さようなら、フンダリー・ケッタリー

忘れた頃に向こうからやって来るものですが、
呼んでないんで、災いは(弐)

 もう一度会いたいなどと、思ったことがない。出来ればこのまま会わずにいて、何れは縁が切れてくれたならと願ったことばかりだ。そんなことを思われているなどと微塵も想像したことがないのだろうか、該当者は能天気にへらへらと笑い、手を振ってくる始末で、にこの心に忘れかけていた負の感情が沸々と湧き出してくる。

「久し振りだね~、にこ!良かったわ~、未だこのボロアパートに住んでてくれて!あんたってケチだから、そう簡単には引越しなんてしないだろうと思ってたんだ!あ、ちょっと、何、にこ、そのヘアースタイル!あんたってショートボブにするとこけしみたいになるんだ、やだあ、だ~さ~い~っ!」

 てめえのことは歓迎していない、と、にこが露骨に表情に出しても、彼女の実母である博子は意に介さないらしい。気安く話しかけ、肩も叩こうとしてきたので、にこは大きく後退し、博子と距離をとる。

(ババアの相手なんてしてたまるか!!)

 一言でも口を利いてしまえば、博子はにことの間には親子の情がまだあるものだと都合良く考えて調子に乗り、碌でもないことをしてくるに違いない。そんなことは御免なので、にこは博子の存在を無視し、彼女の横をすり抜けて自宅に逃げ込もうとしたのだが――腕を掴まれてしまい、失敗に終わる。強引に振り向かされたにこは、意地でも博子の顔を視界に入れようとせず、只管に斜め下の地面を睨んだ。

「ちょっとぉ、久し振りにママに会ったっていうのに挨拶もなし?然も無視するって酷くない?離婚してから女手一つであんたをここまで大きくしてやったのに、あんたって本当に恩知らずの親不孝者なんだから!」

 両親が離婚し、その後は母親である博子に引き取られ、その許で生活していたことは認めるが”育ててもらった”という実感は希薄だ。にこの中では、”放っておかれたので自分で育った”という感覚の方が大きい。
 にこが小学生の時分に体調不良を訴えたことがあった。すると博子は「病気が私に移るから」と言って、無理矢理に学校に行かせたのだ。するとにこは症状を悪化させてしまい、高熱を出してしまう。そうして、にこを迎えに来て欲しいと学校に呼び出された博子は、当時のクラスの担任だった男性教師に色目を使い、こう宣った。

『病気なんだから休みなさい。このまま学校に行ったら、クラスのお友達に移しちゃうでしょ?って言ったんですけど、娘がどうしても学校に行くって言い張って、私、どうしても止められなかったんです』

 そんな大嘘を笑顔で易々と言えてしまう人間を、血を分けた母親であるなどとにこが思いたくないのだと露骨に主張しても、にこに博子への思慕が備わっていなかったとしても、それはおかしいことではない。

(くそっ、家の中に入りたいけど、こいつのことだから勝手に割って入って上がりこんでくるに違いない。適当な所に避難して時間を潰すか……)

 忽然と姿を現した博子の目的を、にこは何となく察している。兎にも角にもこの母親に関わりたくないという気持ちに支配されたにこは素早く踵を返し、博子の横をすり抜けて歩き出す。

 存在を無視して歩いているうちに博子が何処かへと消え去っていってくれるかとにこは期待したのだが、それは無駄なことだったのだと悟るにはそれほど時間はかからなかった。

「そうそう!此処に来る前にさ、前にやってたスナックに行って来たんだ。そしたらさあ、もう売り物件になってたの!大家って非情だよね、滞納した家賃の支払いはちっとも待ってくれないし、金が取れないと分かると追い出しにかかるし!然もさあ、私のスナックを勝手に売り物件にしてるし!」

 博子はにこの隣を歩き、勝手にべらべらと話している。にこが無視を決め込んでいても、まるで気にした様子も見せない。
 にこは博子を視界に入れないようにと顔の向きを前方に固定し、目だけを動かして周囲の様子を窺い、隣から聞こえてくる雑音を耳に入れないようにしながら、外灯に照らされた夜道を当ても無く彷徨う。

「それから偶然なんだけどさ、近所のスナックのママに会ってさ、教えて貰ったよ。あんたが私の借金の肩代わりしたんだってね?若くして子供産んで、旦那の浮気で離婚して、女手一つで苦労して育てた甲斐があったわ~。私が頑張ってるのを神様が何処かで見ていて、私にご褒美をくれたんだよね~!」

 決して、親子の情に流されたのではないことをにこは主張したい。結婚を考えていた男に二股をかけられていた挙句に捨てられ、勢いで会社を辞めて自棄になっていたところに泣きっ面に蜂とばかりに疎遠になっている母親の借金取りがにこの元に借金の取立てにやって来たものだから、自棄糞ついでに肩代わりしてしまっただけだ。
 そんな事情を知らない、知ろうともしない博子は自分が招いた事態の大きさを理解せず、また反省しようともしていない。博子のその歪な前向き思考に、にこは悪寒を感じざるを得ない。

「ねえ、あんたが帰ってくるのを待ってたらお腹が空いちゃった!何か食べに行こうよ、あんたにしたい大事な話もあるし!そうだな~、フレンチかイタリアン、中華でも良いよ!」

 嗚呼、今頃は普段買うものよりも値段の高いコンビニ弁当を食べて、おつまみを片手に景気づけの一杯をしているはずだったのに、どうして夜道を歩きながら、若作りが痛々しい中年女の戯言を聞き流さなければならないのか。悲嘆に暮れたくなってきたにこの腹が本格的に空腹を訴えてきたところで、いつの間にか隣町に位置している公園の近くへとやって来ていたことに気がつく。

(仕方がない、此処で飯を食おう。そろそろ私の充電が切れる……)

 これ幸いと、にこはその中に入っていく。夜の公園には外灯はあるが人影はなく、また、東屋も無い。昼間に子供たちが使っているだろう遊具の側にベンチがあるのを見つけると、にこはどっかりと腰を下ろすついでに手荷物をベンチの上に置いた。隣に博子が座れないようにと、故意とやったのだ。未だにこについてきていた博子が唖然としているのを放置して弁当を食べ始めると、何を思ったのか、博子がベンチの上の荷物をどかして隣に座ってきたばかりか、コンビニの袋を漁り出したので、にこはぎょっとして箸を持つ手を止めた。

 博子が当然のように缶ビールを手にし、プルタブを開けようとするので寸でのところで缶ビールを取り返すと、博子が不満を口に出したが、にこは全く取り合わず、通勤に使用しているトートバッグの中にそっとしまいこみ、再び弁当をかっ込み始める。

「あのさ、貸しスナックの家賃とか仕入れの代金が支払えなくなってから、高志(たかし)と……あの時一緒に暮らしてた人ね、と、相談して、ちょっと遠くの町に行こうってことになって、二人であの町を出て行ったんだけど……」

 コソ泥行為を妨害された博子は不満を言うのを止めると、何故か突然、近況を語りだした。博子の話など聞きたくない、というにこの意思はさらりと無視して。
 高志――博子に貢がせていたヒモ男と別の町にとんずらしていってから、博子は其処でも水商売で生計を立て、高志を養っていたのだが、一月もしないうちに高志は博子の目を盗んで別の女と関係を持ち、その女と共に忽然と姿を消してしまったのだという。

「それで悲しくて泣いてたらね、今のダーリン……奈津男(なつお)と出会って、運命を感じた私と奈津男は恋に落ちたの」

 小説家を目指しているのだという奈津男の為に生活費を稼ぐ日々を過ごしていたのだが、やがて生活を向上させたいという欲が生まれ、もっと多くの金が稼げる都会へと舞い戻ってきたのだと博子は夢見心地で語る。

(……ヒモ男に捨てられて、直ぐにまた別のヒモ男を作るとか……このオバサンは学習能力がないというか……いや、いっそ才能……?)

 間近で語られていると、雑音が勝手に耳に侵入してくるようになり、にこは結果的に博子の身の上話を聞いてしまっていた。そして、昔から博子には男の影が無い日々は殆ど無かったものだと思い返す。きっと博子は男がいないと生きていけない、そういった類の人間で、「私がこの人を支えていかないといけないの」といったシチュエーションが病的に好きなのだろうと、にこは兼ねてから結論付けている。

「ダーリンにはね、ダーリンにとって良い環境で作品を作ってもらいたいの。出来上がった原稿を出版社に持っていくには、交通の便が良い所が絶対に良いに決まってるし」

 地方に住んでいても作家をしている人間は存在していて、都会にいなければ必ず作家になれないという決まりごとはないのではないだろうか。現在ではインターネット上で出版社のウェブサイトから原稿のデータを受け付けてくれる場合もあるという。そんなことを考えてしまっていることに違和感を覚え、はたと我に返ったにこは態とらしい咳をして、トートバッグに一度しまったも缶ビールを取り出し、プルタブを開けて一気に中身を飲み干す。口の中に広がるビール独特の苦味と、喉を通り抜けていく発泡酒独特の感覚が、今は美味しく、爽快には感じられなくて、にこは顰めっ面をした。

「だからね、にこに御願いがあるんだ~。今はさ、安いカプセルホテルに泊まってるんだけど、色んな人がいてさ、私もダーリンも落ち着けないんだよね~。アパートの部屋を借りたくてもお金が足りないし、保証人もいないから借りられないし、ママね、凄~く困ってるのね?御願い、ママを助けると思って、お金を頂戴!こんなことをいきなり言われてあんたも困るだろうけど、ママはあんたよりもっと困ってるわけ!そうだなあ、落ち着くまでの生活費として、少なくても五十万円くらいは必要かな~?」

 にこはかなりのケチなので、たんまりと貯金をしているはずだ。そうでなければ、相当な額の借金を一括払い出来る筈がない。だから自分にも金を恵んでくれと、厚顔無恥な博子は強く主張する。

「大切な話ってのはやっぱり金の話か」

 飲み干してしまった缶ビールを持つ手に力が入り、アルミ製のそれはべこべこっと音を立てて、形を歪める。彼女も同じように、顔を苦々しく歪める。

「あのさあ、オバサン?あんたが私を勝手に保証人にして、そのせいであんたの借金を払わされたんだから、余分な金が残ってる筈がないだろーが」

 コンビニの袋の中に残っていたおつまみをトートバッグに放り込んで、弁当の容器とビールの缶をその中に入れ、にこは荷物を整えると徐に席を立つ。”オバサン”呼ばわりされたことが気に入らない博子は座ったまま、顔を上げて、にこをぎろりと睨みつけている。

「生活費くらい自分でどうにかしろよ、オバサン。イイ年したオバサンでしょ?私に集りに来ないでください~」
「……オバサンじゃないわよ、私はまだまだ若いんだから!何なの、その言い方!?実のママに対してそこまで言うなんて酷いんじゃない!?ママに死ねって言うの!?」

 博子にとって、”生活費を自分で稼げ”という言葉は”野垂れ死ね”と同義なのか。自分の思い通りに事態が進まず、博子が癇癪を起こしてきゃんきゃんと喚いているが、にこはそれを無視して歩き出す。

「酷い、酷い!あんなに苦労してまで育ててやったのに、こんな恩知らずに育つなんて思わなかった!」
「……酷いのはそっちだろーが」

 そのまま歩き去ってしまえば良いのに、にこは足を止め、振り返る。彼女はそこで初めて、博子と目をまともに合わせた。敵意を隠そうともしないにこに気圧されたのか、博子が体を強張らせた。

「あんたさあ、昔、私に言ったじゃねーか。あんたさえ産まなければ、私はこんなことになんてなってなかった。あんたさえいなければ、私は直ぐにでも再婚して、幸せになれるのにってさ。そんなこと言う奴がいらない子供に縋ろうとするのって自分勝手過ぎるし、凄く滑稽なんですけど」
「何よ、コッケイって!私は鶏なんかじゃない!馬鹿にしないでよ!」

 コッケイは鶏の鳴き声のことではない、辞書でも引いて意味を調べろ、オバサン。と、突っ込みそうになり、にこは慌てて口を噤む。久しく会っていなかったのですっかり忘れてしまっていたが、自分の気分で喋り、言葉の意味を深く考えない博子との会話には難があるのだった。

「お金を頂戴って言って何が悪いの!?働きたくても働けないのよ、お腹に赤ちゃんがいるから!仕方がないじゃないの!!」
「……は?」

 実の娘に「あんたさえ産まなければ」と平気で吐き捨てられる女が妊娠しているなんて、質の悪い冗談としか考えられない。金をせびりに来た理由がそんなことだなんて想像だにしていなかったにこは何とか動揺を押し隠して、けれども嫌悪の感情は露わにして、「冗談はその痛い若作りだけにしておけ、ババア」と博子に吐き捨てる。

「冗談でこんなこという訳がないじゃない!妊娠してるのは本当、今、四ヶ月なの。今のダーリンとの子供よ」

 嘗て、妊娠したからと相手の男に迫り、その男に逃げられて結局は堕胎手術を受けた博子。その費用は月々送られてくるにこの養育費と、彼女がせっせとしていた貯金で賄われたので彼女は強く覚えているのだが、当の本人は全く覚えていないのか。
 どうして避妊をしないのか。どうして後先を考えないのか。にこの博子への嫌悪感はぐらぐらと煮え滾る怒りへと変わっていく。

「私とダーリンとお腹の子と三人で暮らしていく為にはお金が必要なの。今度こそ幸せになるの。子育てだって、あんたみたいに失敗しないんだから。ねえ、ママの為にお金を頂戴?今まであんたが私にかけてきた迷惑への謝罪金として。たったの五十万だよ?ね?本当はそれくらい持ってるんでしょ?ママ、知ってるんだから!」
「――ねえ」

 自己中心的な博子の言い分を断ち切るように、にこが怒気を孕んだ低い声を出す。

「あんたみたいな夢見がちなババアが妊娠してヒモ男と結婚したって、決して幸せになんてなれない。あんたみたいなのが母親だと、子供が不幸になる。……想像妊娠だと良いね、ババア。金が欲しいなら消費者金融に行けよ。今度は私を保証人にしても返せなかった借金は払わないからね。ヒモ男とどうぞお幸せに」

 高校生だった頃には出来なかったが、色々と経験を積んですっかり捻くれてしまったにこは博子を口汚く罵ることが出来るようになっていた。にこの攻撃を受けた博子は激昂し、欲しい玩具を買って貰えずに駄々をこねている子供のように地団太を踏んで、にこを罵倒してきた。

「ケチ!人でなし!あんたなんかやっぱり産むんじゃなかった!私に似なかったから、可愛くもないし!返してよ、私の人生を!あんたさえいなければ私はもっと輝けたし、幸せに暮らせてたのに!」

 みっともない姿を見せている博子をその場に放置して、にこは今度こそ立ち去ろうとする。後ろを振り返ろうとしないように、真っ直ぐに前だけを睨みつけたまま、足早に歩いていく。
 今度は、博子はついてこなかった。

(妊娠してるってのは嘘だね。そうじゃなければ、肌寒い夜にあんな薄着したり、ハイヒールを履いたりしない)

 博子は息をするように嘘を吐く女だということを、にこは知っている。博子の妄言を信用してはいけないのだと、今一度自分に言い聞かせる。

 長い道のりだと思っていたが、あの公園から自宅アパートに戻るのにはそれほど時間はかからなかった。漸く自宅の中に入ったにこは長い溜め息を吐くと手にしているゴミを捨て、残った荷物を一先ず畳の上に置く。

「……あ~あ」

 勤め先の社長から貰った誕生日プレゼント――カーネーションの花束に目をやると、白い花弁が萎れてきてしまっていたので、購入したばかりの花瓶に水を入れて、花を生けようとして、異変に気付く。長い茎の一部が変色して、折れ曲がってしまっていた。

(ババアの出現に苛々して、強く握りしめちゃったからなあ……)

 花が生気を取り戻してくれるかどうかは分からないが、傷つけてしまった部分を切り落として、花瓶に生けてみる。その日は博子の相手をしてしまって疲れ果てたので、部屋着に着替えると風呂にも入らずに布団に潜り込み、無理矢理に寝た。眠りの世界に落ちて、博子の存在を考えないようにしたかったのだ。

 ――翌日。眠りが浅かったので、にこの目覚めは頗る悪かった。それでもカーネーションの様子が気になったので、起き上がり、卓袱台の上に置いた花瓶に目をやる。綺麗だった白い花弁には茶色の染みが出来てしまい、茎が力を失い、カーネーションはがっくりと頭を垂れていた。
 その様が自分の心情を表しているように見えて、そう感じてしまった自分が滑稽で、にこは自嘲の笑みを浮かべ、罪の無いカーネーションを睨んだ。

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