我は希う、混沌の其の先を

皇帝の書状

「汝のような"出来損い"の顔なぞ見とうない」

話がある――そう聞いていたのだが、と心の内で嘆息する。
呼ばれた理由が分からず途方に暮れるしか出来ないでいた儂にかけられたのは、親が子にかける科白とは思い難い嫌忌の言葉であった。
けれども、そのような言葉で儂が傷つく事はない。己に向けられる侮蔑、中傷、差別の言葉、態度には、ほとほと慣れきってしまっていたのだ。
無理もない、日常茶飯事なのだからな。

「余自らの手で殺めるのも億劫であるし、顔が見とうないというだけで殺めるのも如何かと思うてな。相手方には話はついておる、汝にはニヴルヘイムでの軟禁を申し付ける。二度と再びアスガルドの地を踏めると思うことなく、虚ろな時を過ごすが良い」

要するに、自らの手を汚す事を厭うておられるのだろう?だからこそ、他人に儂を押し付けるのだ。
都合によっては死刑に変更可能な軟禁という名の終身刑を言い渡された儂はというと、嘆き悲しんだりする事はなく、寧ろ喜んでいた。息をするだけでも重苦しく居心地が悪い事この上ない碌でなしの宝庫である万魔殿を去ることを許されたのだと思うと、自然と口元が緩んでしまうではないか。

「やれ、何故笑うておる。薄気味が悪い」

儂はどうやら無意識のうちに笑ってしまっていたらしい。
眼前の皇帝――フリードリヒ・ユリウス・カイザー・アルファズル陛下は訝るように眉根を寄せ、儂と同じ色をした目を眇められた。軟禁を告げられたことで将来を儚み、泣き崩れる様を思い描いておられたのだろうか?
笑止な!
このような場所に居続ける事の方が人生に絶望しか抱けぬわ!
近い将来気が触れてしまうに決まっておろう!

「失礼致しました」

とりあえず儂は緩んでいた頬を引き締め、頭を下げておいた。
そして、心の内でほくそ笑んだ。

陛下には分かりますまい、儂の心を満たしておるのが喜びである事を。まあ、知られたくないがな。
儂はこの皇帝に期待なぞ抱きはせぬ。

『――助けてください、父上』

もがいてももがいても地獄から這い出ることが出来ず、救い出して欲しくて伸ばした手を撥ね退けられた"あの日"から、儂は貴方に何も期待せぬ、希望を抱きもせぬのだ。

「ニヴルヘイムへは、己が身一つで参れば宜しゅう御座いますか?」

許されるのであれば連れて行きたい者たちがいるので、儂は皇帝に尋ねてみる。こんな場所に、置いてゆきたくないのだ。

「何ぞ持っていきたい物でもあるのか?勝手に持っていけば良かろう」
「ならば、アマルベルガ・マルクスとベルトラム・フォーゲルヴァイデを頂戴しとう御座います。我はそれらさえおれば、他に何もいりませぬ」

儂が二人の名を口に出した途端、皇帝は片眉を跳ね上げた。

「ならぬ」

皇帝は、儂の望みを却下した。恐らく却下されるだろうと踏んでいた儂は、焦ることなく次の言葉を紡ぎだしていた。

「何故で御座いましょうか?陛下は先程、勝手に持っていけば良いと仰ったではありませぬか」
「……」

よりによって儂が所望したのが"曰くつきの二人"だったのだ、皇帝が渋るのも仕方がなかろうて。だが、儂は決して退かぬ。

「陛下には"フレイ"がついておられるではありませぬか。他の方々にも"癒し手"はついておられましょう。"出来損い"とはいえ、我も"アルファズル"、"癒し手"は必要不可欠で御座います」

最強と謳われる"アルファズル"ではあるが、実際は幾つか欠点が存在しているのだ。
その一つが、"病原菌に対する抵抗力が一切ない"ことである。それ故に有事の際には、どうしても"癒し手"――治癒能力を有する"ヴァン"の手助けが必要なのである。
"出来損い"である儂には、特定の"癒し手"が与えられてはいなかった。処罰を覚悟しているベルガが助けてくれなければ、儂はこの時まで生きてはこられなかったであろう。

「"ヘイムダル"についても、"シグルドリーヴァ"がおりましょう。"ブリュンヒルドの忌み子"を守りの要に置いていては、危険なことこの上ないと思われませぬか?いつまた反旗を翻すやもしれませぬ」

"ヘイムダル"に与えるのは、ベルトでなければならぬという決まりはない。ベルトが一番"ヘイムダル"に馴染むというだけであって、"スヴァルトアールヴ"であれば誰でも構わぬということを儂は知っておる。
それを教えてくれた者は、この男の手にかかって命を落として久しい。

「"出来損い"には、"半端者"と"忌み子"が似合いで御座いましょう?」

連れて行くが良いと言え、この糞親父!
"フレイ"と"シグルドリーヴァ"が手許にあれば充分であろう。その二人を寄越せと言っているのではない、その二人に成り代われる者たちを寄越せと言っているだけだ。
儂の大切な"家族"を連れて行きたいだけだ、何が悪い!

「……好きにするが良い。汝が大人しく軟禁を受け入れるというのであれば、マルクスとフォーゲルヴァイデは汝にくれてやる」

皇帝の鋭い碧眼が、儂を睨みつける。
不本意ではあるが認めてやる、有難く思えと言いたげであるな。
何様であるか。ああ、皇帝陛下であるな。

「有難き幸せ」

感謝などはしていないが、一応は了承して貰ったのだから感謝している振りぐらいはしてやる。すると、皇帝は皇帝らしからぬ舌打ちをしなさった。

「早う去れ、"出来損い"が」
「言われずとも、そう致しまする。御前を失礼致します、皇帝陛下」

清々しい気持ちで儂は皇帝に背を向けて、意気揚々とその場から立ち去った。
別れの言葉なぞ必要あるまい。恐らくあちらも目障りな"出来損い"を追い出せて清清しているであろうからな。

よし、これで心残り無くニヴルヘイムへと旅立てる。

待っておれ、ベルガ、ベルト。

今、儂が迎えにいってやるからな。

だから、力一杯抱き締めておくれ。

***************

白磁というよりも血色が悪い為に必然と青白い肌は、鮮やかな紅色の髪を目立たせている。どす黒い隈の上にあるエメラルドの双眸は、窓の外――ニヴルヘイムの曇天をじっと眺めているだけだ。
中年にさしかかったくらいの痩せこけた男――ニヴルヘイム、及びヘル公爵ヨハネス・ゲオルク・ファウストが応接間に現れ、面白味の無い常套句を並べ立てた挨拶を交わしてから数十分。
室内は、痛いほどの沈黙に包まれていた。
挨拶を終えてから、ヨハネスは一言も喋らないでいるのだ。

――嗚呼、居心地が悪い。

使者として"ある物"を携えてやって来た政務官ヘイエダールは、胃がキリキリと締めつけられるように痛むのに耐えていた。戦闘に長けた種族である"アース"にしては珍しく武官ではなく文官となった彼は、皇帝陛下のおわしますヴァルハラ宮に出仕するようになってからそれなりの年月を過ごしてきているのだが、各地を支配する領主とは面識は無かった。
とどのつまり、ヘイエダールは高官とはいっても中の中くらいの位置付けにいる人物なのであった。
よってヨハネスとは初対面となるわけなのだが、脳味噌が勝手に鬱々とした空気を纏う陰気なこの男を"苦手です、無理です"と決めつけてしまったらしく、普段なら難なく出来る他愛の無い会話が出来ないでいる。
そのようになってしまった一因には、アスガルドを出る前に上司や同僚らに吹き込まれたヨハネスに関する噂の所為でもあるが……。

「……ニ、ニヴルヘイム公」

沈黙に耐えられなくなったヘイエダールは勇気を振り絞り、上座の席に着いているヨハネスに声をかける。彼はゆっくりと、領地の空と同様にどんよりとして澱んだ目を動かした。

(恐い!何なんだ、この人!?上司命令が無かったら逃げたい……っ!)

その場から走って逃げたくなるが、未だ目的を果たしていないので何とか堪えた。

「この十数年、定例会議にお越し頂けないと耳にしたのですが……御体の調子が優れないのでしょうか?」

ニヴルヘイム公が病弱である、ということは有名な話だ。
ヘイエダールとしては当たり障りがないと思われる話題を振ってみたわけだが、次の瞬間、ヨハネスは背筋も凍るような気味の悪い笑みを浮かべて、通りの悪い低い声でぼそぼそと話し出した。

「そうですね、私は病弱ですのでね。アスガルドへと赴く途中で吐血して冥府ヘルの住人になりかねないので、皇帝陛下には御容赦頂いておりますよ、ええ。代理の者が報告に行っておりますので、さしあたって問題はないと思うのですが、何か?」

文句があるなら四百字詰め原稿用紙三枚以内に起承転結を確りと踏まえた上で詳細に理由を書いて人事に提出してみろ。出来るものならばな。
抑揚もなく一本調子で言い放つヨハネスに、ヘイエダールは頭が痛くなった。
無理だ。弾むような会話の種が全くもって浮かんでこない。そしてあちらもまた会話を弾ませようという気は微塵も無いようだ。
この状況は実に耐え難い、誰か助けてくれ!
切実にそう願った時、控えめなノックの音が耳朶に触れ、間もなく扉が開いた。ヘイエダールは光明が射したと喜んだのだが、それは新たなる地獄の始まりだとは思いもしていなかった。

「ああ、殿下。御足労頂きまして、有難う御座います」

その声音はヘイエダールに向けられたものとは異なり、幾らかの優しさが滲んでいる。ヨハネスが立ち上がり来客を迎え入れているので、彼も席を立ち、其方へと目をやり……首を捻った。

――誰だ、この男は?

腰が隠れるほどに長いプラチナブロンドに意志の強そうな碧眼、そして黒く艶光る角と尻尾を持っているまでは合っているのだが、目的の人物とは性別が異なっている。

(第四皇女は実は男だったのか?)

事前に耳にしていた情報によれば、第四皇女は小柄な少女のような容貌をしているとあった。だが、眼前にいるのは皇女と同じ特徴を持つ"アルファズル"の青年だ。
脳内で自問自答を繰り返しているヘイエダールを余所に、上座を譲ろうとしたヨハネスを制し、謎の"アルファズル"は彼の真向かいの席に着いた。共にやって来た黒髪の美女は、彼の後ろにそっと控える。

「殿下。此方がアスガルドよりいらした、えーと、ヘイエダール?殿です」

名前合ってたっけ?
首を傾げながら、ヨハネスは"殿下"に彼を紹介する。

「御初に御目にかかります。ニヴルヘイム公より御紹介頂きました、政務官のヘイエダールと申します。以後、お見知りおきを……」
政務官の職に就いてから身に付けた行儀作法を遺憾無く発揮し、ヘイエダールは流れるような仕草で一礼をした。

「明日には綺麗に忘れる。まあ、面を上げよ、ヘタレとやら」
「ヘイエダールに御座います」

さり気なく失礼な事を言ってのけた第四皇女?の声は、見た目の通り、やはり男のものであった。

(ニヴルヘイム公が"殿下"と仰っているのだから、この御仁がグリゼルディス殿下であることは間違いないのか……?)

礼儀を忘れ、不躾にもジロジロと検分してくるヘイエダールに、"殿下"は不愉快だとばかりに口を歪める。

「ヘタレよ」
「ヘイエダールに御座います」

彼は、"殿下"が自身の名を本気で覚える気が無いのだと悟った。

「儂が誰であるのか、理解しておらぬようだな?貴様が拝謁を許されたいと宣っていた、グリゼルディス・クセーニア・アルファズルであるぞ」

謎の"アルファズル"――男の姿をしたゼルダは、彼を嘲笑い、目を細める。

「貴様は存ぜぬのか?儂が"出来損いのアルファズル"と呼ばれること、そして女でもあり男でもあることを」

多種多様に姿を変えることが出来ると言われている"アルファズル"だが、性別までは変えることが出来ない。元が男である場合、女に見せることは出来ても"女そのもの"になることは出来ないのだ。
だが、ゼルダはそうではない。
女として生まれてきたが、不思議なことに"男そのもの"になることが出来るのだ。それ故に気味悪がられ、"出来損い"と蔑まされていた――ニヴルヘイムにやって来るまでは。
普段は本来の少女の姿をしているゼルダだが、時折このように男の姿をとることがある。それは相手に嘗められないようにする為だったり、そんな気分になったからなったという理由だったりする。

「おやおや。ヴァルハラ勤めの政務官にくせに……ああ、殿下が此方に御出でになった後に入られたのですかね?だとしても、殿下の情報が手に入らないとは思い難いのですがね。ということは、ヴァルハラの連中は殿下のことをすっかり忘れておられるようですね。いやはや、吃驚です。脳味噌腐ってるんですか?発酵してるんですか?糸ひいちゃってるんですか?」

まるでゴミ虫でも見るかのような白眼をヨハネスから頂戴したヘイエダールは、一瞬で顔面蒼白し、素早く頭を下げた。

「大変申し訳ありません!無礼を働きましたことをお許しください、何卒御容赦を……っ!」

何で重要なことを教えてくれなかったのだ、と、心の内でアスガルドにいる上司や同僚に恨み言を吐く。ヘイエダールは恐怖でガタガタと震えている。

「虞れずとも良いぞ。儂は軟禁されている身の上なのでな?貴様を罰する権限は持ち合わせておらなんだ。なあ、ハンス?」

この地を支配する支配者に目を向けてみれば、彼が愉快そうに唇の両端を吊り上げているのが見えた。

「殿下がソレに制裁を下したとしても、問題はありませんよ。何故かというと、私が揉み消しちゃうからです。証拠隠滅は得意分野ですのでお任せください、ふふふ……」

不気味な笑い声をたてているヨハネスは今、どのような手段を以てヘイエダールを物言わぬ死者にするか考えているに違いない。

(おお、ヘタレが凍りついておるな。流石はハンスよな)

"死にかけ公爵"は他者を不愉快にさせたり、からかうのが大好きなのだ。人はそれを迷惑行為と呼ぶが、この館の者たちは慣れきってしまっている為、誰も彼に注意をしない。注意をしたとしても言う事を全く聞かないことも知っているので、無駄なことはしないのだ。

(あたくしが口を出す必要はありませんわね。ゼルダ様も公も楽しそうにしていらっしゃいますこと)

発言することを許されているのであれば、是非とも参加させて頂きたいものだ。
ゼルダの背後に控えているベルガは、目の前で繰り広げられている"ヘイエダール弄り"をそれはそれは楽しそうに眺めているのだった。

「ふむ、飽きたな。やれ、ヘタレ。本題に入ってやろう」

一頻りヘイエダールを弄ったところで、ゼルダは思い出したかのように話を切り出した。早々に追い出してやろうと意気込んでいたことをすっかり忘れていたらしい。

「"出来損い"のことなぞ忘れておられるだろうと思うていたのだが、今更に使者なぞを寄越しなさるとは……皇帝陛下は余程に重大な要件がおありのようだな?」

そうでなければ使者を寄越すはずがない。大した用事でないのであれば、ヨハネス経由でヨハネスの脚色つきで伝わってくるはずだ。
螺鈿細工の施された美しい卓の上に肘をつき、ゼルダは胡乱気にヘイエダールを見やった。

「こ、皇帝陛下より皇女殿下宛の書状を預かって参りました」

やっと目的が果たせる!
ヘイエダールは泣きそうな顔をして胸を撫で下ろすと、懐から封書を取り出した。それはベルガを経由して、ゼルダへ渡される。力の強いゼルダは破らないように気を付けながら封を開け、中に入っていた書状を広るとざっと目を通した。
すると眉根を寄せ、忌々しげに舌打ちをしたのだった。

「如何されましたか、殿下?」

書状を睨みつけるゼルダに、ヨハネスが素っ気無く声をかける。

「軟禁は解く、アスガルドへ戻って来い、だそうだ」
「おやまあ」
「汝も来やれ、と書かれておるぞ」
「おお、酷い。あの碌でなし陛下は私に冥府の住人になれと仰るのですね」

不敬罪に問われかねない発言をしたヨハネスがおどけて肩を竦めると、今まで脅えているだけであったヘイエダールが非難めいた視線を彼に寄越してきた。

「此方には、"スヴァルトアールヴ"がおりませんでしたか?」

第四皇女の近衛に、該当者がいたと記憶している。"スヴァルトアールヴ"がいるのであれば、彼らが持つ能力を利用して、長旅をすることなくアスガルドを訪れる事が出来るのだ。

「"ブリュンヒルドの忌み子"のことですかね?彼ならいますけどね、私はアスガルドに行きたくないのですよ。御日様の光が眩しすぎて目が潰れそうになるし、直ぐに貧血を起こすし。御存知の通り、私は病弱で序でにニヴルヘイムの住人"ニーベルンク"ですのでね」

暗くてじめっとした場所が好きなんです、文句がありますか?
ヨハネスは拗ねたような表情を浮かべると、ぷいと顔を背け、ぼそりと呟いた。

「殿下のみならず私にまで招集をかけるということは、"ミーミルの首"が"神々の運命ラグナレク"を告げたのでしょうねぇ~」

独り言のようなその科白に、ヘイエダールがピクリと反応するのを、ヨハネスは見逃さなかった。

「ふふふ、ビンゴ、ですねぇ」

してやったりといった顔のヨハネス、そして青ざめて硬直しているヘイエダールを見比べて、ゼルダはやれやれと嘆息する。

「帰還せよとの命の真意はそれであるか。"首"め、余計な事を抜かしおってからに……」

"ミーミルの首"とは、皇帝のみが訪れることを許されている"智慧の泉"に安置されている巨人の首のことをいう。特殊な処置を施されており、決して腐ることも死することもないその首は様々な知識を授けてくれる不可思議な存在であり、皇帝に代々受け継がれている所有物でもあった。
此方が問いかけると内容に見合った回答を返すだけの"首"は、稀に自ら進んで口を利くことがある。

――"神々の運命"の時が訪れる。

"首"がこう告げたのであれば、それは帝国を統べる皇帝が代替わりするであろうことを意味する。古の頃より続く不変の金科玉条である。

「あー、七面倒臭いことが起こってくれやがりましたねー」

"ミーミルの首"の宣告は、帝位継承権を持つ皇族による玉座の簒奪をかけた戦いが始まる合図である。勝敗の決め手は相手の息の緒を絶つこと、つまりは身内で血を血で洗う殺し合いをするのが帝位継承の――"神々の運命"の戦いの掟だ。
その戦には、各地を治める公爵らにも参加権が与えられている。屈強な"アルファズル"や諸公爵を討ち取り、最後に皇帝の首を落とせば"アルファズル"による治世は終焉を迎える。だが、今までそれを成し遂げた者は存在していないのだった。
ニヴルヘイム、そしてヘルをこよなく愛するヨハネスは玉座には一切の興味を持たない。"神々の運命"の戦いへの参加権など、彼にとっては邪魔以外の何ものでもなかったのだった。

(ふん、あの糞親父は血を分けた誰か、或いはハンスと同じ公爵位を持つ誰かに討ち取られるのか。だが、そのようなことよりも……)

ゼルダの心にどす黒く醜い感情が渦巻き、皇帝に対する怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じる。

(儂がニヴルヘイムに閉じ込められるのであれば、ベルガとベルトはくれてやると、そう言うたではないか……!)

ヘイエダールが携えてきた皇帝の書状には、二人の処遇についての記述はなかった。だが、ゼルダの軟禁が解かれるということは畢竟、五十年前に交わした取り引きが反故にされたも同然ではないかと勘繰ってしまう。
次の瞬間、溜まりに溜まった皇帝への不満が爆発し、目の前が真っ赤に染まる。つまり、いきなりぷっつんしたのだ。

「巫山戯るなっ!!!」

怒髪衝天の勢いに任せて卓に拳を叩きつけると、硬く重量のある材質の木で作られている卓は与えられた衝撃に耐えられず呆気なく壊れ、どうと音を立てて崩れ落ちた。卓上に置かれていたティーカップらもそれに巻き込まれ、冷めきった中身をぶちまけながら床に落ち、派手に割れた。

(あ、うちの高級家具がー……ま、いっか)

ヴァナヘイム製の卓を破壊されたヨハネスは憤る事もなく、暢気に残骸を眺めている。その手には、ちゃっかりと死守していたお気に入りのコーヒーカップがあった。

「のっけから撤回する心算であったのだろうな!"出来損い"との約を反故にするなぞ、彼奴には屁でもないのであろう!信じた儂が愚かであったわ!!」

衝動的に叩き壊した卓の残骸を素手で掴み、丸腰のヘイエダールに投げつけていく。

「ひぃ……っ!」

自身が"アース"であることが幸いし、彼は生まれ持った反射神経の良さで略ゼロ距離射撃ともいえるゼルダの攻撃を神懸り的に避けていく。
その代わりに、彼の背後にある壁に次々と風穴が開いていった。幸い隣室には誰もおらず人的被害は免れたが、家具や床などは相当な被害を受けた。

「殿下。八つ当たりでソレを殺っちゃうのは一向に構わないのですがね」
「構ってください!!!」
「屋敷を破壊するのは頂けませんな。その机、お気に入りだったのですがねぇ?」

ヘイエダールの悲痛な叫びは無視して、ヨハネスはやんわりとゼルダを咎めた。

「エリーゼを伴い再び買いに行けば良かろう」

エリーゼとはヨハネスの細君の名である。問題だらけのヨハネスの手綱を握る事が出来る唯一の人物をして知られている。

「ああ、それもそうですね」
「そういう問題ではない!!!」

デートなんて半年振りじゃないかしら、と物思いに耽ろうとしたヨハネスの意識をヘイエダールの怒号が現実に引き戻す。水を差された彼は、ヘイエダールに白眼を向けた。

「貴方がたは、陛下の名代である私を何だと思っておられるのか!私を害するということは、帝国に牙を剥いたも同然の所業、命を奪うなど以てのほか!そのようなことをするのに、何の躊躇いもないのですか!?」

遂に堪忍袋の緒が切れたらしいヘイエダールは、顔を真っ赤にして喚きたてる。使者らしい扱いを受けなかったことに酷く憤慨しているようだ。

「躊躇う、だと?何故に、儂が貴様を、皇帝の犬を敬わねばならぬのだ?」

その声音は静かであったが、憤慨するヘイエダールを冷静にさせる威圧感を伴っていた。

日々にちにち大した理由もなく蔑まれ、時には気紛れに殴られ、悉く人権を無視されて生きてきた儂が、そうなった原因の一つとも言える皇帝に怨嗟の念を抱かずに、寧ろ敬うだと?笑止!!!」

素早く伸びたゼルダの手が、ヘイエダールの首を捉える。太くもなく細くもない首は、鋭い爪が食い込むほどの力でぎりぎりと締め上げられる。

「糞皇帝に媚び諂う犬に、儂の腑は理解出来まい。針の筵から解放された時分の歓喜、貴様なぞには決して理解出来まい!!」

ゼルダはそのまま彼の身体を軽々と片手で持ち上げると、血走った目を眇め、歪んだ笑みを浮かべた。