さようなら、フンダリー・ケッタリー

はじめまして、経験したことのない私(参)

 「さて、行きますか」

 外出の支度を済ませたにこは、洗面台の鏡に映る自分の顔をもう一度じっくりと眺める。先日購入したファッション雑誌に掲載されている化粧の仕方を参考にして、己の顔に工事を施してみたのだが――細さに変化のない目には、気張って現代風のお洒落をしてみたコケシにしか映らない。

(おかしいぞ?『彼氏を夢中にさせちゃうモテメイク!』って書いてなかったか?)

 そのアオリ文を信じてやってみたのだが、果たしてこれで槐はにこに夢中になるのだろうか。鏡の中の自分の顔を見れば見るほど、元々それほどない自信がぼろぼろと崩れていくのを感じる。残酷な現実に心が折れそうになるが、もう顔を修正する時間はないとばかりにポケットの中から振動が伝わってきた。にこはスマートフォンを手に取り、画面を確認する。

『お迎えに上がりました』『駐車場で待機しています』

 槐からのショートメッセージを確認したにこは貰い物のバッグの中身を確認して、温かい上着を羽織り、買ったばかりの靴を履いて、玄関を出る。そうして駐車場で車の外で佇んでいた槐と合流し、二人はデパートへと向かう。道中、槐はお洒落をしてきたにこを褒めてくれるのだが、褒められることに慣れていない彼女は顔を引き攣らせながらも御礼を言い、お返しに槐を褒めると彼も照れ臭そうに礼を言った。他人に称賛されることの多い端麗な容姿をしている槐だが、にこに褒められることには慣れていないようだ。
 今日はクリスマス。本番一月前くらいから街も人々も浮かれだして、人によってはイヴから、当日は興奮も最高潮へと至る。クリスマスに因んだ音楽が流れ、クリスマスらしい装飾が施され、サンタと思しきコスプレをしている店員や客をちらほらと見かけるデパートの中、普段よりも幾分か豪勢な食料品や酒類が並ぶ売り場を二人は歩く。クリスマス商戦ということもあってか、異様に気合の入っている店員や客たちの熱気に怯みそうになりながら、何とか欲しいものを買っていく。
 互いの存在を見失ってしまわないように手を繋いで、人混みを掻き分けるようにして先導してくれる槐の背中を見つめるにこは買い物をしているだけで疲弊してしまいそうになる半面、ワクワクと心を躍らせていた。クリスチャンでもなければ仏教徒とも言い難い、信仰心の薄いにこは季節の行事である”日本流のクリスマス”を楽しもうとしている。

 ――物事の始まりは数日前。家具や家電製品などの生活必需品集めに協力してくれた一人にこんなことを言われた。

『媚山さんはクリスマスは”軽トラ王子”と過ごすの?』

 にこに恋人がいることを知っているからこそ、彼女はそう尋ねたのだろう。彼女以外にも知られているので、その人たちの間で槐は”軽トラックを爽やかに運転する王子様のようなイケメン”――略して”軽トラ王子”と呼ばれるようになってしまっていた。かなりの範囲の人々にその呼び名は知れ渡っているようなので、にこは抵抗することを諦め、”軽トラ王子”を受け入れてしまっていた。

『ねえ、二十五日って予定入ってる?』

 にこは更衣室を出る前にスマートフォンに入れているアプリを利用して、槐にショートメッセージを送る。午前の業務が終了し、昼休憩に入ると、にこはスマートフォンの画面を覗き込む。

『二十五日に予定は入っていないので』『僕は閑暇を持て余すことになりそうです』

 槐からの返信を確認したにこは安堵すると同時に、大切なことを思い出した。

(予定を訊いてみたものの、その後のことを全く考えてなかったわ。どうしたら良いんだ……?)

 自宅近くの商店街で買ってきたおかずを詰め込んだ弁当を食べながら、にこは今更ながらに頭を悩ませる。黙考うすると共に食は進み、あっという間に弁当の中身は無くなってしまう。食後の一服としてペッボトルの緑茶を飲みきる頃に漸く考えがある程度は形になったので、にこは再びメッセージを送信する。

『諸事情につき、恋人と過ごすクリスマスを経験してみようかと』『そういう訳で、クリスマスは一緒に過ごさない?』

 画面に表示される短い文章を目にして、「何だろう、この陳腐なお誘い文句は」と眩暈がしてきて、それを削除しようとした瞬間、槐から返信が来た。

『勿論です』『クリスマスは二人で楽しく過ごしましょう』

 想定していたよりも槐の食いつきが良かったので、にこは若干怖気付いたが、誘いを断られなかったことに胸を撫で下ろす。そして次のメッセージが届いて、彼女は固まった。

『クリスマス当日はどのように過ごしますか?』

 そういえば、クリスマスをいう行事は一体どのようにして過ごすのが正解なのだろうか。そんな疑問にぶち当たったにこは、記憶に残っている過去の事例を元に正解を導き出そうと試みる。
 ――にこが未だ幼かった頃、両親が離婚していなかった頃のこと。
 父親はどうしてか家にいなかったが、ケーキとプレゼントを用意しておいたと書置きをしてくれていた。机の上にはケーキの食べかすと、びりびりになった包装紙、そして折られてしまった鉛筆が転がっていた。
 ――両親が離婚をして、母一人、子一人の生活になってからのこと。
 母親はケーキもプレゼントも用意してくれず、未成年の娘に高価なプレゼントを用意しろとせがんできた。狂気に満ちた目がとても恐ろしかった。父親は二年ほどは手渡しで文房具をくれたが、用事が済むと直ぐに新しい家族の許へと帰っていってしまった。
 ――幼い槐と出会ってからのこと。
 槐は「サンタさんからにこちゃんへのプレゼントを預かってたんだ」と言って、御菓子の詰め合わせをくれたものだ。心優しい槐に報いたいのに、何もあげることが出来ない自分が歯がゆくて仕方がなかった。
 ――高校を卒業して、就職をして、槐と再会するまでのこと。
 玉の輿狙いの包茎シメジに健気に貢いでいた記憶はあるが、奴からは鉛筆一本すら恵んでもらったことはなかった。

(駄目だ……キラキラした楽しいクリスマスの思い出が殆ど無い……)

 心の傷が開きかけたにこは観念して「正しいクリスマスの過ごし方を知らないので、教えてください」と槐に伝えることしか出来ない。

『僕の家は仏教徒なので』『正しいクリスマスの過ごし方を知りません』『知らない者同士、その日を楽しく過ごせる方法を一緒に考えませんか?』

 槐のメッセージは、にこの心に響いた。そうして話し合いを重ねて、当日に至ったのだった。

 何もかもが賑やかなデパートでの買い物が終わり、沢山の荷物を抱えたにこと槐は彼の自宅へとやって来た。購入した調理食品を皿に盛りつけたり、グラスを用意したり、折り畳み式の厚紙で出来たクリスマスツリーをローテーブルの中央に飾ったりする。準備が終われば、食前酒を注いだグラスで乾杯をして――二人だけの”クリスマスにか託けた宴会”が始まる。

(クリスマスを祝う体は装っているとは思うんだけど、果たしてこれで”世間一般のクリスマス”を過ごしていることにおなるのだろうか?)

ぺらぺらとしていないローストビーフを頬張りながら、そんなことを考えてしまうが、答えはそう簡単に導き出せない。咀嚼したものを飲み込んで、美酒を味わったところで、にこは或る事を思い出した。ソファーの脇に置いていた鞄の中から放送された細長い箱を取り出し、隣にいる槐に声をかける。

「槐、これ、私からのクリスマスプレゼント」
「どうも有難う、にこさん。……此方は僕からにこさんへ。気に入ってもらえると嬉しいな」

 槐がクッションの下に隠していたのは、綺麗な包装紙に包まれた箱。彼は甘い笑みを浮かべて、それをにこに差し出した。本日の予定に入っていたプレゼント交換を達成して、にこはほっと息を吐く。

「中身、見ても良い?」
「勿論だよ。僕も開けるね」

 にこが槐に贈ったのは、ネクタイだ。来年度から大学四年生となる槐は、就職活動に本腰を入れることだろうと想定した。それに使用出来て、且つ予算内で購入出来そうな代物は何かと考えた結果、ネクタイにした。スーツ売り場まで足を運んで、恐る恐る店員に声をかけて、就職活動に使うのに無難なネクタイとはどういった物なのかと質問をした。親切な店員は丁寧に説明をしてくれて、予算内に収まる代物を案内してくれたので、その中の一つ――青地に細い白線が入った物を選んだのだった。

「これ、ちゃんと予算内の代物でしょうね?」

 槐がにこに贈ったのは、ハートの飾りがついたシルバーのネックレスだ。その飾りの中に小さな色石が嵌め込まれているので、にこは警戒心を露わにする。

「予算の額に見合った商品を取り扱っているお店を知人に尋ねてから購入したのだけれど……」

 それほどまでに疑うのであれば、レシートを確認するかと槐が提案をして、にこははっとする。槐が選んでくれた贈り物にケチをつけた上に、そんなことを言わせてしまうなんて酷い真似をしてしまった自分を恥じた。

「……疑って、御免なさい。ネックレス、有難う。大切に使う」

 普段着でもお洒落着でも違和感なく身につけられそうな、シンプルなデザインのそれをにこは早速つけてみる。自分に似合っているかどうかは鏡が無いので分からないが、太めの首が絞まる長さではないことは分かった。

「僕もこのネクタイを就職活動の時に使うよ。有難う、にこさん」

 あんたが持ってるネクタイの中で一番の安物だろうに、それでも喜んでくれるのか。にこはそう思ったのだが、槐がキラキラとした目で嬉しそうに贈り物を眺めているので、いつのまにかもやもやとした思いは霧散していった。
 美味しい食事に美味しい酒、二人だけの宴会は賑やかさには欠けるが、他人がいない分気兼ねしなくて良い。

「来年のクリスマスはお洒落なお店のお洒落な料理を食べに行こうかな」

 上機嫌のにこが呟いたのを聞いていたのか、槐は「そうだね」と頷く。

「どんなお店に行って、どんな料理を食べるのか、二人で話し合って決めよう」
「うん、そうしよう」

 正解なのかどうかは分からなくても、今年のクリスマスは楽しい。

 食欲が満たされて、気分良く酔って。

 二人はどちらからともなく唇を重ねて、徐々に深くしていって、気がつけば二人とも服を脱ぎ散らかして、ベッドに雪崩れ込んでいた。

(……ああ、片付けを先にしないと)

 リビングのローテーブルの上に意識は向くのだけれど、槐を組み敷いて、彼の分身を胎内に収めているにこは腰をいやらしく動かすのを止められない。

「ねぇ、にこさん、何を、考えているの?」
「ん……っ、別、に……?」

 にこの腰を支えるように掴んでいた槐の手が脇腹を撫で上げて、彼女の顔に辿り着く。汗ばんだ頬を指の腹で撫でたが、そうじゃないと言いたげに、彼女は甘えるように掌に頬擦りをしてきた。槐は情欲を孕んだ目で、腹の上に跨り、艶めかしく腰を振っては槐の欲望の塊を締め上げてくるにこを見上げていた。このままにこに翻弄されているのも愉しいが、魚河岸の鮪と化しているのは頂けないと、彼女の不意を突いて、彼女の胎内を擦り上げる。下から攻めてくる熱い塊が彼女の敏感な箇所を刺激して、にこは嬌声を上げる。それを見て、槐は満足そうに目を細めて、唇の両端を吊り上げた。

「何、その……よ、ゆうっ!」

 泥酔したにこに襲われて童貞を喪失した槐の成長を感じるが、性行為に慣れていない初々しさが消失してしまったのが名残惜しいようにも感じられる。

「あっ、やだっ!そこばっかりっ、ひ、ぃ……っ!」
「どこをどうしたら気持ち良いのか、僕に教えてくれたのは、にこさん、でしょう?」

 槐は起き上がり、汗で額に張り付いた前髪を掻き上げて、美しい微笑みを見せつけてくる。どうやって、その余裕を奪ってやろうかと思案を巡らせたにこの唇を奪い、呼吸も奪うように荒々しく攻め立てて、意識を自分に向けさせる。彼女が逃げないように、しっかりと腰を掴んで、激しく上下に揺さぶった。あっという間に息が苦しくなり、にこが顔を背けようとしても槐は唇を追いかけて、口付けもにこの胎内を欲望で穿つことも止めない。

(あ……も、だめぇ……っ)

 にこが絶頂するのに僅かばかり遅れて、槐も限界を迎える。漸く口付けから解放されたにこは蕩けきった体を槐に預けた。彼女の震える体を両腕で抱きしめたまま槐はごろんと転がると、彼女の中に埋めていた楔がするりと抜けてしまった。槐はそれが寂しく感じられる。
 荒くなっていた二人の息が落ち着いた頃、槐が彼女の背に回していた腕の力を緩めると、体の位置を変えて、にこに覆い被さってきた。

「……何してんの、槐?」

 銀色の鎖の先についているハートの形をした飾りを手に取って、槐がそれに口付けたことで、にこはネックレスを外していなかったことを知る。彼はハートに唇を寄せたまま、いやに艶めいた笑みを浮かべていた。

「このハートに、にこさんが大好きだという僕の気持ちを籠めているんだ」
「……あんたでも気障な台詞を吐いたりするんだね。吃驚したわ」

 槐の言動に乙女心をときめかせられたら良かったのに、にこはドン引きしてしまう。質問に正直に答えず、はぐらかしたままでいたら、こんなことにはならなかったのだと悟った槐も、思わず目を逸らした。こうして甘い空気は霧散してしまい、暫しの沈黙が訪れる。

「……あんたもあのネクタイして、もう一回……する?」
「えぇと……遠慮します。不慮の事故が起こってしまう可能性があるし。もう一度しても良いなら、このままで……」

 二人は同時に、全裸にネクタイという姿を想像する。芸人であれば笑いがとれるだろうが、槐がそれをやると居た堪れない気持ちになることは間違いない。二人の意見は一致した、特殊なプレイは止めようと。

「そうだね、このままの方が良いね。それから……槐は甘い言葉を囁こうとするのは止めようか、似合わないし」
「……努力は認めてくれたって……良いじゃない……」

 拗ねた槐を宥めようとして、にこが彼の頭を「よしよし」と撫でる。子供扱いされたと余計に拗ねてしまった槐だが、鳴りを潜めていた情欲の火が再び燃え上がるのは止められなかった。