さようなら、フンダリー・ケッタリー

ハイパー綺麗事ドリーマー(弐)

 庶民には手の出し辛い価格設定がされている良質の食材も、決して料理が得意とは言い難い庶民の手にかかれば、あっという間に高級感を失い、平凡な朝食へと姿を変えられてしまうのだ。
 フライパンから皿へと移す際に黄身が潰れてしまった目玉焼きにたっぷりと醤油をかけ、塩と胡椒で味つけをして炒めただけの硬さが残るブロッコリーを口の中に放り込んで咀嚼をすること数秒。にこは意を決し、対面で静かに食事をしている槐に言葉を投げかける――相談したいことができたので、時間を作ってはもらえないか、と。
 どうせ断られるに決まっている、と囁きかけてくる猜疑心に意識を持っていかれないようにしている為か、にこは槐を睨んでいるかのように見つめる。彼女のじっとりとした視線を物ともしない槐は俄かに黙考してから、「アルバイトが終わってからなら、時間が作れるよ。それでも良いのなら、今夜にでも」と穏やかな声音で答えてくれた。

「分かった。それじゃあ、仕事が終わったら、また此処に来るよ……有難う、槐」

 にこに御礼の言葉を言われるとは想像だにしていなかったのだろう。手にしていた箸を床の上に落とし、呆然とした様子で瞠目している槐に少しばかり腹が立ったが、にこがこれまでに彼に対して行ってきたことを思い返せば、その反応も致し方ないとも思う。未だに槐に見限られていなかったのだ、と、安堵した気持ちもあるので、その件については不問とすることにする。
 簡単な朝食を済ませると後片付けを槐に任せて、にこは自宅には戻らず、そのまま槐宅から出勤していった。

***************

 職場に到着したにこは自分の席に座り、パソコンの電源を入れる。そして今日の分のデータ入力をやり始めたのだが――

(そういえば、このパソコン、インターネットに繋がってるけど……私用で会社のパソコンを使うのはどうにも気が引ける……。今日の勤務が終わってから、ネットカフェに寄って、実の親の上手な捨て方でも検索してみるか……。待てよ、検索してみたところであるのか、そんな情報……?)

 にこが器用な人間であればまだ良いのかもしれないが、残念ながら彼女はそれほど器用な人間ではない。考え事をしながらキーボードを打っているので、時折指先の位置がずれて、文字の打ち間違いが発生している。幸いなことにお局様の朝比奈女史に咎められる前に自分で間違いに気がついて、修正出来ているので、まだマシな方かもしれない。だが、それで油断して同じことを繰り返してもいけないので、皴の寄りがちな眉間を指でぐりぐりと解して、頬をぺちぺちと軽く叩いて、意識を仕事へを向けさせる。

 昨夜の大騒ぎで槐に自分の気持ちを吐露したことで心境に変化があったのか、無くしていたと思われた余裕が僅かに戻ってきたようだ。予定していた分よりも多くのデータ入力を午前中に片付けることが出来て、にこはほっと息を吐く。

「あ、媚山さん」

 仕事机の上をさっと片付けて昼休憩に入ろうと席を立ったところで声をかけられたにこは、其方へと体を向ける。彼女に声をかけてきたのは、魚類を思わせる顔をした糸魚川社長だった。

「何かありましたか、社長?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど……良いかな?お昼御飯食べながらで構わないから」
「はい、分かりました。あの、お昼御飯をとってきます」
「それじゃあ、私はこの部屋の外で待っているね。ごめんね、急で」
「いえいえ……」

 社長自ら話したいことがあるというのはつまり――。話の内容はきっと良いものではないのだろうと決めつけてしまったにこは重たく感じられる足を動かして、その場を一度離れた。

 可愛らしい魚柄の袋に包まれた愛妻弁当を手にした社長に連れられてやって来たのは、社屋の屋上だ。雲はあるものの、秋の空は晴れており、気温も高くはないが風が殆どないので寒さに震えることはなさそうだ。
 一基だけ設置されているベンチに座るように促され、にこは恐る恐る腰を下ろす。社長は彼女の隣に、一人分くらいの間をとって座った。
 出社する前に立ち寄ったコンビニで購入したおにぎりや飲み物が入っているレジ袋を膝の上に置いたところで、社長がにっこりと笑って「はい、どうぞ」と緑茶の缶を手渡してくれた。それは温かくて、にこの掌に熱を与えてくれる。

(社長は顔に似合わず、いや、見かけによらず?どっちも失礼だわ。うん、紳士だ。それも自然にやってるから、いやらしさがない……それにしても、何で指名されたんだ、私……?)

 道中に想像していたのは、最悪のシナリオばかり。幾つかの選択肢のどれに該当するのだろうと顔色を悪くしているにことは対照的に、どこかのほほんとしている社長は彼女に渡したものと同じ缶の緑茶を一口飲んで、空を仰いだ。

「ねえ、媚山さん。何か悩み事とか……困っていることとか、あるのかな?」

「へ……っ?」

 後ろ向きな思考に支配されていたにこは、急に意識の向く先を変えられたことに驚いて、素っ頓狂な声を出す。間抜けなことをしてしまった、と彼女は顔を青くするが、社長は大して気にもしていないようで、もう一口、緑茶を飲んで言葉を続ける。

「いやあね、朝比奈さんがね、貴女のことを気にかけているんだよ。漸く仕事に慣れてきたと思っていたのに、突然些細なミスが増えてきて手際が悪くなってしまったって。若しかしたら、プライベートで何か問題でも起こっているんじゃないかって、私に言ってきてくれたんだ」
「……朝比奈さん、が……」

 口を開けば嫌味か自慢話ばかりの彼女が、にこのことを気にかけてくれていた――というのは冗談ではないか、とにこは疑う。仕事の覚えが悪いにこが目障りで退職させた方が会社の為だと社長に進言したに違いないと。
 露骨に疑念を表情に出しているにこを目にした社長は、苦笑するばかりだ。

「朝比奈さんはね、ちょっと、何て言うのかな?とっつきにくい所があるけれどね、優しい所もあるんだよ。新人さんの教育係としての自負があって、面倒を見ている人のことをちゃんと見てくれているしね。まあ、私の見解だから間違っているかもしれないけれど、多分、朝比奈さんは貴女のことを気に入っているのかもしれないよ」
「……いやあ、それは……ないんじゃないかと……思うんですが……」

 いち社会人として、ここは気を遣って「そうなのだとしたら、嬉しいです」と言っておいた方が良いのではないかと理性が推奨してきたが、脳内の検閲をすり抜けてしまった本音が出てしまっていた。取り繕うにも、もう遅い。社長の耳にも確りと届いてしまっている。――これは非常に拙い、と気が付いたにこは顔色を悪くすることしかできないでいた。その正直過ぎる反応が殊の外面白かったのだろう社長は顔を背けて、ぷるぷると震えながら笑いそうになるのを堪えている。

(え、ちょっと社長、笑い過ぎじゃねーの!?)

 社長の反応を眺めているうちに、少しずつ冷静になってきたにこが、心の中で突っ込みを入れる。本人に向けて突っ込みを入れる勇気はなかったので。

(……ほんの少し前の私だったら、社長の気遣いを有難迷惑としか受け取ることが出来なかっただろうな……)

 少しでも変わっていこうと決めた今のにこでも、そうと受け取ってしまいそうにはなるけれど。駄目で元々、と社長に相談を持ち掛けてみようかと考えることは出来るようになってきた。
 ――一人の力ではどうにもならないことは、どうしてもあるよ。と、槐は言っていた。誰かの力を借りなければ解決できない問題はどうしたって存在するのだと、彼女は自分に言い聞かせる。
 吉と出るか凶と出るかは、やってみるまでは分からない。だから、怖い。誰かに頼ることが苦手なにこにとって、「助けて」と手を伸ばすことは、何の装備も無しに清水の舞台から飛び降りるのと同等の勇気が必要で、とてつもない不安ばかりが胸を襲ってくるけれど。
 大きく息を吸って、ゆっくりと履いて。それを三度ほど繰り返して、彼女は社長に打ち明けた。実の母親が原因で困った状況にあること。その母親とはどういう関係にあるのか、自分の生い立ちを簡潔に、感情的にならないように細心の注意を払って、淡々と説明していく。社長は真面目な面持ちで、下手に口を挟んだりはせずに、うんうんと適度な相槌を打ちながら、最後まで彼女の話を聞いてくれていた。

(こんな面倒な奴の事情に巻き込まれるのは困るから、どうやってクビにしようか考えてんのかな、社長……)

 すっかり冷えてしまった緑茶の缶を握りしめて、悲観的になっているにこが視線を足元のコンクリートに落として黙りこくっていると、社長は漸く口を開いた。

「……大変だったね。頑張ったね、媚山さん。頑張ってきたんだね、沢山、たくさん……」

 社長の声音には、同情や侮蔑の色が含まれていないようににこには感じられた。それが不思議で、落としていた視線を上げて、隣に座っている社長を見た。社長はただ、遠くを見つめている。表情は、分からない。何故ならば、にこの視界が歪んでしまっているから。

「こんなにも頑張っているのに、これ以上頑張るのは辛いね。疲れちゃうよね……」

 にこに向けて喋っているような、独り言のようにも聞こえるような言葉だ。それでも彼女は、要領の悪い自分がもがきながらも必死になって生きてきたことを認めて貰えたような錯覚に陥った。異様な熱さだけを感じる目から、様々な感情の雫が雨霰の如く落ちていき、手や足を濡らしていく。

(ああ、そうか。私は誰かに、私の話を聞いてもらいたかったんだ。誰かを通した私の話ではなくて、私の口から出る言葉を聞いてもらいたかったんだ。それから、問題の解決策を見つけるよりも先ず、私の気持ちに寄り添ってもらいたかったんだ……っ)

 槐とは少し違う方法で向き合ってくれた社長に、掴めそうで掴めなかったもやもやの正体を教えてもらったような気がして、それからは感情が爆発してしまって、にこは嗚咽を堪えきれなくなり、声を出して泣いた。昨日も泣いて、今日も泣いたので、涙腺を酷使した目がとんでもなく腫れてしまうだろうなと、頭の片隅で想像もして。そんな彼女を見た社長は手にしている缶を持ち替えて、彼女の肩を優しく叩き、背中を摩る。こんな風に”大人”に慰められたことが殆どなかったにこが驚いて顔を向けると、社長はハッとして、慌てて手を引っ込めて、降参のポーズをとった。

「御免ね、気安く触っちゃって!今のってセクハラになる!?ああ~やっちゃったよ……昨今セクハラの基準が厳しくなってるから軽率に女性の体に触っちゃ駄目よって妻と娘に注意されてるのに……っ!貴方はスケベ親父面してるんだから特に気をつけなさいって言われてるのに……っ!」
「い、いえ、問題ない、です。今のは、こんな風に接してもらったことがあんまりなくて、吃驚してしまって……。此方こそ申し訳ないです、悪意があった訳じゃないのに……。セクハラだって訴えることはないので、安心してください……?」
「そ、そう?有難うね、媚山さん。……昔ね、セクハラだって訴えられかけたことがあってね、それから気を付けていたんだけど……媚山さん、うちの一番上の子供くらいの年齢だから、つい親みたいな気持ちになっちゃって……。あ、ああ、それでね、貴女の問題の解決に繋がるかは分からないんだけど……」

 どんな親であれ、育ててもらった恩を忘れて縁を切ろうとするなど言語道断である。と切り捨て、親子の絆とは斯くも美しいものであると力説するのかと思いきや、社長は穏やかな声音で実の親との縁の切り方などについて、自分が知っている範囲のことを教えてくれた。予想外の出来事ににこは呆気にとられたが直ぐに我に返り、ポケットから携帯電話を取り出すと、メモ帳機能を使って、社長が紡ぐ大事な言葉を記録していく。

「あの……どうしてそんなに詳しいんですか?」
「う~ん、まあ、ね。うちの会社で働いてくれている人たちの中にも、貴女と同じような事情を抱えている人がいたりしてね。時々ではあるけれど、私に出来る範囲のことでしかないけれど、相談に乗るんだ。私の妻も協力してくれるしね。それで色々なことに詳しくなって、また誰かの相談に乗って、また違うことに詳しくなって……そんなことの繰り返しだね。相談に乗る度に、色々なことを知る度に、この世の中は綺麗事だけじゃやっていけないなって……つくづく思うよ、本当に」

 私の妻もね――とまで言いかけて、僅かに沈黙して、社長は「何でもない。さ、そろそろ御飯を食べようか。お腹空いちゃった」と言って、笑って誤魔化した。
 妻の話題になると幸せそうに顔を綻ばせる糸魚川社長にも、他人に気安く話すことが出来ない事情があるのかもしれない、と、にこは直感する。だが、彼女は追究しない。自分のことを棚に上げて、他人にああだこうだと口を出すのは、にこの心を苛む母親、博子が好んでやる行動だ。あれとは違う人間になりたい、なっていくのだと決めたのだから、彼女は出来ることから始めていくのだ。だから今は腹が空いているので、腹ごしらえから。にこは大きく口を開けて、コンビニの梅おにぎりにかぶりつく。

「ねえ、媚山さん。おにぎりだけでお腹いっぱいになる?そうだ、良かったら、おかずを一つどうぞ。あ、まだどれにも口をつけていないから大丈夫だよ!」
「それじゃあ……遠慮なく一つ頂きます。おススメはありますか?」
「私のおススメはね、卵焼き。どうぞ、食べてみて!」

 社長は箸をひっくり返して、持ち代の方で卵焼きを一つ取り、弁当箱の蓋にのせて、にこに寄越してくれた。彼女は箸を持っていないので手で取って、卵焼きを一口で頂く。少し茶色がかっている卵焼きは醤油と砂糖が入っているのか、甘じょっぱい味になっている。コンビニ弁当に入っているものよりも水分が少なくて、やや硬めの食感だったが、美味しい。

(これが家庭の味ってやつなんだろうな……)

 それは、家族の手料理というものを碌に味わったことのないにこには想像することしか出来ないもの。素朴な味わいに感動しながら長く咀嚼する。「美味しいです」と、にこが短い感想を述べると、社長は笑顔の花を咲かせた。自分が褒められるより、愛妻が褒められる方が嬉しいのかもしれない。
 それから社長との他愛のない話を楽しんでいると、社長が何かを思い出したように腕時計を見て――青ざめた。

「休憩時間過ぎてる!!!社員とパートさんたちに顔向けできない!御免ね、媚山さん、長々と付き合わせちゃって……!」
「いえ、相談に乗ってもらえて、嬉しかったです。有難う御座いました」

 頼りなさそうな社長だけど、大丈夫か?なんて思ったことがあって御免なさい。と、心の内でだけ呟いて、慌てて片づけをしている社長を手伝い、二人は小走りで屋上から屋内の仕事場へと向かっていく。

 息を切らせて戻ってきたにこと社長を出迎えてくれたのは、仁王立ちをしている朝比奈女史である。

「社長に媚山さん?昼休憩の時間はとっくに過ぎていますよ?」
「いや~御免ね~、ついつい妻の自慢話が長引いちゃって。媚山さんが我慢強く聞いてくれるものだから余計に調子に乗っちゃってねえ。だから媚山さんのことは叱らないであげてね~」

 天辺が薄くなっている頭を掻きながら自分の席へと向かっていく社長を、幾人かの社員が「また奥さんの自慢してるんですか?飽きないですね」「いつまでも新婚気分で羨ましいです」と冷やかす。恥ずかしそうに背中を丸めている社長を眺めていると、朝比奈女史が咳払いをしたので、にこは身を強張らせると、彼女は「貴女、目が腫れてるわよ。先ずは目を冷やしてきてから、仕事に戻りなさい」と言って、背を向けた。

「あの、朝比奈さん。有難う御座います、私が何か困っているんじゃないかって、社長に言ってくださったみたいで……」
「あら、何のことかしら?私、貴女のことで社長に何か話したりなんてしていないわよ?」

 私の御蔭に決まっているじゃないの、と恩着せがましく物を言ってくるのかと身構えたが、その通りにならなかったのでにこが拍子抜けをする。

(……あれで良い女ぶってるつもりなんだろうか。分かんねーわ、お局様は……)

 ハイヒールが床を踏みつける勇ましい音を御供に去っていく彼女の背に一先ずお辞儀をして、にこは顔を洗いにお手洗いへと急いで向かっていく。

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