(どうして、前髪を上げろって言うんだ?)
――其方の条件は飲んでやるから、此方の出す条件も飲め。
シリウスは意味深長な笑みを浮かべて、ハゼに向かってはっきりとした声で言い放った。
彼の出した条件とは、『前髪の下に隠している両の目を見せろ』――ただそれだけだ。
(意味が全く分からないんだけど……)
シリウスの思惑が全くもって見えず、コガネは困惑した。ちらりと周囲を一瞥してみると、コガネ以外の者たちもまた、自身と同じような表情を浮かべて、ハゼとシリウスのやり取りを眺めていた。
(あれ、でもさ……?)
そいうえばと、コガネはシリウスが話題に出すまですっかり忘れていたことを思い出す。言われてみれば自分は、長い前髪に隠された両目を、ハゼの素顔というものを見たことがないのではないか?
そのことに気が付いた途端に、コガネが抱いていた困惑は、一気に好奇心へと変化を遂げていたのだった。
「……」
怖いもの見たさ、単純な好奇心に満ち溢れた幾つもの視線をひしひしと感じる。何も言いはしないようだが、周囲は期待をしているのだと言うことが嫌と言うほど理解出来る。
(……煩わしい)
面倒臭そうに息を吐いた後、ハゼは片手で長い前髪をかきあげた。
「これで宜しいですか?」
黄櫨染色の前髪に隠されていた両目が現れると、シリウスを除いた全員が目を瞠り、息を飲んだ。
深い海の色をした右目と、猛禽類を思わせる茶色とも黄色とも金色とも取れる不思議な色合いをした左目が現れたからだ。そして更に、彼の素顔は端正な造作をしていたこともある。
――左右の目の色が違っている人間を初めて目にした。
というのが、一同の素直な感想だった。
(こんな感じの目をした猫、見たことがあるなあ……)
何時のことだったのか、それは定かではないが。
デルフォイの孤児院に来たばかりの頃だっただろうか、孤児院に多額の寄付をしてくれた一人の老婦人がいた。彼女が大事そうに腕に抱いていた、高級感溢れる長毛の猫が色違いの目をしていたことを覚えている。あの目はとても印象的だったので、強く覚えている。
ハゼの目を見た瞬間に、ふと、その猫のことを思い出してしまったコガネは、何故だか急に恥ずかしくなり、慌ててハゼから目を逸らしたのだった。
「……間違いない、ね。その目は確かに『アルタの目』、だ。君はそれを、どうやって手に入れた、の?『あそこ』には誰も行けない筈なんだけど、ね?……いや、違う、な。どうして『つけられちゃった』の、が、正解か、な?」
『飛ぶ鷲』を意味する古い言葉が語源の名前を髣髴とさせるような、不思議な色合いをしたハゼの――アルタイルの目。持ち主のことを思い出したのか、不愉快そうな、それでいてどこか懐かしそうな目をしたシリウスが、ハゼに問いかける。
「諸事情により、つけられてしまったのですよ、不届き者にね」
その諸事情とは何だと問うても、彼はただ笑みを浮かべるばかりで質問に答えるということはしない。今この場で、深い事情を語る気はさらさらないようだ。
「諸事情、ねぇ?」
『つけられてしまった』という言葉から察するに、ハゼが望んでアルタイルの目を手に入れたというわけではないのだろうということは理解出来た。ハゼは好き好んでアルタイルに従っているのではない、それだけが分かれば充分だと思ったシリウスは、それ以上は深く追求することはしなかった。
――本人に話す気がなければ、決して口を割りはしない。
アルタイルが好んで使う類の人間だ。
***************
「……あの、さ」
もう我慢できないと、アキヒが口を開いた。
「ハゼのその目、アルタイルのだって言ってるけどさ、それってどういうことなのさ?」
ハゼとシリウスは互いに理解しあっているようだが、コガネたちには何について会話が交わされているのかが理解出来ていない。置いてきぼりをくらっている、そう感じたアキヒが、自分たちにも分かるように説明をしろと言ったのだった。
「ん~、あの、ね。アルタはこの目で、『こちら側』を見てるんだよ、ね」
シリウスなりの簡潔な説明は、余計に混乱を招く。
「悪ぃ、もうちっと分かりやす~く言ってくれねぇか?」
シリウスの説明の仕方が悪かったのか、はたまた自分の情報処理能力が低すぎるのか。ソウシはクラクラする頭を抱えながら、彼に頼む。
「えっとねー、ハゼが見てるものをアルタも見てるってこ、と」
「あーうー、ちょっと待って!」
こめかみに指を当て考え込んでいたアキヒが待ったをかける。
「すっかり訊くのを忘れてたけど、アルタイルっていうのは、いつだったかハゼが言ってた『高みの見物を決め込んでいる不届き者』のこと!?」
とにかく情報を整理したいらしく、アキヒは先ずかなり前から疑問に思っていたことを口に出す。
「ええ、そうですよ。アルタイル・クロノスは、高みの見物を決め込んでいる不届き者で、目の前にいるシリウス・アイテルと同じく、デミウルゴスです」
よく理解出来ましたね、と、ハゼは少々小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。アキヒの額に青筋が浮かび上がるのを、コガネはついつい見てしまった。
「えーあー、そのアルタイルは自分で動かずにハゼを使ってるんだよね?」
「はい」
「そんなことをするってことは、威張りくさって人を扱き使うのか好きなのか、それとも自分で動けないからそうしてるってこと……?」
「おや、良い勘をしていますね?」
ハゼは今、前者と後者どちらの言葉に反応を見せたのだろうか。アキヒは頭をフル稼働させて、彼が反応を見せた言葉を探す。
「……アルタイルは今、『何処』にいるの?」
ハゼが反応を見せたのは、後者の方ではないだろうか。そう確信したアキヒは、思い切って質問をぶつけてみる。
「その説明は、シリウス・アイテルにして頂きましょうか。何せ、当事者の一人ですのでね」
「……アルタの話をする、のー?」
アルタイルについての話はあまりしたくないとシリウスが駄々をこねたが、ソウシの鶴の一声で渋々承諾したのだった。
***************
「アルタは、|奈落《タルタロス》にいるんだ、よ」
「奈落?」
それはヘレネスで信仰されている神話に登場する、大罪を犯した者たちが落ちる奈落の名ではなかっただろうか。神話でだけの話ではなく、本当に存在していたのかと、一同は驚いた。
「奈落って……あの、地獄の奥深くにあるっていう……?」
コガネが尋ねると、シリウスはゆるゆると首を横に振った。
「んー、違う、よ。神話に出てくる奈落に準えて、俺が作った異次元だ、よ。名前を付けたのはアルタだけ、ど」
「……アルゴスの目といい、転移呪術といい……お前、何でも作れるんだな?」
後は何を幾つくらい作ったのか。呆れたように、ソウシが項垂れる。
「アルタが勝手に『ハデスの世界』って名付けた地下世界……地下都市とでもいうのか、な?ってーのがあるんだけど、奈落は其処に設置されている転移呪術でしか行くことが出来な、い」
そして、現代を生きる人間がハデスの世界や奈落の存在を知っている筈がない。だからこそ、シリウスは先程、ハゼの目を見て疑問を口に出したのだ。アルタイルの目を何処で手に入れたのか、あそこ――奈落には誰も行くことが出来ないはずだと。
「アルタは、奈落から出られないから、ね」
ぽつりと、シリウスが呟いた。
「どうして、アルタイルは其処から出られないんだ?」
コガネが再び尋ねると、シリウスは苦々しげに眉を顰める。
「……『あいつ』を、見張り続けなくちゃいけないから、動けないんだ、よ」
思い出したくもない何かを思い出してしまいそうになるのが嫌だ。彼の表情が、そう語っているかのように感じられた。
「あいつ?」
「――これ以上関わると、何気ない生活に戻れなくなりますよ」
あいつとは誰だ。
それを訊こうとしたコガネを遮るように、ハゼが口を開く。
「気になるのでしょうが、深くは追求しない方が身の為ですよ。……デミウルゴスに関わるとロクなことになりはしません。そうでしょう、シリウス・アイテル?」
そのことはお前が一番分かっているだろう?
ハゼの目が、シリウスにそう問いかけていた。
「……そうだ、ね。デミウルゴスに関わるのは、あんまり良くない、よ。俺と一緒にいるのは、マシロをリゲルから解放するまでにしておいた方が良い、ね……」
思い当たることがあったのだろうか。どこか寂しげに、どこか悲しげに、シリウスは目を伏せて、ぼそぼそと声を出して言った。
***************
「シリウス・アイテル。貴方の出した条件には、これで応えられたと思うのですが、如何でしょうか?そろそろ前髪を下ろさせて頂きたいのですがね」
「ああ、うん。もういい、よ」
どこか上の空のシリウスは、明後日の方向を見つめながら、素っ気無く答えた。
「ええ~~~~~~~っ!?隠すのは勿体無いわよ!!!」
今の今まで大人しくしていたトウカが、突然大声を上げる。そのあまりの声量に、自分の世界に入ってしまっているシリウス以外の全員が驚いた。
一体どうしたというのか。
遠慮がちにコガネが声をかけると、彼女は鼻息も荒く、声高に語り始めたのだった。
「単なる前髪オバケだと思ってたのに……詐欺だわ!美形だと見抜けなかったのが悔しい!その顔を隠すなんてもってのほかよ!!」
そういう訳であるから、目の保養となるその顔を隠すのは禁止。
美形好きである自身の欲望を満たす為に、トウカは支離滅裂な主張を堂々と言い放った。
「単なる前髪オバケだと思ってたんだね、ハゼの素顔を見るまでは……」
「そうみたいだな……」
彼女の様は呆れるのを通り越して、いっそ清々しい。どのようにしたら、そこまで我が儘を言い張れるのだろうかと、少年組は心の底から思ったのだった。
「然し、この目を見られるのはあまり良い気分ではないのですがね」
本音らしい本音を言わないハゼが、珍しくそうととれる発言をした。
「だって美形が身近にいることが分かったんだもの。気軽に拝みたいのよ!!!」
我が儘お嬢様と化したトウカは、尚も食い下がる。諦めると言う選択肢は、彼女の中に存在していないようだ。
(若しかして、色違いの目を見られるのが嫌で、あんな風に前髪を伸ばして素顔を隠していたのかしら?)
先程の自分は、色違いの目を持つ人間を初めて目撃したことで、驚いて言葉を失っていた。彼は何度も、そのような場面に出くわし、良い気分になったことがない為に嫌気がさしてしまっているのかも知れない。
若しもそうなのだとしたら、いつぞや自分が言った言葉――前髪を切ってあげようかと思って――は、お節介どころか嫌がらせ以外の何ものでもなかったのではないだろうか。そう思うと、非常に申し訳ないことをしてしまったと、トキワはしょんぼりとしてしまう。
(……そうだわ!)
彼女は何かを思いついたのか、手をポンと叩くと、すっくと立ち上がった。
「ハゼさん、ちょっと此方へ来て貰っても良いかしら?」
「何でしょうか?」
顔が笑みを浮かべているが、切れ長の目は笑ってはいない。警戒心を抱いていることを匂わせるハゼを部屋の隅に招き寄せると、ひそひそと会話を交わしてから、トキワは彼の髪を弄り始めた。
――数分後。
「これでどうかしら?」
「「「おお~~~」」」
振り向いたハゼを見て、一同は思わず声を上げる。
両目を見られることを好ましく思っていないハゼに配慮して、不思議な色合いをした左目は前髪で隠してある。そして、顔を隠すなと言い張るトウカにも配慮して、深い青色をした右目は表に出している。
これが、トキワが考えた折衷案のようだ。
「これならば納得して頂けますか、トウカさん?」
「ええ、文句はないわ!」
片目を隠すことでどことなく魅力が増しているような気がする。そう感じたトウカは、くねくねと軟体動物のように身体をくねらせながら、顔を赤くして悶絶している。
(……頭の中が幸せなお嬢様ですねぇ)
いまいち釈然としないような気もするが、とりあえずのところ、これ以上はトウカに突っかかられることはなくなりそうだ。ハゼはやれやれとでも言いたげに、溜め息を吐いた。
「明日はディクティオン洞窟に行くんだよ、な。話はこれくらいにしておいて、明日に備えよう?」
シリウスに出会って漸く一日が過ぎようとしている頃だというのに、随分と沢山の話を聞いたような気がしてならない。
(ハゼはどうして、シリウスに……デミウルゴスに深く関わらないほうが良いって言ったんだろう?)
――デミウルゴスとは、本当に何者なのだろうか。
そんな疑問がコガネの中に浮かんで消える。余程疲れたのだろう、彼はベッドに横になった途端に深い眠りについたからだ。
***************
「じゃ、行こう、か」
シリウスに先導を任せて、一行は古びた石段を慎重に降りていく。
洞窟の中はというと、洞窟特有の湿った冷気が漂っている。そして、魔物の巣窟を髣髴とさせる剥き出しの岩壁がおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
――怖がりのトキワは大丈夫だろうか?
シリウスが隠れ家にしていた迷宮の中で、あれほど怖がっていた彼女のことだ、きっとガタガタと震えているのかもしれない。
(……大丈夫かな?)
心配になったコガネは、彼女の方へと顔を向けた。
(あ、やっぱり……)
案の定、彼女は顔面蒼白でガタガタと身体を震わせていた。
「トキワ、手を繋いでいこうか?」
「あ、有難う、コガネくん……っ」
コガネが手を差し出すと、彼女はゆっくりとその手を握り返した。泣いてはいないようだが、よく見てみると、涙目だった。
――余程、怖いらしい。
洞窟の中を進んでいくと、やがて小さな池と石の舞台がある場所へと辿り着いた。
「ちょっと待ってて、ね」
シリウスは意思の舞台の上に立ち、手にしている杖を前方に翳した。すると彼の足下に、煌びやかな光を放つ魔法陣が浮かび上がる。その後、彼はその場に膝をついて、魔法陣の上に両の掌を置くと、目を閉じて意識を集中させ始めた。
「……何してんだ、あいつ?」
傍から見ていると、地面に手をついて固まっているようにしか見えない。というよりも、若しかしたらシリウスはその体勢で寝ているのではないか?と、不安になったソウシが、ぼそりと呟いた。
「停止していた呪術を起動させて、使用しても支障がないかを調べているのですよ」
ソウシの疑問に、ハゼが面倒臭そうに答えた。その彼の顔が視界に入ると、ソウシは僅かに硬直して、ふいっと目を逸らした。
(……なかなか慣れねぇな)
隠れていた顔の上半分が表に現れただけで、別人のような気がしてならない。
「この転移呪術を起動させるついでに、点検も兼ねて、各地に散らばっている転移呪術も使用出来るように細工をしているのでしょう」
そのようなことは、其処の能天気デミウルゴスにしか出来ないことだろうとハゼは付け加えた。
「あいつ、一応は凄ぇ奴だったんだな。とてもそうは見えねえけど」
「うん。ちょっとっていうか、かなりの馬鹿にしか見えないけどね」
「言い過ぎだろ、アキヒ……」
ハゼといい、アキヒといい、はたまたトウカといい、彼らのシリウスに対する言動が厳しいような気がするのは気のせいだろうか。
(仲良くやってくれとは言わないけどさぁ……)
それこそ無理だと何となく理解しているコガネは、深い溜め息をついた。
外野があれこれと好き勝手に話をしている時。
呪術を使用しているシリウスは、ふと感じた違和感に、眉を顰めた。
(あ、れ?)
各地に散らばっている転移呪術の幾つかが、既に起動している。シリウスが、この場の転移呪術を起動させる以前に、だ。
(アルタの野郎が、ハゼを使って起動させ、た?)
だが、記憶に残っている情報が正しければ、転移呪術の起動と停止を操作出来る暗号呪術を知っているのは、自分を含めて数人ほどだ。
――その中に、アルタイルは含まれていない。
アルタイルは、呪術が使用可能であるか、それを調べることが出来るだけだ。だからこそ、彼はハゼに指示をして、自分を捜索させたのだろう。
(じゃあ、誰、が?)
リゲルとベテルギウスも、暗号呪術を知らない。
アルタイルと『あいつ』は奈落にいる。
それでは、現代を生きる人間の誰かが、偶然にも暗号呪術を解読したとでもいうのだろうか。
――嫌な予感がする。
(……今は、そのことを気にしてる場合じゃない、か)
どうせ、アルタイルには嫌でも会わなければならないのだ。浮かび上がった疑問は、その時に全て聞き出せばいい。シリウスにとって、最優先するべきことは、ソウシに頼まれたこと――マシロをリゲルから解放することだ。
「おい、どうかしたのか?」
石の舞台を睨みつけたままでいるシリウスを見て、何か異常でもあったのかと思ったらしい。ソウシが訝るような声をかけてきたので、シリウスは、はっと現実に引き戻される。
「ん~?どうもしてない。よ?」
「そっか。なら、いい」
思い浮かべていたあらゆる可能性を、頭の中から払拭する。そして、ソウシに向けて、脱力系の緩い笑顔を見せた。
***************
「ねえ、行き先は俺が指定しても良い、の?調べてみたら、アテナイに近いコロノスにある転移呪術が無事だったんだけ、ど」
「何処か行きたい場所があるのか?」
コガネが尋ねると、シリウスはゆっくりと頷いた。
「カスタリアの泉を調べておきたいな、と、思って、ね。今後の参考、に。デルフォイの神殿にある転移呪術も無事だった、し?」
どのようにして封印が破られてしまったのか。
それを調べて、対策を練りたいと彼は考えたようだ。
「リゲルってのをどうにかするには、そうした方が良いと思うわ。それが使えるんだもの、移動は楽が出来るんだし。さ、デルフォイに行きましょうよ」
(あら?)
トウカがシリウスの意見に対して、反論するどころか、賛成している。珍しいこともあるものだと、トキワは小首を傾げた。
『ソウシは俺の嫁』宣言をしたシリウスを、トウカは非常に快く思っていないのは、傍から見ていてもよく分かる。迷宮から帰還してからというもの、ことある毎に、同じような思いを抱えるアキヒと結託して、シリウスに突っかかっていたからだ。
然し今回、彼女はシリウスに噛み付くことをしなかった。
何か、心境の変化でもあったのだろうか。
「……」
深い海の色をした目が、トウカをじっと見ている。その視線には、本人も含め、誰も気がついてはいない。
「分かった、デルフォイに行こう。シリウス、転移呪術の操作は任せても良いか?」
「ん~、ばっち来~いだ、よ」
一行が魔法陣の上に立つと、目映い光が彼らを包み込む。その眩しさにコガネが思わず目を閉じた瞬間、例えようのない不思議な感覚に襲われた。