Post nubila Phoebus

垣間見える影 ―リゲルと勝利の女神(ニケ)

翌朝、コガネたち一行はエレウテライを出立して、キタイロン山を下る。
麓に降りると其処はもうボイオティア地方ではなく、アッティカ地方となり、王都アテナイへと続く街道が再び姿を現す。
暫し歩いて乗合馬車の集まる駅へ辿り着くと、早速アキヒは御者と交渉を始める。御者が街道を使ってエレウシスまで向かうというので、彼らはその馬車に乗り込む事にした。

エレウシスまでの料金はさほどのものではないのだが、五人分となるとそれなりと金額になった。しかし、カドメイアでの魔物退治で手に入れた賞金があるので、難なく料金を支払うことが出来たの。
けれども、トキワが一人顔を曇らせる。
「良いのかしら?私の分まで支払って貰っても……」
有難いのだが、申し訳なく感じたトキワは恐縮してしまう。昨日知り合ったばかりなのに、と。
「美味い飯食わせて貰ったからな、その礼だ。気にするなよ」
彼女の肩をぽん、と軽く叩き、ソウシはにっと悪戯小僧のように微笑んだ。

馬車を利用すること数時間。
コガネたちはアッティカ地方の町、エレウシスに到着する。

***************

「何ていうか……、アッティカ地方に入ると、がらっと雰囲気が変わるんだな」
デルフォイのあるロクリス地方や、通り過ぎてきたボイオティア地方の人々はどこかのんびりとしていたのだが、アッティカ地方の人々はそうではないのだろうか。目の前を往来する人々の動きは、とても忙しない。
町並みも住宅が隙間なく建てられているように見え、黒い煙を吐き出している煙突の付いた大きな建物――所謂工場と呼ばれるものが多数あったりと、これまであまり目にしたことのない光景が広がっている。

「これが、都会なのか……!?」
長閑な田舎町で育ったコガネは、思わず身構える。
『都会は何処に危険が潜んでいるか分からないので、十分に注意するように』と、小さな頃から孤児院のオルフェウス院長によく言って聞かされていたのだ。
「エレウシスは都会とは言い難いぜ。アテナイなんかよ~、馬鹿広くてもっと人間だらけだぜ?」
「そうそう。田舎に毛が生えた程度、の方が正しいかも」
エレウシスで暮らす人々が聞いたら確実に激怒するであろう言葉を、賞金稼ぎ二人組は平然と言ってのけた。それを耳にしたコガネとマシロはぽかんと口を開けて呆けてしまい、トキワは何と言ったら良いのかが分からず苦笑してしまった。
「え、えぇと……。エレウシスは工業の町だから、他の町とは少し雰囲気が違うのでしょうね。此処で製錬された鉄や鋼がヘレネス中に運ばれて、武器や日用品に加工されるのだそうよ。私が依頼した斧も、此処で製錬された鉄などを使って作られているのかもしれないわね」
彼女の説明を聞いて感心していたコガネの目に、ふとマシロの姿が入り込む。
「マシロ、具合が悪いのか?」
「……え?」
声をかけられたマシロは、力無げに此方を向く。顔色は悪く、目の下にはうっすらと隈も出来ている。エレウテライを出る前は調子が良さそうだったので、エレウシスにやってくるまでに疲れさせてしまったのだろうか。
「少し、良いかしら?」
トキワは彼女の顔を覗き込み、その額にそっと手を当てる。
「熱はないようだけれど、顔色がとても悪いわ。早く休ませてあげましょう?」
マシロを背負うと、トキワは宿屋へ向かおうと一行を促す。機転を利かせたアキヒが先行し、宿屋を見つけると早々に受付を済ませてくれた。マシロをベッドに寝かせると、彼女は直ぐに寝息を立てて眠り始めた。

「余程疲れていたのかしらね。ぐっすりと眠り込んでいるわ……」
「知らないうちに無理させちゃってたんだね、これから気をつけなくちゃ……」
トキワとアキヒが心配そうに、昏々と眠る彼女の顔を覗き込む。
「今日のところはエレウシスで大人しくしねえとな」
「……うん」
彼女は皆に心配をさせまいと、何も言わずに我慢していたのだろうと容易に想像出来た。直ぐに気付けなかったことが悔しくて気落ちしているコガネの肩を、ソウシは元気付けるように少しだけ強く叩く。「お前の所為でも、他の奴の所為でもないぞ」と。
「ようし、マシロちゃんに栄養のあるものを食べさせないといけないわね!というわけで、ソウシさんとアキヒくんは今から私がメモに書くものを買ってきて頂戴。私は宿の人に調理場を使わせて頂けるか、交渉してくるわ。コガネくんは、マシロちゃんについていてあげて頂戴ね。はい、各々解散!」
トキワはメモ用紙にさらさらと流麗な文字を書きながら、てきぱきと指示を出す。コガネをその場に残し、賞金稼ぎ組はメモ用紙を受け取り買い物へ、トキワは交渉をしに部屋から出て行った。

***************

眠りに落ちたはずのマシロは、覚えのある闇の中にいた。そして、眼前には淡い光――リゲルがいる。

<御機嫌よう、マシロ・セレネ>
「どうして、私の名前を……っ!?」
リゲルの前で名乗った覚えはない。知っているはずがないマシロの名を、何故リゲルが知っているのだろうか。
<どうして?あら、気が付いていなかったのね。お前の耳目を通して、私が見聞をしている事に>
「!」
全く、気が付かなかった。
いや、リゲルがこのようにして接触をしてくるまで、上手く押さえつけているものだと思い込んでいたという方が正しい。まさかリゲルにそのような真似が出来るとは思ってもいなかったマシロは、驚愕のあまり言葉を失う。リゲルという存在が、マシロの想像の範疇を超えているのだということを再認識した気がした。
<抵抗は無意味だと、漸く認める気になったかしら?>
リゲルの持つ得体の知れない力は少しずつ、且つ確実にマシロの体を蝕んでいっている。込み上げてくる笑いを押し殺しながら、リゲルは酷く楽しげに語る。
「……っ」
そうだとしても、何もしないで手を拱いているよりはずっと良い。何を言われようと足掻き続けてやると、敢えて言葉にはせず、意志の強い目で眼前の光を睨みつける。
<未だ、諦める気はないと?>
マシロの目と耳を通して見聞きした限り、意志薄弱とまではいかないがそれに近いものがあると判断した。けれど、その予想は外れた。彼女は意外に強情だった。
目に見えて疲弊するようになってきたので、そろそろ限界だろうと考えたりゲルは、より一層揺さぶりをかける為にわざと語りかけた。思い通りに事は進んでいるのだが、マシロが容易に陥落しないことに苛立ちを感じてきた彼女は、忌々しげに小さく息を吐いた。

<言って聞かないのであれば、今すぐ行動に移してやっても良いのよ?>
その低い声音に、マシロは旋律を覚えた。

――瞼が僅かに震えて、ゆっくりと開かれると紅玉を思わせる瞳が現れる。
『マシロ』は目を覚ますと、緩慢な動きで上体を起こして、虚ろな目を動かしコガネを捉えた。
「マシロ、もう起きても大丈夫なのか?」
そのことに気がついたコガネは、椅子から腰を上げ、ベッドに手を付いて、彼女の顔を覗き込む。
その瞬間、『マシロ』は唇の両端を吊り上げて三日月形にした。
「っ!?」
普段の彼女ではありえない速度で、『マシロ』はコガネの首を両手で掴み、ぎりぎりと絞める。その力は半端なものではない。
「マ……シロ……ッ!?」
違う、これは――。

「止めて、コガネに何するの!!!」
闇の中に、マシロの叫喚する声が響き渡る。彼女の目には、自身に首を絞められ悶え苦しんでいるコガネの姿が映し出されている。それは、リゲルも見ていた。
今、マシロとリゲルは視覚を共有しているようだ。
<お前の身体が、どの程度私に侵食されているのかを見せてやっているのよ>
コガネの首を絞めている『マシロ』の身体は、リゲルが動かしているのだ。
「やだ、やだ、止めてよぉ……っ!」
涙声で、マシロは懇願する。
<泣き喚くことしか出来ないというのに、口だけは達者に動くようね>
流石は人間だわ。
最終的には屈服し、服従するだけだと決まっているのに、人間は思い上がり、抗おうとする。
(あれを思い出すではないの)
リゲルは、冷たく言い捨てた。

***************

こういう事情があるので、調理場を使わせて貰えないだろうか。
宿の主人に交渉してみると、快く承諾して貰えた。後はソウシとアキヒが買い物を追えて帰ってくるのを待つばかりだと、トキワは軽い足取りで戻っていく。

「……マシロちゃん!?」
扉を開けた途端に目に入ってきた光景に、背筋が凍りついた。
「マシロちゃん、落ち着いて……!」
瞬時に我を取り戻したトキワは、慌てて二人の元へ駆け寄る。マシロの腕を掴みコガネから離そうとするのだが、思った以上に力が強く、なかなか離す事が出来ない。
(駄目……!これ以上力を強くしたら、マシロちゃんの手が……っ)
しかしこのままでは、コガネが窒息死してしまう。どうしたら良いのかと、彼女は逡巡する。
「ち……がう……っ。マシ、ロじゃ……ない……っ」
「え?」
息も絶え絶えに、苦しげな声でコガネはトキワに伝える。これはマシロではないのだと。
マシロの身体に潜むものの正体を知らない彼女は、彼の言葉が意図するものが分からず、驚きのあまり身体を強張らせた。
そうした刹那、『マシロ』はそ手に込めていた力を緩め、糸の切れた人形のようにベッドの上に倒れた。
突然解放されたコガネは、一気に肺の中に入ってきた空気に咽てしまい、げほげほと咳き込む。蒼惶としたトキワは、コガネの背中を撫ぜながら、何が起こっていたのかを頭の中で整理し始めた。

<……未だ、邪魔をする力が残っていたようね?>
これもまた予想外だと、リゲルは溜め息を吐く。
激昂したマシロが強制的に身体の主導権を取り戻したので、コガネは解放された。その代償としてマシロは酷く疲弊し、身体だけ再び眠りに落ちる。
<これで、己が置かれている状況が理解出来たかしら?>
いつでもマシロの身体を完全に乗っ取る準備は出来上がっているのだと、リゲルはくつくつと喉を震わせて笑う。
「……アテナイに行けば、貴方とお別れ出来るだろうから……大丈夫だよっ!」
残された時間は思っていた以上に少ないようだ。
そう思い知らされ、マシロは焦燥するがそれを悟られまいと強がりを口にする。

<其処に何があるのかは知らないけれど、行ったところで意味はないわ。お前が求める術は、決して見つけられはしないのだもの>

「……え?」
リゲルは今、何と言ったのか。
コガネとマシロは求めてやまないものは決して見つけられはしないと、そう言ったのか。
――そんな馬鹿な!
そう叫びたくて堪らないのだが、声は喉元で押し留まり、出てきてはくれなかった。
<『あの時』から幾歳、いいえ、幾百年、幾千年過ぎたのかは分からないけれど、仮に残されていたのだとしても今は存在していないでしょうね>
その術を生み出した者は、書物に記すなど、形に残すことをしなかったはずだ。己の頭の中にしっかりと残っていればそれでいい、そういう輩だった。
「わ、分からないよ、貴方が知らないだけかもしれない」
自分に言い聞かせるように、マシロは呟く。
<強がるのも大概にしたらどうかしら?見苦しいだけよ>
態度を一向に変えないマシロに、リゲルは辟易する。こんな人間は二度目だ。
<そうね、もう一つ良いことを教えてやるわ。私がお前の身体の内に潜むことが出来るのは、魔法の御蔭よ。そう、これは魔法なの>
では、魔導師に頼めば解除出来るのかもしれない。そう考えたマシロは、顔を綻ばせる。
<だけれど、『普通の魔導師』には決して解除は出来ない類の魔法よ。……残念だったわねぇ?>
リゲルは意地悪く、楽しげにそう告げた。マシロの落胆振りに満足して、くすくすと笑い声を響かせる。
<お前は、下等な人間は決して私に勝てはしないのよ。何故なら私は……>
創造主(デミウルゴス)』なのだから。
「デミ……ウルゴス……?」
聞きなれないその響きだ。そこで、マシロの意識は不意に途切れた。闇の中に、リゲルが残される。
<……逃げられたわね>
この隙に身体を奪いたいところだが、もう少し様子を見るのも良いかもしれないとリゲルはほくそ笑む。『あの時』から世界がどのように変化したのかを、未だ然と目にしたわけではない。確認してからでなければ、行動を起こすのは危険だと経験により重々承知しているからだ。

***************

「……落ち着いた?」
乱れた呼吸が整ったのを見計らってから、トキワがコガネに声をかける。
「……うん」
彼は頷きながら答えた。
失神したマシロをもう一度寝かせ直すと、彼女は彼の首に目をやった。くっきりと浮かび上がった幾本もの赤い筋が痛々しい。そして、神妙な面持ちで彼に尋ねた。
「訊いても、良いかしら?どうして、あんな事に?それと……『マシロちゃんじゃない』って……どういうことなのかしら……?」
「それ、は……」
その疑問にコガネはドキッとし、目を右往左往させて固まってしまう。
彼女にどう説明したら良いのか、兎に角何もかもを打ち明けた方が良いのか否かを考えるが、混乱するばかりで明確な答えは姿を見せてはくれない。
その時、扉を叩く音がして、間もなく扉が開かれた。

「ただいま~」
頼まれた買い物を終えたアキヒとソウシが部屋の中に入って来た。
「……どうかしたのか?」
周囲に漂う異様な空気と、コガネの首に浮き出た痣に即座に気が付いたソウシは、眉根を寄せて詰め寄る。
「……その……」
「何でもないわ。おかえりなさい、二人とも」
戸惑っているコガネを庇うように、トキワは二人の間に割って入った。追求しない方が良いのだろうと判断して、気を遣ってくれたようだ。
「はい、これ頼まれたのね」
「有難う、アキヒくん」
差し出された買い物袋を受け取り、トキワは礼を言う。
その隙をついて、ソウシは大きな手でがっしりとコガネの頭を掴み、何が起こったのかを理解出来ず呆然としているその顔を覗き込んだ。
「コガネ、全部吐け」
悪魔は微笑むとこんな顔をしているのではないだろうか。
そう思わざるを得ない凶悪な笑みを浮かべたソウシに頭を掴まれているコガネは、瞬時に蒼白して硬直してしまう。逃げ出したいという気持ちに駆られるのだが、身体が言うことを利いてくれないのでそれは叶わない。
何より、コガネが全てを打ち明けるまで、ソウシは解放してくれそうにない。
「……はい、吐きます……」
観念したコガネは、ぽつりぽつりと語り始めた。

「そう、そんなことが……」
ある程度話を聞き終えたところで、トキワは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「カスタリアの泉、ね」
御利益があるという泉の水を手に入れ、それを売り払って金を稼ぐという算段を企てたアキヒは、ソウシと共にデルフォイに赴いたことがある。
その矢先に町の人間に泉の水には何の効果もないと教えられ、愕然とした思い出があるので、久々にその名を耳にした彼は苦い表情を浮かべた。
「その泉にリゲルってのが封印されてて、マシロはそいつに取り憑かれちまったってのか?」
「……うん」
マシロがどのような状態にあるのかを聞いた三人は、その話が俄かに信じ難いと表情を硬くする。
今しがたコガネが打ち明けた内容は、非常に現実離れしたもので、彼らがそのような反応を見せるのは仕方がないだろうと思うので、コガネは腹を立てることはしなかった。
「あの、さ。マシロちゃんが二重人格だった、っていうことはないの?」
そこまで言ったところで、「コガネが嘘吐いてるって言ってる訳じゃないんだよ!?」と慌てて付け足す。純粋に疑問に思ったので、その可能性はないのかと問いたかったらしい。
「それは、ない」
首を横に振り、コガネははっきりとそれを否定する。
「仮にそうだとして。泉に行っただけでもう一つの人格が出てくるとは思えない。それに、マシロは魔法が使えるようになってないと思うんだ。リゲルに身体を乗っ取られるまで、マシロは魔法が使えなかった」
コガネは勿論のこと彼女自身、その素質があることを全く知らなかった。
「俺は魔法に詳しくないから、よく分からないけど、あの時、リゲルは魔物を呼び出す魔法を使ったんだ。俺の知る限り、そんな魔法は見たことがない」
「僕もそんなに詳しくないけど……。魔法って、傷を癒したり、火とか風とか操るものでしょう?そんな魔法、聞いたことないよ……」
賞金稼ぎの中にも数は少ないが、魔法を得意とする者がいる。彼らが実際に魔法を使っているところを幾度となく見てきたが、コガネの言う『魔物を呼び出す魔法』を使う者など、見たことがない。
得体の知れないものの存在を徐々に実感してきたアキヒは、驚きのあまり息を飲んだ。

「まあ、リゲルってののことは一先ず置いといてだな。そんなことがあったから、お前らはアテナイを目指してたのか?」
小難しい話にはついていけないと、ソウシが話を切り替える。
「俺とマシロが身を寄せてる孤児院の院長先生が、神殿の管理者でもあるんだ。だから、神殿のことには一番詳しい人なんだけど……」
リゲルの存在について触れている文献や書物はなく、オルフェウス院長もまた、その存在は全く知らなかった。困り果てたコガネに、彼はヘレネス王国一の蔵書量を誇る最高裁判所(アレイオス・パゴス)の図書館の事を教えた。
「其処に行って調べたら、何か分かるんじゃないかって思ったんだ。それで、アテナイを目指してる……」
「僕、一回だけ其処に行ったことがあるけど……あそこの図書館って、物凄く広いよ?」
全ての文献、書物を網羅しようものなら、何年、何十年かかるか分かったものではない。ある程度の目星をつけてから調べものをしないとやってられないと思うよと、アキヒは忠告する。
「が、頑張って調べるよ……」
そこまでは考えていなかったと、コガネは項垂れる。
正直なところ読書をするよりも、身体を動かしている方のが性に合っている。そういったことが向いていない事は重々承知しているのだが、そうは言っていられないこともまた、重々承知しているコガネは顔を引き攣らせながら、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「そんな事情があんなら、早く言えよな」
呆れたように息を吐いた後、ソウシはふっと笑みを溢す。そして、彼の額を指先で軽く突いた。
「護衛の約束はアテナイまでだって言ったけど、その後の調べものも手伝ってやるよ」
唐突過ぎる彼女のその発言に、アキヒは面食らう。
(どこまで首突っ込んで世話焼く気なのさ!?ていうか、ソウシ!あんた、頭脳労働が一番向いてないじゃないか!!!)
どの過ぎる御人好しと言おうか、何と言おうか。突拍子もないことをさらりと言ってのけるソウシに呆れてしまい、ぐうの音も出ない。
(……うん、まあ、コガネたちのことは嫌いじゃないから、いっか)
暫し黙考した後、直ぐに気持ちを切り替える。青くなったり赤くなったりと、忙しい少年だ。
「私も手伝うわ。頑張りましょうね」
コガネの肩に手を置き、トキワがにっこりと笑う。
「で、でも……っ」
知り合って間もない彼らにそこまでしてもらうわけにはいかない。
これは自分とマシロの問題だから、そう言い出そうとした矢先、冷たくて硬い何かがコガネの額に押し当てられた。
「でも?その先は何だ、ん?言ってみろ」
言えるもんならな。
額に押し当てられているのは、銃口だ。それを悟り、本日二度目の悪魔の笑顔を確と目の当たりにしてしまったコガネは、滝のような冷や汗を流す。
「いえ、何でも……ありません、はい。喜んで御好意に甘えさせて……頂きます……はい」
蛇に睨まれた蛙の気持ちが、今なら痛いほどよく分かる。間もなく、コガネはソウシの脅迫に屈服した。
「ん、そうかそうか!」
コガネの力ない返事に満足したソウシは、手にしている拳銃をホルスターに収めてから、乱暴に彼の頭を撫で回す。

「うわー、大人気ない脅迫してるよ、子供相手に……」
「そ、そうね……」
その光景を間近で眺めていたアキヒとトキワの二人は、顔を見合わせると困ったように苦笑した。

***************

コガネとマシロが立ち去って以降、静寂を取り戻したはずのデルフォイの神殿が、物々しい空気に包まれている。神殿の外は勿論、中まで『女神の盾(アイギス)』の兵士が数メートルおきに立っており、何者も近付けないようにと目を見開いて警備をしているのだ。
厳戒態勢をしかれている神殿の中、最奥のカスタリアの泉に二つの人影が見える。

「おかしい、リゲルが居ない」
闇を象ったような長い黒髪に、猫を思わせる金色の目が印象的な少女――クロム・アイドネウスは、泉の水面に顔を映すと柳眉を顰めた。彼女こそ、『勝利の女神(ニケ)』と謳われている人物である。
だが何故、この神殿の管理者であるオルフェウス院長でさえも知らなかったリゲルの名を、彼女は知っているのだろうか。接点が見当たらない。
「……『あの時』、アルタイルたちはリゲルをこの泉に閉じ込めたはず……」
あの場所へと閉じ込められる以前、彼らが話していた事柄を然と耳にしたのだから。それを頼りに、彼女はこの場へと赴いた。
「其処此処にリゲルの力の欠片が残っている。だから、確かにリゲルはこの泉に封じられていたのだわ」
漆黒のドレスを翻し、クロムは振り返る。そして、背後に控えていた軍人――アイギス総長シロガネ・アイドネウスに、「では何故、リゲルは此処に居ないのか」と目で問うた。
「……申し訳ありません。小生には、分かりかねます」
抑揚を欠いた声で、彼は主が問いかけた質問に対する返答をする。
「お前に、下等な人間如きに我々『デミウルゴス』の神慮など理解出来る筈がないわね。私が悪かったわ。許して頂戴、シロガネ?」
咲き誇る花を思わせる婉然としたその笑みは、世の男たちを一瞬で骨抜きにしてしまいそうなほどの魅力を伴っている。だが同時に、毒々しくも感じられる。
見慣れているのだろうか、シロガネは表情を全く変えることはなく、ただ静かに生気の感じられない虚ろな目で彼女を見下ろしている。
「……小生如き一介の軍人に、そのような御言葉、大変勿体のう御座います。我が君、ニケ……」
恭しく拝礼する彼の言葉に、クロムは片眉をぴんと跳ね上げる。
「その呼称は好かないわ。嫌な事を思い出すではないの」
勝利の女神の名から連想される人物の姿を思い浮かべてしまったらしい彼女は、小さく舌打ちをする。
「だけれど、この国の人間どもは、やたらとその呼称を使いたがるのよね……」
だが、そう呼ばれてもおかしくないことした――トラキア戦争で。
旧トラキア王国の防衛戦線は手強く、ヘレネス王国軍は苦戦していた。しかし、彼女がヘレネス軍に肩入れをしたことで、その防衛戦線は崩れ、ヘレネス王国は間もなくトラキア王国を滅ぼし、その領土を手に入れることが出来た。
そうなるようにと仕向けたのが、彼女だ。

「特別待遇を受けられるのは構わないのだけれど、こうも行動を制限されると煩わしい事この上ないわ」
奇跡の少女として祭り上げられた彼女は、この六年間、王の付き添いとして公の場に赴いては演説をしたり、ヘレネス王家との繋がりを強化したいと目論む政界、財界の有力者の晩餐会などに賓客として招かれたりと、常に分刻みの予定をこなしてきたのだ。
「一番煩わしいのは、アガメムノンの爺よ。どのようにしたら、あれほどの被害妄想に浸ることが出来るのは……不可思議で堪らない」
その被害妄想の御蔭で彼女は今、王族並みの地位に座すことが出来ている。それは事実だ。けれども王宮に閉じ込められ、王の相手ばかりをさせられるのは頂けない。
(『アシアの狸』と『アルカディアの若造』は絶対にヘレネスの領土を狙っている、口を開けばそればかり。いい加減、聞き飽きたわ……)
『アシアの狸』とはアシア連邦大統領プリアモス・ゲネトリクスを、『アルカディアの若造』とはフェレトリウス・アルカディア帝国皇帝メネラオス・レムス・フェレトリウス・アルカディア10世を意味する。
ヘレネス王アガメムノンは、この二人を酷く恐れているようだ。
「リゲルの居場所は分かっているのに、この場に赴くまでに六年も無駄な時間を過ごしてしまった!」
執務を粗方片付けて余裕を作った。一人で出来ないこともないのだが、護衛を付けなければより一層面倒な事になるのが容易に想像出来たので、渋々アイギスも連れて、王宮を抜け出してきたのだ。
漸くの思いで辿り着けば、其処に彼の者は居らず、蛻の殻。
(数千年振りに逢い見える事が叶うと信じ、それを糧に今日まで我慢し続けたというのに……!)
念願の再会が叶わなかったことに、クロムは腹を立てる。
「……リゲルが居ないのであれば、このような所に用などないわ。アテナイへ戻る!」
「……御意のままに」
拝礼するシロガネの傍を通り過ぎ、クロムは早々にその場を後にする。
「……」
暫し遅れて、シロガネは彼女の後を追う。