終点をアシア連邦の首都イーリオンとする船に乗り込んで、幾日経過しただろうか。
貨物船も兼ねている大型船の甲板で、縁に凭れ掛かってぐったりと項垂れている少年の姿が見える。
「……最悪だ……」
蒼白を通り越し、土気色になったコガネは、むかむかとしてやまない鳩尾の辺りに手を当てる。そうすると、少しだけ楽になるような気がするのだ。
内陸部のデルフォイで生まれ育った彼は、基本的に船とは無縁の日々を過ごしてきた。初めて船に乗るのだと、意気揚々と船旅に思いを馳せていた彼だが、出航して一時間もしないうちに後悔する事になる。
(船最高って言った奴は誰だ……!)
数日前の、暢気で無知な自分である。
吐き気と胃の不快感と格闘しているうちに、彼の意識は自ずと遠のいていった。
***************
――時は数日前に遡る。
デミウルゴスであるシリウス・アイテルを捜索する事になったのだが、そうするにはヘレネス国外へと渡らなければならない。どのようにして世界を巡るか。一行は頭を悩ませる。
誰もが沈黙する中、先陣を切って、アキヒが口を開いた。
「あのさ、僕はアシアから行った方が良いと思うよ!」
「何で?アルカディアの方が近いだろ?」
その提案に、コガネが首を傾げた。
フェレトリウス・アルカディア帝国が領土としているペロポネソス大陸は、ヘレネス王国が領土としているエウロペ大陸と陸続きになっている。ボイオティア地峡部と呼ばれるその場所を利用すれば、容易にアルカディア領土へと入ることが出来る。
海を挟んだ東方のアシアへ向かうよりも、南下するだけのアルカディアへ向かった方が都合が良いはずだ。
「そうなんだけどさ。アシアのほうが物価が安いし、ヘレネスよりも技術が発達してる国だから交通の便が凄く良いんだよ?確かにヘレネスよりも遥かに領土は広いんだけどさ、そっちを先に済ませた方が良いと思うんだよね」
「気持ちの問題じゃねえかよ。だが、ヘレネスとアルカディアの情勢を考えるとな……」
ボイオティア地峡部は国境でもある為、両者が睨み合いをしている場所でもある。この十年程、小競り合いは勃発していないのだが。
「商人や一般人は比較的気楽に両国を行き来しているけれど、少し不安よね。そうね、アシアは治安が良いと言われているから、先ずはアシアで慣れてから、アルカディアへ向かうのも良いかもしれないわ」
こうして、敢えて南下するだけのフェレトリウス・アルカディア帝国へ向かうのではなく、アイガイア海を挟んだ東のアナトリア大陸を領土とするアシア連邦へ向かうことが決定した。
「んで、先ずはアシアの何処に行くんだ?」
「そりゃあ勿論、首都イーリオンに決まってるじゃないさ。情報は都市に集まるものだからね!」
「情報収集の基礎の基礎を鼻高々に御高説頂きましてもねぇ」
ソウシに疑問に張り切って答えると、それをハゼに鼻で笑われた。
「黙ってるかと思えば、何だその口はあああ!!!」
怒髪衝天の勢いで怒り狂ったアキヒを、ソウシとトキワが苦笑しながら取り押さえる。
「はーっ、はーっ、……あー。陸路でアシアに行けなくもないんだけど、そうすると三ヶ月以上かかるんだよね。イーリオンまで行く船がね……そうそう、エウボイア島のキミっていう港町から出てたはずだよ」
エウボイア島は、アッティカ地方に密接している島で、アシアとの貿易の重要な拠点の一つとして知られている。
その島のキミという港町からは定期的にイーリオン行きの船が出港しており、それを利用すれば半月程であちらに辿り着けるはずだとアキヒが語る。
「んじゃ、マラトン経由の街道使ってアウリスまで行って、エウボイア大橋渡って行くか」
わざと空気と化しているハゼを除く三人があれこれと話し合いをしている中、コガネはその様子を静観していた。
(……俺の世界って、デルフォイだけで構成されてたんだな……)
己の見識の狭さに打ちひしがれていると、野生の勘でそれを察知したソウシに、軽い拳骨をお見舞いされた。
***************
「おお~、賑わってるね!」
キミ港を出てから、天候の関係もあり半月と少々。コガネたち一行は、アシア連邦首都イーリオンへと辿り着く。
船から降りたアキヒは、目の前に広がる魚市場を視界に捉え、その繁盛振りに興味津々と興奮する。
「……大丈夫か、お前?」
「……」
ソウシに支えられながら船を降りたコガネの顔色は、すこぶる宜しくない。
乗船している間中、コガネは酷い船酔いに苛まれており、地面に足をつけた今も未だ海上にいるような気がしてならない。地震でも起きているのかと思ったりもしたが、そうなのではなく、自分自身がゆらゆらと弥次郎兵衛のように揺れているのだと気が付く。
(……船は……二度と乗りたくない……!)
しかし、船に乗らなければヘレネスに戻るだけでも大変な苦労が待っている。出来る限り船には乗りたくない、に訂正しておいた。
「とにかく、今日のところはこいつを休ませてやろうぜ。三途の川を渡りそうな勢いだぞ、こいつ」
「じゃあ、僕は宿屋を探してくるよ」
此処で待っていて。そう言い残して、アキヒは駆け出していった。ヘレネスを出る前に購入しておいた、アシアの案内書を片手に。
「一緒に行っても良いんじゃねえか?」
「この状態のコガネくんを連れ回すのは酷だわ。アキヒくんは気を利かせてくれたのよ」
とても良い子ね、とトキワは微笑んだ。
重傷のコガネを、彼女が背負っている。「男が二人もいるのに、何故彼女が背負っているのだ」と疑問に思われてしまうが、この面子の中で最も力持ちなのが彼女なのだから仕方がない。
それもあるが、「軽いから大丈夫よ」と、彼女が進んでコガネを背負うと言い出したのだ。
一見男性、実は女性のソウシは、周囲から送られてくる異様なものを見るような視線を浴びて、その鬱陶しさに辟易する。
「なあ、ハゼ。シリウスって奴がいそうな場所ってのは、本当に思いつかねえのか?」
気を紛らわそうと、他人事のように手持ちの本を黙々と読んでいるハゼに問いかけてみる。前髪が邪魔で文字が読み辛くはないのだろうかと思いつつ。
「何処にいるのか分からないということは、何処にでもいる可能性だけはあるということですよ」
「全くもって意味が分からん」
「これは失礼致しました。不届き者曰く、人間が行きそうにない場所を好むそうですよ」
廃墟や前人未到の未開の地を言うのかと問えば、そうかもしれないと気のない返事が来た。
「……お前、協力する気、一切ないだろ」
「はい、毛ほどもありません。脅迫されたので渋々付いてきただけですよ」
ねえ?
にっこりという擬音が聞こえてきそうなほどの嫌味な笑みを浮かべたハゼに一瞥され、トキワは苦笑せざるを得なかった。
小一時間程経過した頃、アキヒが息を弾ませながら戻ってきた。彼が納得する金額の宿屋が見つかったのだろう、顔の筋肉が気色悪いほど緩んでいる。
屍と化しているコガネを連れて、一行は宿屋へと向かう。
「アキヒくんが言っていた通りね。確かにヘレネスよりも物価が安いわ。野菜や果物もそうだけれど、医薬品の値段も二割から三割ほど下がっているのではないかしら?」
目的の宿屋までの道のりの途中、目抜き通り沿いに並ぶ商店の品物を眺めていたトキワが不意に呟く。
「国が農業や医学、科学技術など多くのものに補助金や奨励金を出しているのだそうですよ。その事により農家、技術者、学者などが俄然意欲を発揮し、結果として安定した自給率が弾き出されているのだとか。経済対策の一環として地産地消も推奨しているので、それも関係して意義ある物価安になっているのではないかと、其方の店主が仰っていましたよ」
一体何時の間にそのような事を聞きだしていたのか。
ハゼの妙技に驚愕しつつも、国によって確かな違いがあるのだと一行は実感した。
***************
「……御免、足手纏いになって……」
宿のベッドの上で力無く横になっているコガネは、ひんやりとして心地の良い濡れタオルを額に載せてくれたトキワに謝意を示す。その声は普段の彼らしくなく、とても弱々しい。
「船酔いは仕方がないわ、私も少し気分が悪くなったもの」
謝る必要はない。ベッドの脇に腰を下ろし、彼女は優しく説き伏せる。その微笑みに、懐かしい光景が目に浮かんできた。
「……トキワって、母さんみたいだ」
そこまで言い切ってから、しまったと慌てて口を噤む。感じたことをそのまま口に出してしまったことを後悔する。
彼女は気を悪くしてしまってはいないだろうか。
「そう、それは嬉しいわ。有難う」
コガネの不安を余所に、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。
「……怒らないのか?」
「あら、どうして?」
どうしてと言われても。母親のようだと言われて嬉しいと思う独身女性はいないだろうと思ったからこそ、怒らないのかと訊いたのだが。どう答えたらよいものかと、コガネは返答に困る。
「いや、トキワが気にならないって言うなら、良いんだ……けど……さ……」
調子が悪いのもあるが、旅の疲れもどっと出たのだろう。うつらうつらと瞼が忙しなく開閉し始めて間もなく、コガネは話している途中にもかかわらず眠りについた。
「……お休みなさい」
すうすうと寝息を立てているコガネにそっと声をかけ、彼女は静かに部屋から出て行った。
「コガネくんは、もう寝ましたか?」
廊下に出た途端に声をかけられる。壁に背を凭れているハゼが、じっとこちらを見ていた。
「ええ。あら、ソウシさんとアキヒくんは?」
キョロキョロと首を左右に振り、二人の姿を捜す。するとハゼが窓の外に顔を向けた。
「あの二人でしたら、買い物に出掛けて行きましたよ。アシア製の弾丸は質が良いので今のうちに買い溜めをするのだと、張り切っておられましたね。男性よりも遥かに逞しい女性の方が」
ソウシのことを言っているのだろうと察し、トキワは思わず笑ってしまう。
「ハゼさんは、買い物に出掛けないの?」
彼女のその言葉に、彼はやれやれとばかりに肩を竦めた。
「俺を放置すると危ないので、監視する為に強制連行したのでしょう?わざわざ逃がすような真似をするのは、どうかと思いますがね」
「貴方は逃げないわ。だって、逃げるチャンスは今までに何度もあったもの。だけど、貴方はそうしなかったわ」
おっとりとしているようで、周囲をよく観察しているらしい。真意を突かれたのか、ハゼは僅かに声を詰まらせた。彼女はそれには気が付きはしなかったが。
「……得物の手入れはこまめにしていますし、必需品も最低限は常に所持するように心掛けていますので、買い物へ出掛ける必要はありませんね。そういう貴方はどうなのですか?」
訊き帰された事に、トキワはきょとんとする。
(ハゼさんが訊いてくるのは……初めてかしら?)
ハゼに質問をすると、それなりにきちんと答えが返ってくる。その大多数には余計な一言が付録として付いてくるのだが。黙殺される場合もあるが、返答の可否の意思表示はある。
質問する側だったのが、される側へ変化した事に気が付く。
「……笑えるようなことでも言いましたかね?」
「え?」
怪訝そうな声が耳に入り、現実に引き戻される。無意識の内に笑ってしまっていたようだ。
「ええと、何でもないわ。気を悪くしてしまったのだったら、御免なさい」
咄嗟に適当に言って誤魔化す。本音を言うのは、何故だか憚られた。
「そうですか。それで、俺の問いには答えて頂けないのでしょうか?」
ああ、と質問されていたことを思い出す。
「特に、することやしたいことはないわ。どうしましょう……」
夕食の時間までは、未だ随分とある。頤に手を当て、暫し考えてみるが何も思い浮かばない。
ふと目線をあげると、ハゼの顔が目に入ってきた。目の前にいるのだから、それは至極当然のことなのだが。
「ハゼさんはどうして、そんな風に前髪を伸ばしているのかしら?」
突飛なその問いに、表情をあまり崩すことのないハゼが面食らう。
「……気になりますか?」
「……邪魔だと思っているのなら、切ってあげようかと思って……」
遠慮がちに見上げてくるが、トキワの目は期待で輝いている。これは引き下がりそうにないと判断したのか、ハゼは折れた。
「諸事情がありましてね、こうして伸ばしているのですよ。これが理由です。よく分からない親切心をどうも」
諸事情の一言で片付けられた部分が気になったが、彼女は其処から先へは踏み込むことはしなかった。
(私にも人には言えない、言いたくないことはあるものね。自分がそうだというのに、人の事を詮索するのはいけないわね)
誰にでも踏み込まれたくない領域は存在する。
「……妙なことを訊いてしまって御免なさい。そうね、部屋でゆっくりすることにするわ。それじゃあ……」
「ええ、それでは」
いそいそと、トキワはこの場を後にする。その背中を、ハゼは意味深長な面持ちでじっと見つめていた。
(……本当のところは、実にくだらない理由ですよ)
そのことを話したら、彼女はどんな表情を見せただろうか。
(……らしくないことを)
馬鹿馬鹿しい。そう言いたげなその嘲笑は、彼自身に向けられたものに見えた。
***************
買い物を済ませた賞金稼ぎの二人は、港の周辺を散策していた。
エウロペ大陸とアナトリア大陸の間にあるへレスポントス海峡を赤く染める夕日の美しさに、アキヒはうっとりと目を細める。
「おお~、海の向こうにトラキアが見えるぅ~。……って、あの陸地ってトラキアで良いんだよね?」
とりあえず言ってはみたものの、あまり自信がないらしい。隣に立っているソウシを見上げる。
「んなこと、俺が知るわけねえだろ。地図には興味ねえんだよ」
彼女は軽くあしらった。
「お前さ、アルカディアに行きたくねえから、アシアが良いって言ったんだろ?」
珍しく真面目な表情で、ソウシが話を切り出してきた。
「……どうして、そう思うのさ?」
内心を見透かされたくないのか、アキヒは風光明媚な夕焼けへと目を戻す。
「アシアは物価が安くて、交通の便が良いから。お前らしい理由だって、あいつらは思っただろうな。何考えてんのか分かんねえハゼの野郎は、どうだか知らねえが。……それなりに付き合い長えからな、ちったあ気が付くぞ?」
どうにか騙せたと思い込んでいたアキヒは、表情と言葉を失う。ソウシは鈍いようで、稀に野生の勘が働いて鋭い時があることを完全に失念していた。
「どんな理由があんのかは、あん時も訊かなかったし、これからも訊く気はねえ。俺も記憶喪失で、お前と会う以前の記憶が殆どねえから、昔のことを話せって言われても答えらんねえし。公平じゃねえだろ。ただな、どうしても行きたくねえなら、素直に言え。あいつらが何を言っても、俺はそれで納得してやるからよ」
悪戯小僧のような笑みを浮かべて。ソウシは大きな手でアキヒの頭を掻き混ぜるように、少々乱暴に撫で回す。
すっかりぐしゃぐしゃになってしまった髪を直ぐに元通りにはせず、アキヒはぽつりぽつりと呟き始めた。
「……僕の名前……メルクリウスは、アルカディアで名乗ると……ちょっと不味い事になるんだ」
ソウシと初めて出会ったあの時。
他に良い偽名は思い浮かばず、彼女もまた世間には疎そうで、ヘレネスでこの名を名乗ったとしても直ぐに分かる者はいないだろうと踏んだので、アキヒは敢えて名を変えずにいた。
――ソウシはどのような反応を見せるだろうか。
期待と不安で揺れながら、アキヒは決心して面を上げる。
「ふーん、あっそ」
いとも簡単に片付けられた。
「……人が決心して言えば……それですか」
「あん?アルカディアに行きたくねえ理由ってのはそれなんだろ?何だよ、他にもあんのか?」
こうもあっさり納得されてしまうと、必死に隠し通そうとしていた事が馬鹿みたいに思えてくるではないか。
「こういう時ってさ。そうだったのか!って驚くとか、お前にも事情があるんだなって同情するだとか、幾らでも反応の仕方があると思うんだけどね!」
乱れた髪を素早く手櫛で直し、手に持っていた買い物袋をソウシに押し付けると、アキヒはぷりぷりと怒りながら大股で歩いていってしまった。
(ソウシらしいっちゃ、ソウシらしいんだけど、腹が立つ!!!)
嬉しさ半分、怒り半分といったところのようだ。
「……何で怒ってんだ、あいつ???」
理由が全く分からない。
暫しその場で黙考してみるが、特に原因が見当たらないので考えることを諦めたソウシは、「ま、いいか」と強制的に自己完結をし、両手いっぱいの荷物を抱えて、宿屋へと戻っていった。
***************
――翌日。
しっかりと休息をとったので、コガネの体調は万全だ。
「アシアはヘレネスやアルカディアに比べると歴史の浅い国なんだけど、二カ国よりも遥かに技術が進んでいる、所謂先進国なんだよ」
その証拠に二カ国にはない、町と町を繋ぐ蒸気機関車という乗り物が存在する。馬車よりも随分と早いので、移動時間の節約にもってこいの代物であるといえる。
これから多々世話になるのだから、行き先はともかく一度実物を見に行かないかとアキヒが提案をしてきたので、一行はイーリオン中央駅へと向かう。
(うわあ……)
色取り取りの煉瓦を敷き詰めた、綺麗に整備されている道を歩きながら、キョロキョロと上下左右に首を動かす。
昨日は船酔いの後遺症に苦しんでおり、イーリオンの町並みをゆっくりと眺める余裕のなかったコガネは、異国情緒を満喫していた。
――そんな時だ。
「コガネくん、その場で立ち止まってください」
「は?」
不意にハゼに呼び止められたコガネは、不審に思いつつも大人しくそれに従い、足を止める。
「ちょっと、何で人がいるのよ!?」
「へ?」
頭上から甲高い女の叫び声が降ってきた。
コガネが顔を上に向けると急に視界が真っ暗になり、次の瞬間、物凄い衝撃に襲われた。一瞬意識が飛んだ時、お花畑が見えたような気がした。
どうやら建物と建物を繋ぐ歩道橋から飛び降りた人物が、真下にいたコガネを巻き込んでしまったようだ。その御蔭か、加害者は全くの無傷で済んだ。
「いたた……。でも、思ったよりは痛くなかったわね」
「……それは俺を下敷きにしたからだよ。早くどいてくれ、重い……」
「重いですって!?失礼ね!」
質の良い布地で作られた服を身に纏った少女は、大声を出しながら素早く立ち上がる。
失礼なのはそっちだろうが。額に青筋を浮かべたコガネは、アキヒに助け起こしてもらう。
「そんなことより。ちょうど良いわ、私を助けて頂戴。追われているのよ」
「赤の他人を踏み潰しておいて、謝罪することもなく、そんなことで片付けるのはどうかと思うんだけど。しかも、助けて欲しいなんてよく言えるよね?」
アキヒが不愉快そうに苦言を呈すると、桃色の髪を二つに結い上げた碧色の目をした少女は、提げていたポシェットから札束を取り出し、彼の前に突きつけた。
「謝礼金は出すわ。私を追ってきた男に嘘を吐いてくれたら、ね」
「誰が嘘を吐くか、俺の信条にはん……」
「任せておいてよ、良い仕事するから」
「アキヒー!?」
謝礼金という魔法の言葉をしっかりと耳にしたアキヒは、掌を返したようにあからさまに態度を変えた。
そうだった、アキヒは金が絡むとそちらを優先するのだった。コガネは項垂れる。
「……頼んだわよ!」
追っ手の気配を感じ取った彼女は、後の事をアキヒに任せ、物陰に身を隠した。
数人の警備兵を従えた、四十代前半と思われる偉丈夫が駆け足で此方へとやって来た。コガネたち一行を視界に捉えると、一度足を止め、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってきた。
「失礼する。少々お尋ねしたいのだが、今しがた髪を二つに結い上げた少女が一人、飛び降りてはこなかっただろうか?」
偉丈夫の口から語られた少女の特徴は、彼女の外見と一致している。
「はい、下敷きにされました」と言いたげなコガネの口を無理矢理塞ぎ、アキヒは胡散臭いほどに爽やかな笑みを偉丈夫に向け、堂々と言い放った。
「その女の子だったら、あっちの方に走っていきましたよ?」
「そうか。情報の提供に感謝する。……行くぞ!」
よくもまあ、いけしゃあしゃあと。一同は顔には出さないが、内心ほとほと呆れる。
アキヒの嘘を信じたらしい偉丈夫は部下を引き連れ、彼が示した方向へと慌ただしく走り去っていった。
「……お金の力は恐ろしいわね」
「ああ、アキヒには絶大な効果を発揮するからな」
アキヒの金への執着心は異常だとは思うが、ここまでくるといっそ清々しいとも思える。ソウシとトキワが遠い目をする。金の亡者アキヒ、恐るべし。
「助かったわ、有難う。これはその礼よ」
物陰に隠れていた少女が姿を現し、感謝の意を示した。謝礼金を受け取ったアキヒの顔は、如何わしいほどにやついている。正直、気色悪い。
(どうしてアキヒはお金が大好きなんだ……?)
気が向いたら訊いてみようと、コガネは思ったのだった。
「ところで。貴方たちは何処かへ向かう途中だったりするの?」
「え?ああ、イーリオン中央駅に向かおうとしているところだけど……っ!?」
素直に答えたコガネの首を、彼女は突然締め上げた。
「私も連れて行きなさい」
「はあ!?」
「訳があって、家に帰りたくないの。数日家出すれば、家族も諦めるはずだわ。協力しなさい!!!」
「それが、人に物を頼む時の態度か……っ!?」
ハゼと同じ台詞を吐いた事に気が付いた時、首を絞められているので呼吸が出来ないコガネの意識が遠のき始めた。今まで過ごしてきた日々が、走馬灯のように駆け巡る。
「良いじゃねえか、一緒に連れて行ってやろうぜ。大金貰っちまったしな」
この考えなし!またしてもか!
と、アキヒが心の中で力の限り叫ぶ。
「……っ!」
コガネを開放してやろうと間に入ってきたソウシを見上げて、少女は目を大きく見開いて硬直する。そして頬を桜色に染め上げると、いきなりコガネを突き飛ばしたのだった。
「あだっ!!!」
突き飛ばされた勢いで仰向きに倒れたコガネは、後頭部を硬い地面に打ちつける。
「大丈夫、コガネくん?」
トキワが慌てて助け起こし、怪我をしていないかと確かめつつ、服についた砂埃を払い落とす。
「あ、あの、さっきは助けてくれて有難う!私、トウカって言うの。あの、貴方の御名前は……?」
先程までの尊大な態度はどこへやら。突然しおらしくなり、上目遣いで可愛らしくソウシを見つめているではないか。
その変わり身の早さに、少年組は女の怖さの一部を知った気がした。
「俺はソウシだ。宜しくな、トウカ」
ソウシがさりげなく手を差し出すと、彼女は恥ずかしそうにその手を取り、二人は握手を交わす。
「イーリオン中央駅に行くって、あの金髪のガキ……じゃない、男の子が言っていたけど、何処へ行くの?」
「とりあえず行って、蒸気機関車を見てみようかって話になってな。俺たちはヘレネスから来たんだ。アシアの事は殆ど分からねえんだよ」
「私、イーリオンにとても詳しいので、是非とも案内させてくださあい♥」
助かるよ、とソウシが微笑むと、トウカはより一層顔を赤くして、軟体動物のように身体をくねらせた。
「……助けたのは僕なのに、何でソウシになってんの?それに納得がいかない、何故にあの子を連れて行くのさ!?ていうか、ソウシ、一目惚れされてるっぽいんだけど」
半眼になったアキヒがぼやく。
「そうみたいですね。しかし、彼女に案内をして頂けると多少は楽が出来ると思いますよ。良かったですね」
「いや、女の子に一目惚れされてるってのが問題なんだってば」
外見では判別し辛いが、ソウシは生物学上立派な女性なのだ。このままでは恐ろしい事に発展してしまうのではないかと、アキヒは心配しているのだ。
「あちらが勝手に誤解して燃え上がっているのです、至って問題はありませんよ」
どのようにしたら、ここまで淡白になれるのだろうか。呆れ果てたアキヒは、顔を引き攣らせる。
「……ほんっとにイイ性格してるよ、あんた」
「お褒めに預かり光栄です」
――誉めていない。
アキヒ少年なりの嫌味は通じなかった。
「中央駅はこっちよ。行きましょ、ソウシ様♥」
ソウシの手を引いて、トウカが歩き出す。
相棒であるソウシが一目惚れをされてしまった事が相当気に入らないのか、はたまたソウシをトウカに取られてしまったと感じているのか。眉間に皺を寄せて、肩をいからせたアキヒがその後に続く。
さらに続こうとしたコガネだが、思い出したように足を止めて、後ろを振り返った。
「なあ、ハゼ」
「はい、何でしょう?」
「俺にその場に立ち止まれって言ったのは、上から人が落ちてくるのを知ってたからか?」
そうでなければ、都合よくトウカが落ちてくるはずがない。
「ええ。偶々、彼女が歩道橋に足を掛けているのが見えましてね。そのまま飛び降りると骨折は免れないだろうと思いまして、丁度良い所にいた君に立ち止まって頂きました。良かったですねえ、人命救助が出来て」
滅多にお目に掛かることが出来ない光景を拝むことが出来たと、ハゼはしれっとした表情で言い切った。
――ぶっちん。
コガネの堪忍袋の緒が切れた。
「何が人命救助だ!俺だって下手したら骨折とか内臓破裂とかあの世行きだったかもしれないんだぞ!?踏み潰されるわ、首を絞められるわ、突き飛ばされるわ、散々な目に遭わされて!……お前なんか大っ嫌いだ、この前髪オバケ!!!」
最後の方は、涙目で叫んでいた。
コガネは身体の向きを変えると、脱兎の如く走っていってしまった。
「……前髪オバケというのは、俺のことですかねえ?」
「そうでしょうね、そんな前髪ですもの。さ、置いていかれてしまうわ、急ぎましょう?」
冷眼でハゼを一瞥してから、トキワは足早に歩き出す。彼女のその態度に、ハゼは大袈裟に肩を竦めた。
(やれやれ、保護者に怒られてしまいましたね)
とは思っても、反省する様子は見られない。
「お~い、早く来いよ~!」
遠くから、此方に向かって叫んでいるソウシの声が聞こえてきた。大層つまらなそうに、彼は渋々歩き始めた。