Post nubila Phoebus

第6話 鷲の爪牙襲来 ―離別―

深い眠りに落ちていると思われたマシロだが、実は浅い眠りについているだけだった。
意識はしっかりとしているのだが、瞼が鉛のように重たく感じられ目を開けることが出来きず、身体を動かすことも出来ないでいる。しかし、聴覚は正常に機能しているので、侵入者の目的や、コガネが危機に陥っていることは理解出来た。

周囲の声だけが響いてくる闇の中で、マシロは力の限り叫んだ。
「コガネ!」
その時、ぼんやりとした淡い光が出現する。リゲルが干渉しにやって来たのだと、彼女は悟った。
<不味い事になっているようね?>
くすくすと笑いながら、酷く楽しそうに語りかけてくる。
「邪魔しないで!コガネを助けなくちゃ……!」
身体を動かそうと意識を集中させるが、己の身体を全く言うことを利いてはくれない。それは、マシロの焦燥感を煽り立てた。
<人間の分際で失敬な。邪魔などはしていないわよ。無作為に抵抗をし続けた付けが、今になって来ているだけ。所謂、燃料切れ、という状態かしらね?それを私の所為だと決め付けられるのは、癪に障る>
リゲルが身体を奪取しようと目論んでいるからこそ、マシロは必死に抵抗をし続けたのだが。果たして利己的なのはどちらだろうと、頭の隅で考える。
<まあ、お前の無礼はなかった事にしてやるわ。……この状況を打破したいのであれば、方法は一つだけしかない。それくらいは、浅慮なお前でも理解出来ているのでしょう?>
指先一つ満足に動かさせないほど疲弊している自分では、コガネを救い出すことは不可能である。動けたとしても、何も出来ないでいるだろう。マシロは痛いほどに、理解していた。
彼女が自覚しているのだと踏んだ上での物言いに、そしてそれが事実であることが悔しくて無性に腹が立つが、唇を噛み締めて堪える。
(足許、見透かされてる……っ)
リゲルに屈することが何を意味しているのか、その旨もよく理解している。
<救い出したいのでしょう?ならば、私に身体を差し出せば良いだけのこと。その対価として、アギュイエウスを助け出してやっても良いわ>
甘い誘惑の言葉に、心がぐらつく。

「……コガネを、助けてくれるのね?」
この時、リゲルは恐らく「しめた」という顔をしただろう。尤も、目の前にあるのは光だけで、リゲル本来の姿は分からないのだが、そんな気がしてならない。
<お前が身体を明け渡すというのであれば、ね>
「……コガネに、誰にも手を出さないと約束するなら、身体をあげる。絶対に、約束を守ることが条件だよ!」
条件を飲まなければ身体は渡さない、そう宣言しているようなものだ。そんなことを言っては自尊心の高そうな物言いをするリゲルのことだ、機嫌を損ねて強硬手段に出てくる可能性がある。
けれど、条件付きとはいえ、マシロがリゲルに屈服する形にはなる。そのことに満足して気を良くする可能性も有ると、マシロは予測していた。
<デミウルゴスたるこの私と対等に取引をしようなど、大それたことを……。無智とは恐ろしいものね。良いわよ、私は寛大だもの、非礼を許してやりましょう>
案の定、リゲルは食いついてきた。マシロの読みは当たったのだ。
(……御免ね、コガネ、ソウシちゃん、アキヒちゃん、トキワちゃん……)
コガネはきっと、盛大に落ち込んでしまうだろう。泣いてしまうかもしれない。だが、彼の気持ちやソウシたちの好意を裏切ってでも、マシロは現状を打破したかった。
結果として、自身の身体と永久に別れをする事になっても。今まで頑張ってきたことを、なかった事にするとしても。それが自己中心的な考えであるとしても。

(少しばかり、決断が遅かったようねぇ?)
リゲルは内心、ほくそ笑んだ。

***************

背後を取られ、首筋に刃を突きつけられたコガネの耳に、聞きたくもない言葉が否応なく流れ込んできた。

――リゲル・プラクシディケの宿主を殺すこと。

背後の侵入者は、マシロを殺しに来たということだ。強すぎる衝撃に、コガネは言葉を失ってしまう。
「コガネ、絶対に動かないでよ!?」
「おっと」
動かない方が良いと忠告されたにも拘らず、アキヒは敢えてそれを無視して攻撃を仕掛けた。攻撃は軽やかに回避されてしまったが、言われたとおり大人しくしていたコガネを解放することには成功した。
固より、そのつもりでわざと声を出したのだが。
「危ないですねぇ。俺がその少年を殺してしまうとは考えなかったのですか、御嬢さん?」
「僕は男だ、失敬な!!!」
女に間違えられた事に憤ったアキヒが喚くと、いつの間にか窓際まで退避していた侵入者は「これは失礼致しました」とわざとらしく虚礼してみせた。
「お前、初めからコガネを殺す気なんてなかっただろ?そのつもりなら、後ろをとった時点であいつの息の根を止めてる。俺だったら、そうするな」
何か別に目的があるのでコガネを一時的に人質にしたのだと見抜いたソウシは、身軽なアキヒをけしかけたようだ。
「そうですか。なかなか、頭の切れる方がおられるようで。ところで、大人しく獲物をしまっては頂けないでしょうか?そうしてくださると、俺の用事が早く済むのですよ」
唇の両端を吊り上げて三日月形にして、侵入者は意味深長な笑みを浮かべる。
「巫山戯るな!!!」
怒髪衝天したコガネが剣を振り上げて斬りかかるが、すいっと躱されてしまう。
「部屋の中で剣を振り回してはいけませんよ、少年。周囲の味方までも巻き込んでしまいます。トンファー然り、拳銃も然り」
「あんただって短剣持ってるじゃないか!……どうしてっ、マシロを殺そうとするんだよ!?」
そうはさせまいと声を荒げたコガネは剣先を侵入者に向け、鋭い目で彼を睨みつけた。

先程注意したばかりだというのに、もう忘れ去ってしまったのか。侵入者は、やれやれ、と言いたげに大袈裟に肩を竦めた。
「そう言われましてもねぇ……。今のうちに始末しておかないと、後々面倒な事になるのですよ?」
手の上でくるりと短剣を回転させて逆手に構え、彼は戦闘体勢に入る。
「五月蠅い!!!」
先手必勝とばかりに頭に血の上ったコガネが斬りかかるが、またしてもひらりと躱されてしまう。その際に手首を叩かれ、衝撃に耐えかねて剣を落としてしまった。
(しまった!)
そう思った刹那、コガネの視界はぐるりと回転する。足払いをされたのだと認識した時、彼の身体は床の上に転がっていた。
侵入者は一気にマシロとの距離を詰めようとするが、今度はトキワが彼の前に立ち塞がった。

「マシロちゃんは何もしていないわ。理由もなく、殺そうとしないで頂戴……」
彼女は努めて冷静に対応しようとしているのだが、その声音は明らかに怒気を孕んでいた。
「ふむ。理由を言えば殺しても良いのですね?では、言いましょうか」
床に倒れたコガネをアキヒが助け起こしているのを横目に、侵入者は語りだす。
「彼女の身体の中に潜んでいるリゲル・プラクシディケは、この世界には必要のない存在です。『これまで』のようでしたら特に問題はなかったのですが、其処の彼女が『同調者』であったことと、封印が破れたことが禍して、このような事になったと推測されます」
一旦区切り、彼は一息吐く。
「貴方方は、彼女をリゲル・プラクシディケから解放する術を求めているのでしょう?それは非常に簡単なことです。初めに言ったように、彼女を殺してしまえばいい」
こんな風にね。
彼らが話に聞き入っている隙を突いて、彼はマシロ目掛けて短剣を投げつけた。最悪の事態を想像した一行は戦慄するが、凶刃は彼女に突き刺さることはなく、目に見えない何かに弾かれた。
床の上に落ちた短剣は、硬い金属音を立てた。

***************

目を覚ましたマシロは緩慢な動きで上体を起こすと、虚ろな目で前方を見据えた。
「マシロちゃん、怪我はない!?」
トキワがマシロの無事を確かめようと動くが、侵入者が彼女の肩を掴んでそれを止めた。
(え?)
思わず振り向くと、侵入者の向こう側に、瞠目して震えているコガネが視界に入ってきた。
「違う。マシロじゃない、リゲルだ……!」
二人の違いに気が付いたコガネは、マシロの姿をしたりゲルを睨みつける。

「……アギュイエウス。言葉を交わすのは久しいけれど、見えるのはそうでもないわね。良かったわね、首に付いた後が綺麗に消えて」
エレウシスでの夜、コガネの首を絞めたのはマシロではなく、やはりリゲルだったのだ。
マシロとは異なる微笑を浮かべて、彼女はベッドから降りる。不意に目を動かして、侵入者の姿を視界に捉えた。
「其処のお前、やたらと私のこと……いえ、デミウルゴスについて詳しそうだけれど、それは何故?」
暫し彼を見つめた後、彼女は何かに気が付き、顔色を変える。
(まさか……)
「秘密事項ですので、言いませんし、言う気もありません」
彼女の心の内を悟ったのだろうか。侵入者は短剣で斬りつけようとするが、リゲルの周囲に目には見えない障壁が発生し、凶刃が届くことはなかった。
二、三歩後退して、彼は忌々しそうに舌打ちをする。
「ならば、どうでもいいわ。悠長に人間どもに付き合ってやる暇などない。早く、『あの子』と接触をしなければ……」
リゲルはコガネを一瞥し、にんまりと嫌味な笑みを浮かべた。
「残念だったわね、アギュイエウス。セレネはもう永久に戻っては来ないわよ」
不可解な言葉を言い放った次の瞬間、リゲルは光と共にその場から跡形もなく姿を消してしまった。

(……嘘、だろ)
信じたくない言葉が、頭の中でぐるぐると繰り返される。蒼惶と青ざめたコガネは、放心状態に陥る。

***************

(……面倒ですねぇ)
空間移動(テレポーテーション)』を使われてしまっては、追跡も出来ない。彼女が何処へ行ってしまったのか、見当がつかないからだ。
だが、彼女が最終的に辿り着く場所は分かっている。侵入者は獲物を逃がしてしまったことで取り乱すこともなく、次の一手を考え始める。

「てめえ、何者だ?」
気配を殺して忍び寄ったソウシは、彼の後頭部に銃口を突きつけた。
(ああ、気を抜きすぎましたか)
さして驚くこともせず、彼は平然としている。
「その問いには、先程答えたと思うのですが?」
「では、質問を変えましょうか。貴方は何をどこまで知っているのかしら?」
腕を組んで仁王立ちをしたトキワが、口を開いた。
「訊いてどうする御心算ですか?宛てもないのに、リゲル・プラクシディケを追うとでも?」
無謀なことを。
その言葉で我に返ったコガネは、大股でズカズカと歩み寄ると、彼の胸倉を力一杯掴みあげた。
「当たり前だ!俺はマシロの身体からリゲルを追い出す方法を探しに、アテナイに来たんだ!なのに、あんたがいきなり現れて、マシロを殺そうとして、リゲルが出てきて突然いなくなって!」
マシロがいなくなってしまったので、はい終わり。そんなことは出来ない、したくもない。何も出来ず、何も知らず、このままマシロのことを放ってデルフォイに帰りたくない、帰れない。
オルフェウスが、孤児院の子供たちがこのことを知ったら、酷く悲しむだろう。
「大体、リゲルって、デミウルゴスって何なんだよ!?どうしてリゲルはカスタリアの泉に封じられてたんだ!どうしてマシロが身体を奪われなくちゃいけなかったんだよ!?どうして、どうして……っ!」
ぐちゃぐちゃになった感情が、堰を切ったように溢れ出してきて止められなかった。
最後の方は嗚咽が混じり、聞き取り辛かった。目頭が熱くなり、やがて許容量を超えた涙がぼろぼろと目から零れ落ちる。
胸倉を掴んでいた手の力が緩くなり、だらりと落ちる。絶望したコガネは頽れ、幼子のように泣きじゃくった。
「コガネくん……」
どのような言葉をかけたら良いのだろうか。
下手な言葉を選んでしまえば、彼は余計に落ち込むだろう。何も言わない方が良策だと考えたトキワは、泣き崩れたコガネの背中をそっと撫ぜて、落ち着かせようとする。
「……リゲル・プラクシディケは、『神代』と現代の間、『黎明の時代』から存在し続けている者です。正確には、魂だけなのですがね」
泣きじゃくる子供を見て、何か思うところがあったのかどうかは分からないが、侵入者は酷く面倒臭そうに語った。

『神代』とは、神話や伝説として語り継がれている、天上の神々が世界を支配していたとされる時代のことをさす。
その後に訪れるのが『黎明の時代』で、現代よりも遥かに文明が発達していたと伝えられているのだが、突如として歴史の舞台から姿を消す。その詳細は伝えられてはおらず、。誰にも分からない。また、その時代に起こった出来事も、培われた技術も何もかもが失われてしまっている。

「黎明の時代から存在してるって……」
「ありえねえだろうが!嘘吐いてんじゃねえだろうな、てめえ」
黎明の時代は、現在から遡ること千数百年程前に滅んだと言われている。
人間には途方もない年月は生き続けられない。生き続けられるとしたら、人間ではない『何か』でしかない。その発言は到底信じられないと、アキヒとソウシは訝る。
実際にその目で、リゲルという不可思議な存在を確認した後でも。
「……やれやれ。この状況で嘘を吐いて、俺が得をすると思いますか?」
頭に銃を突きつけられているというのに、そのような危ない橋を好んで渡るとお思いか?
そう言いたげな溜め息に、その態度に、コガネは泣くのも我をも忘れて激昂した。
「……勿体ぶらずに、知ってることを全部吐けよ!!!」
勢いよく立ち上がったコガネが怒鳴りつけると、彼は意地悪く唇の両端を吊り上げた。
「それが、人に物を頼む時の態度ですか?」
「……っ!」
コガネは言葉を詰まらせてしまった。
「てめえ……」
「性格が最悪だね、あんた」
「お褒めに預かり光栄です」
誉めてなどいないと、憤慨した二人は声を揃える。凍りついたコガネを下がらせて、トキワが間に入った。
「私たちは、貴方が持っている情報が欲しい。貴方の知っていることを教えてください、御願いします」
彼女は敢えて下手に出て、深々と頭を下げる。
「……御願い、します」
彼女の真摯な態度に倣い、少しだけ冷静になったコガネも頭を下げた。
リゲルに身体を奪われたマシロが姿を消してしまった事に動揺し、混乱していたとはいえ、確かにコガネの言い方も悪かった。だが、彼の態度も如何なものかとも思う。多少納得がいかなかったが、今はそんなことを言っている場合ではないと判断したのだ。
「……まあ、良いでしょう。ですが、詳細は俺ではなく、『高みの見物を決め込もうとしている不届き者』に訊いてください」
「はあ!?何言ってんだ、てめ……っ」
振り向きざまにソウシの手から素早く銃を奪い取り、彼は彼女の眉間に焦点を当て、銃を向けた。
王手(チェックメイト)、ですねぇ?油断は禁物ですよ」
「……てめえ」
してやられた、と、ソウシは苦々しげに顔を歪める。
(コイツ、慣れてやがるな……)
隙を作らせる事に長けていると言ったら良いのだろうか。それとも、ただ単に油断するまいと構えていること自体が隙を生むのか。
「今日はもう遅い。明日、アレイオス・パゴスの図書館でゆっくりと話し合いでもしましょうか。はい、これはお返ししますね?」
「は?」
奪い取られた銃を返されたソウシは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。彼女と同様にぽかんとしている三人の間を摺り抜けて、彼は窓際へと移動する。
「それでは、御機嫌よう」
涼しげな笑顔を浮かべた直後、彼は窓から飛び降りて消えた。

「うわっ!!!此処、三階だぞ!?」
彼が姿を消してから三秒程経過してから、我に返ったコガネが慌てて窓から顔を出し、下を見た。しかし、其処から見えるのは石畳だけで、彼の姿は見当たらなかった。
(……お化け?)
それはありえないだろうと、自分自身で突っ込みを入れる。
「畜生、何なんだよ、あの野郎はっ!」
銃をホルスターの中にしまったソウシは、ベッドの上に乱暴に腰を下ろし、舌打ちをして苛立ちを顕わにした。
「……どうすんだ?明日、あの野郎の話を聞きに行くのか?」
「でもさぁ、罠かもしれないよ?」
ソウシとアキヒの二人は、あまり気が進まないようだ。
「罠……だとして、俺たちが引っかかると、あいつが得をするのかな?俺は……色々と知りたいから、行こうと思う」
何も知らないままでいることは、蚊帳の外にいるように感じられて癇に障る。
「わざわざ人気のある場所を指定してきたのだもの、そう心配することはないと思うわ」
トキワはとても寂しそうに、まだ温もりの残っているマシロが寝ていたベッドを直している。
「んー、ちょっと、楽観的すぎない?」
「心配のし過ぎも、却って仇になる時があるのよ?」
一時間も経過していないというのに、色々なことが立て続けに起こった。何が遭ったのかを頭の中で整理するだけで、酷く疲れてしまう。
「……こんなことがあっても、腹は減るよな」
そういえば夕食を食べに行こうとしていたのだ、ということをコガネは思い出す。何かをして気を紛らわしたいので、彼らは重い足取りで部屋から出て行った。