さようなら、フンダリー・ケッタリー

噛み合わず、ずれる思惑。然しそれほど気にしない

 翌日の昼過ぎまで眠り込んでしまったにこは、キッチンに逃げ込んでいる。
 またしても失態を犯してしまったことを反省した彼女は、キングサイズのベッドを占領し、家主の槐をソファで寝かせてしまったことへのお詫びを兼ねて、遅めの昼食を作ることを提案したのだった。その提案は爽やかな笑みを浮かべる槐にあっさりと受け入れられたので、彼女は黙々と料理をしているのだった。
 因みに献立は水菜とモヤシの適当サラダに始まり、葱と油揚げ、賽の目に細かく切った豆腐を具とした味のぼやけた味噌汁にカマスの干物、砂糖と醤油を入れた甘じょっぱい卵焼き、家政婦のお手製と思われる漬物に、白米となっている。

「冷蔵庫の中にあるものだけでこんなにも料理が出来てしまうなんて、にこさんは凄いんだね」
「……そりゃどうも。通いの家政婦さんの方がもっと種類が多くて、もっと美味しい手料理をあんたに振舞ってくれていると思いますけれどね」

 槐の賛辞が素直に受け止められず、にこはつい、言わなくても良い減らず口を叩いてしまう。どうしようもない僻み根性から出てくる嫌味に少しずつ慣れてきているらしい槐はさらりと受け流して、不味くはないがそれほど美味しくもない料理に箸をつけている。

(……そういえば今日は土曜日だった。槐の奴、何か言いつけてくるのかなあ)

 会話の弾まない食事が終わると、槐がお茶と和菓子――にこが爆睡している間にエントランスに常駐しているコンシェルジュに買ってきて貰ったらしい――を御馳走してくれる。丁寧に淹れられた玉露は美味しく、上品な甘さのたれがついている御手洗団子も薄皮饅頭もまた美味しいので、にこはすっかり気分が良くなって、このままのんびりと過ごしてしまいそうになる。
 ふっと視線を槐に向けると、彼は対面の席で何やらもじもじしていた。

(……トイレでも我慢してんのか、こいつ?)

 にこの白眼に気がついた槐はびくっと身を強張らせたが、おずおずと話を切り出してきた。

「昨日の夜に話そうと思っていたのだけれど、タイミングが掴めなくて……」
「前置きはいいから、さっさと要件を言いなさいよ」
「……うん。僕はにこさんとデートをしたいと思っているのだけれど、若し、了承して貰えるのであれば、にこさんの都合の良い日を教えて貰えないかな?」
「あー、はいはい、デートですね。契約内容に含まれていましたね。うっかり忘れておりましたー。断れる立場ではないので、OKとしか言えませんよ、お坊ちゃま。休日は土日と祝日だと予めお伝えしたと思いますが?」
「いや、そういうことではなくて……。予定が何も入っていない日はいつなのかと、尋ねたつもりだったのだけれど……」
「あー、はいはい、そういうことでしたか。すいませんね、育ちも物分りも悪いんで、分かりやすく説明して頂けると助かりますー」

 今後は気をつける、と言って、槐は食卓の中央に置かれた漆塗りの高級そうな容器に入っている饅頭を勧めてきた。不機嫌になったにこを饅頭で懐柔するつもりのようだ。「食べ物でつれると思ってんの?」と睨みを利かせたくなるが、残念なことににこは食べ物とお金に頗る弱い――育ちのせいで。出来るだけ無愛想に「食べる」と答えて銘々皿を差し出すと、槐はほっとしたように微笑んで皿を受け取り、饅頭を二つ載せて返してきた。

「今月も来月も今のところは何も用事は入ってないよ。あんたの都合に合わせる」
「分かりました。若しも僕が決めた日にちでは都合が悪くなった時は、直ぐに連絡をください。予定を変えるから」
「……はいはい」

 気のない返事を寄越されて苦笑を浮かべた槐は席を立ち、別室に消える。向かった方向から察するに、書斎だろうと思われる。暫くすると、数冊の雑誌を携えて、彼は此方に戻ってきた。

「デート先は何処にしようか?にこさんは行ってみたい場所などはある?」
「全くありませんが」
「――え?」

 にこは自分が出不精であると自覚している。休日は自宅でのんびりと過ごしたり、近所の銭湯に赴いてゆったりとしたり、或いは資格の勉強に精を出していたい。お金を使って遊びに行くなど言語道断、とまではいかないものの、出来る限りは無駄遣いをしたくないと考える人間――それが媚山にこだ。
 凍りついている槐の手元にある雑誌に目をやってみる。春季の外出先の特集や、非常に有名なテーマパークの特集などが掲載されている雑誌だった。

(げっ、まさか槐の奴、本屋でこんなの買ってきたの……!?)

 本屋の雑誌コーナーの前に佇んで頭を悩ませている槐を思い浮かべてしまったにこは、思わず顔を引き攣らせた。実際のところは、コンシェルジュの誰かに頼んで買ってきて貰ったのかもしれないが。

「え、槐の行きたい場所で構わないけど?」
「……僕も……特には思いつかなくて、それでにこさんの意見を伺おうと……。気が利かなくて、御免ね」

 雑誌を用意しているということはある程度は予定を組んでいるのではないかと期待したのだが、にこの予想は外れた。

(特に考えもなしでデートしようと誘ってくるとは……こいつ、凄いな。金持ちの考えることは分からん)

 椅子に背を凭れて、行儀悪く溜め息を突くにこを目にして、槐は焦る。何か別の案を提示しなければと、ぐるぐると考えを巡らせる。

「……そうだ。にこさんの自宅に伺っても、良いかな?どんな所で暮らしているのか、知りたいんだ」
「はあ?何、貧乏暮らししてるところでも見て馬鹿にでもするの?悪趣味だね、あんた」
「……そんなことはしないよ。僕は”今のにこさん”のことをもっと知りたい。どんな所に住んでいて、どんな風に過ごしているのかとか……」

 悪意があって言ったわけではないと弁明する槐の姿が、主人に叱られて悄気ている犬のように見えてきたので、にこは目を擦り、もう一度彼を見た。やはり、そのように見えてしまう。余計なフィルタが目にかかってしまっているのかもしれない。

(何であんたが悄気てんのよ。こっちの弱み握ってるんだから、横柄な態度でも取っていればいいじゃない……)

 金持ちの息子というと想像してしまいがちなのは、我侭放題に育てられたろくでなしだが、槐の場合はそうではなかったと思い出す。槐は我侭とは程遠い、自分の意見を言うのがあまり得意ではない大人しい少年だった。

「……建物が古いから綺麗じゃないし、かなり狭いよ。このマンションとは大違いのボロさだからね。それでも良いなら、来れば?」

 邪険にし過ぎたかと多少なりとも反省したにこが申し出ると、槐の顔色がぱあっと明るくなる。

「有難う、にこさん。僕の我侭を聞いてくれて……」
「我侭と言うほどでは……」
「手土産には美味しいお菓子を持っていくから、楽しみにしていて」
「……はあ、どうも」

 槐は完全ににこのことを食べ物でつれる人間だと思っているようだと感じとり、彼女は呆れて溜め息をつく。”今のにこ”を知りたい、と、槐が言った意味が分かったような気がする。槐が知っているにこは、”高校生だった頃のにこ”のことなのだろう。

(おかしいな、初恋?の幻想はぶち壊したと思うんだけどなぁ……)

 それでも態度が全く変わらないので、徐々に槐の脳味噌の構造が心配になってくる。楽天的なところはあったとは思うが、決してお花畑の住人ではなかったはずだと記憶している。然し五年も前の記憶だ、間違えて覚えているのかもしれない。

「ねえ、今日はもう用事はない?ないんだったら、家に帰りたいんだけど」
「ああ、うん、ええと……」

 デートの予定について色々と話し合いたかったのだが、その希望は瞬殺されてしまった。その他の話題も既に終わらせてしまっているので、ストックが無い。時間と彼女が許してくれる限りは彼女と過ごしていたい槐は、そわそわとしながら、再び考えを巡らせる。
 その様子を眺めているにこは、ピンときた。

(デートの話は建前で、本音はセックスしたい訳ね。まどろっこしいことしないで、率直に言えば良いのに……)

 部屋にはにこと槐が二人きり、邪魔者は誰一人としていない。更には槐がそわそわとしている。それはつまり、槐の性的欲求が高まっているということに違いない。と、にこは曲解する。
 質の悪い酔っ払い――要するににこに強引に童貞を奪われたことで、槐は性行為の味を覚えてしまったに違いない。そうしてしまった原因は自分にあるのだから責任を取らなくてはと何故か腹を括ったにこは席を立ち、対面に座っている槐の腕を掴んだ。

「ほら行くよ、槐」
「え?一体何処に……?」

 事態を把握出来ていないので槐は質問をしただけなのだが、にこはそれを惚けていると勘違いし、露骨にしかめっ面をする。そして、槐を強引に寝室へと連れ込んだにこはとんでもない行動に出た。きょとんとしている槐をベッドに押し倒し、逃げられないようにと体の上に跨ると、にこは「これでどうだ!」と言いたげな表情で彼を見下ろした。

「に、にこさん?」

 槐は以前にもこんな体勢を経験している。そう、にこと再会した夜に。その後の出来事を思い出した槐は顔を真っ赤にして、にこの下でもがき始める。

「ねえ、槐。やりたいならやりたいって、初めから言いなさいよ」
「な、何を……?」
「惚けるのもいい加減いしないと怒るよ」

 開きかけた槐の唇を唇で塞ぐと、慌てた彼は逃げようとして顔を逸らす。むっとしたにこは槐の顔をがしっと掴んで自分に向かせると、執拗に唇を貪った。更には体重をかけて、彼の体を押さえ込む。やがて抵抗していた槐が大人しくなったので、にこは漸く唇を離す。

「何で逃げようとしてんのさ」
「何でって、にこさんの方こそ、どうして、こんな……?」
「はあ?あれ、違った?あんたがそわそわしてるから、てっきりセックスしたがってるのかと思ったんだけど?」
「えぇ……っ!?」

 そわそわとしていたのは間違いないが、それは別の理由でだ。まさかそんな誤解をされるとは想像もしていなかった槐は愕然とする他ない。

「違ってたのかよ。じゃあ、やらなくても良い訳ね。帰るわー……」

 槐の上からどこうとすると、にこは不意に腕を掴まれた。その力が強かったので驚いたにこは、どすん、と槐の上に腰を下ろしてしまう。
 去っていこうとしたにこを引き止めた槐だが、何か考えがあってそうした訳ではなかった。体が勝手に動いてしまったことに、彼は困惑している。

「あのさー、当たってんだけど。やる気になったの?そういえばコンドーム買ってきたの?」

 避妊具の用意をしておくようにと促していたことを思い出したので尋ねてみると、熱の篭った目をした槐は首を横に振った。

「どーして買っておかないの。男でも避妊の準備は大切でしょうが」
「こんなことになるなんて思ってもみなかったから……御免なさい……」

 これ以上進んではいけないと理性が警鐘を鳴らす。にこの腕を放した槐は、赤い顔を逸らした。

「私とあんたは一応恋人とやらなんだから、セックスしたって構わない仲なんだよ?若しかして、結婚するまではセックスをしないって主義だった?」

 意地の悪い笑みを浮かべたにこが曝け出されている槐の首筋に指を這わせる。槐の体がびくりと強張り、臀部に当たっている槐の高ぶりが硬さを増していくのを感じとったにこは面白がり、白いシャツの上から槐の上半身を弄る。槐の目が潤んで、息が上がっていく様を見ているのが楽しくなってきたようだ。

「そういった、主義ではないけれど……でも、にこさんを大切にしたいから、独り善がりにならないようにしようと思っているよ……」

 槐の言葉を耳にしたにこは手の動きを止めて小さく溜め息を吐く。

「……あーあ、素直で可愛かった槐も一丁前に嘘を吐くようになっちゃったかぁー。もう大学生だもんね、それくらいするか」
「嘘ではないよ、本当にそう思ってるんだ。でも体が反応してしまうのは……仕方がないよ。好きな女の子に跨られて、キスされたら、男らしくない僕だって欲情して、勃起するよ……」
「……男は好きでもなんでもない女だって平気で抱ける生き物だよ。知ってるんだから……」

 男は本命の女を溺愛する為に、どうでも良い女で性欲を発散させることが出来るのだと、にこは身を以って知った。何度も体を繋げたのだから、何れは結婚する仲になってくのだろうかと期待した男は、或る日、にこをあっけなく捨てた。その挙句、翌日には職場で、上司である部長の娘を結婚するのだと発表したのだ。職場中の人間に祝福されて有頂天になっている男の横っ面を拳で殴りつけて、呆然としている課長に辞表を叩きつけてやったのも記憶に新しい。

「私はねえ、直ぐに替えの利く都合の良い女でしかないんだよ。誰かの特別になれねーことは、昔から知ってるんだよ……」

 自分のことしか考えていない母親も、別の女と再婚した父親も、自分の出世のことしか考えていなかった男も、にこが必要だと言って、結局はにこを裏切った。だから契約書に記されている期限がやってくれば――いや、その前に槐はきっとにこに飽きるだろう。そう思っているから、恋人らしく振舞おうとする槐が時折憎らしく思えてしまうのかもしれない。

「にこさんは僕にとって、特別な人だよ。代わりなんて、いないよ……」
「ははっ、嘘吐きだね、槐は……」

 嘘など言っていないと反論する前ににこに唇を塞がれ、貪られる。静まりかけていた欲望はあっという間に復活を遂げ、槐はにこに逆らうことを放棄してしまう。もっと彼女に触れたいという欲望が行動に出てしまう、意志薄弱な自分が情けなくて嫌で、唇を噛み締める。

「……ねえ、顔を顰めながら触らないでくれる?私のこと嫌なの?」
「違う……違うよ。どうしたら良いのか、分からなくて……」
「パソコンあるんだから、ネットでエロ動画でも見て勉強したら良いよ。検索したら直ぐに出てくるから」

 AV俳優のような台詞を吐く槐を想像して、にこは噴出しそうになるのをぐっと堪えた。急に体を震わせるにこに頓着していない槐は、両手で口を覆って込み上げてくる笑いを堪えているにこの髪にそっと触れる。

「……僕は、にこさんに教わりたい」

 家庭教師をして貰いたいとお願いした過日のように、槐は男女の営みについて教わりたいと口走っていた。拙いことを言ってしまったと槐は青くなるが、不思議なことににこは機嫌を損ねない。

「……良いよ。どうせやるなら、気持ち良い方がいいし。ただ、一つだけ約束守ってよね。私にキスマークをつけないで。パート先のおばさんのさー、下世話なチェックがうざったいんだよね……」

 休日明けの出勤日になると、作業着に着替えたりする際に隣のロッカーを使用している親バカ松田の視線を感じる。特に首周りを見てくるのだ、彼女は。にこが一人暮らしをしている、ということだけで妄想が膨らんでいるらしく、ありもしないことをいちいち疑ってこられるのはなかなか煩わしい。

「キスマークの付け方は知らないから、それも教えてください。絶対に、君にはつけない。その代わりに、僕に、付けて欲しい……」
「はあ?何で……ああ、オナニーの材料にでもするの?」

 冗談で言ったつもりだったのだが、どうやら図星だったらしい。槐は赤くなっている顔をより一層赤くした。その反応が愉快で、にこはケラケラと笑い声を上げてしまう。

「セックスのやり方は知らなかったのに、オナニーのやり方は知ってるんだ?」
「……知ってるし、するよ。いけない?」
「別に。生理現象だし。しない方のがびっくりするかもね」

 拗ねないでよ、と猫撫で声を出すと、槐の腕が伸びてきて、にこはきつく抱きしめられた。

「……嫌わないで」
「はい?」
「……僕は男だけど、嫌わないで、にこさん。にこさんのことが好きだから、どうしても欲情してしまうんだ。誰でも良い訳ではないんだよ……」
「いや、私、レズビアンではないから。男が好きだよ、特に顔の良い男が。面食いだし」
「僕の顔は、君の好みに該当している?」

 そう問われたにこは、間近にある槐の顔をじっと観察する。美形ではあると思うのだが、好みかと問われるとそうでもない。中性的な顔つきよりも、精悍な男性然とした顔つきの方が好みだ。槐はそれに該当しない。然し正直に答えるのもどうかと思ったので、にこなりに言葉を選ぶ。

「……清潔感はあって、良いんじゃね?」
「そう、好みではないんだね。残念だな……」

 寂しげに呟いて、槐はにこに口付ける。キスを深くしようとするのを制止して、にこは訴えた。

「口の中を嘗め回されるより、舌先でつんつんし合うのが、私は好きだよ」
「……こう?」
「違う、もっと舌先を窄めて……そう……」

 槐は直ぐにコツを掴んで、にこを喜ばせようと攻め立ててくる。だが手数が少ないので、直ぐに飽きが来るのは仕方がない。

「……コンドームなくても、して良いよ。ピル飲んでるし、経費で」
「……体が目当てで、にこさんと契約をしているのではないよ」
「はいはい……ほら、するの?しないの?」
「……したい」

 正直に言えば良いのに、と呟くと、槐が拙い動きでにこの服を脱がしにかかった。にこも負けん気を起こして、槐の服を脱がしていく。