円形劇場を思わせる構造の、広々とした大学の講義室。天井のLED蛍光灯の光を白い壁が増幅させているのか、室内は眩しいくらいに明るく感じられる。前方に視線を移すと、上下にスライドする黒板に羅列している小難しそうな専門用語やらをノートに書き写せていない学生がいるのに、それに気が付く様子のない別の学生が丁寧にチョークで書かれた文字を消していく。黒板の手前に設置されている教卓には講義を誕生していた講師を取り巻くように学生が集まり、講義の内容の質疑応答をしたり、世間話をしたりと賑やかしい。
(次の授業まで時間が大分空いているんだよなあ。何処で時間を潰そうか……?)
講義机椅子に背を持たれて、槐は講義の内容を纏めたノートをパラパラと捲りながら、空き時間を潰すのに丁度良い場所を考える。ランチタイムも午後のティータイムも過ぎている時間帯なので、学内のカフェの席に空きがあるかもしれない。そう結論付けた槐はささっと道具を片付けて、講義室を去ろうとする。その途中で女子学生の一人が槐に声をかけようとしたのだが、槐は彼女の存在に気が付くことなく足早に歩いて行ってしまい、伸ばしかけた手が行き場を失う。
学内で噂の”和風の王子様”に憧れ、偶然にも同期生であったことから受ける授業も重なることが多かった為に何らかの運命を感じ、とある女子学生は遂に彼に声をかける決心をした。そして”王子様”と同じ授業を受けるこの日、彼女は持てる力を全て注ぎ込んで御洒落をしてきたのだが、現実は思惑通りにいってはくれない。感じた運命は気のせいだったのか、はたまたその時が来ていないだけなのか。”和風の王子様”の背中を見送ることになった女子学生は意気消沈し、その場に立ち尽くした。少し離れた所で友人の行動を見守っていた三人組の女子学生が傍にやって来て、落ち込んでいる彼女を慰める。彼女たちは表向きには「残念だったね」「次、頑張ろ?」と言いながら、内心では「王子があんたに目を向ける訳ないじゃん」と嘲笑う。
”和風の王子様”に憧れる女子学生たちの熱い視線、それを快く思わない男子学生たちの諸々の感情が籠ったどす黒い視線と浴びているうちに目的のカフェへと辿り着いたので、槐は早速会計で注文をして、淹れたてのコーヒーを載せたトレイを受け取り、店員の中年女性に「有難う御座います」と言って微笑んで、彼女の心を乙女のようにときめかせた。
混雑するような時間帯でなかったからか、カフェを利用している人はまばらで、空いている席が多い。おしゃべりに夢中になっている女子学生のグループから離れている席を選んで、槐は腰を下ろす。
大学の授業の復習、或いは予習をしようか。それともアルバイト先の進学塾での授業の予習をしようか。熱々のコーヒーを一口含んで、舌先で独特の苦味を味わいつつ、ぼんやりと考えて、槐は後者を選択する。にこと交わした”恋人契約”の時給を支払う為に始めたのが進学塾でのアルバイトで、彼は国語や英語を教える講師の手伝いをしている。アルバイト先を探している時に偶々目に入ったのがその進学塾だった、というのが第一の動機なのだが、にこに家庭教師をしてもらっていた頃の淡い初恋の思い出に触発された部分もあるかもしれない。
進学塾の生徒である中学生は二学期の中間試験が済み、来月の下旬頃には期末試験を控えているという状況だ。塾の経営者から支給された中学生向けの国語や英語の問題集を広げて、一先ず自力で問題を解いていった。黙々とシャープペンシルを動かしていると、隣の席に置いている鞄の中から振動音が聞こえてきたので、槐は手を止めて、中からスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
(……にこちゃんじゃなかった)
スマートフォンの振動が伝えたのは、槐の母親からのメールの受信だった。その内容は、来月に家族で集まって食事会をしようと思っているので予定が無いのであれば槐も参加しないか、という誘いだった。槐はスケジュールを管理出来るアプリを起動して確認する。来月の予定は今のところ、何も入っていない。食事会の日程が決まったら、また連絡をして欲しい。都合が悪くなければ食事会に参加をしようと思う、と母親にメールを返した。
(にこちゃんからの返信、未だ来てないな……)
休日に何も予定がないのであれば、デートでもしないか。だから、にこの都合を教えて欲しいと彼女にメールをしたのは四日前の夜のこと。世間話のような内容でなければ、にこはメールを受信してから翌日までには返事を寄越してくれるのだが、今回は珍しく遅い。仕事が忙しくて、槐にまで気が回らない状況なのだろうか?私生活での余裕がないのならば、余裕が出来るまでの間は出来るだけメールや電話を寄越さないで欲しい、という旨のメールが届いているはずだ。
(若しかして、病気で寝込んでいたりするから返信出来ないのかな?一度あったけれど、仮病を使っている……とは思いたくはないし……最近の出来事で、思い当たる僕の不手際といえば……にこちゃんの誕生日会だ)
――……こんな風に誕生日を祝って貰ったことがないから、どう反応して良いのか分からないだけだよ、馬鹿。
――恰好悪いところばかりだけど、まあ、悪くはないよ。祝ってくれて有難う、槐。
と、にこは言ってくれたけれど、手作り感満載の誕生日会と生活必需品のプレゼントが気に入らなかったのではないか。本当はお洒落なレストランで食事をしたり、豪華なプレゼントが欲しかったのに槐の自己満足に突き合わされたことに立腹していて、槐の存在を無視しているのではないだろうか。
考えれば考えるほど、悪い方向にしか物事を考えられず、槐は頭を抱えて、落ち込む。
(このまま返信が来ないなら、一度、にこさんの様子を見に行った方が良いのかな?)
スマートフォンの画面を切り替えると、いつぞやのにこの画像が映し出される。慣れない単衣の着物を着て、髪を整え、化粧をしている彼女は煌びやかな夜景を背にして、いつもの、いや、いつも以上の仏頂面をして突っ立っていた。一枚五百円で撮影させてもらったにこの画像は槐の目には美しく映る。
(何かあってもいけないし……何かはなくて、にこさんにしこたま怒られたとしても、それはそれで良いのだし……)
にこからの返事がないことがこんなにも不安に感じられるなら、にこに会いに行こう。「ストーカーかよ」と彼女に怒られるのを覚悟して、槐はにこの自宅を訪問する機会を考え始める。
「よう、二連木!」
にこへと想いを馳せていた槐は一気に現実に引き戻される。距離感による音量の調整などには全く気を遣っていない声が、間近でしたのだ。槐は顔をスマートフォンの画面に向けたまま、目だけを動かして声の主の正体を確認する。
「ねえねえ、何見てんの!?動画?……リアルこけし?え、どういう趣味してんの?ちょっと不気味じゃない?若しかして二連木の趣味って、特殊なの……?」
「何か御用ですか、山田君?」
持ち主の了解も得ずに他人のスマートフォンを覗き見した上に、知らないとはいえ他人の恋人の画像を見て、彼女の容姿を不気味であると貶した挙句に、槐の趣味を異常であるとするような発言をするのは如何なものだろうか。槐はとてつもなくむかっとしたが、反論を口には出さずに、感情の読めない薄い笑みを顔に貼り付ける。にこの前では見せたことのない表情と反応だ。
因みに、この妙に馴れ馴れしい、明るい茶髪の男子学生は山田という。学内で流れている槐の噂を聞きつけ、彼が噂通りの人物であるかどうかを確かめに来たことから知り合ってしまったのだが、槐は山田については学部の違う同期生であるという認識しかしていない。そんな山田はというと基本的には槐にあまり近寄ってきたりはしないのだが、とある事情があるとこのように馴れ馴れしく近づいて来るのだ。
「明日の夜さあ、女子大の女の子たちと合コンをするんだけどさあ、二連木も来ない?暇だろ?」
「どういう理由でそう思われたのかは分からないけれど、残念ながら明日は暇ではないんだ。折角のお誘いだけれど、僕はお断りするよ。合コンには他の人を誘ってあげてくれないかな」
別の学部に通っている高校の同級生に聞いたところ、山田は合コンマニアとして学内で知られているらしい。狙っている女子学生を合コンの場に出席させる為の餌として勝手に槐を抜擢しており、気合を入れている合コンへの参加を強要してくるといった次第だ。
「え~何で~?一回来てくれたじゃん?もう一回来てくれても良いだろ~?二連木はさあ、女子の評判が良いからお持ち帰りとか余裕だろ~?」
「このやりとりは毎回しないといけないのかな?忘れてしまったのかもしれないけれど、あれは一度だけ合コンに参加すれば、今後一切僕に合コンへの参加を持ちかけてこないと約束をしたからだよ。ほら、証文を作ったじゃないか?」
鞄の中から一枚の紙を取り出し、槐は山田に見せつける。山田の直筆で書かれた文言、そして山田の親指の指紋がしっかりと押されている証文を目にした彼は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をして、槐から距離をとる。このやり取りも、毎度のことだ。
「……それから、僕はもう恋人がいるので合コンには絶対に参加しないよ。だから金輪際、僕を合コンに誘ってくれなくて良いから」
「え!?マジで!?どんな子!?二連木と付き合うからには、絶対に可愛い子っしょ!?」
”槐の恋人”に食いついた山田が興奮して、槐の肩を掴んで体を揺さぶる。槐は氷のような笑みを貼り付けて、山田の問いに答える。
「貴方が先程リアルこけしと言って、不気味だと貶した女性だよ」
その衝撃が強かったのか、山田の表情が凍り付き、槐の肩を掴んでいた手を放し、彼はもう一度槐から距離をとる。
「え~と、冗談だよね?本当はあれだろ?読者モデルみたいな女の子だろ?」
今度は山田の問いには答えずに、槐は彼の存在を無視して片付をして、一口分残っていたコーヒーを飲み干す。それから席を立って、トレイを返却口に戻すと――未だ同じ場所にいる山田を振り返ることもなく、別の場所へと移動していった。
***************
――最後ににこにメールを送信してから、一週間が経過した。にこからの返信メールは勿論、電話もかかってこない。十月下旬、もう少しで秋夕焼けが姿を現す頃合いに槐はアルバイト先へと向かう。
アルバイト先の進学塾は駅近くの商業ビルの二階と三階を借りており、受験を控えている小学生、中学生、高校生、そして浪人生が通っているので中々盛況しているようだ。槐の主な仕事はというと勉強には関係のない雑用をこなしたり、中学生の国語や英語を担当している講師の補助をしたりと、それなりに忙しい。
「二連木先生、この問題ってひっかけ問題?どうなの?」
「うん?どの問題?ああ、それはね、ひっかけ問題だよ。よく気が付いたね、
志望している高校に合格したい生徒は学力を向上させようとして、真面目に授業に取り組んでいる。一所懸命なその姿は嘗ての自分を見ているようで、槐は甘酸っぱい気持ちになる。
「二連木先生~、彼女できた~?」
「
「ちぇっ、つまんねーの!」
「……ウルサイ、集中できねーだろっ」
受験に失敗したくないという気持ちはあるものの、本人の意思で塾に通っているわけではない生徒は退屈になると周囲の他人にちょっかいを出してくるので、少々厄介だ。受験に対するストレスで神経質になっている生徒を下手に刺激して騒ぎに発展しないようにと気を付けなくてはいけない。
年上の人間に対する、漠然とした反抗心を持っている生徒が、口を開けば「嫌~!」としか言わなかった一時期の姪に似ているような気がして、うっかり思い出し笑いをしたので、それを目にした生徒にからかわれた。思春期真っ盛りの中学生たちの相手は中々に骨が折れる。
「じゃあね~、二連木先生~」
「はい、さようなら。暗いから、気を付けて帰るんだよ」
この日の授業も何とか滞りなく乗り切れた。後は中学生の生徒たちが帰路に着くのを見送り、本日の授業の反省、次回の授業の軽い打ち合わせをしたら、今日の分の仕事は終わるからと、槐は疲れを感じている自分を叱咤するように頬を軽く叩く。
「二連木先生~、そんなに大人しいと結婚焦ってる年上の肉食系女子に襲われてお婿に行くことになっちゃうよ~」
「……余計なお世話だよ。ちゃんと前を向いて歩きなさい、ぶつかるよ!」
結婚を焦っていたのかどうかも、肉食系であるのかどうかも分からないが、酔っぱらった年上の幼馴染の女性に襲われて童貞を喪失した身である槐は動揺を隠そうとするものの、口の端が引き攣ってしまった。テレビや雑誌で覚えたのかもしれない単語を適当に使って槐をからかったのだろうと想像するが、その内容が事実と似通っているので、思春期の少年を侮ってはいけないのかもしれない。槐が温和な性格である為か、よくからかってくる生徒に手を振って見送り、彼は周囲を見渡す。
最寄りの駅まで徒歩で向かい、電車やバスに乗って帰宅する生徒や、自転車に乗って帰宅していく生徒もいれば、親が車で迎えに来る生徒もいる。進学塾が入っている商業ビルの前の道路の路肩には子供が出てくるのを待っている親の車が縦列駐車をしていて、他の車の通行の妨げとなり、クラクションを鳴らされている。けれども彼らは平然としており、我が子がやって来るまでその場から動こうとはしない。路肩を占拠していなくても、近くのコンビニの駐車場に無断駐車をしている親もいるので、塾の関係者がやんわりと「近隣の方の御迷惑となることが御座いますので、出来るだけ、車での送迎は控えてください」と御願いをしているのだが――親は勿論、生徒もいまいち気にしてはくれない。槐は営業用の微笑みを貼り付けて、路肩に駐車をしている保護者一人一人に御願いをして回るが、それほど効果がない。それでも、槐は続けている。
――今夜もまた、近隣からの苦情の電話が入るのだろう。と、槐がどこか他人事のように考えながら、講師たちと打ち合わせをしていると、想像した通りに苦情の電話が入った。
「お先に失礼します」
これから未だ浪人生相手の授業が待っている塾長や講師たちに挨拶をしてから、槐はビルの外に出る。腕時計を見ると、時刻は夜の九時を過ぎたところだった。
それから駅へと向かっている途中でスマートフォンが震えたので、槐は足を止めて、道行く人のの邪魔にならない所へと移動してから、画面を確認する。
(あ、にこちゃんからのメール……!)
メールの差出人は、媚山にこ。件名は表示されていない。待ち侘びていたメールの本文を読んだ槐は――凍りついた。
――暫くの間、私に関わろうとするな。何事も無くなったら、また連絡を入れる。
それはいきなりの、槐に対するにこの拒絶。あまりの悲しみに涙が溢れて視界がぼやけるかと思われたが、槐の視界はクリアーなまま。不思議なことに体が震えないし、涙が少しも出てこない。