか。ゼルダが大袈裟に溜め息を吐くと、ヴァルブルガは額に青筋を浮かべ、口元を憎々しげに歪めた。

「此方は我々皇族の席よ。“出来損い”に与えられる席など無いの、お前など出入り口の側に突っ立っていれば良いのよ。御前会議に呼んで頂けただけでも至福であると思い知りなさい」

自らが望んでやって来たのではなく、皇帝の勅命によりやってきただけなのだが。失礼極まりない異母姉――血が繋がっているなどと到底思いたくない――に反論する気すら湧いてこない。
ちらりと左隣を見やれば、ヨハネスは顔は勿論、澱んだ目も此方へは向けてはこなかった――自分の問題は自分で解決をしろということか。
さて、如何しようか。ゼルダが思考を巡らせようとしたその時、聞き覚えのない軽薄な男の声が鼓膜を叩いた。

「こらこら、つれないことを言うものではないよ、“氷晶”。此度の御前会議の事前資料に、“黒鋼”の名は然と記載されていた。よって、彼は此方の席についても問題はないのだよ?」
「……“紅炎(こうえん)”の兄君……」

玉座に近い席に着いている浅黒い肌をした陽気な男は、ゼルダや目下の者たちには尊大且つ高慢な態度をとって憚らないヴァルブルガをいとも容易く黙らせる。それもそのはず、彼はゼルダたちの異母兄にあたる。ヴァルブルガにとっても目上の相手となるのだ。

(……此奴は……)

“紅炎”――第三皇子バルドゥイン・ウーヴェ・アルファズル。母親に“炎熱の民(ムスペル)”の血が混じっており、その血の影響が強く出たと噂されているらしい彼は、灰白の髪と揺らめく炎のような目をしている。埋み火のような角と尻尾がなければ、“ムスペル”そのものと言っても過言ではない容姿をしている異母兄は、ゼルダが生まれた頃には既に数々の公務をこなしており、ゼルダとは直接的な接触は殆どなかった。その為に蔑まれた記憶も、理由もなく殴られた記憶もないが、かといって親しくしていた記憶もない。
ゼルダはいつも遠くから幾度かこの異母兄の姿を見かけたことがあるくらいだったのだ。
そんな彼が何故、二人の間に割って入ってきたのか意図が読めない。ゼルダは疑心暗鬼の目でもって、軟派な雰囲気を醸し出すバルドゥインを凝視する。

「どうかしたのかい、“黒鋼”?」
「……どうもしてはおらぬ、“紅炎”」

ゼルダの胡乱気な視線をバルドゥインは軽く受け流す。異腹の兄弟ににこやかな表情を向けられることに違和感を感じるゼルダは、思わず目を逸らした。右隣からも射殺さんばかりの鋭い視線が突き刺さってくる。

(幾歳経ようとも、微塵も変わらぬとは……哀れよな)

やれやれと首を振りながら溜め息を吐く。すると左隣から、柑橘類の匂いを含んだ紅茶の良い香りが漂ってきていることに気が付く。いつの間にやらルーディに淹れさせたらしい紅茶――ニヴルヘイムから持参していたようだ――を優雅に堪能しているヨハネスに、ゼルダは睨みをきかせる。
――儂にも寄越せ!と。
ヨハネスは気が付かない振りをしていたが、それを察したルーディが紅茶を恵んでくれたのは言うまでもない。
それから暫くした頃、ヴェルザンディが畏まった様子で口を開いた。

「皆様、御静粛に。皇帝陛下、御入来」

力強く発せられたアルトと共に、皇族と公爵たちは一斉に起立し、頭を深く沈めた。侍従によって扉が開かれ、微かな衣擦れの音を伴い現れた帝国の主――フリードリヒ・ユリウス・カイザー・アルファズルは、玉座フリズスキャールヴに腰を落ち着けるとアスガルドの空と同じ色をした双眸で真っ直ぐに正面を見据えた。

「参集、大儀である。我が血族、そして臣民よ」

皇帝は威厳のあるバリトンを響かせ、早速本日の議題を切り出した。

「既に存じている者がおるやもしれぬが……先日、余が語りかけねば答えることのない“ミーミルの首”が自ら言の葉を投げ寄越してきた――“神々の運命(ラグナレク)”の時が訪れるとな」

矢張りそうであったか。そうでもなければ“出来損い”である我が身が軟禁を解かれ、召喚される筈もない。ヨハネスの予想は見事に的中していたのだと、ゼルダは改めて知る。
このことは公式発表はされていないようだったが、先程皇帝がいったように、察知している者が多かったのだろう。微かにざわめきはすれど、動揺を顕わにする者はいなかった。

「この場にて、次代の皇帝を決する時が訪れたことを宣言する」

皇帝が鷹揚と手を翳すと、側に控えているヴェルザンディが恭しく一礼をする。

「これより、“ノルニル”が一人ヴェルザンディが概説をさせて頂きます」

帝国の法を司る機関“ノルニル”。過去を映し出すといわれている“ウルズの泉”の守護者たるウルズを筆頭とする彼女らは、古来より“ラグナレク”の戦の審判の役も担っているのだという。
ヴェルザンディは生真面目な様子で淡々と語り始める。

「我が帝国の帝位継承は、継承権保持者同士が命を賭して戦うことと定められております。先帝より帝位を簒奪された御方を新たなる皇帝として迎え入れることは、周知の事実に御座いますね?」

継承権保持者には幾つかの選択肢が与えられている。
自らの手を血に染めて玉座を奪い取る道。己が主上に相応しいと見定めた継承権保持者の下へ降り、僕として覇道を歩む助けとなる道。傍観者として中立の立場をとる道。
どの選択肢を選ぶのか、それはそれぞれの継承権保持者の意思に委ねられる。

「但し、一つだけ遵守して頂きたきことがあります。“ラグナレク”の戦に参じられますと、如何なる理由があろうとも途中で撤退することは決して許されません。若しも道を違えられてしまった場合は、我ら“ノルニル”があらゆる手段で以て断罪致します。尚、参戦する、しないに関わらず継承権保持者の皆様には、必ず監査役の“ノルニル”が付けられます。戦の詳細や質問などはその者にお尋ね頂きますよう御願い申し上げます。以上をもちまして、審判者たる“ノルニル”による概説とさせて頂きます」

概説を終えたヴェルザンディは恭しく一礼し、一歩退がる。彼女と入れ替わるように、皇帝が再び語り始める。

「帝位継承権保持者たる我が血族、そして臣民よ。今し方、“ラグナレク”の時が訪れることを知らせたばかりではあるが……己が進むべき道を決している者が多いと余は見做した。汝らにはこの場にて戦に参じるか否かを表明してもらいたい」

随分と唐突、且つ性急だ。けれどもゼルダはアスガルドへとやって来る以前に自身の身の振り方を考えていた為、この問いの返答に困ることはない。目を動かして周囲の様子を窺ってみると、少なからず困惑している者はいるが、殆どの者は意を決しているように見受けられた。

「我が血族よ、汝らは如何する所存であるか?」

皇帝は先ず、向かって左隣の席に座っている第一皇子から順に尋ねていく。すると双子の皇女である第一皇女“燦陽(さんよう)”のアルステーデ、第二皇女“月煌(げっこう)”のベートゲアがヴェルザンディに向けて同時に言葉を発した。

「「“燦陽”と“月煌”は共闘して帝位を狙う心算だけれど、それは可能なの?」」

外見だけでは区別がつかない彼女らは、流石は一卵性双生児といったところで、寸分の狂いもない見事なユニゾンを奏でる。帝位は望むが、母親の胎内から共に存在している姉妹同士で争うことはしたくないのだろう。

「“燦陽”の君と“月煌”の君の何方か一方が皇帝の座に就き、もう一方がその臣下となるということなのであれば可能に御座います」
「「それで良いわ。我々はそのようにして、帝位を手に入れましょう」」

ヴェルザンディは目を閉じて逡巡した後に、回答を述べる。その答えに満足した双子の皇女は満開の花のような可憐な笑みを浮かべた。
他の皇子や皇女たちも続々と参戦の意を示していき、遂にゼルダの番が訪れる。

「“黒鋼”、汝は如何するつもりだ?」

ゼルダと同じ色をした双眸が、射るように此方を凝視する。その視線の鋭さに思わず身が竦んだが、ゼルダはぎゅっと拳を握って背筋をぴんと伸ばし、毅然とした態度で宣言をした。

「我も戦に参じまする」

自由を手に入れる為に、大切な“家族”を守る為に望まぬ帝位をこの手に。
つい先日まで軟禁されている身の上であった者が参戦する意志を持っているとは誰も彼も想像だにしていなかったのだろう、僅かな沈黙の後に失笑をする無礼な輩が数人。その筆頭、ヴァルブルガが早速噛み付いてくる。

「お前が、戦に参じる?犬死するのが目に見えているというのに?」
「“氷晶”がこのように申しておりますが、この場に召喚されているというのに我には戦に参じる資格がないと仰られまするか、陛下?」

ヴァルブルガには一切目もくれず、ゼルダは対面に座する皇帝を射抜く。

「……“出来損い”であるとはいえ、汝も我が血族である。故に帝位継承権保持者であることに異存はない」
「有難き所存に御座います。そうれ、みたことか。貴様が可笑しなことを申しておるのだと証明されたぞ、ウマヅラダ」
「……この、“出来損い”が……っ!」

異母姉に対する蔑称を口にし、目を細め鼻で笑うゼルダに腹を立てたヴァルブルガが声を荒げる。

「余は無駄な争いを好まぬ。事を荒げるようであるのならば、即刻退去を命ずるぞ、“氷晶”」
「……失礼、致しました……っ」

父である皇帝に冷徹な声音でもって窘められると、ヴァルブルガは苦虫を噛み潰したような顔をし、謝罪の言葉を述べると俯いて黙った。

「血族は皆、戦に参じるか。して、臣民は如何する所存か?」
「恐れながら、陛下」

我先にと挙手をしたのは、筋骨隆々の体躯を誇る小さな老人――地下世界ニザヴェリルを治める公爵、“ドヴェルグ”のラーズスヴィズだ。成人の平均身長が多種族の子供程度しかない“ドヴェルグ”の長は、皇帝の許可を得ると朗々と語り始める。

「我ら“ドヴェルグ”は帝位を欲しませぬ。また、何方にもつきませぬが、我らの有する鍛冶の技術を買ってくださるのであれば、何方にでも協力致しましょうぞ」
「ラーズスヴィズよ。貴殿は誰彼構わず媚を売ると仰っておられるように聞こえるのだが?」

灼熱の大地ムスペルヘイムを治める若き公爵スルトが老獪の意見に難色を示す。燃え盛る炎にも似た炯眼を向けてくるスルトに対し、小さな老獪は目を細め、白く長い髭に覆われ隠れ気味になっている唇を吊り上げた。

「左様。然し、これもまた生き残る為の処世術であるといえよう?我らはこれまでに培ってきた技を守る為ならば、進んで蝙蝠となろうぞ。して、若き焔は如何な道を歩むつもりかな?」

「我ら“ムスペル”は焔によりて世界を破滅へと導き、新たに世界を創造する所存に御座います」

野望に満ちた双眸で、スルトは皇帝を見据える。彼なりの宣戦布告か。

「我々“リョスアールヴ”は“燦陽”の君、“月煌”の君を主として仕える所存に御座います」

雪石膏(アラバスター)の肌に陽光を集めて固めたような金糸、そして宝石のような碧眼、透き通る羽を持つ絶世の美女――空中都市アールヴヘイムを治める女公爵レギンレイヴは、おっとりとした口調で宣言する。このように次々と公爵たちは意思を示していき、残るはニヴルヘイム及びヘル公爵ヨハネス唯一人となる。

「ニヴルヘイムの死人よ、貴殿は如何されるのだ?」

アスガルドの高官全てが恐れるヨハネスを、スルトははっきりと死人と呼んだ。その勇気ある行動にゼルダは思わず感心してしまった。

(見上げた根性であるが、ハンスはそれ以上だ。こっ酷く仕返しをされないように祈っておいてやろう、“ムスペル”の若造……)

ゼルダは憐憫の情をスルトに向けてから、今頃は頭の隅で仕返しの算段を企てているであろうヨハネスを横目で一瞥した。

「私は帝位などというものには今も昔もこれからも興味がありませんのでね。ですが、我ら“ニーベルンク”は“黒鋼”の君に従うことを誓いましょう」

澱んだ緑瞳をした“死にかけ公爵”の宣言は、他者の失笑を買う。

「「“黒鋼”を皇帝とするですって?正気の沙汰とは思えないわよ、ニヴルヘイム・ファウスト」」
「元より正気ではないと存じておりましたが、よもやここまでとは存じませなんだ……」

双子の皇女が奏でる嘲笑混じりのユニゾンと、レギンレイヴの憐憫がいやに癇に障る。隣で侮蔑の視線を送ってくるヴァルブルガの意地の悪さにも辟易する。

「失敬な。トチ狂ってもいなければ、目も曇ってはおりませんのでね。仕えるべき主を然と見極めているからこそ、私はこのように申し上げているだけですのでね。侮って頂きたくはない、我が君を」

いつになく真面目な表情でもって語るヨハネスの様子に、これは演技でもなんでもないのだと誰もが悟る。

(……ハンス、汝は愚かよな……。ただでさえ多い敵を更に増やして如何するつもりだ……)

心の内で悪態をつきつつも、ゼルダは微かに笑みを浮かべている。彼の言葉が嬉しかったのだ。ヨハネスはどこまでもゼルダの味方でいてくれるのだと思うと、安堵の気持ちが胸に広がる。

「これまでの出来事は全て“ウルズの泉”が記録しております。よって、一度口外なされた言の葉は決して撤回出来ませぬ。これより、帝位継承権保持者の皆様には各々の領土へと帰還して頂きます。後程、監査役の“ノルニル”を派遣いたします故、“ラグナレク”の戦の詳細や質問は全てその者にお尋ね頂けますよう御願い申し上げます。それでは、“決戦の地(ヴィーグリーズ)”にて新たなる皇帝陛下となられる御方に拝謁出来ますことを心より御待ち申し上げます」
「帝位継承権保持者たる我が血族、そして臣民よ。余の首を欲するのであれば、同胞(はらから)を手にかけ、己が諸手を朱に染めよ。余は決して、自らの死を恐れ、逃げ惑うことはせぬ。だが天命であるからと大人しく弑されてもやらぬ。覚悟の足らぬ者は即刻舞台より去るが良い」

皇帝は釈然と起立し、丈の長い外套を翻して退室していく。ヴェルザンディが粛々と御前会議の終了を告げ、継承権保持者たちは漸く解散を許され、次々と退席していく。そして去り際に、またしても噛み付いてくる者が一人。

「参戦することを許されたからといって、良い気になるんじゃないわよ、“出来損い”!お前が私が直々に叩き潰してやる、それまでに現し世に別れを告げることね!」
「それは貴様の方だ。せいぜい謳え、そして悔いると良い」
「はん、軽口を叩けるのは今のうちよ!」

憎しみを孕んだ目が交錯し、逸らされる。ヴァルブルガは従者を伴い、肩で風を切りながら退場していった。
その後ろ姿には一切目もくれず、ゼルダは呆れ果てた様子でベルガたちを呼び寄せる。二人の姿を視界に収めた途端に安堵したのか、氷が融解していくように張り詰めていたものが解けていく。しかめっ面が疲れきった表情へと変化するのを目の当たりにし、ベルガは彼の内情を察したのか苦笑したのだった。

「“ラグナレク”の戦に参じられるのですね、我が君」

どこか不安げな声音でベルガが呟く。その言葉で、ゼルダはベルガたちには知らせていなかったことを思い出した。

「ああ、手にしたいものがあるのでな。して……あのヴェルザンディとやらは各々の所領へと帰還せよなどと申しておったが……儂にはそのようなものはないのだがな?」

各地を治める公爵たちのように、皇族――ゼルダの異腹の兄弟たちは領地を有しているのだが、これまでニヴルヘイムで軟禁生活――という名の居候生活――を送っていたゼルダには領地がない。このままアスガルド――ヴァルハラ宮に滞在するのか、だが、此処には己の居場所はないように思える。かといって、過日に盛大にお別れ会を催してしまった以上、居候先であったニヴルヘイムにおめおめと舞い戻るというのも気が引ける――ヨハネスは先程、ゼルダの味方となると言っていたが。
見栄を張るのは良いのだが、果たして宿無しの状態でどのように戦に参じるというのか。ゼルダは悩んだ結果、一つの答えを出した。

「……テント暮らしか?」

ゼルダの独り言を耳にすると、ベルガは笑みを深くし、ベルトはふいと顔を背けた。どうやら笑いのツボに入ったらしい。
存外に良い案かもしれないと自画自賛したゼルダだが、直後に重大な事実に気がつく。テントを購入する資金が手許にない、いや、一銭も持ち合わせていない。がっくりと肩を落とした時、地の底から這いずり出てくるような声が鼓膜を叩く。

「ヘルのナーストレンドに、エリューズニルと呼ばれるファウスト本家の別邸がありますので、其方を根城として使って頂いても結構ですのでね、我が君」
「……ハンス」

此方をじっと見つめる澱んだ緑瞳から一旦目を逸らしたが、逡巡した後に挑むように見る。

「如何な心算であのようなことを申したのだ?儂なぞについても汝には得はないのだと、誰よりも頭が回る汝ならば理解しておるだろうに」
「素直に『ハンスがああ言ってくれてグリゼルディス嬉しかったのぉ〜』とか仰ってくださっても良いのではないですかね、本音はそうなのでしょう?……気色の悪い言い方すんなって顔をなさらないでくれませんかね、我が君。ルーくんやベルちゃんたちも、顔には出さなくても心で思わないように。……まあ、私は我が君の臣下ですのでね、当然のことを申し上げたまでですのでね」
「……ふん、道化が」

曲芸(サーカス)には出演出来ない方のね。ヨハネスがそう付け加えると、二人は顔を見合わせ、にやりと笑う。

「……して、ナーストレンドとは?汝の所領の内にあることしか知らなんだ……」

ゼルダが把握しているのは、ヴァルハラ宮の中と軟禁先のニヴルヘイム、そしてヘルとの境にあるグニパヘッリルの洞窟に存在する“歪みの穴(ワームホール)”の先だけだ。

「ベルト、汝は存じておるか?」
「はい、幾度か赴いたことがあります」

執務の関係でヨハネスやルーディがその場所へと赴かなければならないので、次元を自在に操るベルトに送迎を頼んだのだそうだ。

「ベルくんがいますので、エリューズニルには行けますね。そうですね、我が君の為にルーくんを貸して差し上げましょうかね。ルーくんはヘル生まれのヘル育ちですので、色々と詳しいですよ」

極寒の大地ヘルでは、白銀の世界に一変する季節のあるニヴルヘイムで得た知識はあまり役に立たない。ゼルダに釘を刺すと、ヨハネスはくるりと踵を返す。

「やれ、ハンス。何処へ参る?」

用事はもう済んだはずだ。ニヴルヘイムへ帰るのならばベルトに送らせようと言いかけたが、ヨハネスは帰る気配を見せないでいる。アスガルドを毛嫌いしているのだ、今直ぐにでもニヴルヘイムへ帰還するものだと思っていたのだが。

「実はもう一つ大事な用事がありましてね。それを済ませてから帰ります。ああ、私はヴァルハラ宮にいるスヴァルトアールヴを脅は……いえ、お願いして送って貰いますので、ルーくんは輪が君をエリューズニルへ御案内して差し上げてくださいね」
「はい、畏まりました。御気をつけて、ヨハネス様」
「パピー」
「……パピー」

複雑な表情を浮かべるルーディに満足し、ヨハネスはひらひらと手を振りながら去っていく。その姿が見えなくなったのと同時に、ゼルダの腹が豪快な音を立てた。そういえば未だ昼飯を食べていない。

「……エリューズニルへと向かう前に、腹ごしらえをせぬか?」
「畏まりました。そうですね、ヴァラスキャールヴの城下町に行きましょうか。其処で色々なものを買って食べましょう。ついでにおやつも買いましょうね」

ヨハネスの代理としてアスガルドにやって来る機会が多いルーディに任せれば、兎に角腹が満たせるだろう。安直に考えたゼルダは、ルーディの提案を快諾する。

「儂は一文無しでな。ルーディ、奢ってたもれ」
「ふふふ、先程ヨハネス様に御小遣いを頂きました。結構な金額ですから、沢山食べ物を召し上がってくださっても問題ないですよ、殿下」

――恐らくゼル様は神経の使い過ぎで疲れてお腹を空かせているでしょうからね。
ゼルダの生態を熟知しているヨハネスは、こうなることを察知していた。何事にも無関心なようでいて、実際は誰よりも冷静に物事を見ている。それがゼルダの知る、“死にかけ公爵”ヨハネス・ゲオルク・ファウストという人物だ。

「うむ。ハンスの心遣いに感謝し、腹一杯食してやろう!」

ゼルダが意気揚々と宣言すると、三人は楽しげに目を細めた。