札束の入った封筒をそれは大事に鞄にしまいこんで、博子は満足そうに息を吐く。こんな簡単なことで大金が手に入るのだと、ほくそ笑んでいるようにも見える。
「それにしてもさあ、百万円を赤の他人の彼氏くんに払わせて、親子の縁を切ろうとするなんて、とんでもない娘だよね、あんたって。まあ、くれるっていうから有難く貰うけど?ダーリンとお腹の赤ちゃんの為に」
「……っ」
「そういえば、妊娠されているのでしたね。妊娠何か月なんですか?」
自分には全く非が無いのに、実の娘が非道な真似をしてくるなんて、私ってなんて可哀想な母親なのだろう。そう言っているように聞こえてしまったにこが、怒りのあまり罵声を浴びせようと立ち上がりかけた時、隣に座っている槐が力強く彼女の手を握り、遮るように口を開いた。不意打ちの行動に唖然として、にこは浮かせかけていた腰を再び元に戻す。
「産婦人科に行ってないから正確には分からないけど、でもお腹が少し出てきたの。ちゃんと育ってるんだよねって嬉しくなっちゃう。だから来年には生まれるんじゃないかな?」
「そうなのですか。冬も大分近づいてきましたから、体を冷やして体調を崩さないようにお気を付けください。おなかの赤ちゃんの為にも」
「お金くれてアリガト!彼氏くんはにこと違って気前が良くて助かったわ~。これでダーリンはきっと褒めてくれるし、結婚も出来るし、赤ちゃんも生まれて、今度こそ幸せになるんだから!今度は失敗しないんだから!」
思い描いている未来に思いを馳せて、うきうきとしている博子をにこが憎しみを込めた目で見ていると、槐が彼女の耳元に顔を寄せて「何か言いたいことがあるなら、言っておいた方が良いんじゃないかな。さっきは止めたけど、今度は止めない。殴り合いに発展してどちらも大怪我をしそうになったら、止めに入るけれど……」と囁いた。にこが博子に殴りかかりそうな気配を察知して咄嗟に阻止したが、幸せな夢を見て、現実に目を向けないままでいる博子に呆れて、御人好しな槐も流石に気が変わったようだ。目的としていた契約は、もう交わされた。最後はにこの好きなようにさせた方が良いのではないかと。にこが博子に暴言を吐こうが、殴りかかろうが、槐は彼女の味方をするだけだ。
槐に促されたものの、にこは逡巡する。大金欲しさに、親子の縁を切る契約書に平然と署名と捺印が出来てしまう母親に言いたいことは山のようにあって、中々取捨選択がし辛い。それでもにこは考えて――答えを見つけた。決意したにこは面を上げ、浮かれている博子の顔をしっかりと見つめた。にこの様子がいつもと違う――そう感じたのか、博子はきょとんとした顔で彼女を見る。
「こんな碌でもない、人でなしの親と縁が切られて、本当に清々した。さようなら、媚山博子さん。今度は失敗しないように気を付けてください。貴女は自分で選んだ道を進んでいっているのだから、また失敗したとしても他人のせいにしないでください。私と貴女は赤の他人となる契約をしたのだから、私を宛てにしないでください。契約の条件を破っても大丈夫、などと決して思わないようにしてください。この契約書の内容は、私が貴女に向けた最後の恩情です。次にまた問題を起こして、私を巻き込もうとしたその時は必ず……警察を呼びますし、裁判も起こします。そのことを決して、忘れないように」
厭味ったらしく釘を刺してやったつもりだが、上手く出来ただろうか。にこが不安な気持ちを押し隠して、じっと博子を見つめると、博子はどこか薄気味悪い笑顔を浮かべる。
「次は失敗しないし、あんたみたいな失敗作を生んだりもしない。優秀なダーリンと私の子供だもの、失敗作になるわけがないでしょ?」
根拠のない絶対の自信を見せる博子は軽い足取りで、竹生弁護士事務所を後にしていった。
「本日はお付き合い頂きまして、有難う御座いました。竹生さんがいなかったら……僕とにこさんだけでは上手くいかなかったかもしれないです」
「お力になれたのでしたら、とても嬉しく思います」
槐と竹生の会話が聞こえて、相談室の出入り口を呆けたように見つけていたにこが我に返る。目的は達成された。博子が本当に条件を遵守するかどうかを警戒はしなければならないが、一先ずは達成したのだと実感して、酷い脱力感に襲われる。
「また何か御座いましたら、お気軽に御相談ください」
穏やかな笑顔と柔らかい声の竹生に見送られて、二人は弁護士事務所を出て、コインパーキングへと向かい、駐車料金を支払って、自動車に乗り込んだ。そしてコインパーキングを後にして、車道を走って暫くした頃、俯いて黙っていたにこがぽつりと呟いた。
「……思ってたよりもすんなりと終った。上手くいかなかったらどうしようって悩んでたのが馬鹿みたい」
「そう、だね。僕も少し、吃驚しているかもしれない。あの人がもっとごねるんじゃないかって、思っていたものだから……」
「下手なことを言って、あいつを調子づかせたらいけないと思うと全然喋れなくて、殆ど槐と竹生さんに任せっきりで……それなのに、物凄く疲れた」
「……うん」
自動車の運転に集中しないといけないので、顔を助手席に座っているにこの方に向けられない槐は、ルームミラー越しに彼女の様子を窺う。俯いているので表情が見辛いが、酷く落ち込んでいるように見える。何と声をかけたものか、と、槐が逡巡していると、にこが押し留めていられなくなった感情を吐露し始めた。
「あのおばさんは機嫌が悪かったり、自分の保身に走りたい時、被害者ぶって、あんたなんて生みたくて生んだんじゃない、とか、あんたは失敗作だ、とか言うんだけどさ、そんなにいらないんだったら、離婚したら、さっさと施設に放り込んでくれたら良かったのに。そうしたら、母親に愛されたいって、無駄な努力をして、苦しむことなんてなかったんじゃないかって。だけど、あいつは可哀想な女を演じて、他人の同情を惹きたいが為に、私を施設に入れることもしないで、邪魔者扱いをして、放置して、私の存在を否定し続けて……私の人生、返してよぉ、クソババア……っ!!」
事実上の親子の絶縁は叶った。これでにこは博子の呪縛から逃れられたはずなのに――にこの心は晴れない。失わされた時間はどうやっても取り戻せないのだと分かっているのに、たらればの世界を想像しては、やりきれない思いに心を切り裂かれそうになって、にこは大粒の涙を流す。
「ここまでやれば、流石に少しは自分の過ちに気がつくかと思った、けどっ。全然っ、そんなこと、なくって!ババアの選んできたことの結果でしかないのに、どうしてっ、私がっ、悪いことになるのっ!?」
最後の最後に言い放ってやった、にこの一世一代の反撃の言葉は、博子に何の打撃も与えることはなかった。にこの言葉は、博子にとって何の価値もない。それが悔しくて、虚しくて、どうしようもない。
「私は失敗作じゃない、失敗作なんかじゃ、ないっ!親のようになりたくなくて、努力したんだっ!それなのにどうして、失敗作だなんて言われなくちゃいけねえんだよぉ……っ!」
「にこさんは、失敗作なんかじゃないよ」
いつの間にか自動車を路肩に寄せて停車させていた槐が、自暴自棄になっているにこに力強く言い放つ。弾かれるように顔を上げたにこの肩に手を置いて、彼は言葉を続ける。
「どんなに理不尽な目に遭っても、傷つきながらも困難に立ち向かってきたでしょう?自分の進む先を間違えたとしても、一度立ち止まって考えて、方向修正をすることが出来るでしょう?自分の考えだけで行動することもあるけれど、他人の意見に耳を貸すこともできるでしょう?それらが出来るにこさんのどこが失敗作なのかな?」
「……うん」
「自分に自信が持てなくても良いよ。僕も自分に自信があるとは言い切れない人間だから、誰かに偉そうに意見出来る立場ではないもの。ただ、僕がにこさんのことをそう思っていることだけは、絶対に覚えていて」
「……っ、うん、うんっ。覚える、忘れない……っ」
僕は不器用でも、真面目に生きようと必死に踠いてきたにこさんが大好きだよ。そう言って、槐は泣きじゃくるにこの丸まった背中を優しく撫でる。
「……今日は、本当に疲れたね。お腹が空いちゃった。にこさんはどう?」
「私も、お腹、空いた」
「うん、それじゃあ……何処かに寄って、買い物をしていこうか。美味しい料理や飲み物、それにお菓子も沢山買って、家で食べよう。お腹いっぱいになるまで、美味しいものを食べよう」
「うん、うん……」
槐は私のことを憐れんで、優しくしてやることで優越感を得ているのだろう。今のにこはもう、そのようには思わない。にこの気持ちに寄り添おうとしする槐が傍にいてくれることが只々嬉しくて、涙が余計に止まらない。