さようなら、フンダリー・ケッタリー

劣等感を拗らせると、色々なものが歪む

 朝早くから出かけていた槐が帰宅したのは、そろそろ日付も変わろうかという時刻だった。夜の時間帯になると人の動きに反応して明かりが点く廊下を進んだ槐がリビングの扉を開けると、向こう側から冷気が漂ってきたので、彼は眉を顰めた。先ずはリビングの電気を点け、クーラーの電源を切り忘れて出かけていったのだろうかと考えながら、開けられたままのカーテンを閉めに向かい、彼は違和感に気が付いた。

(え……?)

 今日は日中ににこがやって来て、家事をしてくれる日だということは把握している。けれどもとっくに帰宅していると思っていたにこが、エプロン姿でソファに寝転がって熟睡しているのを見つけて、槐は呆気にとられる。起こした方が良いのか、それともこのままにした方が良いのかと逡巡して、槐は後者を選んだ。背負っていたワンショルダーバッグを外してローテーブルの上に置き、寝室にタオルケットを取りに行って、それをにこにかけてやった。

「んー……?」

 眠りを妨げないようにそっとタオルケットをかけたのだが、ほんの少し刺激、或いは近づいた気配でにこの意識が浮上したらしい。彼女の瞼がぴくっと痙攣し、ゆっくりと目が開く。焦点の合っていない目で暫く天井を眺めていたにこは顔を動かし、ソファとローテーブルの間で膝立ちをしている槐の存在に気がつく。彼女は眉根を寄せてから、気だるそうに体を起こし、かけられたタオルケットを横に避けた。

「……おかえり、槐」
「た、ただいま、にこさん……」

 ”おかえり”と”ただいま”。一人暮らしをするようになってから使用頻度がめっきり減少していた短い言葉のやり取りをして、にことこんなやりとりが出来るとは思ってもいなかった槐は甚く感動し、頬を染める。そんな彼の様子に気が付いていないにこは眠気が抜け切っていないのか、ぼんやりとしている。徐に窓の外に目をやり、それから壁にかけられている時計の針の位置を確認して、現在の時間帯が深夜であることを把握した。

「御飯、食べた?」
「え?う、うん、今日は実家に呼ばれていて……夕食は其方で済ませて来ました」
「ふーん……」

 そういえば臨時の家政婦として雇われている身なのだったと思い出したにこは、夕食を作らなければならないのかと考え、雇い主の腹の具合を伺った。結果として要らぬ心配で済んだので、新たな仕事が増えなくて良かったと安堵する。小さく欠伸をしたにこは両腕を上げて、大きく背伸びをして残っていた眠気を追い払った。

「洗濯物は畳んで寝室のサイドチェストの上に置いた。食器も洗って乾かして、食器棚にしまっておいた。全部の部屋の掃除もして……あー……諸事情を済ませて……疲れて、うっかり今まで寝てしまった」
「お疲れ様です、にこさん。家中を綺麗にしてくれて有難う。実家から御菓子を貰って帰って来ていたら良かったね、家事の御礼に渡せて……気が利かなくて御免ね」
「……」
「……にこさん?」

 白地のカットソーを着て、同じく白色のシャツを羽織っている槐の首筋や鎖骨の辺りに自然と目が引き寄せられる。険しい表情をしてにこがじっと見つめてくるので、何か余計なことでも言ってしまったのかと槐は動揺する。

「……男のくせに、女みたいに首が細い」

 対するにこの首はというと、割と太い。筋肉がついている訳でも、二重顎になるほどの余分な脂肪がついている訳でもないのだが、太い。槐の首の細さが羨ましい、妬ましいと思った途端にやっかみが口を突いて出てしまっていた。本日は特に虫の居所が悪いので、感情の起伏の抑えが効かない。ほんの些細なことにでも噛み付きたくなってくる。にこの存在が気に入らないとして排除に励んでいた、あの奥様グループ――チーム・マダム小坂と同じようなことをしているのだいうことに、彼女は気が付いていない。
 にこのその言葉は、槐のコンプレックスを見事に刺激する。槐は如何にも男性然とした体格とは程遠い、どことなくなよっとした自分の体格を気にしているのだ。家族や親しい人に言われたのであれば「五月蠅い、結構気にしているんだ」と言い返せるのだが、想い人であるにこに言われるとその気が起きない。気持ちが沈んで、目を伏せた槐の首筋ににこの手が触れて、するりと撫で上げられる。悪寒にも似た、ぞくぞくとした感覚に襲われて、槐ははっと息を飲む。

「首は細いし……ていうか全体的に細いし、横じゃなくて縦に長いし、睫毛も指も長いし、肌は綺麗だし、そもそも顔の造形が整ってやがるし。ちゃんとしてる両親がいて、格好良いお兄さんがいて、金持ちで育ちが良くて……何やっても上手くいってやがるし……何か出来なかったとしても怒られることはないし……あーあ、本当、あんたって私が持ってないものを全部持ってて……むかつく」

 にこが持っているのは碌でもないものばかりだ。
 自分のことしか考えていない、金銭感覚が死んでいる母親。その母親との離婚が成立すると直ぐに別の女性と結婚をして、新しい家庭を築いた父親。二度目の妻は愛人だったらしいと教えてくれたのは、それほど親しくない同級生で、にこの家庭の事情は町内の奥様方の恰好の噂の種だったのだと知ったのは随分と後になってからだ。
 両親のような碌でもない人間になりたくないと、にこは必死になって生きてきたつもりだったが――蛙の子は蛙だった。自分を必要としてくれるのであれば、とんでもない男と付き合ってしまうところは母親に似てしまったのだろうと痛感している。
 母親曰く、父親譲りの冴えない外見をした僻み根性の強さだけは人並み以上の碌でもない女が、全てに恵まれている男に惚れられているなんてことはなかなか不可解で、どういう訳か笑えてきてしまう。

(大丈夫だよ、ちゃんと理解してる。来年の三月には契約が終わるし、その前にきっと槐は私に飽きるだろうし。それまでの間、お坊ちゃまをからかって遊んでやるんだから……)

 踏んだり蹴ったりの人生を送っている可哀想な私は夢なんて見ないの。ちゃんと現実を理解しているのよ、と、自分を哀れんでいるのは殊の外気分が良い。槐を傷つけるような言葉を吐いて、突き放しても突き放しても縋るような目をして追いかけてきてくれる槐に仄暗い喜びを感じる。そんなことを楽しんでいる自分は最低だ――と、心の片隅に追いやっている良心の欠片が言っているが、にこは敢えて無視をする。

「ねえ、槐。私のこと……好き?」

 ――そうやって男の愛情を一々確認してくるのが鬱陶しい。
 ”包茎シメジ”こと、逆玉に乗った前の男、本名川中健児は、にこに向かってそう吐き捨てたことがある。彼女が毛嫌いしている母親も貢ぐような男が出来る度に、同じような台詞を吐いて、男の関心が自分に向けられているかどうかを確認していた、と、にこはふっと思い出し、「遺伝って怖い。マジで」と頭の片隅で他人事のように考える。

「……好きだよ。今も昔も変わらず、君のことが好きだよ」

 にこの問いに返答した槐の表情は硬い。真剣に答えているからこその反応なのだが、受け取る側の人間性如何によっては別の反応をしていると捻じ曲げられてしまう。

「嘘吐くの下手だねー」
「っ!?」

 槐の真面目な告白を嘲笑って、にこが彼の首筋に噛みつく。加減をしないで噛んだので、当然、にこの歯形が槐の肌につく。くっきりとついた歯形を舌先でなぞると槐の体が僅かに跳ね、味蕾が仄かな血の味を感じとったような気がした。

「僕は嘘を吐くのが下手だから、本当のことを言っているよ。それでもにこさんに信じて貰えないのは分かっているけれど……悲しい」

 俯いて唇を噛み締めている槐の目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。”悲しい”と言う感情を素直に表している槐を目にしたにこは――ぞくぞくした。

(あーあ、可哀想に……)

 劣等感などに縁のなさそうな――と、にこは思って疑っていない――槐が、「自分は不幸だ」と言ってそれに酔っているにこの言葉に傷ついている。歪んだ優越感が湧き出してきて、歪な喜びで心が満たされていく錯覚に陥る。それはどうしてか、欲情を誘発した。
 にこは槐の目元に口付けて、涙を唇で拭う。唇についた槐の涙はほんのり塩味だ。

「セックスしたくなってきた。あんたが嫌だって言うなら今直ぐ帰るけど……どうする?」

 強制ではないようで、強制しているかのような誘い文句をにこが口にすると、涙で濡れた槐の目が揺れた。その様子を目にしたにこは、槐が仕掛けた罠に喰らいついたのだと確信して、ほくそ笑む。涙を腕で拭うと、槐は腕を伸ばして彼女の体を優しく包みこみ、労わるように背中を撫でてきた。

「何か……悲しいこととか、嫌なことがあった?僕に出来ることはある?」

 槐は、にこの誘いに乗らなかった。そのことに驚いて、にこの中で渦巻いていたどす黒い感情が動きを止める。

「……な、ない。あんたに出来ることとか、何もない、から……」
「話を聞くことくらいは出来るから、良ければ話してみてくれないかな?そうするだけでも心が軽くなるって……ええと……誰かが言っているみたいだよ?」
「誰かって誰だよ。何処かの心理カウンセラーとかじゃないの?……やっぱりあんた、ゲイじゃないの?折角誘ってやったのにやる気にならないとか……おかしいんじゃないの?」
「僕はゲイではないよ。にこさんと何度か……その……セックス出来ているのだから」

 それならば男女の別無く愛せるというバイセクシュアルではないのかと、彼の神経を逆撫でするつもりで嘲笑いながら、にこが問う。槐は激昂することなく、ゆるゆると首を振って、それを否定した。

「バイセクシュアルでもないよ。僕は……女性が好きだ。にこさんが好きだよ、大好きだ」

 にこを抱きしめる槐の腕の力が強くなり、体が一層密着する。槐の体温と匂いを強く感じとれてしまって、何故だか妙にどきどきとしてくる。逸る鼓動に気づかれたくないにこは槐から離れようとするが、彼の腕の中から抜け出せない。いくら槐が中性的な体つきをしていても、男女の筋力の差はちゃんとあるのだと思い知る。

「白けた。もう帰る。離せよ」
「夜ももう遅いから、泊まっていって。こんな時間に女の子が一人で出歩くのは危ないよ」
「女の子っていう年齢じゃねえし、夜道を一人で歩くのも慣れてる。変質者に狙われるような美人じゃねえし、大金を持って歩いているようにも到底見えないから強盗やひったくりにも遭わねえわよ」
「そういう問題ではないよ。にこさんに何か遭ったらどうしようって、心配になるんだ。凄く、心配する……」

 気持ちが伝わるように、にこを逃がしてしまわないように、槐は彼女を抱きしめる力を強くする。

「……夜道を一人で歩いたことで私に何か遭ったとしても、あんたは何も困ることなんてない。関係ないでしょ」
「そんなことはないよ。心配で……何も手につかなくなる。この前みたいに醜態を晒してしまいそうだ」

 心配をする、ということは、その対象に関心があるということ。関心が無いのであれば、かつての恋人のように深夜に「コンビニにビール買いに行って来い」とテレビに目を向けたまま、振り向くこともなく命じられる。男狂い、と称してもおかしくない母親のように、男と性交渉する為に、小学生だった娘を夜中であっても平気で家から追い出せるのだ。

(……心配して欲しいのか、私は)

 槐はにこに関心があって、彼女の心配をする。そのことに、にこはほんの少しだけ純粋な喜びを見つけて、所詮口先だけだと疑いもする。

「……そこまで言うなら泊まっていってやるよ。朝には帰るけどね」

 お前は何様だ、と心中で自分で自分に突っ込みを入れる。にこを腕に閉じ込めたままの槐はゆっくりと体を離して、「有難う」と言って微笑んだ。その目にはもう、涙はない。泣いた痕跡があるだけだ。

(どうして礼を言ってんの。……馬鹿だね、槐は)

 呆れはしても、失望はしない。黒い感情と欲情がいつの間にやら消え去ってしまっているにこは、ふふ、と苦笑する。

「泊まっていけって言ったんだから、愚痴に付き合え」

 と前置きをして、本日の不満やその他の不満をぐちぐちと吐き出していく。不愉快になるような物の言い方しか出来ていないにこの話に嫌な顔一つせずに、にこの隣に腰掛けた槐は根気良く耳を傾けてくれる。「そんな人もいるんだね」「よく怒鳴ったりしなかったね、我慢強いんだね」「にこさんの方が大人だったね」、といった、話の腰を折らない槐の相槌が心地良い。
 やたらめったら長いにこの愚痴が終わったのは、深夜の三時を過ぎた頃。やりたい放題にしてすっきりしたにこを眠気が襲う。あれだけ惰眠を貪ったというのにまだ眠くなるのかと、彼女は自分に呆れながら欠伸を噛みしめる。

「少しは気が晴れた?」
「……まあね」
「役に立てたのなら、良かった」

 槐の微笑みに疲れの色が隠れているのを、にこは見つけた。心に余裕が出来たので、他のことに目をやれるようになったからかもしれない。朝から出かけて、夜遅くに疲れて帰ってきたところでにこに八つ当たりをされて、長い愚痴に付き合わされた槐が流石に気の毒になる。そうした原因は自分であることに、にこは多少なりと気づいているので、罪悪感が湧いてきたのだ。

「……八つ当たりして、御免。愚痴聞いてくれて、有難う」

 眉根を寄せて、睨みつけるようにして、槐に触れるだけのキスをする。とても感謝しているようには見えない対応だが、槐はきょとんとしてから、顔を真っ赤にすると口をぱくぱくとさせた。酸欠の金魚かお前は、と、にこが白い目で眺めているとやがて落ち着きを取り戻し、照れ臭そうに微笑んで「どういたしまして」と返してきた。
 その爽やかさが何となく気に入らなくて、にこはつい、彼の滑らかな頬を抓ってしまっていた。

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