どの雲も裏は銀色

《本編》

雨上がり

 はらはらと涙の雫を落としているフェレシュテフを片腕で抱き上げて、チャンドラは黙したまま、滅多にやって来ることのない人間の居住区の道を歩いている。彼が向かっているのは、一度か二度ほど案内されたことがあるだけのフェレシュテフの家だ。

「あなた、御免なさい、知られてしまいました、御免なさい……」
「……謝るな。いつかは……いや、もうバレてはいたみたいだから仕方がねえよ。もう少し早く迎えに行ってたら、お前が危ない目に遭わなかったのにな。怖い思いをさせて、悪かった」

 空いている方の手で、チャンドラはそうっとフェレシュテフの濡れた頬に触れる。男に殴られて腫れてしまっている頬や血の滲んだ唇が痛々しいと表情を曇らせるチャンドラを見つめて、フェレシュテフはぎこちなく笑った。

「助けてに来てくださって……嬉しかったです。有難う御座います、あなた」
「……うん」

 情けない顔をしてしまいそうな気がしたチャンドラは彼女に見られないようにと、彼女の頭に口付けを落として、それを誤魔化した。
 ――暫くして、チャンドラの歩みが止まる。フェレシュテフの家に辿り着いたのだ。「大事な話がある」と告げてきたチャンドラを、フェレシュテフは家の中に招き入れようとする。狭い玄関から何とか身を滑り込ませることが出来たものの、チャンドラは天井に頭を強かにぶつけた。人間に丁度良い高さの天井は、身長がとても高いチャンドラには低すぎる。彼よりも更に背の高い竜人(ジラント)のフセヴォロドは入り口を潜ることさえも出来なかったものだと思い出して、フェレシュテフは思わず微笑む。

「こら、笑うな」

 格好悪いところを見られたと拗ねるチャンドラに腕を捕らえられて、引き寄せられる。狭い部屋の床に腰を下ろしているチャンドラの膝の上に載せられたフェレシュテフは小首を傾げながら、ばつの悪そうな顔をしている愛しい人を見上げた。

「少しだけ、痛いのは我慢してくれ」

 それだけを伝えて、チャンドラはフェレシュテフの唇を奪う。唇についてしまった他の男の匂いを消そうとしているのだろうと理解したフェレシュテフは深くなっていく口付けに応える。ざらついた舌に触れられて、傷のついた唇や腫れ上がった頬がぴりりとした痛みを訴えるが、フェレシュテフはそれを堪えた。
 少しだけと前置きをしていたのに、その口付けは長く続いた。漸く口付けが終わり、二人の唇がゆっくりと離れていく。

「……あのな、フェレシュテフ」
「はい……」
「俺はこの町を出て行くことを決めた。……だから、俺について来い、フェレシュテフ」

 散々考えたのだが、上等の台詞は全く思いつかなかった。言い訳じみたことを長々と語るよりはと考えて、チャンドラは簡潔な言葉を口に出してみたものの――直接的過ぎたかもしれない。その証拠にフェレシュテフは唖然としてしまっている。

「あ、の……何処かに、行く当てがあるのですか?」
「まあ、な。遠方にある草原の小さな村に、タウシャン村って言うんだが、其処に兄貴が住んでんだ。タウシャン村に行って、兄貴の力を借りようと思ってる」
「お兄様の所へ、ですか?……お兄様に私たちのことを打ち明けても……問題はないのでしょうか?」

 人間と亜人という種族の違いを乗り越えて番となったチャンドラとフェレシュテフのことを、彼の兄は理解してくれるのかと、彼女は不安に思っているのだろう。チャンドラの大きな手をぎゅっと握っているフェレシュテフの表情が翳る。

「……今までフェレシュテフには黙っていたことがある。兄貴には番がいるんだが……その番は、人間の女だ」
「え?」
「……誰にも言う気は無かったし、フェレシュテフにも変に期待を持たせない方が良いかと思って……言わなかった」

 そうしたら話す機会を見失ってしまっていて、今更に打ち明けることになったのだと申し訳なさそうにチャンドラが零す。

「……そうなのですか。でも、どうして私に打ち明けてくださったのですか?」
「前にフェレシュテフが……子供が欲しいけど、きっと此処では育てられないって言って泣いただろ。俺もお前との子供が欲しい。どうしたらその望みが叶うのかって、考えた」

 その時にチャンドラの脳裏に浮かんだのは、或る場所だ。其処には、二人が願うことを叶えている人々がいる。

「兄貴と番の間には子供が生まれていて……そいつは逞しく育ってる。どういう訳か村の住人は……殆どが兎の亜人(アルミラージ)っていう亜人なんだが、その人たちは兄貴たちのことを認めてくれているしな。勿論、中には兄貴たちのことを良く思ってねえ人もいる。何もかもが上手くいっているとは言い難いが、それでもこの町に留まっているよりは良いんじゃねえかって……俺は思った」

 其処に辿り着くまでには険しい旅路を乗り越えていかなくてはならない。其処に辿り着けたとしても、望むような幸せに満ちた生活を送っていけるのかどうかは分からない。それでもタウシャン村に向かうつもりだと、チャンドラは真摯な目をして、フェレシュテフに訴えた。

「だから俺について来い、フェレシュテフ」
「……はい、私の心はあなたと共に」

 人間であるフェレシュテフと虎の亜人(ドゥン)であるチャンドラが番えば、二人は侮蔑の対象となり、こそこそと隠れて暮さなければならない。その秘密が露呈すれば、いつかはこの町を出て行くことになるだろうと、チャンドラは予め警告をしてくれていた。そうなっても構わないと言って添うことを決めたのだから、フェレシュテフはチャンドラの言葉に従う。その言葉通りのことがやって来たのだろうと、彼女は納得したようだ。

「この家も、おっ母さんの墓も、ヴァージャさんやセーヴァたちとの繋がりも全部捨てていくことになるぞ」
「構いません」

 そのことに未練が無い、ということは言い切れないけれども、それらを失ってでもチャンドラと共にありたいのだという気持ちの方が強かった。フェレシュテフはチャンドラの目を見つめて、力一杯に彼の手を握る。フェレシュテフの心は決まっているのだと理解したチャンドラは、深く息を吐いた。

「……嫌だって言われたらどうしようかと思った。ヴィクラムのおやっさんにはもう話をつけちまったし……」

 ぽろっと弱音を吐いたチャンドラがいとおしい。フェレシュテフはふんわりと微笑んで、力無く項垂れている彼の頬を撫でる。

(ああ、もう、フェレシュテフには敵わねえな……)

 おっとりとしているけれども芯がしっかりとしているフェレシュテフの手を取り、チャンドラは苦笑を浮かべながら、そっとその手に口付けた。

「荷物はこれだけで良いのか?」
「はい」

 これから先には、長い旅路が待っている。荷物は最低限にして、後の物は全て置いていくようにとチャンドラが告げ、フェレシュテフはその通りにして、必要な物とそうではない物を手早く選ぶ。そうして、フェレシュテフの手には大きい布包みが二つ出来上がった。
 そして、あちらこちらに隠した幾つかの瓶を探すのをチャンドラに手伝って貰い、彼女はそれらを彼に手渡す。その瓶の中に入っているのは、ヴラディスラフがフェレシュテフに渡していってくれた金貨や銀貨の山だ。これを旅の資金に当てて欲しいと、フェレシュテフはチャンドラに告げた。

「……なあ、ヴァージャさんは物凄い金持ちだったのか?そんな風にはあんまり見えなかったが……それにしてもこんな大金初めて見たな……」
「スネジノグラードでは幾つもの事業をしていたと仰っていましたし、尊い身分の方ですから……そうなのではないでしょうか。私の身請けも簡単になさっていましたし。でも、これほどのお金があれば旅も楽になりそうですね」
「楽にはなるだろうが……盗賊とスリの心配を常にする羽目にもなるな」

 人目が少ない時間帯のうちに町から去っていこうと言って、チャンドラが腰を上げようとした時、フェレシュテフが何かを思い出したように小さく声を上げた。チャンドラは浮かした腰をもう一度床に下ろして、「どうかしたのか」と彼女に問いかける。

「この町を出て行く前に挨拶をしていきたい方々がいるのです。もう少しだけ……出発を遅らせて頂けませんか?」

 勤め先である食堂”アパーム・ナパート”の店主夫妻に、突然仕事を辞めていくことへの詫びをしていきたい。フェレシュテフのその訴えを、チャンドラは頷いて了承してくれた。

「……その人たちに挨拶していくなら、おっ母さんにもな」
「はい」

 待ち合わせ場所は人目につき難いチャンドラの家の前と決めて、それまで二人は別行動をとることとなった。
――空が白みかけてきた頃に、チャンドラはフェレシュテフの荷物を抱えて自宅へと向かっていった。その背中を見送ったフェレシュテフは朝がやって来るまで待ってから、一つ目の目的地である食堂へと向かっていく。

 食堂の店主夫妻は朝早くから市場に向かって食材を仕入れ、忙しい昼時に備えて仕込みを始めている。その時間もまた忙しくしていることを知っているので心苦しいのだが、昼休みの時間までは待っていられない。叱責を覚悟したフェレシュテフはサリーの裾を頭から目深に被って顔を隠し、港近くに店舗を構えている夫妻の許へと向かう。
 すると、市場で食材を仕入れて戻ってきたばかりの店主夫妻と店の前でばったりと出会った。

「あら、どうしたの?今日は仕事はお休みの日よ?って、ちょっと、どうしたの、その顔……?」
「おはよう御座います、女将さん、旦那さん。実は折り入って、御願いが……。あまりにも突然のことなので、非常に心苦しいのですけれど……」

 頬に出来ている青黒い痣を見た女将のシャンティと店主のダヤラムが顔を青くしていることには触れずに、フェレシュテフは話を切り出す。今日限りで店を辞めたいという彼女の唐突な申し出に面食らっている店主夫妻に、これまで世話になったことへの感謝を告げて、フェレシュテフは金貨を数枚入れた小袋を彼らに手渡した。恩を仇で返す真似をすることへの詫びとして。

「迷惑を掛けるからって、お金なんて渡さなくても……」

 小袋を受け取ろうとしないシャンティの手を捉えて、フェレシュテフは強引にそれを握らせた。そうしないと気が済まないのだと真剣な表情をして告げると、やがて店主夫妻が折れてくれたので、彼女はほっと息を吐く。

「若しかして、あのモーハンが原因なのかい?あのろくでなしのことなんて気にしないで良いんだ。私たちは分かってるよ、あんたは悪くないって。店を辞めることなんてないんだよ?」
「そうとも、噂なんてそのうちに消えてなくなるんだ」
「引き止めてくださって、嬉しいです。旦那さんも女将さんも、どうかいつまでもお元気でいてください。短い間ですが、お世話になりました……有難う御座いました」

 困惑している夫妻に頭を下げて、フェレシュテフは踵を返す。「困ったことがあれば、またおいで」「いつでも雇ってあげるよ」と言葉を投げかけてくれる夫妻の気持ちを嬉しく思ったが、彼女は振り返らなかった。

 フェレシュテフが次に向かったのは、母親のナーザーファリンが眠っている共同墓地だ。途中で市場に立ち寄って買ってきた花束を墓前に手向けて、彼女は黄泉下にいるナーザーファリンに祈りを捧げる。

「……お母さん。チャンドラさんと……愛する人と共にこの町を出て行きます。そのことを伝えに来ました。それから……私のことを誰よりも大切にするから安心してください、と、お母さんに伝えておいて欲しいとチャンドラさんが仰ってくださったの」

 照れている時は視線を外していることが多いチャンドラが、照れながらも真面目な顔をして、フェレシュテフの目をしっかりと見て先程の言葉をくれたことを思い出して、胸の内が温かくなる。

「大変なことはあるけれど、これからもきっとあるだろうけれど……私、幸せよ。……その為にお母さんを此処に残していってしまうことを……許してください」

 墓地で眠っているナーザーファリンを連れて行くことが出来ない代わりに、いつも身に着けている目玉のお守り(チェシィ・ナザール)と、ヴラディスラフから譲られた目玉のお守りを伴っていく。いつでもナーザーファリンに祈りを捧げられるように。

「チャンドラさんが待っているから、もう……行くわね」

 もう二度と此処へは戻って来られないのだろうと想像して、フェレシュテフの足が竦む。けれども全てを捨ててまでチャンドラと添いたいと願ったのは、彼女自身だ。フェレシュテフは一歩を踏み出し、ナーザーファリンの墓前から去って行く。
 あと少しで共同墓地を抜けるというところで、フェレシュテフは見覚えのある巨大な影を見つけた。彼女は足を止め、近づいてくるその影に目を凝らす。

「……セーヴァさん?」

 チャンドラよりも背が高い、鰐にも似た顔をした竜人(ジラント)のフセヴォロドがどうして此処にいるのだろうか。ヴラディスラフと共にスネジノグラードに帰還した筈だが、と、フェレシュテフが首を傾げているうちに彼は彼女の目の前までやって来ていた。

「フェルーシャの家に向かったのだが、フェルーシャが留守にしていた。此方に来ているのではないかと思い、セーヴァはやって来たのだ。予想が当たるとは、実に喜ばしい。久しいな、フェルーシャ。息災にしているようで何よりだ」
「お久し振りです、セーヴァさん。でも、あの、どうして此方に……?」
「うむ。ヴァージャにフェルーシャの様子を窺ってきて欲しいと頼まれたのだ」
「まあ、そうなのですか。……気にかけてくださいまして、有難う御座います。長旅でお疲れではありませんか?」

 そう問うて、フェレシュテフは何かが引っかかった。マツヤからスネジノグラードまでは海路と陸路を利用して、二ヶ月近くはかかるのだと聞いた覚えがある。ヴラディスラフたちがマツヤを去っていったのは、二ヶ月ほど前のこと。往復路にかかる日数を計算すると、四ヶ月はかかるだろう。それなのにどうしてフセヴォロドは此処にいるのか。スネジノグラードへと向かう途中でフセヴォロドがヴラディスラフと別れたとは考え難い。かといってスネジノグラードに辿り着いてからもう一度此方にやって来たのでは、此処に辿り着くのが早過ぎる。

「実はセーヴァは空が飛べるのだ。故に長旅にはならぬ」
「――え?」

 フセヴォロドが不可思議なことを口走ったので、フェレシュテフはつい怪訝な目を彼に向けてしまう。すると縦長の瞳孔を持ったフセヴォロドの目とぶつかった。

「……ふむ。マツヤの町を去っていくのか、チャンドラと共に」

 何も告げていないフェレシュテフの心の内を悟ったかのように、フセヴォロドが静かに呟く。フセヴォロドは時折心を読んでいるかのような口を利くことがあるのだと思い出し、同時に、彼は鼻も利くのだと思い出す。フセヴォロドはきっと、フェレシュテフの体についているチャンドラの匂いに気づいているのだろう。

「わ、私、チャンドラさんと……っ」
「案ずることは無い。セーヴァは理解している。フェルーシャがチャンドラに想いを寄せていたことを。フェルーシャの望みが叶ったのだと、セーヴァは喜ばしく思っているぞ。……セーヴァは人間と亜人が想い合うことを厭いはしないのだ」

 人間と亜人は交わり合ってはいけないのだと、それが世の理であると誰もが説く。だが、それは法で定められていることでも、また宗教の戒律で定められていることでもない。ただ、誰もがそうであると思っている、決め付けてしまっているだけのことだ。中には疑問を抱いて、多数に抗う者もいるだろう。それで良い。何が間違っていて、何が正しいことなのかを明確に答えられる者はいはしないのだからと、フセヴォロドは説く。

「ヴァージャさんは理解してくださるでしょうか?」
「ヴァージャの思いは、フェルーシャがヴァージャに尋ねよ。セーヴァはヴァージャではない」
「……はい。機会がありましたら、尋ねてみます」
「うむ。フェルーシャ、これからチャンドラの許へと向かうのだろう?セーヴァも共に行こう。セーヴァはチャンドラに挨拶をしていきたい」

 フェレシュテフの予定がいつの間にかフセヴォロドに伝わっていることに驚きはしたが、フェレシュテフは「はい」と笑顔で答える。こうして二人は、マツヤの町の外に広がる森の入り口付近に住居を構えているチャンドラの許へ向かう。一度町に入り、人間、そして亜人の居住区を抜けていく方が近道といえば近道なのだが、町の際に沿って待ち合わせ場所に向かうことにした。遠回りにはなるが、人の目を避けられる。

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