僕はにこちゃんが大好きです

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 にこは高校二年生だが家庭教師をしている。教え子は彼女の対面で宿題に打ち込んでいる、中学二年生の男の子だ。ひょんなことで知り合い、ひょんなことで幼馴染という関係になった少年との付き合いは長い。家庭教師をすることになった切欠もひょんなことだったと、にこはぼんやりと思い返す。
 和室の中央に置かれた高級な雰囲気を漂わせる机に向かって少年は宿題を進めている――筈なのだが、様子がおかしい。そわそわとして落ち着きが無く、勉強に集中出来ていないようだ。彼の手が止まってしまっているので、彼を見守っていたにこは口を開くことにした。

えにす。どこの問題が分からないの?」

出来るだけ優しく尋ねてみると、女の子のような小奇麗な顔をした少年――槐ははっとして面を上げ、長い睫毛に縁取られた目をきょろきょろと動かして視線を彷徨わせた。宿題に集中出来ていないことを、にこに叱られると思っているのだろうか。

「えっと、ごめん、にこちゃん。問題が分からないんじゃなくて、その……」

 何か気になることでもあるのかとにこが尋ねると、槐はこくりと頷いた。何やら槐の顔が赤くなっているような気がする。熱でもあるのだろうかと、にこは心配になる。

「にこちゃんはバレンタインに誰かにチョコをあげたり……する?」
「え?」

 気になることとはそんなことだったのか。まさかの槐の回答ににこは拍子抜けする。そして、彼のその言葉でもう直ぐそんなイベントがやって来るのだということに気が付いた。年に一度、日本中の女子が狂喜乱舞するチョコレート祭りの存在をすっかり忘れていたのだった。

「槐にあげるよ。毎年誕生日プレゼント貰ってるからね、その御礼も兼ねて。ああ、でも、槐の彼女に悪いかな。今年から止め……」
「いるっ!にこちゃんのチョコ、いるよっ!それと、僕……彼女なんて、いないよ……っ」
「え?そうなの?それは悪いことを言っちゃったね……。あー、うん、じゃあ、いつも通り槐にあげるよ」
「……うん、有難う」

 うっすらと頬を桜色に染めて、伏目がちに槐は微笑む槐が可愛らしく見えたので、にこは思わず目を擦って二度見をした。やはり、そこらの女の子よりも数倍可愛く見える。これでも男の子なんだよなあ、と、にこはぼんやりと考えながら槐を眺める。

(槐は女の子みたいに綺麗な顔してるし、大人しくて優しいから同い年の女の子に好かれそうなのにね?)

 にこが高校のクラスメイトの女子の井戸端会議で仕入れた情報によれば、世間では小学生のうちから彼氏・彼女の関係を築いているというので、にこはてっきり中学二年生の槐には”彼女”なる存在がいるのだとばかり思っていた。
 然し本人はそれを否定したので、にこにはそれが意外だったのだ。

「そ、その、他にもチョコをあげる人は、いるの?」
「他に?そんな人はいないよ……というか、人様に気軽にチョコを配り歩けるような財力は私にはないし、我が家にもないし」

 にこの家は母子家庭で、母親は小さなスナックの従業員をしている。金銭感覚がバブルの頃のままでいる母親に変わってにこがあれこれとやりくりをして、何とか日々を暮らしていけているようなにこの家は当然裕福とは言えない。社長令息である槐とは違って。

「にこちゃんは、こ、恋人っていないの?」
「へ?」

 そんなことを訊かれるとは思っていなかったので、にこはまたしても拍子抜けする。槐はというと、不安気な表情を浮かべて、じいっとにこを見つめてくる。
 何だか妙な雰囲気になっているなあとどこか他人事のように思いつつもにこが「いないよ、恋人なんて。余裕無いから」と答えると、槐はあからさまにほっとした様子を見せた。

「良かった……」

 槐くん。何が良いのか、にこさんには全く分からないのですが。
 槐は喜びを噛み締めているようだが、その理由が全く分からないにこは小首を傾げるばかりだ。槐は徐に立ち上がると、机の対面に座っているにこの傍にやってきて、正座をした。

「僕はにこちゃんが大好きです。僕のこ、こい、恋人、に、なってくださいっ」

 槐は顔を茹蛸のように真っ赤にして告白をし、とても美しい最敬礼をした。流石は茶道を習っているだけはあるとにこは素直に感心する――が、疑問が浮かんできたので呆気にとられつつも、それを口にしてみた。

「どうして急に告白をしてきたの?というか……する気になったの?」

 これまでの付き合いの中で、槐が自分に恋心を抱いているような素振りを見たことがないと、にこは記憶している。槐はすっと姿勢を正すと、真摯な目をしてこう答えた。

「大好きなにこちゃんを他の人にとられたくないから、です」
「……マジですか?」
「……マジです」

 槐はにこに対して嘘をつくのが上手ではない。それを知っているので、彼は嘘を吐いているのではないとにこは悟る。だからこそ、困った。にこは腕組みをして暫く考え込むと、小さく息を吐いた。

「幾つか質問しても良い?」
「うん」
「槐はさ、私のどこが好きなの?」
「にこちゃんの全部が大好きだよ」

 質問に対する答えは随分と大まかなものだった。期待していた訳ではないが――いや、心のどこかで少しは期待していたのかもしれない――にこの顔が可愛いからとか、性格が良いからとかいった答えではなかったことに、にこの肩の力はかっくりと抜けた。
 どうせ私は市松人形にそっくりですよ、と、心の中で槐に八つ当たりをする。

「私を他の人にとられたくないから、っていうのはどういうことなのかな?」
「にこちゃんが男の同級生と歩いているのを見て……嫌だなって思ったんだ。にこちゃんをとられちゃいそうだって……物凄く不安になった」
「それ、いつの話?」
「えっと……ついこの間」

 にこは昨日から一週間前くらいまでの記憶を手繰り寄せる。すると、それに該当するような出来事があったことを思い出した。数日前に、登下校に使うバス停の近くで偶然に高校の同級生と鉢合わせをし、他愛の無い話をしながら途中まで一緒に歩いていったことがある。槐はそれを目撃していたのかもしれない。

「じゃあ、最後に一つ。私と恋人になって、どうするの?」
「え、えっと、その……っ。にこちゃんとデート、したいっ。それから、き、キ、キスっ、キスもしたいっ」
「そ、そう……」

 耳まで真っ赤にして、涙目になりながらも質問に答える槐を見ていると、何だか意地悪をしているように思えてくる。正座をしている膝の上に置いている拳が微かに震えていて、彼が必死なのが伝わってくるのだが――それが可愛らしく見えてくるものだから、にこは困ってしまう。槐を苛めて喜ぶ趣味は無かったはずだと。

「……にこちゃんは、僕のこと、好きじゃ……ない?」

 俯いて、上目遣いで尋ねてくる槐はあざとい。この目でお願いされたら、大抵の人間はノックアウトされてお願いを聞いてしまうのではないかと、にこは毎回思う。

「あのね。槐のことが嫌いだったら、何年も家庭教師なんてしてないよ。ただ、急に告白されたから驚いてるだけ」
「え、そ、そうなの?あんまり驚いてるようには見えないけど……?」
「そう?結構驚いてるよ、これでもね」

 おどけたように肩を竦めてから、にこは再び腕を組んでじっくりと考え込む。槐はそれを不安な様子で見守っている。

「……じゃあ、まずはお試しで一ヶ月ね。それで良いと思ったら、正式にお付き合いを始めましょうか」
「ほ、ほんと、にこちゃん!?」

 本当だよ、と、にこが答えるのを遮って、槐はにこに抱きついてきた。ぎゅうぎゅうと締めつけてくる腕の力の強さは、ちゃんと男の子のものだと、にこは思い知る。

「僕、頑張る、頑張るよ……っ!」

 女の子のような顔をしている槐だが、その体はやっぱり男の子の体だった。少しばかり筋肉質で、ちっとも女の子の体のように柔らかくない。けれどにこは、槐の腕の中は何となく心地が良いような気がした。

「にこちゃん、キス、しても良い?」

 暫くして体を離した槐は、熱っぽい目をしてにこにおねだりをしてきた――が、にこはにっこりと笑って「まずはおためしって言わなかったっけ?」と言うと、槐はあからさまにしょんぼりとした。槐はにこの反応次第で、忙しく一喜一憂する。
 強気に出てみたものの、にこは男女のお付き合いというものをしたことがないので、実はキスの仕方をよく知らない。クラスメイトの女子の会話に出てくるキスの仕方についてはよく耳にしているが、実践したことはない。だが、その事実は槐には言わないでおく。年上であるにこのちんけな見栄の為に、だ。

(……でも、まあ、一回くらいはしてみようかなあ?これも経験だよね。これから誰かとするっていう保証もないし)

 初めてのキスは槐にあげよう。抱きしめられていても、ちっとも不愉快ではないし。単純に自分を好いてくれているということが嬉しいということもあるので。

「一回だけね。まだお試し期間中だし」
「……うん。有難う、にこちゃん。……大好きだよ」

 にこの了承を得た槐は目を閉じ、首を傾けながら唇を寄せてくる。

(小奇麗な顔をした子は得だねー。何をしても様になって)

 そんなことを考えているにこも、ゆっくりと目を閉じる。熱を持った唇が近づいてくる気配がした途端――がつっと両者の前歯がかち合わせした。二人とも不慣れなので加減が分からず、失敗してしまったようだ。

「いたー……」
「ご、ごめん、にこちゃんっ。痛かった!?」

 歯をぶつけた拍子に、にこは唇を少し切ってしまったらしい。槐は前歯を一瞬押さえたが、にこが痛そうにしているのを見ると、自分はそっちのけで彼女の心配をし始めた。
 ファーストキスはレモンの味というのは俗信で、実際はほんのり鉄の味、というのが正解なのではないかと、にこはその時思ったのだった。

***************

 お付き合いのお試し期間が始まって直ぐに、一大イベントとも言えるバレンタインデーがやってきた。
 にこが約束どおりにチョコレートを槐に渡すと、槐は高級チョコレートをにこに寄越してきたので、にこは唖然とした。

「有難う、にこちゃん。僕、物凄く嬉しいっ」
「あー、うん、どういたしまして。槐もチョコをくれて有難う……」

 毎年そうなのだが、コンビニで買った安いチョコレートでこんなにも喜ばれると、にこは複雑な気持ちになる。然も今年は、何故だか高級チョコレートがついてきた。ホワイトデーには三倍のお返しをしなければならないのだろうかと、にこは考え、意識が遠のきそうになった。
 にこには全く手が出せない高級チョコレートをいとも簡単に差し出せる槐とはやはり住む世界が違うのだなと思い知らされたが、安物のチョコレートでも槐が喜んでくれているので、にこは「ま、いいか」と思うことにした。
 槐がくれたチョコレートはお高いだけあって、濃厚なカカオの風味と上品な甘さがしてとても美味しい。

「あらー、にこちゃんったら美味しそうなもの食べてるわねえ。お母さんにも頂戴?」
「駄目です、これはにこさんのものです。食べたかったら、もう少し節約に協力してください。そうしたら年に一度の贅沢が出来ます」
「は、はい、すみません……」

 ひょっこり帰ってきた母親にとられそうになったので、にこはこそこそと隠しながらチョコレートを食べたのだった。

 その後も槐は映画――にこがそれほど興味の無い恋愛もの――や、遊園地に連れて行ってくれたりした。遊園地では、にこを怖がらせる予定で入ったお化け屋敷で槐の方が怖がってしまい、にこにへばりついてきたのが面白かったので、にこはつい笑ってしまった。機嫌を損ねた槐の相手をするのは、正直に言って面倒だったと、にこは振り返る。
 それから、家庭教師の日には美味しそうなケーキを必ず用意してくれてもいた。
 槐はにこに好かれようと健気に頑張っているのだが――にこの気持ちにはそれほどの変化が無く、にこは「どうしよう、槐に申し訳ない」と頭を悩ませていた。
 一所懸命な槐が可愛くて仕方がないとにこは思うのだが、”恋愛の好き”とは違うような気がしてならない。

(でもなー、槐と一緒にいるのは好きなんだよね。美味しいものが食べられるっていうのもあるけど、あの子の傍は居心地が良いというか……)

 にこが普段通りにしていても、槐は嬉しそうに笑っている。にこが特別なことをしなくても文句を言ってきたりしない上に、あれをしろ、これをしろとも要求もしてこない。
 男女のお付き合いというものは気合を入れてしなくていけないのではと、にこは心配していたがそうでもないのかもしれない。そう結論付けたにこは、一月もの間入り続けていた肩の力が抜けた気がした。

「今日でお試し期間も終わるね」
「……うん」

 家庭教師の授業が終わった後、にこはぽつりと呟いた。隣に座っている槐は綺麗に整った眉を八の字にして、不安を露にしてにこを見つめてくる。

「私、大したこと出来ないよ。でも、このままでも良いなら正式にお付き合いしようか、槐」
「……うんっ」

 槐はにこを抱きしめるが、勢い余って押し倒してしまう。その際ににこは後頭部を畳に打ちつけ、一瞬くらっとして世界がぐるりと回ったような気がした。
 男子中学生は元気だ――と、にこはしみじみと考えてしまった。

「……にこちゃん、大好きだよ」
「……うん、有難う、槐」

 槐は身を起こすと、にこに覆い被さり、唇を落としてきた。一月前、初めてのキスでは歯をぶつけてしまったが、二度目のキスはそんな失敗は無く、唇はふんわりと重ねられた。

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