我は希う、混沌の其の先を

シグルーンとウマヅラダ

“門”の向こう側――アスガルドの地を踏んだゼルダは、あまりの眩しさに反射的に目を閉じた。ニヴルヘイムの薄暗さに慣れきってしまっている目には、この明るさが辛く感じられ、今ならばヨハネスが言っていたこと―陽光が眩しすぎて目が潰れる―の意味が理解出来る。
漸く目が明るさに慣れてきた頃、ゼルダは心なしか重たく感じられる瞼をゆっくりと開け、徐に空を仰いだ。<

(……この空の蒼さは……気味が悪い……)

雲一つない澄み渡る蒼穹には燦々と輝く太陽が浮かび、愛らしい小鳥たちは軽やかに囀りながら自由に羽ばたいている。緑は満ち溢れ、草や樹木の濃い匂いが鼻腔を擽った。荒れた大地が広がる冷たいニヴルヘイムとは大きく異なる環境に、妙な居心地の悪さを覚えてしまった。

――アスガルドはこれほどまでに美しい土地だったのだろうか、と。

“あの頃”はちっとも美しいとは思わなかったのだ。五十年前のゼルダの胸の内を占めていたのは「こんな地獄からは必ず這い出てやる」という妄執にも近い執念で、花鳥風月を愛でる余裕など毛ほどもなかった。
けれど、”今”はどうだろうか?

(……少なからず周囲を見渡す余裕は出来ているようであるな?)

自身を嘲笑するように、ゼルダは口唇の片端を吊り上げると少女の姿から青年の姿へと変化する。此処はもう楽園のようであったニヴルヘイムではない、戦場に赴く時は”この姿”で参るのだと彼は決めているのだ。

「ヴァルグリンド門の付近に”門”を繋ぎましたが、これで宜しかったでしょうか?」

事前に打ち合わせをしていたのか、ベルトは静かにヨハネスに尋ねた。
遮光スーツを着込んでいる彼は大きなヘルメットが邪魔をして頷けないので、片手を重たげに挙げて応える。

「ええ、結構ですよ。御苦労様ですね、ベルくん」

ヨハネスが彼を労うと、ベルトは黙礼をする。

「いきなり謁見の間に突撃してやっても良いのですがね?確実に謀反を起こしやがったなといちゃもんをつけられますのでね、此処が丁度良いのではないかと思いまして、ね?」

ゼルダらが辿り着いたのはヴァルグリンド門と呼ばれるヴァルハラ宮への入り口の一つの近くなのだが、アスガルド帝国の中枢とも言える宮殿の一角であるというのに警備兵が配置されていない。無用心である、と考えてしまいがちだが此処には”目には見えない目”が張り巡らされているので問題はない、のだ。

「……ほら、手際良く”ヘイムダル”がお迎えを寄越してくれたようですのでね?」

ヨハネスが呟くのと同時に、ゼルダの長い耳が金属音を捉える。其方へと顔を向けると、ヴァルグリンド門の向こう側から数人の兵士を引き連れた背の高い女がやって来るのが見えた。
煌く金糸の様な長い髪を後ろで緩く束ねた女は、鈍く銀色に輝く鎧を身に纏い、腰に佩いた剣の柄に手をやりながら、軍人然とした足取りで此方へとやってく来ると、切れ長の鋭い琥珀色の目で真っ直ぐ見据えてきた。

「皇帝陛下のおわしますヴァルハラ宮に如何用で御座いますか?」

女にしては低いが凛としてよく通る声で、彼女は尋ねてきた。どうやら不審者であると認識されてしまっているようだが、それも致し方ない。何せ遮光スーツを着込んでいる不可思議な物体―ヨハネス―がいるのだから。

「久しいですね、シグルーン。私はニヴルヘイム及びヘル公爵ヨハネス・ゲオルク・ファウスト。そして此方はアスガルド帝国第四皇女殿下であらせられる“黒鋼”の君に御座います。皇帝陛下より書状を賜りまして、参内した次第なのですがね?」

そっちの親玉が呼んだから来てやったのに剣向けようなんざ良い度胸だな、ネーチャンよぉ?
ヨハネスは普段通りにボソボソと喋っているだけなのだが、ゼルダにはこう言っているように聞こえてしまったのだった。沸々と込み上げる笑いをどうにか押さえつけ、ゼルダはあくまで平静を装う。

「このような出で立ちですのでね、ニヴルヘイム公爵であると御理解頂けなかったのだと思いますがね?……ですがね、シグルーン?長らく“ヴァルキリャ”に属している君が“黒鋼”の君を御存知でないとは、ねぇ?」

皇帝直属の特務部隊である“ヴァルキリャ”たる者が勉強不足とは嘆かわしい。
ボソボソと語られるヨハネスの言葉にシグルーンと呼ばれる女は僅かに瞠目した後、ゼルダの方を向いて跪くと深く頭を垂れた。彼女の後ろに控えている兵士たちもそれに倣う。

(儂の外見からして、直ぐにでも“アルファズル”であると勘付くと思われるのだがな?)

“アルファズル”であるということは即ち“皇族”であると、帝国に忠誠を誓っている臣民であれば認識しているものだと思っていたのだが。

(余程に儂の存在を消し去りたいのだとみえるわ)

己に向かって頭を垂れる彼らに向けて、ゼルダは冷笑をくれてやった。

「失礼致しました。己の不出来により“黒鋼”の君に無礼を働きましたこと、深く御詫び申し上げます。申し訳のう御座いました、何卒、御容赦を……」
「……良い、許す。面を上げよ、シグルーンとやら。して、貴様らは何用で我らの前に現れたのだ?」

腕を組み、仁王立ちしているゼルダが居丈高に睨みつけるが、シグルーンはそれをものともせず鉄仮面を貫いている。

「“ヘイムダル”がヴァルハラ宮内で“スヴァルトアールヴ”の“闇”を感知致しましたので、確認の為に此方へと参った次第に御座います」
「左様であるか。皇帝陛下にヴァルハラ宮へ来やれと命じられて参った訳だが、如何様に振舞えば良いのかさっぱりでな?」

大袈裟に肩を竦めてみせると、跪いていたシグルーンは静かに立ち上がり頷いた。

「畏まりました。この者に案内(あない)をさせます故、応接室にてお待ち頂けますよう御願い申し上げます。私は皇帝陛下に、殿下と公爵閣下がお越しになられたことを報告にし参りますので、これにて御前を失礼致します」

「……ふむ。礼を言おう、シグルーンとやら」
「勿体のう御言葉、恐悦至極に御座います」

恭しく一礼をした彼女は、面を上げる際に主の背後に控えているベルトを睨みつけた、ようにゼルダには見えた。踵を返し、数歩ほど歩いたところで空間と空間を繋げる“門”を作り出し、彼女は消えていく。どうやらシグルーンはベルトと同族のようだということは理解出来たが、彼女のあの殺気混じりの視線の意味では理解出来なかった。

***************

「此方にて御待ち頂けますよう、御願い申し上げます」

案内役に任命された兵士に導かれて通されたのは、ヴァルハラ宮に数多く設けられている応接室の一つだった。
華やかな刺繍の施された布を使用した豪奢なソファにどっかりと腰を下ろして暫し呆けていると、微かな物音と共に女給が数人現れて茶の用意をして去っていった。耳を澄まし、彼女らの足音が完全に聞こえなくなったのを確認してから、ゼルダは徐に口を開いた。

「のう、先程のシグルーンとやらは何者だ?去り際にベルトを睨んでいったように見受けられたのだが……汝の知り合いか?」
「……?」

上体を捻り、背後に控えているベルトに尋ねてみるが、彼は心当たりが特にないのか首を傾げた。

「おや、ベルくんは覚えていないのですかね?シグルーンは君の母方の従姉のはずでしたがね?」

室内ということで漸く遮光スーツを脱いだヨハネスは、女給が淹れた紅茶を一口飲むと顔を顰め、そっとソーサーの上に戻す。紅茶の風味がお気に召さなかったらしい。

「確か、本来の名はジークルーネ……ではありませんでしたかね?聞き覚えはありませんかね、ベルくん?」

「……殆ど付き合いがなかったものですから、気が付きませんでした」

ジークルーネ、という名には覚えがあったようで、彼は納得をしたのか小さく頷いた。

「然し“ヴァルキリャ”、のう?女を侍らせるとは皇帝陛下の趣味であるか?」
「アレは古の伝承に基づいて誂えたものでしてね、いまいち意図の掴めない伝統の一つ、とでも申しましょうかね?」

戦の神オーディンの館ヴァルハラに、勇敢なる戦死者の魂を連れて来る役目を担っている白鳥の乙女“ヴァルキリャ”。
古くより伝わる伝承に準えて誂えられたのが、女性のみで構成されている皇帝直属の部隊“ヴァルキリャ”である。これに属する者は、シグルーンのようにコードネームを与えられ、皇帝の近衛は勿論、隠密行動や宮殿の警備を任されているのだ。

「“スヴァルトアールヴ”であることは直ぐに分かりましたけれど、彼女は貴方の従姉でしたのね。そう考えてみると貴方と彼女、面差しが少し似ていらっしゃるわね」

だからこそあちらもベルトに気が付いたのだろうと言って、ベルガは艶かしい笑みを浮かべる。

「そうなのか?」

本当に付き合いが殆どなかった為、そう言われても実感が湧かないらしいベルトは再び首を傾げる。彼女を見ても、彼の心には親族への情も湧きはしない。

「確かに似ているよ?」

特に、その仏頂面が。
ルーディとベルガは楽しげにベルトの仏頂面を眺める。

「親族であるのは理解したが、彼奴は何故にベルトを睨むのだ?何ぞしでかしたのではあるまいな、ベルト?」

シグルーンが去り際に見せたベルトと同じ琥珀の目には、瞋恚の炎が宿っていたとゼルダが言う。

「……母の咎により、フォーゲルヴァイデ家は無論、生家であるローゼンクロイツ家も家名を汚されました。そして現在、私の代わりに“ヘイムダル”に繋がれている“シグルドリーヴァ”は恐らく……彼女の姉であるシュヴェルトラウテではないかと」
「ええ、その通りですね。“シグルドリーヴァ”はシグルーンの姉ですね。“スヴァルトアールヴ”の中でもベルくんは最上位に君臨するほどの力をもっていましてね、その穴を埋めるには次点にいる“シグルドリーヴァ”しかいませんでしたのでね。大切な姉を奪われたことを恨んでいるのではないですかね?」

ベルトの言葉を引き継いだ淡々とヨハネスが語り終えると、ベルトは黙して俯いた。

「遠回しに儂のせいである、と、申しているように聞こえるのだがな、ハンス?」
「そのような心算は毛頭ないのですがね?ただ、ゼル様が起こした行動により生じた結果の一つであることは間違いありませんがね?」

今の話を聞いて、あの時にとった行動を今更ながらに後悔しているのではあるまいな?
ヨハネスの澱んだ緑瞳が訴えかけてくる。

「……儂は儂の“家族”を守っただけだ。他の者がどうなろうとも、儂の知ったことではないわ」
「……ならば、良いのですがね?」

ゼルダの返答に納得しているようには見えないが、ヨハネスはそれ以上追究しようとはしない。ふぅ、と息を吐いた後、飲みかけの冷めた紅茶に目を向けると唐突に話題を変えた。

「此方の紅茶は不味いですね?淹れ方が悪いのですかね?我が家のゼーテくんが作る茶葉が如何に美味であるのか、執事の淹れ方が如何に絶妙であるのかが実感出来て良いのですがね?」
「……汝は細かいな」

ヨハネスは好き嫌いがはっきりしており、好きなものには徹底的に執着する節があることを熟知しているゼルダは呆れて嘆息し、他の三人は一人を除いて苦笑を浮かべていた。

***************

応接室に通されてから数十分ほどが経過している。
暇を持て余しているゼルダらは他愛もない会話を続けて時間を潰していたのだが、不意にベルトが眉根を寄せ、腰に佩いている剣の柄に手をやった。彼は何かの気配を察知し、それが敵であるのか否かを判断しているようだ。

「気配はどれくらいだ、ベルト?」
「扉の前に警備兵が二人……そちらに向かって歩いてくる者が三人……以上です」

唇に人差し指を当てて周囲を黙らせると、ゼルダは意識を集中させて耳を澄ます。

「ねぇ、“黒鋼”が帰ってきたと耳にしたのだけれど、此処にいやがるのかしら?」
「はい、左様で御座います」

聞き覚えがあるような甘ったるい女の声と、この応接室の前に配置されている警備兵の一人の声がする。

「あら、そうなの。じゃあ、其処をどきなさいよ」
「殿下!?」

殿下と呼ばれたその女は突然のことに動揺している警備兵らを押しのけて、扉のノブに手をかける。そして扉は勢い良く開かれた――内にいる者への断りもなしに。
現れたのは氷の結晶を髣髴とさせる不思議な角と尻尾を有している女の“アルファズル”と、その従者と思しき二人の男女だった。

「……ふぅん?」

おさまりの悪い癖のある焦げ茶色のボブヘアーをした“アルファズル”は、如何わしい店舗にいる所謂“女王様”のような衣服を身に付けており、愉快気に細められたラヴェンダー色の双眸を動かして不躾に室内を見渡す。
その姿を目にしたゼルダは、どうりで聞き覚えのある声だと思ったと小さく舌打ちをした。

「しけた面をした連中だこと。この私が直々に来てやったというのだから、挨拶くらいはしたらどうなのかしら?」
「……行儀がなっていないのは貴様の方であろう、“氷晶(ひょうしょう)”」

入室の許可も得ずにやって来た無礼者に礼など必要あるまい。
ゼルダが碧眼を眇めて睨みつけると、“氷晶”――第三皇女ヴァルブルガ・レナーテ・アルファズルは素知らぬ振りをして、ずかずかと室内へと歩を進めてきた――再び此方の許しも得ずに。
突然の珍客来訪にもゼルダを除いた四人は、皇族であるヴァルブルガに一礼をした。だが、彼女の従者らは主人と同様に礼儀がなっていないようで、踏ん反り返った様子で彼女の背後に控えている。

「久しいわね、“出来損い”。五十年も“死人の国”にいたのよね、死臭が染み付いているのではないかしら、臭うわよ?」
「ニヴルヘイムは“死人の国”などではない。相も変わらず頭と趣味が悪い上に部下の躾も碌に出来ていないようであるな、“ウマヅラダ”」
「誰がウマヅラダよ!私はヴァルブルガよ!……“出来損い”の分際で、私の名を気安く呼ぶんじゃないわよ!“出来損い”とはいえ一応は皇族なのだから(あざな)で呼びなさい、常識よ?」

ゼルダは“黒鋼”、ヴァルブルガは“氷晶”というように皇族である“アルファズル”は個々に字を持っている。彼らは本来の名ではなく、他者には字で呼ばせることを慣習としており、ゼルダのように本来の名で呼ばせることは珍しいのだ。

「……」

非常識な異母姉に常識を語られるとは、何とも不愉快極まりない。ゼルダは思わず、顔を引き攣らせてしまった。

「……其処の陰気臭くて堪らない死人は、ニヴルヘイム・ファウストよね」

ラヴェンダー色の瞳は、我関せずと空を仰いでいたヨハネスを捉えると不快気に眇められる。

「御久しゅう御座いますね、“氷晶”の君」

向けられている侮蔑の視線に気分を害することもなく、ヨハネスは公爵然として恭しく一礼をする。その所作は無駄がなく、洗練されていて美しい。

「で?周りの連中は何なのかしら、“黒鋼”に纏わりついているダニ?」

ヴァルブルガは顎をしゃくり上げ、説明をしろと促す。

「多からず少なからず御自身で御考えくださいませんかね?脳細胞が役目を果たせず犬死をしていくだけですのでね、非常に勿体のう御座いますね?」

ヨハネスのこの物言いが癪に障ったのだろう、ヴァルブルガは額に青筋を浮かべて口元を引き攣らせるが、特に反論が思いつかなかったらしく反撃はせずにベルガらを凝視して黙考し始めた。

「……其処の瓶底眼鏡は幾度か見かけたことがあるわね……ああ、ニヴルヘイム・ファウストのパシリだわ、確か」

ニヴルヘイム・ファウスト――ヨハネスのお気に入りであるルーディは、アスガルドへ行きたくはないと駄々を捏ねるヨハネスの代理として幾度となくアスガルドへ訪れたことがある。その折にヴァルブルガはルーディの姿を見かけたことがあったのだろうと思われる。

(……僕ってパシリだと思われてるんだ……)

強ち間違っていないようにも感じたので、ルーディは敢えてヴァルブルガの見解を否定したりはしなかった。

「……ということは、色気虫が“半端者”で、仏頂面が“ブリュンヒルドの忌み子”になるわね。“出来損い”と共にいる男女だものね?」

軟禁を承諾する条件として、この二人を連れて行ったことをヴァルブルガは知っていたらしく意地悪く口元を綻ばせた。

「ねぇ、“出来損い”。今頃になって何をしに舞い戻ってきたというのかしら?」
「皇帝陛下の勅命により参っただけだ。貴様もそうなのであろう、“氷晶”?」

ヴァルブルガは落ち着いた様子でソファに腰を下ろしているゼルダが気に入らないのか、腕を組んで目を眇めた。

「あんた、何時の頃からかは覚えていないけれど此処(ヴァルハラ)にいる時は常に男の姿をしているわよね?男に生まれたかったのかしら?良いわよね、どちらにでもなれて……実に気味が悪いわ」
「儂がどのような姿をしていようとも貴様には関係あるまい。予てよりいやに儂に突っかかってくるが、何だ?儂のような見てくれの男が好みなのか?」

ゼルダは徐に立ち上がり、ゆっくりとした足取りで異母姉に近付く。彼女の従者が焦った様子で主人を守ろうとして前に出ようとしたが、ヴァルブルガはそれを制して嘲笑を浮かべた。

「随分と自信たっぷりね、馬鹿なのかしら?……だけれど、兄弟でなければ愛人にしてやっても良いくらいではあるわね?」

ヴァルブルガが品定めをするようにゼルダの頤に指を添えると、彼はそっとその手を振り払う。

「貴様のような品のない貧乳なぞ願い下げだ。ベルガのような巨乳になってから戯言を申せ、ウマヅラダ」
「ヴァ・ル・ブ・ル・ガ!誰がウマヅラダよ、私のどこが馬面だっていうのよ!?それに良く見てみなさいよ、Bカップはあるわよ!その“半端者”の乳なんて只大きいだけじゃない!!!」

ゼルダの暴言に激昂し怒り心頭のヴァルブルガは目を吊り上げると大袈裟に動いてベルガを指差し、大声で叫んだ。その様子を見たゼルダは、肩を竦めて鼻で笑った。

「何を申すか。ベルガの乳はな、触り心地が抜群の上に男であるならば誰しもアレやコレやらを挟みたくなる逸品であるぞ。ウマヅラダの俎板(まないた)なぞに負ける筈がなかろう」
「……何ですって、この“出来損い”が……っ!」

心底忌々しげに放たれたヴァルブルガの言葉を耳にした瞬間、ゼルダの顔色が変わり碧眼が眇められて口元が三日月のような形に歪んだ。ゼルダの放つ冷気で場の空気が冷え切った時、暢気にボソボソと話す低音が全員の耳に入ってきた。

「はいはーい。姉弟喧嘩はそこまでにして頂けませんかね?」

いつの間にやら席を離れていたらしいヨハネスが、二人の間に割って入る。ヴァルブルガに背を向けている状態の彼は、物言いたげに澱んだ緑瞳でゼルダの碧眼を凝視している。

「……無粋な真似をするわね、ニヴルヘイム・ファウスト?」

ヴァルブルガが怪訝な声を掛けると、ヨハネスは態とゆっくりと振り返りつつ、憮然としているゼルダの身体を押して後退らせた。

「“氷晶”の君は如何な用にて此方に御出でになられたのでしょうかね?まさかとは存じますが、我が君に絡みにやって来ただけ……などでは御座いましょうな?」

口調だけは普段通りのヨハネスに冷眼を向けられたヴァルブルガは怯んだのか、数歩後退る。

「……“黒鋼”がアスガルドに戻ってきたと耳にしたから、馬鹿面を拝みにきてやっただけよ」
「左様に御座いますか。それでは御用はとうにお済になられておいでで御座いますね。これより我らは重要な話を致します故、“氷晶”の君には御退場願いたいのですが?」

ヨハネスは不気味な笑みを浮かべながら、ヴァルブルガに向かって恭しく一礼をする。

「ニヴルヘイム・ファウスト、お前は不敬罪というものを知らないのかしら?」

失礼極まりないヨハネスの物言いは、彼よりも位が上である皇族のヴァルブルガに向けても良いものではないと、彼女は言いたいらしい。

「申し訳のう御座いますね。私も老年期に入りました故、相応に物忘れが酷くなってきてしまいましてね?今一度申し上げますね。御退場願います、“氷晶”の君」

青年期を迎えると死するまで身体が老いることのない“アルファズル”には分かるまいよ。
嘲笑っているかのような笑みを浮かべているヨハネスに対して立腹したヴァルブルガは、室内の空気が震えるほどの怒号を上げた。

「無礼であるぞ、ニヴルヘイム・ファウスト!御父様や御兄様方に言いつけてやるわ、覚えていなさい!……胸糞悪い、帰る!!!」

ヴァルブルガは怒りに任せて勢い良く踵を返し、戸惑っている従者の二人を引き連れて応接室から出て行った。その僅かの後、ゼルダが疲れた様子で嘆息し、力無くソファに再び腰を下ろしたのだった。

***************

「……あの馬鹿女は、一体何をしにやって来たのだ?然も皇帝陛下や異母兄どもに言いつけるなどと捨て台詞を吐くとは……彼奴は儂よりも三十は年上であるはずだがな?」

五十年もの歳月を経ても何一つとして変わり映えの無い異母姉には、ほとほと呆れるしかない。

「いつぞやのように、ゼル様で気晴らしをしようとされていたのでは?成長が見られないとは、流石は糞陛下の御息女であらせられますね?」
「……儂も一応はソレに該当するのだがな?」
「ゼル様とアレは別の生命体ですのでね?」

異腹の兄弟どもと一緒にされることを毛嫌いしているゼルダは、ヨハネスの言葉に動揺して微かに耳を赤くしてそっぽを向いた。その様子をベルガとルーディが微笑ましく眺めていると、応接室の扉を叩く音が聞こえてきた。
――今度の来訪者は礼儀がなっているようだ。

「どうぞ」
「失礼致します」

ヨハネスが入室を許可すると、シグルーンが一人で室内へと入ってきた。

「長らくお待たせ致しました。今後の予定が決定致しましたので、御報告申し上げます。明日の午後より、皆様や他の皇族の方々には皇帝の居城(ヴァラスキャールヴ)に御出でになって頂き、皇帝陛下と謁見をして頂きます。その時刻になるまでは、“黒鋼”の君とニヴルヘイム公閣下にはブレイザブリクにてお過ごし頂きたく御願い申し上げます」
「……ブレイザブリク?ベルト、場所は把握しておるか?」

ニヴルヘイムに軟禁されるまで鳥籠のようなヴァルハラ宮から出たことのなかったゼルダは、生まれ故郷であるはずのアスガルドの地理に明るくない為、地理に詳しいベルトに尋ねた。

「“ヘイムダル”にて見ておりました故、存じてはおります」

ベルトが抑揚を欠いた声で淡々と告げると、シグルーンの鉄仮面が俄かに崩れたが直ぐに元通りになる。

「宜しければ、ブレイザブリクまで御送り致しましょうか?」
「ふむ。貴様の方が儂よりもアスガルドに詳しいのであろうな。頼めるか?」
「畏まりました」

シグルーンは一礼した後、側面に手を翳して“門”を作り出す。

「ブレイザブリクに繋ぎました。此方をお通りください」
「ベルト、汝が先に参れ」
「御意のままに、我が君」

不測の事態に備えて、ベルトが先陣をきって“門”の向こう側へと歩を進める。続いてベルガ、ゼルダ、再び遮光スーツを着込んだヨハネス、ルーディの順で一行はブレイザブリクへと移動したのだった。

***************

バルドル神の館(ブレイザブリク)は、アスガルドに数多くある宮殿の中でも最も美しいと謳われている。
金銀の装飾はあれど決して華美ではなく、清廉とした美しさを持つ館にゼルダは目を奪われていた。

「侍従たちには既に話を通してあります。時刻になりましたらお迎えに上がりますので、それまでごゆるりとお過ごしくださいませ」
「大儀であった。礼を言おうぞ、シグルーン」
「恐悦至極に御座います、“黒鋼”の君。それでは、御前を失礼致します……」

深々と礼をした後、シグルーンは“門”を作り出すと姿を消していった。去り際にベルトを睨みつけることを忘れることなく。

「……さて、ゼル様。これから如何されますかね?」
「寝る。ウマヅラダの所為で疲れた、それも無駄にな。……参れ、ベルガ、ベルト」

精神的に相当疲れているのだろう、ゼルダはベルガらを引き連れて颯爽と館の中へと入っていってしまった。

「ブレイザブリクの中には確か、書庫があったかと思いましたがね?有効な暇潰しが出来るだろうから、ルーくんも自由になさいね?」

これからどうするかと考えていたルーディの内心を読んだのか、ヨハネスがそんなことを提案してきた。ルーディは驚き、思わず瞠目してしまう。

「ヨハ……パピ、イは如何されるのですか?」
「私ですかね?そうですね、久方振りのアスガルドですのでね、その辺をフラフラしてみようかと思いましてね?ルーくんが作ってくれたこのスーツもあることですしね?」

“死にかけ公爵”の通り名の如く、身体の弱い――のかと稀に疑いたくもなる――ヨハネスを一人にするわけにはいかないと、ルーディは自身を護衛として連れていくようにと進言したが、彼はそれをやんわりと断った。

「このアスガルドには、私に牙をむこうとする不届き者は不思議といらっしゃらないようですのでね?問題はありませんね」
「……分かりました。でも、何かありましたら必ず連絡を寄越してくださいね?役に立てるかどうかは分かりませんが、直ぐにお迎えに上がりますから……」
「謙遜せずとも問題ありませんよ、君はいつでも役に立ってくれていますのでね?無理はしませんね、面倒が嫌いですのでねぇ?」

ヨハネスはやや大袈裟に踵を返すと、のたのたと不安定な動きで歩き始める。

「あの、パピ、イ?腕のところにある青色のボタンを押すと自動操縦に切り替わるので歩かなくても済みますよ?」
「ルーくん、それを早く言ってくれませんかね……?」
「……先日お渡ししたスーツの取扱説明書に確りと記載しておいた筈ですが……」
「……」

未来の娘婿(予定)の手書きの説明書を熟読していなかったらしい未来の舅(予定)は、そそくさと青色のボタンを押して自動操縦に切り替える。すると彼の身体は地上から20cmほど浮き上がり、すーっと前進していった。

「道中、御気をつけて……」

面倒臭がりのヨハネスが散歩をするなど、珍しいこともあるものだ。
ルーディはそう思いながら、ふよふよと浮きながら進んでいくヨハネスの背を見送る。彼がブレイザブリクの門を通り過ぎると漸くルーディは身体の向きを変え、美しい館の中へと入っていった。