さようなら、フンダリー・ケッタリー

責任は確りと取りましょう、大人デスカラー

 灯りは点いていないが、室内は明るい。いつの間にか、夜が明けているようだった。
 鈍い頭痛を訴える頭を押さえながら、にこは暫しの間考え込む。やがて全ての出来事を思い出すと、彼女はのろのろと起き上がり、深い溜め息を吐いた。

「……性犯罪をやらかしてしまった」

 嫌がる美青年を全力で押さえつけて、卑猥な言葉で辱めて、挙句に童貞を奪ってしまった。酔っていた勢いでやってしまったので御容赦ください、と謝罪すれば全てが丸く収まるはずもなく。警察署と裁判所と刑務所のお世話になることを悟ったにこは、深い深い溜め息を吐いた。

「……あー?パーカーに……あー、スウェットパンツとかいうやつだっけ……?こんなの何時着たんだろ?ナニコレ、高そう……」

 次々と頭の中に浮かんでくる、加害者、被害者、警察官、弁護士、裁判官、懲役、執行猶予などといった言葉から逃避しようとして、にこは無理矢理に、意識を別の方向へと向ける。全裸になった記憶はあるのだが、触り心地の良いライトグレーのルームウェアを着た覚えは無い。因みにどういう訳か、下着はつけていない。ともすると、にこが襲ってしまったあの美青年がこれを着せてくれたのだろうか。強姦してきた相手にルームウェアを着せて、更にはベッドに寝かしつけるとは、彼は相当の大物に違いない。

「ありえねー。凄いなぁ、あのお坊ちゃん……」

 乾いた笑みを浮かべたにこは、ちらりと、視線を変える。サイドチェストの上には、丁寧に畳まれた服と下着――にこが脱ぎ散らかしたもの――と、木のお盆の上に載せられた青い切子のコップと水の入ったガラスのピッチャーが置かれていた。にこは躊躇することなく、コップに水を注ぐと一気に飲み干した。渇ききっていた喉を潤した水は、にこが飲みなれている水道水とは違う味がした。

「何から何まで高級品ですか。……金持ち自慢しやがって」

 裕福という言葉とは縁のない家庭で育ったためか、富裕層に対してやっかみを持っている。にこが憎々しげにぼそりと悪口を言うと、寝室の扉が静かに開いた。その小さな音に反応し、自然と其方へと顔を向けたにこは青ざめる。其処には被害者である青年が立っていて、きょとんとした顔で彼女を見ていたのだ。

(しまった、ぼーっとしてる暇があるなら、さっさとずらかっておくべきだった……!)

 所謂ヤリ逃げをしてしまえば良かったと、人として最低なことを考えたにこは滝のような汗を流している。そんな彼女を見つめている青年は怒りの形相を浮かべて、加害者を罵ることはせずに、仄かに頬を染めて、はにかんだ。

「おはよう、にこちゃん。具合はどうかな?」
「……は?」

 挨拶をされるとは想像だにしていなかったにこは拍子抜けし、思わず変な声を出してしまった。まさかとは思うのだが、彼は若しや昨夜の出来事を忘れてしまっているのだろうか?

「具合が悪くないのであれば、お風呂は如何かな?それとも先に朝御飯を頂く?好きな方を選んで」
「……はぁ?」

 新妻が言いそうな台詞だな、と他人事のように思いつつ、にこは自分の体の匂いを嗅いだ。嗅げば嗅ぐほど酒の残り香と、乾いた汗の匂いがしてくる。何となくだが濃い汗の匂いの中に、知らない匂いが混じっているような気がした。

「……あ、有難く、お風呂を頂きます……」
「では、少し待っていて。着替えを用意するから……」
「い、いや、昨日の服で構わないので……」

 この時になって初めて、にこは青年に対して敬語を使った。状況が上手く把握出来ていなくて、調子が狂っているようだ。案内されたバスルームで手早く体を洗い、手早く上質のタオルで体を拭く。この時になって初めて躊躇いが生じたが、着替えは必要ないと言ってしまったので渋々、昨夜着ていた服と下着を身に着ける。ピカピカに磨かれた洗面台の鏡を見ながら、生乾きの髪を手櫛で整えて身支度を済ませた。

「……お風呂を貸して頂きまして、有難う御座いました……」
「どういたしまして。そうだ、お腹が空いているでしょう?どうぞ、此方に座って……」
「えぇ?いや、別に……」

 丁重にお断りしようとしたのだが、それを阻止するように腹の虫が空腹を訴えてきた。凍りついているにこをやや強引に招き寄せて、青年はダイニングテーブルの席に着かせた。

「簡単なもので申し訳ないのだけれど。どうぞ、召し上がって」

 そう言って青年がにこの前に出したものは――やはり高級そうな黒色の和食器の皿の上に載せられた、歪な形の白米の塊と、ばらばらの太さに切られた沢庵だった。スクランブルエッグだの、クロワッサンだのといった洋食が出てくるのかと想像していたにこが面食らう。

「……これは何ですか?」

 何となくは、正体を掴めている。だが漠然とした不安が胸を襲うので、にこは青年に尋ねていた。品の良い香りがする緑茶を淹れていた青年は湯飲みをにこに差し出すと、こてん、と首を傾げる。

「何って……梅干が入っているおにぎりと沢庵だけれど。……ああ、形は悪いけれど味は問題ないはずだから、安心して」
「……そうっすか」

 そう言われても、安心は出来ない。然し食べ物を粗末にするのは、にこの自尊心が許さない。恐る恐る手にとって、おにぎりと呼ばれた米の塊を一口齧る。
 ――おい、どこが味は問題ないだ。あるよ!
 恐らくは炊飯器を使って、米を炊いたのだと思われる。然し水の分量を間違えたのか、炊いた米は硬く芯が残っている。更には握る時に塩を使っていなかったようで、米本来の味しかしない。にこは物言いたげな虚ろな目を青年に向けた。

「美味しくない?……おかしいな、おにぎりは一番失敗が少ないと教えて貰ったのだけれど……」
「……梅干と沢庵が美味しいんで、食べられないことはないっす」

 端が繋がっている沢庵を一切れ一切れ分離させつつ、にこはおにぎりと沢庵を黙々と咀嚼していく。言った通りに、梅干と沢庵は非常に美味しい。彼女が不承不承ながらも食事をとっているので安心した青年は、おにぎりを口にし――その出来に衝撃を受けていた。

「――ご馳走様でした。腹が満たされました」
「お粗末さまでした。……あの、申し訳ない。予定では美味しいはず――」
「ところで、伺っても良いですか?」

 青年の言葉をわざと遮るように、にこは彼に言葉を投げかける。青年は少々怯んだような表情を見せたものの、次の瞬間にはそれを隠すように微笑んで、「何でしょう?」と柔らかい声で返してきた。

「貴方は何方様ですか?」

 尋ねる機会は幾らでもあったはずなのだが、何故だか出来ずにいた。漸く訊きたいことを訊けたと、にこは安堵する。

「……僕のこと、本当に覚えていないんだ……」
「覚えてないんだと言われても……私たちは初対面のはずですが?」

 悲しげに目を伏せた青年に、にこは追い討ちをかける。言葉の矢が突き刺さった青年は顔色を失い、どんよりとした空気を纏いながら俯いてしまった。暫くの沈黙の後、彼は弱々しい動きで顔を上げると寂しそうな笑みを浮かべて、口を開いた。

「僕は二連木(にれんぎ)(えにす)と言います。四月からは大学三年生です。小学生の時ににこちゃん――媚山(こびやま)にこさんに出会って、中学生の時には家庭教師をして貰っていました」
「……にれんぎ、えにす?」

 その風変わりな響きには覚えがある。やおら腕を組んだにこは目を閉じると上向いて、絡まってごちゃごちゃとしてしまっている記憶の糸を解き解していく。

「――あー……」

 答えを見つけたにこは目を開け、間延びした声を上げた。
 二連木槐とはひょんなことで知り合った、社長令息のことだ。理由は定かではないが、彼に懐かれていたような気がすると、にこは思い返す。

「……あの槐が、こうなったの?」

 記憶の海に沈んでいた中学生の槐は、中性的な面立ちをしていて、手足の長さと細さばかりが目立つ華奢な少年だった。大学生だという、目の前にいる槐は――細身であることは変わっていないものの、中性寄りの眉目秀麗な青年になっている。上手く成長すれば見目麗しいな青年に成長するのだろうかと、交流があった頃のにこが想像していたことは現実となっていたらしい。

「思い出して貰えて良かった。覚えているのは僕だけだって、寂しくなっていたんだ」

 もう忘れないで、と笑った顔を目にした途端に、記憶の中の少年と、目の前の青年とが重なった。他人を疑うことを知らなそうな、純粋さが滲み出ているかのような微笑みは間違いなく、にこが知っている二連木槐のものだ。

「久し振りだね、にこちゃん。……ずっと、逢いたかった」

 高校を卒業すると、就職が決まっていたにこは家を出て、一人暮らしを始めた。そのことを、槐に知らせることはしないで。毎日の忙しさに慣れようと必死だったにこは、仔犬のように自分に懐いていた槐のことをあっさりと忘れ去った。だが、槐はそうではなかったらしい。焦がれて堪らなかった、そんな思いをこめた目で、にこを見つめてくる。どうしてか、その目が恐ろしく感じられて、にこは目線を落とし、話題を変える。

「……此処に住んでいるって言ってたけど、独立したの?」

 槐が家族と住んでいる住居は高級なマンションではなく、広い敷地面積を有する立派な日本家屋の屋敷だったはずだと、にこは記憶している。

「うん。大学に進学した時に、父さんがこのマンションの部屋を借りてくれたんだ。キャンパスに近い方が都合が良いだろうからって」

 幾つもの会社を経営している父親を持つと、こんなにも良い目が見られるらしい。にこはそのことに、嫉妬した。にこは金銭面にも家族にも恵まれている槐に酷いコンプレックスを抱いていたことを思い出し、苦々しい表情を浮かべる。

「僕も訊いて良いかな?」

 テーブルの上で指を弄いながら、遠慮がちに槐が尋ねてくる。一方的な嫉妬で機嫌を損ねたにこは、横柄な態度でもって「どうぞ」と返事を寄越した。

「昨夜の、ことなのだけれど……」

 顔を赤くした槐は視線を泳がせて口篭ると、俯いてしまう。彼が何の話題に触れようとしているのかを瞬時に察したにこは素早く席を立つと、フローリングの床に這い蹲るように土下座をした。

「昨夜は酒に酔った勢いで貴方を強姦してしまいまして、大変申し訳ありませんでした!御安心ください、抵抗することなく警察へ向かいます!ただ、今後の裁判で提示されるであろう賠償金が払えるのかどうか、それだけが御約束出来かねます……っ!」
「え?」
「……えぇ?」

 想定していた反応と違う反応をされたことに気がついたにこは、思わず顔を上げる。槐は唖然とした表情で、にこを見下ろしていた。若しかして、青年はこの件を示談で済まそうと考えていたのか。それはそれで示談金が払えそうにないので、警察に連れて行かれるよりも都合が悪い。

「……何?警察に行く話じゃないの?まさか示談で済ませるの?」
「いや、僕はその、避妊をしないでセッ……クス、を、してしまった責任を取ろうと思っていて……」
「……いやいや、それは責任を取る必要はないでしょ。分かってんの?あんた、強姦事件の被害者なんだよ?」
「うん?僕はにこちゃんに、強姦されたの……?」

 どうやら槐には、強姦の被害者であるという意識がなかったらしい。にこは呆気にとられて、目を瞬かせる。

(え?どういうこと?本当に理解してないの?……ということは上手くいけば私、警察のお世話にならなくて済むってこと?)

 性犯罪の前科持ちにならないで済むのであれば、それは万々歳といえる。希望の光が見えたような気がしたにこは顔色を明るくするが――直ぐに暗くすることになる。

「そうか。僕は強姦されたんだ?そう言われてみれば……そうかな?結構酷いことを言われたし、止めてと言っても止めて貰えなかったし……そうだね、初めてで勝手が分からない僕を、にこちゃんは弄んだね……」

 勢いで墓穴を掘ってしまったと気がついた時には、もう遅かった。いつの間にやら席を立っていた槐がにこの前にやって来ていて、背を屈めると青ざめているにこを覗き込んだ。

「責任を取るのはにこちゃんの方だったね?」
「な、何言って……っ!強姦されたって思っていなかったんだから、なかったことにしてくれても良いでしょうっ!?」
「墓穴を掘ったのは、君だよ。そのまま流されておけば良かったかも知れないのに……」

 一応は自分が仕出かしたことを反省していたにこは一転して居直るが、槐に痛いところを突かれてしまい、ぐうの音も出ない。

(やばい、物凄く嫌な予感がするっ!とんずらしないと……っ)

 危機感を抱いたにこが立ち上がって後ずさりをすると、その分だけ槐も距離を詰めてくる。それを繰り返していけば――必然と、にこの背中は壁にぶち当たる。尚もにこが逃げようとする姿勢を見せると、槐は両腕を壁につけて、彼女を壁と自分の体の間に閉じ込めた。
 ――え、ナニコレ、流行してるって噂の壁ドンっていうやつ?
 まさか身をもって体験する羽目になるとは思っていなかったにこは、思いきり顔を引き攣らせて凍りつく。

「……僕が高校生になったら、僕の恋人になってくれるって……約束していたのを覚えている?にこちゃんは僕の前から姿を消してしまったから、約束は果たされなかったけれど……」

 ――志望校に合格したら、お祝いをしてあげるよ。出来れば、お金がかからないことにしてね。
 そんなことを気軽に提案した高校生のにこに、中学生だった槐は先程言ったことを真摯に願った。きっと冗談に違いないと思い込んだにこは軽々しく了承したのだが――早々に綺麗に忘れ去っていた。彼女にとっては大して重要なことではなかったから。けれども、槐は本気だったらしい。

「あの時の約束を果たしてくれるなら、僕はにこちゃんを警察に引き渡したりはしない。いたいけな大学生を玩具にした責任の取り方は、これでどうかな?」
「それで脅迫してるつもり?そんなことで、あんたは私にされたことを無かったことにするの?馬鹿じゃないの?」
「君にとっては馬鹿馬鹿しいことかもしれないけれど、僕にとってはとても大事なことなんだ。……こんなことで犯罪者のレッテルを貼られなくて済むんだ、条件を飲むしかないでしょう?君に拒否権はないと思うのだけれど?」

 拒否をすれば人生を棒にすることは決まっている、と、槐は言っている。そんなことをいちいち言われなくても、にこの答えは決まっている。だが、大人しく条件を飲んでやりたくない。槐よりも年上で社会人でであるから、という小さな自尊心を守る為に、彼女は態とごねることにした。

「……時給が出るなら、良いよ?そうじゃないなら、警察に自首する。タダ働きは嫌だ。金持ちのあんたと違って、私は少々のお金でも生活が大きく左右されるんだから」
「構わないよ。お給料は、払います」

 給料制にしろと言われるとは思っていなかった槐は呆気にとられたが、直ぐに苦笑を浮かべ、微かに肩を揺らした。にこのとんでもない要求が面白く聞こえたのかもしれない。

「法外な低賃金はお断り。労働基準法の無視もお断りだからね」
「時給の額は君が決めて良いよ。僕にはよく分からないから。それから、君の都合を優先する。就職活動をしているのでしょう?その邪魔はしない」

 そして槐は僅かに間を置くと、伏目がちになって、ぽつりと呟いた。

「後は……出来れば、その……時々で良いから、今日みたいに君と一緒に食事がしたい。デートも、したい。それらにかかるお金は必要経費として僕が支払うから、安心して。食費と交通費などが浮くのだから、構わないでしょう……?」

 にこに都合が良すぎる条件を提示されて喜ぶ反面、にこは不安も覚える。きっと何か裏があるに違いない、と。然し、これさえ受け入れてしまえば警察のお世話にならなくて済むのだと、にこは自分を納得させる。履歴書に犯罪歴を記載することは是非とも避けたいからだ。

「……分かった。それじゃあ、契約書を書いて。槐の直筆で契約内容と今日の日付と、あんたの姓名を書いて、実印も押して」
「うん、その通りにする」

 極上の笑みを浮かべた槐は頷くと腕の中に閉じ込めたにこに触れるだけのキスをする。硬直しているにこの頬を撫でながら名残惜しそうに体を離すと、槐は筆記用具を書斎として使っている部屋に取りにいった。にこは唇をブラウスの袖で乱暴に拭うと、大きく息を吐いた。そして書斎から戻ってきた槐に、不満たらたらの声をかける。

「……何で警察に突き出さないのよ」
「中学生の時からずっと、君のことが好きなんだ。成人して社会人になったら、君に結婚を申し込もうと思っていたくらいなんだよ?結局は、叶わなかったけれど。……やっと逢えたのに、こんなことで離れるなんて嫌なんだ」
「そんなしょーもない理由で脅迫してまで引き止めるとか、意味が分からねーから。馬っっっ鹿じゃないの、あんた?」
「御免ね。僕はにこちゃんが凄く好きだから、傍にいて欲しいんだ」

「女の趣味が悪いんじゃないの?」と、にこが自嘲気味に言うと、「そうかもしれない」と槐にあっさりと返されたので、腹を立てた彼女はずかずかと歩いて彼に近づき、思いきり脇腹を小突いた。自分で自分をけなすのは良いが、相手にけなされるのは頂けない。

(くそっ、何でこんなことに……っ!本当に馬鹿!馬鹿!!)

 にこは腹を立てる、昨夜の酔っ払い――要は自分に。

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