さようなら、フンダリー・ケッタリー

育ちの違いはどうしても出てしまうもので

 約束の日。
 にこが暮らしているアパート”元気荘”にやって来た槐は、目の前の建物を目にした途端に唖然としてしまった。

(今にも壊れてしまいそうな建物だけれど……大丈夫なのかな?)

 雑草が張り付いてしまっている外壁は建設した当初から塗り替えなどをしていないのか、色褪せと汚れ、そして罅が目立つ。”元気荘”は二階建てなので外階段があるのだが、鉄製の手摺りはすっかり雨風で錆びついている。うっかり触れると赤茶色の錆が手に付着してしまうほどだ。

(にこさんがお母さんと暮らしていたあのアパートよりも、もっと古いのかもしれないな)

 一度も中に招き入れられることのなかったアパートを思い出した槐は、腕時計で時間を確認してから、にこが住んでいる部屋の前に立つ。表札のない扉の側にあるチャイムのボタンを指で押してみる、が、音が全くしない。壊れてしまっているようだ。近隣の住民に配慮して、遠慮がちにノックをしてみるも、返事はない。

(にこさん、留守なのかな……?)

 それとも嘘の住所を教えられたのか、などと不安が胸を過ぎる。だが、変に律儀なところがあるにこのことだ。交わしてしまった契約がある以上、その内容に反することをするとは思えない。彼女は必ず、部屋の中にいる。今度は苦情を受け止める覚悟で強くノックをすると、中からにこの声がした。暫くして、錆だらけの扉が不快な音を立てながら開いて、にこが姿を現した。

「……いらっしゃい」
「こんにちは、にこさん。お邪魔します」

 本当にね、と、にこに露骨に嫌味を言われたが、槐は気にすることもなく導かれるままに部屋に上がった。
 何とかその場で調理が出来るくらいの狭いキッチン、狭苦しそうな風呂場、トイレ付きの畳六畳の部屋の中央に卓袱台と、煎餅のように薄い座布団が一枚だけ置かれている。槐はにこに促されるがままに、座布団の上に座った。
 にこが対面に腰を下ろすのを確認してから、槐は丁寧に挨拶を述べる。

「本日はお招き頂きまして、誠に有難う御座います。此方はつまらないものですが、どうぞ、お納め頂けますと幸いです」
「お招きした覚えはないんですけど……はあ、どうも……」

 一応は恋人ということになっているのだから、そんなに堅苦しい挨拶をしなくても良いのでは。と思いはしたのだが、にこは口に出すことはしなかった。白地に黒い文字で店名だけが印刷されている簡素なデザインの紙袋から取り出されたケーキボックスを受け取り、にこは立ち上がる。直ぐ側にあるキッチンで箱から中身を取り出したにこは、思わず喉を鳴らしてしまった。槐の手土産は、瑞々しい苺がふんだんに使われているタルトだった。

(……うっわ、美味しそう、凄く高そう。一切れ五百円以上する類のやつでしょ、これ。うわー、安いデザート皿に載せるのは何だか御タルト様に申し訳なくなってくるわー……)

 一ホールのタルトを六分割にして、デザート皿の上に一切れ載せる。もう一切れは丸皿に。お盆の上に茶器とフォークと箸、タルトを載せた皿を載せて、席に戻る。

「粗茶ですが、どうぞ」
「有難う、にこさん」

 唯一持っていた汲出茶碗に緑茶を注いで、タルトと共に槐に差し出す。自分の分の緑茶は普段使いの湯飲みに注ぎ、丸皿を自分の前に置く。そして、一人分のフォークしかなかったので箸を使ってタルトを食べる。

(おお、美味しい……流石はお高い御タルト様……)

 苺は甘いが程好い酸味があるので甘ったるくは感じられない。好みの硬さのタルト生地も甘さ控えめで、イチゴとタルト生地に挟まっているカスタードも甘さがしつこくない。調子に乗ると二切れ、三切れと食べていってしまいそうな、そんな美味しさだ。美味しいものを食べて充実感を得ていると、にこは槐の視線を感じた。それはにこが使っている食器に向けられていたので、彼女は溜め息を吐く。

「以前までは来客用の食器は揃えてたんだけど、用が無くなったから捨てちゃったの。他人を家に上げるようなこともないから、特に問題もなかったし。……行儀がなってなくてすみませんね」
「……御免ね、自分用のお皿とフォークも持ってきていたら良かったね。次は気をつけるよ」
「また来るの、此処に?」
「駄目、かな?」
「別に。御命令とあれば、どうぞ」
「……命令は、していないよ。これからも、しないよ」

 悄気た槐が緑茶に口をつけるのを、にこはタルトを箸で食べながら見ていた。香りがすっかり飛んでしまっている賞味期限ぎりぎりの緑茶だ、高級で美味なお茶ばかりを口にしている槐の口には合うまいと思っていたのだが――槐は微笑んでいる。

(……えっ、まさか美味しいの、これ?)

 確認の為に緑茶を飲んでみる。にこがいつも飲んでいる、苦味ばかりが強く出てしまっている緑茶だった。もう一度飲んでみるが、やはりそうだ。にこは槐の味覚に不安を覚える。

「……にこさん」
「何?」

 お茶の入れ方について槐から苦情が来るのだろうと、にこが身構える。何せ相手は茶道の師範代を母親に持っている人物なのだ。お茶には人一倍五月蠅いと心得ている。

「このタルト、美味しい?」
「は?え、あー……美味しい、よ?」
「……良かった」

 今までににこに渡してきたもので拒まれなかった記憶があるのは、食べ物くらいだ。現金も受け取っては貰えるのだが、にこは意外にも必要以上の金銭を槐から渡されることを拒む。だから槐は必然と、彼女への贈り物には食べ物を選んでしまう。付き合いはそれなりにあったが、これには目がない、という彼女の好物を知らない槐は、身近にいる女性たちに相談を持ちかけていた。その結果が、このタルトだ。槐は手土産を彼女に喜んで貰えるのかと、ドキドキしていた。怪訝そうな表情をしているものの、にこに「美味しい」と言って貰えて、彼は物凄く安堵している。

「このタルト、何処で買って来たの?」
「○△駅前のパティスリーで、此処に来る前に買って来たんだ。綏乃(まさの)さんに、このお店のタルトが美味しいって教えて貰って……ええと、綏乃さんというのは(あずさ)くんの奥さんの名前なのだけれど……」
「……ああ、あんたのお兄さん、結婚したんだ」
「うん、子供もいるよ。可愛い女の子で、嘉乃(かの)ちゃんていうんだ。僕、十代で叔父さんになったんだ」

 梓というのは、十歳年が離れている槐の実兄のことで、現在は父親が経営している会社の副社長の座についているらしい。親の七光り、という嫌味が通用しないほどの優秀な人物だということを知っているので、三十路で副社長をしていても何ら不思議はないとにこは納得する。

『七年くらい前の受験生向けの問題集だから、若しかしたら今とは受験勉強の範囲が違うかもしれないけど、やってみるだけでも充分に力がつくと思うな。頑張れよ、にこちゃん』

 家庭教師をしている最中、にこと槐をからかいにやって来た梓に、にこはつい、大学受験を考えているのだが問題集を買うことが出来ないのだと、ぽろっと零してしまったことがある。すると彼は、お古の問題集をにこに譲ってくれたのだ。一流大学を受験する生徒に向けて作られている問題集はとても役に立ったのだが――結局は実を結ばなかったなと、にこは自嘲の笑みを浮かべる。

「梓くん、元気にしてる?」
「会社の経営が難しいって嘆いていることが多いけれど、元気だよ。娘の嘉乃ちゃんにべたべたすることで癒されているって、綏乃さんが苦笑いしながら教えてくれた」
「……そっか」

 にこが屋敷に来ていることを知ると、槐の部屋の襖を了解もなく開けて、ひょっこりと顔を覗かせた梓が「よっ!」と明るい声をかけてくれたものだ。槐の兄というと彼に負けず劣らずの美青年を思い浮かべてしまいがちだが、梓は何処にでもいそうな感じのお兄さん、といった平凡な容姿だった。それでも当時のにこの目にはきらきらと輝いている、格好良い年上のお兄さんとして映っていたものだ。
 思えば初恋の相手は梓だったな、と思い出して甘酸っぱい感情が少しだけ、にこの胸に湧いた。

「梓くんのことは、気にかけるんだね」
「は?そりゃあ、梓くんは知ってる人だし、受験勉強のことで相談に乗ってもらったことあるし……」
「僕のことにはそれほど興味がないみたいなのに」
「あー、それは確かに……」

 あの頃も、にこは梓のことを話題に出すと嬉しそうにしていた。きっと梓のことが好きだったのだろうと、槐は思っていて――嫉妬していたものだ。同じように梓に嫉妬をして、その気持ちを表現してみたつもりなのだが、彼女には全く通じていないようだと分かり、槐は肩を落とし、話題を変えることにした。

「……あの、にこさん」
「んー?」

 丁度タルトを一切れ食べ終えたところで、槐がおずおずとにこに声をかけてきた。空になった丸皿に向けていた視線を槐に移すと、彼は緊張した面持ちでにこを見つめていた。これは何かを”お願い”する気だな、と、にこはピンときた。槐は”お願い”をしたい時、何故だか緊張しているのだ、昔から。だから、直ぐに分かる。

「お願いをしたいのなら、さっさと言ってね。いつまでも待っててあげるほど、私は良い奴じゃないんで」
「う、うん。来月の十三日と十四日なのだけれど、何も用事はない、ですか?」
「来月?六月?……ちょっと待って」

 通勤鞄として使っているトートバッグにしまってある手帳を取り出して、予定の有無を調べる。六月のページは見事なくらいに真っ白だったので、「何も用事は入ってない」とにこが告げると、槐はほっとした様子を見せる。

「十三日と十四日がどうかしたの?あ、デートすんの?」
「えっ、ああ、うん、その……一泊で、何処かに行きたいと思っていて。今度はちゃんと予定を立てるし、勿論、費用は全て僕が持つから。ええと、行きたい場所があるなら……」
「いや、ないから、そんな場所。だから、あんたの好きにして良いよ。何処に連れて行かれても特に文句は言わない……とは限らないけど、努力はするわ」
「……本当に良いの?」
「……良いって言ってるでしょうが。何?いやなの?だったら誘うなよ……」
「違うっ」

 強い語気で否定されて、にこは吃驚する。泣き出しそうな顔をしてにこを睨んだ槐は彼女の傍までやって来るなり、彼女をぎゅっと抱きしめてきた。

「違うよ、嫌なのではないよ。断られるかもしれないと思っていたから、にこさんがOKを出してくれたことが信じられなくて、つい、疑うようなことを……。御免なさい、決して嫌なのではないです。誘いを受けて貰えて、凄く嬉しいです」
「……おい、成人式済ませてんだろ。大人の男がめそめそと泣くなよ……」
「泣いてしまうくらいに大好きなんだ、にこさんのことが」
「はいはい、そりゃどーも」

 突拍子もなく鼻声で愛の告白をしてくる槐が滑稽で、呆れたにこが乾いた笑いを浮かべる。槐が泣き止むのをぼうっと待っていると、不意に部屋が揺れ始めた。

「……地震?」
「ああ、違う違う。隣の大学生が帰ってきて……おっぱじめたんだよ」
「何を?」
「セックスを」
「えぇっ!?」

 築年数がかなり経過しているアパートなので、一階の住人は必然と二階の住人が出す物音に苛まれる羽目になる。だが、一階同士でも問題は生じるのだ。激しく動いたりすると振動が隣室に伝わる上に、壁が薄いので場合によっては話し声も筒抜けになってしまう。
 にこが言ったように、間もなく女の嬌声が隣室から聞こえてきた。然も、かなり大きい。

「一回始めると長いんだよね、隣のラクダくんはさぁ。仕方がない、終わってそうな時間になるまで外に避難するか……」

 顔を真っ赤にして硬直している槐を余所に、にこはてきぱきと片づけを始める。槐の分のタルトが残っていたので、手で掴んで、口の中に豪快に放り込むと、にこは呆然としている槐の腕を引っ張って、外に連れ出した。

***************

 かたかたと揺れる部屋と隣室から漏れる女の嬌声から逃れた二人は、住宅街の中を流れる小川の川沿いの道を歩いている。夜になると幽霊でも出てきそうな柳の木を眺めていたにこは、未だ顔を赤くしている槐に話しかけた。

「隣の大学生……男なんだけど、最近彼女が出来たらしくて、盛ってんだよね。時間が出来ると彼女を連れ込んで、昼間からやり始めるの。激しくやりたいんだろうけどさ、少しは隣の住人に気を遣えってーの。ちょっと歩けばラブホだってあるんだしー」
「……大変だね」
「別に、慣れてるから。うちの馬鹿親……あのオバサンも、昼間から男連れ込んでやってたし。子供が見てようがなんだろうが、お構い無しでさー。あのオバサンは、自分が良ければそれで良しだからねー。本当、自分が生んだ子供のことなんか、何とも思ってない最悪なババアだよ」

 再婚するつもりだと言ってはヒモを作り、にこの養育費まで使い込んで貢いでは、あっけなく捨てられる。それでも懲りずに夢を見て、同じことを繰り返す。そんな母親の存在が恥ずかしくて、一度も友達を家に招くことが出来なかったと、目の笑っていないにこが呟く。
 二人で一緒に遊んだりする時は必ず公園か、槐の家だった理由はそれだったのかと納得した槐の胸が、ちくりと痛んだ。

「まあ、友達なんかいなかったけど。唯一友達って言えたのは……あんたくらいだったかもね」
「――にこさん」

 先を歩くにこの腕を槐が掴んで、歩みを止めさせる。ゆっくりとした動きで、虚ろな目をしたにこが振り返る。槐は真摯な眼差しを彼女に向けている。

「僕は、君の味方だ。困ったことがあれば、いつでも僕を頼って欲しい。……今も未だ頼りないかもしれないけれど、あの頃よりは色々なことが出来るようになったんだ。今の僕なら、君の力になれるよ」

 にこは徐に、自分の腕を掴んでいる槐の手を見た。嘗ては白魚のようだった指は、確かに成人男性のものになっている。けれどもかさつきのない滑らかな、あまりごつごつしていないその手は――苦労知らずの人間の手にしか、にこには見えなかった。そんな人間に言われても説得力がない、と、にこは鼻で笑う。

「自分は誰かの力になれるって言う奴ほど、誰の力にもなれないよ。何の役にも立たない口先だけの奴なんだから。……力になりたいとか言うんだったら、どうして私の行方を捜そうとしなかったのよ?私の行方を捜すのなんか簡単じゃない、興信所なり、探偵を使うなりしてさ。人を使うお金だって、あんたにはあったんだもの」
「……何も言わずにいなくなるということは、捜して欲しくなかったのかもしれないと思ってしまって。僕は……実はにこさんに嫌われていたのかもしれないと思ってしまって、怖くなったんだ。でも、そうだね、にこさんの言う通りだ。御免なさい」
「謝られたって、もうどうしようもないでしょうが。時間を巻き戻せるわけじゃないんだし……。もういい、この話はなし。あのオバサンのことを思い出すと腸が煮えくり返るっ」
「……嫌な思いをさせてしまって、御免なさい」

 にこの口から飛び出してくる嫌味を受け止めて、槐は寂しげに笑う。それが鼻についたにこは掴まれている手を振り払って、止めていた歩みを再開した。槐はその後に、黙ってついていく。
 暫くの間、二人は言葉を交わすこともしないで只管に川沿いの道を歩いていた。にこが先頭を切って歩き、その数歩後を槐が歩く形で。

「……ああ」

 やがて思い出したようににこが呟き、槐は弾かれたように顔を上げる。気持ちの切り替えをしたのか、にこの語調に怒気は含まれていなかった。淡々と、事務作業のように言葉を紡いでいる。

「あのさあ、来月の予定のことなんだけど。何で十三、十四日を指定すんの?何かイベントでもあった?」
「……覚えていない?」
「何を?」

 その日付に心当たりがないので首を傾げると、槐は「そう」とだけ答えて、「どうして覚えていないんだ」と、にこを詰問したりすることはしなかった。

「ああ、それから。今日はするの、セックス?このまま行くと、ラブホがあるんだけど。ゴム持ってなくても大丈夫だよ、ラブホにゴムが置いてあるし」
「……ううん、遠慮します。折角誘ってくれたのに、断ってしまって、御免ね」
「別に。するしないは、あんたの自由だし。私はそれに従うだけだよ。そうそう、帰るなら其処の道を真っ直ぐにいくと大通りに出るから、簡単にタクシー拾えるよ」
「うん、今日はもう帰ることにします。有難う、にこさん。時間を割いてくれて。来月のことだけれど、またメールか電話をするね」
「はいはい」

 にこが適当に返事をすると、槐が彼女の頬にキスをした。ぽかんとしているにこに「またね、にこさん」と言って、槐は大通りへと続く道を歩いていってしまった。何となく頼り無さが漂う背中を眺めていたにこは我に返るなり、あっかんべーをした。その様子を通りがかった子連れの親子に見られて笑われたので、そそくさとその場を後にする。槐に悪態をつきながら。

 アパートの自分の部屋に戻ると、部屋の中は揺れていなかった。五月蠅い声も聞こえない。きっと隣の大学生の用事が済んだのだろう。今回は意外にも早かったなあ、と思いながら、にこは冷蔵庫を開ける。槐の手土産の苺のタルトをもう一切れ手にとって、何も使わずに行儀悪く食べていく。美味しかったタルトはほんの少しの時間の経過で、何だかとても甘ったるく感じられるようになっていた。

「……誠実な振りをするなよ、馬鹿槐。どうせ、どうせ、あんただって最終的には私を裏切るんだ。騙されない、騙されないんだから、もう……っ」

 最後に残ったタルトの縁を力一杯噛み砕いて、咀嚼する。それでもすっきりとしないので、にこはタルトをもう一切れ手にとって、食べていった。