貴方はわんこ。貴女はにゃんこ。

美青年の笑顔に勝つ方法を教えてください

雪の降り積もった日の朝に生まれた私は、朝雪(さゆき)と名付けられました。
母は病弱な人で、私の物心がつく前に病に倒れて亡くなりました。
父は会社経営でとても忙しく留守がちで、私は専ら使用人に世話をしてもらい広い屋敷の中で一人で遊んでいるような子供でした。
時折姿を見せる伯母には三人の息子と一人の娘がいるのですが、伯母に似て自己主張が激しく高圧的ではっきりとした物言いをする彼らと、人見知りが激しくて引っ込み思案で可愛い気の欠片もない私とは反りが合わず、共に遊んだことは殆どありません。

六度目の冬が訪れて暫く経った日のことです。
外に遊びに行ったりすることもなく、私はいつものように一人で過ごしていました。陽が当たってぽかぽかと暖かい縁側に座って絵本を読んでいると、声をかけられたのです。

「朝雪、ただいま」
「おかえりなさい、お父さん」

珍しく早く帰宅した父の隣には見知らぬ男の子がいました。
少し癖のある黒髪に青味がかった灰色の目をしていて、左目の下には泣き黒子がある綺麗な男の子は私と目が合ったことに気が付くとにっこりと微笑んでくれましたが、人見知りの激しい私は蛇に睨まれた蛙のようになってしまいました。

Quinlyn(クインラン). She is my daughter(彼女が僕の娘で).. Her name is Sayuki.(名前は朝雪というんだよ)

この時分は未だ常日頃使っている日本語以外にも言語があることを知らなかったので、幼い私は突然英語を使った父に驚き、あらぬ不安を抱いたものです――父と同じ姿をした別人ではないかと。
そんなことを考えてしまった私は混乱してしまい、より一層身体を強張らせます。そうしていると、平坦な顔の造りをした日本人とは異なる目鼻立ちがはっきりとした男の子は、私の前までやってくると身を屈めて、目を合わせてきました。
硝子玉のような青灰色の目に見つめられた私は、初めて対面する人への恐怖でいっぱいいっぱいです。私の緊張を解そうと、彼はにっこりと笑ってくれました。

「ハズィメマシテ。ボォクノ名前ハ、Quinlynデェス。ヨロスィクオネガィスィマァス、シャユキオジョサマ」

英語――彼曰く、正確にはアイルランド訛りの英語だそうで――の発音で紡がれる不可思議な片言の日本語は、宇宙人が宇宙語を話しているようにしか聞こえなかったものです。
それから彼は臆することなく私と接しようとしてくれたのですが、如何せん彼の言葉が分からないので、私は兎に角彼から逃げていました。失礼極まりない私に憤ることもなく、彼は必死になって日本語を覚えてくれて、私の”子守”となって二ヶ月が経過する頃には、片言ながらも随分と正確無比な発音で話せるようになっていました。
彼が何を言おうとしているのかが理解出来るようになると、私はそれまでの態度を謝ることもせずに掌を返して彼に懐きました。
幼かったとはいえ、そんなことをした私を笑って許してくれた彼は人間が出来ていると思います。当時は確か小学六年生くらいだったと思いますので、驚異です。
それからは子犬がじゃれあうように遊んだり、共にばあやに礼儀作法を習ったり、私が小学生になれば彼が勉強を見てくれたり――幸せだった時間はあっという間に過ぎていって。

――さあ、遠い日の夢を見るのはもう終わりにしましょう。

夢から覚めましょう。

あの頃の日々は戻ってはこないのですから。

これからのことを思って、忘却の彼方に追いやりましょう。

といいますか。
どのようにしたらあの無駄に綺麗な顔をした外人を倒せますか、お父さん。貴方は一体どのようにして彼を手懐けていたのですか、教えてください!!!

――ふと気付けば、眠りから目を覚ました私は白い天井をぼうっと眺めていました。緩慢な動きで身体を起こし、カーテンを開くと朝の光が部屋の中に飛び込んでくる。その眩しさに反射的に目を閉じてしまいます。
明るさに慣れた頃に腕時計を見やれば、時計の針は朝の七時過ぎを指し示していました。
昨夜、武藤さんに略無理矢理貸し与えられた彼のシャツ――新品、そして体格差でだぼだぼ――を脱いで、屋敷から持ち出してきた服に着替えます。

「……」

脱いだシャツを畳んで手に持ち、扉の向こう側にいる武藤さんに悟られないように細心の注意を払って寝室の鍵をあけて、そろりとリビングの様子を窺います。

「おはよう御座います、朝雪さん」

視界がふっと暗くなり、頭上から優しげな声が降ってきたので顔を上げてみると、左目の下に泣き黒子がある眉目秀麗な外人さんがにこやかに私を見下ろしていました。
――失礼。この度、諸事情により同居させて頂くことになりました、家主のクィンラン・ディアルムド・フェラン・武藤さん(二十三歳、大学院生、独身)です。見た目は金髪碧眼ではない外人ですが日本語が堪能ですので、「私の好みのタイプは海外の人なんだけど、私ってば英語が全然出来ないのよね〜」というお嬢様方には最適かと思われます。家事も出来ますので、優良物件です。如何ですか。

「……おはよう御座います、武藤さん。寝巻き代わりのシャツを貸して頂きまして、誠に有難う御座いました」

寝室から出て朝の挨拶をし、恭しい態度でもってシャツを返却します。
他人行儀を貫くと心に決めた私を武藤さんが寂しそうに微笑みながら見つめてきます。その表情を見ると心が少しばかり痛みますが、これはもう決定事項なのです。覆しません。
身長185cmの比較的がっしりとした体格の青年が、御主人様にそっけなくされてしょんぼりとしている犬に見えるわけがないのです……!力なく垂れた耳と尻尾など、ついて、いない!

「朝食が出来ていますので、食べませんか?」

机の上には、プレートに盛り付けられたカリカリのベーコンとふわふわのスクランブルエッグ、野菜たっぷりのサラダに具沢山のコンソメスープ、そして狐色に焼けたトーストが並べられています。昨夜の御飯は中華風でしたが、朝御飯は洋風なのですね。
それにしても手際よく料理を作れてしまう武藤さんは出来る主夫ですね。いつでもお婿にいけます、保証します。その美貌でしたら引く手数多、群がる女性が貴方を取り合うのは目に見えてます。
どのような形でも結構ですので、早くお婿にいってしまえば良いのに。そうしたら、貴方に頼らなくて済むから――。

「……頂きます」
「頂きます」

向かい合って座り、手を合わせます。
うん、美味しいですね、悔しいほどに。ベーコンは油がしつこくないですし、コンソメスープも味がきつくないです。日本人向けの味付けに、思わず彼の出身を疑います。アイルランド料理がどのようなもので、どのような味付けなのかは分かりませんが……本当にアイルランド人ですか、貴方?

「今日は午前中から大学院の講義がありますので、夕方まで留守にします」
「どうぞ、勉学に励んでください」
「大家さんに朝雪さんのことを話しましたら、許可を頂きました。それと、僕が留守の隙に逃げようとされても無駄です。大荷物を抱えた小柄な女の子がいたら捕獲してくださいと大家さんや、アパートの他の住人の方々に頼んでおきましたので」
「……ちっ」

抜かりないですね、武藤さん。行動を読まれていたことが悔しくて、行儀が悪いと知りつつも舌打ちをしてしまいます。これでも元・お嬢様というやつなのですが、たった一日で随分とすれてしまうものですね。

「ああ、あと、高校のことなのですが……」
「依然通っていた高校でしたら、伯母が既に退学届けを出し、学校もそれを受理なさったそうです」

ですので、わたくし巽朝雪は今、ただの無職の少女ということになります。
淡々と事実を告げると、武藤さんは瞠目なさっておいででした。伯母がそこまでするとは思っていなかったのでしょう。

「……分かりました。それでは、編入を受け付けてくださる高校がないか調べておきます」
「……そのようなことはして頂かなくて結構です」

再び高校へは行かず、働き口を探すつもりだと打ち明けたのですが、彼はゆるゆると首を横に振りました。

「あと一年と数ヶ月で卒業出来るところまできていたのですから、高校へは行っておいた方が良いと思います」
「学費が払えません」

それに新しい制服や教材などの必要なものを揃えるには、沢山のお金がかかります。伯母に投げ寄越されたお金だけでは賄いきれません。

「学費や必要なお金は僕が払いますから、朝雪さんは安心して高校へ通ってください」

亡くなった養父が残してくれたお金や、父から子守代として受け取ったお金があるので問題はないと言われても、「はい、そうですか」と大人しく納得出来ません。

「そのお金は、貴方が貴方の為に使うべきお金です。私なんかに使って良いお金ではありません」

貴方だって、大学院の学費、アパートの家賃や生活費などでお金がいるではないですか。厄介になっている身なのですから、兎に角貴方に迷惑をかけたくはありません。

「朝雪さんを高校へ行かせることは、僕の望みです。ですから、僕の為に使います。……何も、問題はないですよね?」
「……」

とても美しい笑顔――背後にはドス黒いオーラ有り――が眩しくて、恐ろしくて、私は無意識に首を縦に振っていました。
どうして私は昔からこの人の笑顔に弱いのか!
助けて、お父さん!この美貌の外人に勝てません!

――かくして。
アパートから徒歩二十分程度のところにある公立高校の編入試験に見事に合格してしまいました。不合格になるつもりが、真剣に試験に取り組んでしまいました――どうやら私は手を抜くことが出来ない類の人間のようです。
こうして、私は再び高校生活が送れるようになってしまったのでした。

余談ですが。
高校に編入するに当たっての学校説明や、編入試験の際に、私の保護者としてついていらっしゃった武藤さんに群がる女子生徒と女性教師の彼を見る肉食獣めいたぎらついた目が忘れられません。
彼の呪いじみたモテっぷりをすっかり失念していたこともありますが、久し振りに見たその光景を見ると恐ろしさのあまりに凍りついてしまいました。

彼は大学院でもこんな目に遭っているのでしょうか。
そうなのだとしたら、御愁傷様です。
なむー。