どの雲も裏は銀色

《本編》

小雨、後、通り雨

 食堂”アパーム・ナパート”にやって来て早々、フェレシュテフは先輩従業員のガウリや店主夫婦に心配そうに質問を投げかけられた。先日、市場で遭った出来事を人伝に耳に入れたようだ。問題の色男――モーハンの妻が誤解していて騒ぎになってしまっただけだ、自分はモーハンとは何もないのだと説明をすると、彼らは「ああ、良かった」と言って、胸を撫で下ろしていた。彼らはフェレシュテフがモーハンに絡まれて迷惑を被っていたことを知っているので、納得してくれたようだ。
 ――だが、誰も彼もがそのことを信じてくれる訳ではない。

「あんたさぁ、他人の夫に手を出したり、真面目に働いてる振りしたりと忙しくしてるねえ……」
「あいつだけだなんてずるいじゃねえか、俺の相手もしてくれよ!」

 市場での騒ぎを実際に目にしたのか、噂を耳にしただけなのかは分からないが、心無い言葉を投げかけてくる客が出てきた。言葉には出さなくても露骨に表情や行動に嫌悪感を出してくる客もいた。けれども今は最も忙しい昼時で一人一人に説明している暇はない。投げつけられる言葉や無言の抗議を黙殺して、フェレシュテフは仕事に専念した。フェレシュテフが否定も肯定もしないのでつまらなくなった客は直ぐに口を閉じたが、そうでもない客もいた。

「その女はさぁ、娼婦だったんだよ。何度か色町で見かけたことがあるから知ってるぜ。その髪と目の色は珍しいからなぁ、間違いねえと思うぜ?」
「なんだ、それじゃあ男を誑しこむのは朝飯前だな」
「おいおい、この店は娼婦を雇ってるのかよ。まあ、親父さんたち、人が好いもんなぁ……」

 下卑た笑いを浮かべた客の男たちが結託して、好き放題に物を言う。明るく賑やかであることが自慢の店の雰囲気が頗る悪くなってしまい、フェレシュテフは申し訳なく思い、表情を曇らせかけたが――俯かないで、真っ直ぐに前を見た。

「確かに私は娼婦をしていましたけれど、身請けをして頂いたので、娼婦の仕事からは足を洗いました。恥じるようなことはしていません、生きることに必死だったのです。……大切な人を裏切るような真似もしていません、私は、真っ当に生きています」

 にっこりと笑みを浮かべて、フェレシュテフは言葉にしたいことを言い切った。強く出たつもりだが、お盆を持つ手や膝が震えてしまっている。幸い、そのことには気づかれていない。フェレシュテフの反論を耳にした男たちはばつの悪そうな表情を浮かべ、そそくさと食事と会計を済ませて店から出て行ってしまった。

「お恥ずかしいところをお見せしまして、失礼致しました」

 しんと静まり返ってしまった店内で、フェレシュテフは全ての客に向けて謝罪をし、その後は女将のシャンティに呼ばれて店の奥に引っ込む。暫くは微妙な空気が流れていたが、そのうちにいつも通りの賑やかさを取り戻していった。
 厨房に引っ込んでいたフェレシュテフは店主のダヤラムに頼まれて、皿洗いをしている。しゃがんで洗い桶いっぱいに入っている使い終わった食器を洗っているうちに、視界が霞んできた。食器と食器の隙間に出ている水の上に、ぽつん、と何かが落ちて、小さな波紋を作る。汗が落ちたのだろうと、フェレシュテフが濡れていない腕で額を拭うが、雫が落ちるのが止まない。そこで漸く目から涙の雫が落ちているのだと気がついて、彼女は乱暴に腕で涙を拭った。

「……辛いなら、少し休むかい?」

 手を休めることなく動かして料理を作っているダヤラムが振り向くことなく、彼女の背後から遠慮がちに声をかけてきた。「大丈夫です、平気です」とフェレシュテフが鼻声気味で返事を寄越すと、「そうかい」と彼が返す。
 フェレシュテフは皿洗いの手を止めて立ち上がり、後ろで調理をしているダヤラムに向けて頭を下げた。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「ああいう人たちもいればね、あんたが真面目に生きてんだって分かってくれる人たちもいるよ。……胸張ってな」
「……はいっ」

 もう一度頭を下げたフェレシュテフの脳裏に、雇って貰えることが決まった時のダヤラムが言ってくれた言葉を浮かんでくる。

『うちの上さんもな、昔、娼婦をやってたことがあってね。そんな上さんと一緒になった時、周りに色々と言われたけれど堂々と生活しているうちに何も言われなくなったんだよ。だからねえ、今じゃあ上さんがそうだったことを知らない人の方が多い。……娼婦をしていたからって、自分を恥じることはないよ。頑張りな』

 その時の嬉しい気持ちが蘇ってきて、胸がいっぱいになる。ぶわっと湧き出してきた涙をサリーの裾で拭って、フェレシュテフは皿洗いを再開した。

 その後も陰口を叩かれたりすることはあったが、フェレシュテフは決して俯かなかった。店主夫婦やガウリの思いやりと、チャンドラがしてくれた”勇気の出るお呪い”を心の支えにして、真っ直ぐ前だけを見ていた。そうやっているうちに、いつしか陰口を叩く者、無言の抗議をする者は少しずつ減っていったので、フェレシュテフは安堵していた。
 騒ぎの原因となったモーハンはというと、妻が行動に出たことで反省をしたのか、あれから一度も”アパーム・ナパート”に姿を見せていない。このまま何事もなく過ぎていってくれたらと、彼女は願っているが――そうはいかないのではと、漠然とした不安も抱えている。

***************

 夜の訪れを待っていたフェレシュテフは、人目を気にしながら屋外へ出る。
月明かりを頼りにして暗闇を歩き、人間の居住区の外れにやって来た彼女は待ち合わせ場所となっている一本の木の下に佇む。後は愛しい人がやって来るのを待つばかりだと、ほっと息を吐いた。
 時折吹いてくる潮風に揺られて、木の葉が微かに音を立てる。それに耳を傾けていると、じゃり、と砂粒を踏みしめる音が聞こえた気がした。

「……あなた?」

 いつでもあれば音も無く、チャンドラは闇の中から現れる。珍しいこともあるものだと不思議に思いながら其方へと顔を向けて、フェレシュテフはびくりと身を強張らせた。視線の先にいたのは待ち人であるチャンドラではなくて――はた迷惑な客、モーハンだった。
 どうしてこんな時間にこんな場所にモーハンがいるのだろうか。まさか尾行されていたのか、と、嫌な考えが頭を過ぎり、フェレシュテフの背に寒気が走る。

(どうしたら良いのかしら?このままでは、あの人と逢引をしているのがこの人に知られてしまう……っ)

 此処から一旦立ち去るべきかと逡巡しているうちに、へらへらと笑うモーハンが近づいてくる。それがとても不気味に感じられて、フェレシュテフは思わず後退りをする。

「……何か御用ですか?」

下 手に動揺しているのを見せてしまえば、相手につけこまれてしまう。フェレシュテフは営業用の笑顔を貼り付けて、モーハンに尋ねた。彼を警戒している為か、声が硬くなってしまった。

「この間はすまなかったね、妻が乱暴を働いて……」

 そのことに頓着しないらしいモーハンが距離を詰めてくる。その分、フェレシュテフも後退る。

「妻は誤解しているんだ。俺と君が既に男女の仲になっていると。妻子ある身でありながら、他の女性にちょっかいを出してしまう俺にも責任はあるが……仕方がないね。美しい女性を目にしたら声をかけずにいられないのは男の性というものだよ。夫の浮気を見逃せない妻の度量の狭さにも問題があるとは思わないかい?」

 モーハンの問いかけにフェレシュテフは沈黙で答える。言葉が返ってこないことを気にすることなく、彼は更に続けた。自分の世界に浸っている彼には、フェレシュテフの反応など関係ないのかもしれない。

「妻のことを嫌っている訳ではないんだよ。だけどね、束縛が酷いんだ。毎日のように他の女に手を出していないかと問い詰められると、息が詰まってしまう。だからね、俺には息抜きが必要だ。それには君が丁度良い。食堂に通っている客が喋っているのを耳にしたんだ。君は以前、色町で娼婦をしていたんだろう?」

 娼婦をしていた女であれば安心して遊べるはずだ、何をしても良いのだ。という持論を展開してくるモーハンには最早呆れることしか出来ない。身勝手な、且つ理不尽な理由にも程があると。モーハンのような自分勝手な人間の相手などしてしまったら碌なことにならないのは目に見えている。そもそも、そのような不誠実な真似をしたいともフェレシュテフは思っていない。
 フェレシュテフは笑顔の仮面を外し、気味の悪い笑みを浮かべているモーハンの目をじっと見つめた。

「私は妻子ある男性と関係を持つ気は一切ありません。お断りします。お金を払われても、体を差し出したりはしません。私はもう娼婦ではありませんから。私の心も体も、私の大切な人のものです」

 毅然とした態度で反論をすると、モーハンは露骨に機嫌を損ね、態度を一変させた。目をつけた女に誘いを断られてことで、遊び人を自称しているモーハンの自尊心に傷がついたのかもしれない。

「おい、だったらどうして俺に色目を使ってきたんだ?忘れられねえんだろ、男の味が?相手してやるって言ってんだ、有難く思えよ」
「お客様には平等に接しています。貴方に対して、そのようにしたことはありません」
「あ?俺が勘違いしてるって言いたいのか、お前?娼婦のくせに偉そうな態度を取ってんじゃねえよ!!」

 あくまで自分に非は無いのだと主張するモーハンは激昂し、フェレシュテフの胸倉を掴むと彼女の体を木の幹に叩きつけた。衝撃が強さに眩暈を覚えたフェレシュテフの肩を両手で掴んで、彼女を逃がすまいと、モーハンは彼女の体を幹に押し付けてくる。

「……っ、触らないで……っ!」

 フェレシュテフは逃げ出そうと精一杯もがくが、彼女の力では男であるモーハンの力には到底敵わない。

「お前、言い寄ってくる男全員に、自分には男がいるって言ってるみてえだけど、あれ、嘘だろ?お前が特定の男と一緒にいるところを見た奴が誰一人としていねえんだよ」

 それはそうだろう。誰にも見つからないようにと、ひっそりと逢引をしているのだから。だが、そのことをモーハンに知らせる気はフェレシュテフにはない。「嘘なんて、ついていません」と答えるだけだ。

「嘘じゃねえって言うなら、相手の男は何処にいるんだよ!?連れてきてみろよ、そうしたら諦めてやるからよ!」

 心も体も重ね合わせた相手が亜人の男性であると、モーハンには知られたくない。彼はきっと町中の人々に言い触らしてしまうだろうと、フェレシュテフは危惧した。そんなことになれば、チャンドラの立場が悪くなる。絶対に口を割るものかと決めたフェレシュテフは唇を噛み締め、モーハンの問いに答えることを拒絶する。

「ほら、さっさと吐けよ!!相手は誰だ!連れて来いって言ってんだろうが!!」
「……っ」

 業を煮やしたモーハンがフェレシュテフの細い体を乱暴に揺さぶる。背中と後頭部を幹に打ち付けられて痛みが走るが、フェレシュテフはだんまりを決め込む。噛み締めた唇から血が滲み、口の中に鉄の味が広がろうとも、フェレシュテフは耐える。

「口が裂けても言えねえってか?ということはお前、もう既にどこかの金持ちの愛人に納まってんのか?それじゃあ、俺の遊び相手になるのも一緒じゃねえかっ!!」

そ んなことは絶対にないと言う代わりに首を横に振ると、モーハンは彼女の頬を引っ叩いてきた。頭に血が昇ると、暴力的になる人間なのだろう。

「そうじゃねえっていうなら、相手の名前くらい言えるだろうがっ!!……もういい、やっちまえばこっちのもんだ。伊達に女遊びしてねえから、直ぐに天国に連れていってやるよ」
「っ、いっ、嫌……っ!!」

 両肩を掴んでいるモーハンの腕から逃れられないでいるフェレシュテフは、口付けされそうになる。必死に顔を背けて抵抗するが、遂に唇が重なってしまった。モーハンの唇が気持ち悪くて、思わず吐きそうになる。それを何とか堪えたフェレシュテフは反撃に出た。油断しているモーハンの唇を噛み切って怯ませ、脛を思い切り蹴りつけてやったのだ。フェレシュテフのまさかの反撃にモーハンと口を脛を押さえて、その場に蹲った。

(逃げなくちゃ……っ!)

 何処でも良い。この場から逃げ去らなくては。無理矢理に奪われた唇を腕で拭い、駆け出そうとしたその瞬間のことだ。フェレシュテフは足首を掴まれてしまい、体勢を崩して、地面に倒れ伏した。彼女が起き上がる前に、すかさずモーハンが彼女の上にのしかかる。

「てめえっ!よくもやってくれやがったな!!」
「……っ!」

 怒髪衝天したモーハンが拳を振り上げる。殴られるのだと確信したフェレシュテフは涙の滲む目を硬く閉じて、襲い来る衝撃に備えた。だが、それはやって来なかった。

「俺のフェレシュテフに汚い手で触るな、人間」

 音も無く現れた”誰か”はモーハンの首根っこを鷲掴みにして持ち上げると、その体を軽々と投げ飛ばした。地面に体を叩きつけられたモーハンが「ぎゃっ」という情けない悲鳴を上げる。

「……ったく、お前は……襲われるのが得意なのか?」

 呆れたように呟いて、”誰か”がフェレシュテフに触れ、震える体を起こしてやる。人間とは違う掌の感触に、フェレシュテフは弾かれたように顔を上げた。フェレシュテフの危機を救ってくれたのは――チャンドラだった。

「あ……っ」

 ”あなた”と言ってしまいそうになり、フェレシュテフは咄嗟に口を噤む。フェレシュテフとチャンドラの関係をモーハンに悟られてはいけない、と思ったのだろう。

「……ちっ、あの野郎、フェレシュテフに怪我させやがって……然も口付けまでしやがったのか……後で匂いをつけ直さねえと……」

 膝をついてフェレシュテフの顔を覗きこんだチャンドラはぶつぶつと独り言を言いながら、親指の腹で彼女の傷ついた唇をなぞる。その際に痛みが走り、フェレシュテフが顔を歪めると彼は「悪い」と呟いて、殴られて腫れてしまっているフェレシュテフの頬を労わるように撫でてきた。その手の温もりにほっとしたフェレシュテフは、ぽろぽろと涙を零してしまった。

「他に痛いところはねえか?」
「平気、です……っ」

 泣くのを堪えているフェレシュテフを立たせてやり、チャンドラは彼女の体や服についてしまっている土を払ってやった。出来るだけ力を加減してやったが、どうなのだろうかと多少心配しつつ。
 そうしているうちに悶絶していたモーハンが起き上がりついでに怒鳴り散らしてきた。

「……ってえな!!何するんだよ、この野郎っ!!」

 睨みを利かせていたモーハンだが、自分を投げ飛ばした相手が虎の亜人(ドゥン)の男だと分かり、肝を潰す。

「な、何で亜人がこんな所に……?待てよ、てめえ、今、俺のフェレシュテフとか言ってなかったか?まさか、その女の情夫って言うのは……!?」
「あん?俺の番を助けて何が悪いってんだ?つーか、俺の番に手を出してんじゃねえよ、人間。殺しはしねえけど去勢はするぞ、強制的に」

 チャンドラがあまりにも堂々たる態度をとっているので流されかけたが、フェレシュテフは直ぐに我に返り、勢い良く首を左右に振りながらチャンドラから距離をとった。

「ち、違います、私は、この方の番ではありませんっ。違います……っ!」

 この甘やかで苦しくもある秘密が露呈することを恐れたフェレシュテフは一所懸命否定するが――チャンドラは離れていこうとする彼女を抱き寄せて、宥めるようにその背を擦った。

「フェレシュテフ、隠さなくて良い。……もう、良いんだ」
「……っ」

 彼女を落ち着けようとして、チャンドラは意識して優しい声を出したのだが――それは逆効果だった。泣き出してしまったフェレシュテフはか細い声で「御免なさい」と繰り返す。チャンドラは笑いながら、「気にすんな」と一言返した。

「お前、おかしい、頭がおかしいっ!亜人の男と交わるなんて、正気の沙汰じゃねえ!……ははっ、流石は娼婦だな、男手あれば人間だけじゃなくて亜人でも股を開くのかよっ!?大人しそうな顔して、とんだ色狂いだなっ!!」
「おい、いい加減にしろよ、人間……」

 額に青筋を浮かべたチャンドラはフェレシュテフをその場に残して、虚勢を張るモーハンに近づいていく。彼の歩幅は人間の男よりも広いので、あっという間に距離が詰められた。
 怒りの炎を宿したチャンドラの青い目に射抜かれたモーハンは恐怖のあまり後退るが、いつのまにか木の下に追い詰められていた。逃げ場がないことを悟ったモーハンは、カチカチと歯を鳴らす。

「フェレシュテフを侮辱するな、人間。これ以上フェレシュテフを貶めるっていうなら……永遠に口を利けないようにしてやろうか?人間どもは鼻が利かねえんだ、俺がてめえを始末したことになんか……そう簡単には気づきゃしねえよ……」

 殺気を放っているチャンドラを目にしたことがないフェレシュテフは、普段の彼との違いに驚き、言葉も出ない。ただただ、成り行きを傍観していることしか出来ないでいた。

「や、止めろっ、殺さないでくれっ、俺には妻も子供もいるんだ……っ!」
「だったら妻子を大事にしておけよ。調子に乗って、俺の番に手を出すから、こんなことになんだよ。てめえのどうしようもない女好きを呪え、馬鹿がっ!!」
「ひい……っ!!」

 チャンドラが突き出した拳は、モーハンの顔ではなく、彼の背後の木に当たる。チャンドラに殴りつけられた木はバキバキと音を立てて、真っ二つに折れてしまった。若しも彼の拳がモーハンの顔を殴りつけていたのであれば――この場は凄惨な殺人現場と化しただろう。
命は取り留めたものの、凄まじい恐怖を味わったモーハンは情けない顔をして、失神してしまった。

「……ふんっ」

 チャンドラは不機嫌そうに鼻を鳴らして踵を返し、呆然と立ち尽くしているフェレシュテフの元まで戻っていく。そして彼女を抱き上げ、自分の住処とは違う方へと歩き始めた。

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