イーリオンを出発してから、早一時間。
(……このままで良いのか?)
無理矢理付いてきたアシア大統領令嬢カサンドラ・トウカ・ゲネトリクスの処遇を如何したら良いものかと、移りゆく車窓に目を向けつつ、コガネ少年は悩んでいた。
帰れと促しても、彼女は帰らないと言い張って意固地になるだけで収拾が付かず、何の解決にもならない。
(……仕方がないか)
もう、どうでもいい。なるようになってくれ。
彼は、諦める事にした。
***************
「なあ」
昼時を迎えたので、一行は空腹を満たす為に食堂車へと移動していた。コガネは半ば呆れ気味に、向かいの席でアキヒとソウシの取り合いをしているトウカに声をかけた。
「何よ、コガネ」
その手は止めず、更に顔を向けずに彼女は返事をする。
「あんたのことは、『カサンドラ』と『トウカ』のどっちで呼んだら良いんだ?」
トウマに尋ねたことを、双子の姉である彼女にも尋ねてみる。
「トウカで良いわよ、勿論。最初にトウカって名乗ったのは私だもの。トウマもそうしているでしょう?カサンドラは大事な名前だから、そちらで呼ばれるのはちょっと勿体無い気がするのよね」
「……どういうことだ?」
言っていることの意味が分からないと、コガネが首を傾げる。
「アシアに暫くいるのだったら、いずれは知る事になるだろうから、先に教えてあげるわ」
彼女はソウシを掴む手を離し、困ったように明後日の方向に目を向けた。
「私とトウマは血の繋がった兄弟だけれど、親父やお母さん、へっちゃんや他の兄弟とは血が繋がっていないのよ」
「……えっ」
思いがけない告白に、アキヒが動揺して、ソウシを捉えている手を離した。
「十七年前の或る日、ゲネトリクス邸の庭に捨てられていたのだそうです。赤ん坊だった僕たちを母さんが見つけて、自分の子として育てると言ってくれた御蔭で、僕たちはゲネトリクスの姓を貰い、育つことが出来たのです」
「『トウカ』と『トウマ』は顔も知らない、我が子を捨てるような親が残していった紙切れに書かれていた名前。『カサンドラ』と『ヘレノス』は親父とお母さんが一所懸命考えて付けてくれた、大事な、とても大事な名前」
大切に思っているからこそ勿体無くて、どうしても素直にファーストネームを名乗ることが出来ず、またその名で呼ばれる事にも気が引けて仕方がないのだと、彼女たちは言った。
「両親も上の兄弟たちも、養子であることは気にするなと言ってくれているのですが、つい……」
名を尋ねられたときに咄嗟に出てしまうのは、ミドルネームの方なのだ。もう癖になってしまっているので、無意識にやってしまうと二人は苦笑した。
(……だから、あんなこと……言ったのか)
ゲネトリクス邸に案内されている際に、トウカが口に出した言葉を思い出す。
――私だって若しかしたら、孤児院で育ってたかもしれないし。
言葉に秘められていた意味を知ったコガネは、申し訳なさそうに、悲しげに目を伏せる。
「……嫌なこと聞いて、御免」
心に浮かんだ感情を、素直に述べた。
「謝らないでください、コガネ。君が気に病む事はないんです」
「そうよ、気にしないで頂戴」
二人は何ともないと、笑い飛ばしてくれた。
「……うん、分かった」
コガネはゆっくりと面を上げ、にっこりと笑った。
「トウカ、次の駅で降りてイーリオンに帰れよ」
「切り替えが早すぎんのよ、クソガキャあああああああ!!!」
憤慨したトウカが机の上に乗り上げ、コガネの襟首を掴んで、力の限り締め上げる。
「トウカちゃん、絞まってます!コガネの首が絞まってます!そして行儀が悪いです!」
顔面蒼白のトウマは、双子の姉の魔の手からコガネを救い出そうと奮闘した。
「コガネも随分と言うようになったよな~」
出会ったばかりの頃の、警戒心剥き出しで突っ張っていた彼が懐かしく思える。
「そうだね~。でも、僕としては、田舎の純情少年のままでいて欲しいんだけどね。遊び甲斐があるから」
他人事のように修羅場を眺めているソウシとアキヒを一瞥した後、トキワは隣にいるハゼを横目で見て、深い溜め息を吐いた。
(どうしたら、こんな風でいられるのかしら?)
この状況で我関せずと静かに読書をしていられる、その神経が信じられないとばかりに。
***************
長距離列車に揺られて、一週間目の早朝。太陽が昇りきった頃、一行はイオニア州の港町ミレトスに到着した。
この港町から出ているという定期船に乗れば、サモス島の町パゴンダスに行くことが出来るのだが、一名、浮かない表情で眼前の船を見つめている少年がいた。
(……乗らなきゃいけないのは、よ~~~く分かってる。分かってるんだけど……憂鬱だ)
また船酔いに苦しむのかと思うと、気が重い。
「コガネくん」
渋々船に乗り込もうとしていたコガネを呼び止めたのは、涼しい顔をしているハゼだった。振り向くと、彼が手に持っていた紙袋を突然渡されたので、コガネは目を丸くして、十三センチほど高い位置にある顔を見上げた。
「何これ?」
「酷い船酔いにも効果があるという酔い止めの薬が売られていたので、買ってきました。船に乗る前に飲んでしまいなさい。……ああ、水が要りますね」
水筒まで渡された。
思いがけないハゼの親切に、コガネは心の底から驚く。
「な、なん、何で、ハゼが……っ!?」
こういった気遣いをしてくれるのは、大抵トキワのはずだ。
(絶対、雨が降る!いや、船が沈没するんじゃ……!?)
天変地異の前触れに違いない。
「貴方の船酔いの様があまりにも酷いので、横で見ていると貰い酔いをしてしまいそうだからですよ」
ハゼはさらりと、嫌味で返した。
(……ああ、うん)
大体、予想はしていた。
余計な言葉が返ってくるだろうと。分かってはいても物凄く腹が立つものだなと、コガネはひくひくと表情筋を引き攣らせた。
「……っ」
少々乱暴に紙袋を開け、先ずは説明書を読む。そして規定の量の錠剤を取り出して口の中へと放り込み、水で一気に胃の中へと流し込む。水筒の蓋を閉めて、紙袋を水筒を荷物入れにしまうと、彼は一呼吸を置く。
そして、いきなりハゼの胸倉を掴んで、少し高い位置にある彼の顔を引き寄せた。
「どうしました?」
「……有難う!」
と、面と向かって大声で、半ば自棄くそで礼を言った。
今度は、ハゼの方が目を丸くする番だった。まさかそんな反応が返ってくるとは、微塵も思わなかったらしい。
「……ふんっ」
感謝の意は、とりあえず示した。
これで良いだろうと、強制的に自分自身を納得させたコガネは、胸倉を掴んでいた手を離して、身体の向きを変える。そのまま、大股で歩いて船の中へと入っていったのだった。
「……何が、可笑しいのですか?」
面倒臭そうにハゼが緩慢な動きで顔を向けると、其処には楽しそうに微笑んでいるトキワの姿があった。
「いいえ、何も?」
衝突はするけれど、完全に仲が悪いわけではないようね。
声に出そうとしたが、寸でのところで思い留まる。そんなことはありえない、といった文句が即座に返ってくるだろうと簡単に予測出来たからだ。
(二人とも、素直じゃないのね……)
彼女が微笑む理由は、ハゼには理解出来ない。
出航を知らせる汽笛が鳴り響き、船がゆっくりと動き出す。
(……気分が悪くならないな)
ハゼに渡された酔い止めが、効いているのだろうか。三半規管を刺激する、船独特の揺れに気分が悪くならないでいるのが不思議だ。
初めての船旅の時は、船酔いに苦しめられていたので、全く余裕がなかった。
薬が効いている今が好機だ。そう思い立ったコガネは船に甲板に出て、空の青と海の青を充分に堪能する事にした。
少々癪に障るが、酔い止めを渡してくれたハゼに感謝する。
(……マシロが見たら、喜ぶだろうな)
海は川とは違うんだね、と、笑いながらはしゃいでいる彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。
***************
ミレトスを出航してから四時間、一行はサモス島のパゴンダスに到着した。
「はいは~い、皆さん、頑張って歩きましょうね~」
パゴンダスからヘライオンまでの距離は歩いて三十分程度だと耳にしたアキヒが、馬車代を節約するのだと声高に宣言した。
「えぇ~!?その付近を通る馬車があるじゃないの、楽しましょうよ」
交通手段があるのならば、金を払ってでもそれを利用するべきだとトウカが主張する。だが、流石の彼女も、金が絡んだ時のアキヒには勝てなかった。
「何なのよ、あのガキんちょは……」
「アキヒは、金の亡者なんだ……」
久しぶりに、『赤い悪魔』を見たとコガネは溜め息を吐いた。
一行は、人通りの少ないあまり舗装されていない道を歩いていく事になった。
三十分ほど歩いたところで、一行は目的の場所――ヘライオンに辿り着いた。
「これはまさしく……廃墟……だよな?」
女神ヘラを祀る神殿だと聞いていたので、コガネはデルフォイの神殿と似たようなものなのだろうと想像していた。しかし実際のヘライオンの想像を遥かに超える荒廃具合に、彼は愕然としてしまった。
石造りの建物のそこかしこが、長年の雨風によって風化していて今にも崩れ落ちそうになっていたり、支える役割を担う柱が途中で折れていたりしている。
神殿というよりは、廃墟と言った方が正しい。
「ヘライオンを訪れるのは、僕のような学者くらいです。島の人々は神殿の保護には関心がないので、ほぼ野ざらしになっているという訳ですね」
研究者が後世の為にヘライオンを保護しようと奮闘しているらしいのだが、風化の度合いが凄まじすぎて修理がとても追いつかないのだそうだと、トウマが残念そうに語った。
かつて神殿を覆っていたと思われる天井は穴だらけで、その機能を全く果たしていない。その御蔭か、薄暗いのが常である神殿の中はとても明るく、視界は頗る良好であった。
(……この気配は)
一行の最後尾をのろのろと歩いていたハゼが急に歩幅を広げ、先頭にいたコガネの横を通り過ぎていった。
「ん?」
様子がおかしいと感じた彼は、歩みの速度を上げて、その後を追う。
「っ!」
ハゼが立ち止まったのは、見取り図に描いてあった地下への入り口があるという祭壇の前だった。彼の足下に目をやったコガネは、息を飲んだ。
祭壇の手前に大きな穴が空いているように見えたが、それは地下へと続く階段だった。
「呪術が解除されている……っ!」
地下への入り口が実在した事に感動するが、トウマは同時に青ざめた。
「アシアの人は、此処に呪術が掛けられてるって事を知らないんじゃないのか!?仮に知っていたとしても、解除する方法までは知らないんじゃ……?」
一体誰が、呪術を解除したというのか。
「デミウルゴスならば、呪術は容易く解除出来ます。現に、リゲル・プラクシディケの気配が残っています」
動揺しているコガネたちとは逆に、妙に落ち着いているハゼが淡々と告げる。
「え?何で、リゲルだって断定出来るのさ?だって、リゲルはヘレネスの何処かにいるんじゃ……?」
移動手段に制限のあるコガネたちとは異なり、
しかし、彼女が此処までやって来る意味があるのだろうか?
黎明の時代の事情に通じているとはいえ、目覚めたばかりのリゲルが現代の事情を把握出来ているのだろうか?
この憶測はこじつけ過ぎではないかと、アキヒが疑いの目を向ける。
「彼女はデミウルゴスですから、かの時代については我々よりも遥かに詳しい。アルゴスの目の存在を知っていたとしても、おかしくはありません。封印を破ったばかりの彼女ですが、我々がアシアまで移動している間に、ある程度は現代の知識を手に入れたと考えても良いでしょう」
「だぁ~~~っ!!!リゲルが今何処にいるとかいねえとかは、どうでもいいじゃねえか!アルゴスの目を持ってかれちまったら不味いだろ!?落ち着いて分析してる場合じゃねえっつの!!!」
ソウシに発破をかけられた一行は、大慌てで階段を駆け下りていった。
階段の先には、金属製の扉があり、それは既に開いていた。
「!!!」
仄暗い部屋の中に雪崩れ込むと、部屋の中央に見覚えのある姿があった。
「あら、久しぶりね……アギュイエウス?」
白髪の下の赤眼を細め、マシロの姿をしたリゲルは冷笑を浮かべた。
***************
「……リゲル!」
地下への入り口を隠す呪術を解除したのは、彼女で間違いないようだ。
彼女の姿を認めたコガネは、苦々しげに顔を歪める。真正面から見据えているのが辛くなり、ふと目線を落とす。彼女の手の中には、大きな水晶玉があった。
「あれが、アルゴスの目です」
静かに、ハゼが告げる。
彼女の目的はどうやら、アルゴスの目の入手のようだ。
(くそ……っ)
魔物を召喚する魔法を扱う彼女に挑んだとしても、到底適わないことは理解している。人間とデミウルゴスの力の差は、デルフォイの神殿で思い知った。ここは、身の安全を図って後退した方が良いのかもしれない。上手く逃げ切れる保証はないが。
だが、彼女の手の内にあるアルゴスの目が奪われていく様を見届けるのも頂けない。シリウスの行方を知る鍵がなくなってしまう。
「それは、渡さない!」
考えもなしに、コガネは突っ走っていた。
「あ、あの馬鹿っ!!!」
相手が相手だということを忘れているのか。ソウシがコガネを制止しようとしたが、一足遅かった。
あともう少しというところで、コガネはリゲルが作り出した魔力の障壁に弾かれ、大きく吹っ飛んだ。宙を舞った身体が硬い床に叩きつけられる。その衝撃で咽てしまい、彼は咳き込んで悶えた。
「浅慮ね、お前は。うっかり殺してしまうところだったではないの。それでは、セレネとの約を違える事になってしまう」
強大すぎる力は、加減が酷く難しい。リゲルは虫けらでも見るような目で、コガネは見下ろした。
「……それ、どういうこと?」
意味深長な言葉に、アキヒが反応した。
「お前たちに手を出さないということを条件に、セレネは私に全てを委ねたと言っているのよ」
理解出来ないのか。そう言いたげに、リゲルは唇を吊り上げる。
(……な、んで)
身の危険を察したりゲルが、マシロの身体を無理矢理奪ったのではなかったのか。
とてつもなく硬いものを頭にぶつけられたような気がした。コガネの思考が、停止する。
「其処の男が私を狙ってきた時、マシロは私に助けを請うたのよ。だから、私が強引に身体を奪ったわけではない。これは立派な取引でしょう?」
茫然自失となったコガネを視界に収め、リゲルは嫣然と微笑んだ。気分が良くなったらしい。
「リゲル・プラクシディケ。お尋ねしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
放心状態のコガネのことは気にも留めず、ハゼは自身の目的を優先した。
「何かしら、アルタイルの駒?」
その呼称を耳にしたハゼは、肯定とも否定とも取れない微笑を浮かべて黙殺する。
(……アルタイル?)
聞き覚えのないその名称に、トキワが小首を傾げる。
若しかすると、彼曰く『不届き者』の名前なのだろうか。『不届き者』はデミウルゴスであると彼は言っていたので、同じ存在であるリゲルがその名を知っていたとしても、不思議ではない。
「クロム・アイドネウス……いえ、貴女の大切なベテルギウス・エウメニスには、もう会いましたか?」
「さあ、それはどうかしらね?」
その問いに答えてやる義理はないといった返答だったが、ハゼはそれを『是』と取った。
「もう一つ、お尋ねします。アルゴスの目を使って、どうなさるお心算ですか?これは憶測ですが、シリウス・アイテルを捜し出して、今度こそ味方につけるのか、それとも『本体』の隠し場所を探り当てるのか……」
ハゼの憶測に、リゲルは柳眉を跳ね上げる。
「シリウスを味方につけたとして、私に何の利点があるというのかしら?」
「俺は貴女ではないので、貴方の思惑など知りません。ですから、是非とも教えて頂きたいのですよ」
その手の内にある、アルゴスの目の使い道を。
「……アルタイルはまた、愚かな人間どもの味方に付くのか。余計な入れ知恵を……」
憎々しげに目を細め、リゲルは小さく舌打ちをした。
「お前は愚かだわ。あれの下に付いたところで、得るものは何一つとしてないというのに!」
「失礼なことを言わないで頂きたいですねぇ。俺は、不届き者の配下ではありませんよ。誤解しないで頂きたい」
「その言い分、アルタイルに瓜二つだわ!虫唾が走る!!!」
リゲルが憤慨して金切り声を上げた瞬間、目映い光が発せられたので、一行は反射的に目を瞑る。
次に目を開いた時、彼女はこの場から忽然と姿を消していた。
***************
「あ~~~っ!!!逃げられたぁ~~~っ!!!」
アキヒの絶叫が、地下室中に響き渡る。思わず耳を塞ぎたくなるほどの音量の御蔭で、コガネははっと我に返った。
「あの女の子が、デミウルゴス……なのですか?」
信じられないものを見てしまったと言いたげな表情で、トウマがぽつりと呟いた。
「……うん。身体は、マシロなんだけど」
マシロはコガネたちを守る為に、リゲルに身体を差し出した。
リゲルの言葉が頭の中で反芻し続けて、いつまでも消えようとはしてくれない。
「それにしても、困った事になったわね」
「アルゴスの目を持っていかれちゃあ……」
シリウスの居場所の手掛かりが無くなってしまった。アキヒががっくりと項垂れると、トウカは首を振った。
「違うわよ。あのリゲルってのが、アシア領土の物品を許可なく持ち帰ったことが問題なのよ。これ、立派な犯罪よ」
「「え?」」
今、彼女は何と言ったのか。コガネとアキヒは吃驚して、目を点にした。
「窃盗の容疑、かしらね?」
「ですが、トウカちゃん。彼女はアシアの法律を知らないのですから、訴えたとしても無駄だと思いますよ?」
双子の会話を聞いている少年組は、ハラハラしている。
リゲルの所為で、マシロが窃盗犯として捕まえられてしまうかもしれないからだ。
「この部屋自体も、かの時代の遺産ですから……アルゴスの目がなくとも、充分価値はあります。まあ、黙っていても大丈夫でしょう」
トウマは、にっこりと笑う。
「……トウマって」
「……実は黒い?」
性格破綻者は姉の方だと思っていたが、弟も弟でそれなりにイイ性格をしているようだと判明した。
「リゲル・プラクシディケに持っていかれたのは、『アルゴスの目の一部』、ですよ」
リゲルがいた場所に立っているハゼが、ぽつりと呟いた。
「……へ?」
「正確に言うと、『この部屋に設置されているもの』と『世界中に散らばっている呪術制御されたアンテナ』を含めて、『アルゴスの目』と言います。この部屋は世界中のアンテナから送られてくる呪術暗号を収集、解析する場所……マザーコンピュータ、とでも言いましょうか。彼女が持ち去ったものは、本体と同じ機能を持った『携帯用のアルゴスの目』です」
彼が指差した場所には、幾つかの水晶玉――『携帯用アルゴスの目』が残されていた。
「……あんた、知ってたのか?」
「はい」
ハゼに詰め寄るコガネの目は、据わっている。
「だったら紛らわしいこと言うなよ!」
「いえいえ、あれも『アルゴスの目』ですから。間違ったことは言っていませんよ?」
そう、間違ってはいない。
(むかつく、こいつ本当にむかつく……っ!)
一度でいいから、コテンパンにしてやりたい。
コガネは必死の思いで、怒鳴り散らしたいのを堪えた。ここで怒りを爆発させては、ハゼに負けたような気がしてならないので、堪えた。
「……ふむ。既に再起動していますね。これから使おうとしていた矢先に、我々が乗り込んできたようです」
じとっとした目付きで睨んでくるコガネを放置して、ハゼは操作盤を覗き込んだ。
「クロノス殿は、これの操作方法を御存知なのですか?」
操作盤の周辺をごそごそと調べているハゼに、トウマが興味津々といった様子で尋ねる。
「不届き者は存じているようですが、俺は存じておりません。……ああ、ありました」
一冊の古びた冊子を手にしたハゼが立ち上がる。一行は彼の下に集まった。
「……『アルゴスの目取扱説明書――初心者編』?」
と、その冊子の表紙には大きめの文字で書かれており、題名の下には小さめの文字で『シリウス・アイテル著』と書かれている。
ハゼの説明によると、口頭で説明をするのが面倒だと判断した開発者――シリウスが書き残したものらしい。
「素晴らしい……!」
古代に書かれたものが現存している事に、学者のトウマは感動して、鼻息を荒くする。
「ええと、親切なのね?」
「……そうだな?」
トキワとコガネは顔を見合わせて、ははは、と力なく笑った。何故だろうか、素直に喜べない。
「で、誰がこれを操作するんだ?魔法が使える奴じゃなきゃ、操作出来ないんだろ?俺は無理だな」
素養がないので、お手上げだ。ソウシは両手を挙げて、降参の意を示す。続いて、コガネ、アキヒ、トキワも同じく降参の意を示した。
残るは、ハゼ、トウカ、トウマの三人だ。
「私は治癒魔法とか、補助魔法とかが使えるだけよ?」
専門の知識は殆どないと、トウカは言い切った。
「では、どうぞ。試してみるだけ、試してみてはどうですか?」
手渡された説明書を破らないように慎重に開き、黙々と呼んでいく。一分ほど経過したところで、彼女は徐に顔を上げた。
「……さっぱり分からないわ!」
素養があっても、説明を理解する能力もないと駄目らしい。ハゼを除いた一行は一斉に項垂れる。
「あ」
まだ、トウマがいる。コガネが希望に満ち溢れた目で、彼を見た。
「僕はその……学問一筋でして……」
後は、付け焼刃程度の護身術が扱えるくらいで、魔法の才には恵まれていないのだと、彼は申し訳なさそうに言った。
「てーことは、前髪オバケか……」
その呼称は、いつのまにか定着しつつあったらしい。胡乱気な目でソウシがハゼを捉えた。
「おや、俺は魔法が使えるなどとは言っていませんよ?」
彼は大げさに肩を竦め、頭を振る。
「言ってないだけで、実際は使えるんじゃないか?」
「貴方は随分と、人を疑うようになりましたねぇ?」
誰の所為だと思っているのか。
口では勝てないことは重々承知しているので黙ったが、コガネの目はそう語っていた。
「やれやれ、仕方がないですね……」
彼が操作盤の上に手を置いて意識を集中させると、壁に取り付けられているガラス製の板に、世界地図が映し出された。
「成程、これは
古代文明の技術の高さに、トウマはうっとりと目を細める。
「黎明の時代と今じゃあ、地名が違ってる所が沢山あるんだな……」
黎明の時代には、ヘレネス王国、フェレトリウス・アルカディア帝国、アシア連邦などの国家の名前はなく、大小様々な国家が乱立していたようだ。そして、その時代と今では、地名が異なっている場所も多々ある。
――かの時代にサモス島と呼ばれていた島が現在もその名で、その場に存在しているのか。
ハゼが言っていたことは、このことだったのだとコガネは漸く納得した。
「説明書には、囚人に付けた『識別暗号呪術』を打ち込んで検索してみましょう、と、書かれているのですが……アイテル殿は、囚人ではありませんよね?」
デミウルゴスであるシリウスには識別暗号中呪術が掛けられていないと思われる。それでは本末転倒ではないかとトウマが問いかける。
「シリウス・アイテルは一人閉じこもって研究に勤しんだり、いつの間にか何処かへ行方を眩ましたりするなど、糸の切れた凧のような御仁だそうでしてね。要するに、集団行動が全く出来ない人物ですね」
「へ、へえ……」
「へ~……」
少年組は呆れたような引き攣った笑いを浮かべた。
「その為、必要な際にいつでも捕まえられるようにと、シリウス・アイテル専用の識別暗号呪術をこれに記憶させておいたようです。千年以上経過している現在でもそれが正常に作動するのであれば……容易に居場所を掴むことが出来る訳です」
ハゼが再び、意識を集中させる。スクリーンに映し出された世界地図の一点に、赤い印が浮かび上がった。
「フェレトリウス・アルカディア帝国領土、クレタ島ですか……」
トウマのその声に、アキヒが僅かに身を強張らせた。
「正確には、クレタ島の町イラクリオン近郊……
「ラビリントス?」
「かつてクレタ島で栄えていた、ミノア文明の遺産です。クノッソス宮殿と呼ばれる遺跡の近くだと聞いたことがあります」
コガネの疑問には、トウマが答えた。他国の遺跡についても、多少は知っているようだ。
「クレタ島でしたら、ミレトスからイラクリオン行きの船が出ていますよ」
トウマが親切心から言ってくれた情報だが、コガネの耳には少し痛い。
(……また、船か)
後で荷物入れの中に入っている酔い止め薬の残りを確認しなければ。
「で、アルゴスの目はどうすんだ?このままにしておいても……大丈夫なのかよ?」
呪術を掛けて隠していたくらいなのだから、このまま放置するわけにもいかないだろう。ソウシは操作盤を指差し、疑問を述べる。
「現代人では、閲覧をすることは出来ても監視目的に使用することは出来ないでしょう。識別暗号呪術を扱える人間がいません。ですから、このまま放置しておいても問題はないはずです」
「本当に良いの?僕たちの居場所とか、リゲルにばれちゃったりしない?」
「その心算があるのならば、彼女はこの中の誰かに識別暗号呪術を掛けていったはずです。幸い、誰も掛けられていないので、心配する必要はないでしょう」
下手に勘繰っても良いことはないとハゼがからかうように言うと、アキヒは頬を膨らませて拗ねた。
「しかし、この場を荒らされるような事があってはいけません。アルゴスの目の存在は、アシア政府に知らせて、管理して貰った方が安全でしょう。僕から、研究会の会長を通して伝えて頂こうと思います」
その為の資料を作成しなければと、トウマは張り切っている。その横で、そういったことに興味のない姉が冷めた目で弟を眺めていた。
「んじゃ、さくっとミレトスに戻って、クレタ島に向かうとしますか」
ソウシは踵を返し、地下室から出て階段を上っていく。その後に続いて、アキヒたちも部屋から出て行く。
「ん?」
トキワは一人、先程まで世界地図が映し出されていたスクリーンを食い入るように見つめていた。その神妙な面持ちが何となく気になったので、コガネは声をかけた。
「どうかしたのか?」
「え?」
彼女は少し身を強張らせた後、ゆっくりと此方の方へ顔を向けた。
「……短い期間で、結構な距離を移動していたのね……と、思ったの」
地図でその距離を確認したことで、しみじみ実感したのだと彼女は笑いながら答えた。
「そっか。置いてかれるから、早く出ようぜ」
「そうね」
その回答に僅かに違和感を感じたが、コガネはそれ以上追求しようとはしなかった。彼女が見つめていた位置にあったのは、クレタ島だった。