どの雲も裏は銀色

《本編》

氷は融けゆくか、否、ただ罅が入るのみか

 父親と子息は向き合い、じっくりと話し合ったようだ。その結果、ヴラディスラフはスネジノグラードへと戻っていくことを決めたのだという。精神が不安定になっているキリールの支えになってやりたい、自分の勝手で引き起こしてしまったことの責任を取りたいと、彼は淡々とした口調でフェレシュテフに告げてきた。
 そうすることで全てが丸く収まるのかどうかは、誰にも分からない。けれども、何もしないよりはましだ。そう感じたフェレシュテフは、異論はないと頷いた。

「フェルーシャをこの町に一人残していくのは不安だ。様々な問題があるのは理解している。きっと君に嫌な思いばかりをさせてしまうことだろう。それでも私は、君をスネジノグラードに連れて行きたいと思っている」

 このことを耳にして、どう思うのか。ヴラディスラフは率直な意見が聞きたいと、食卓の対面に座しているフェレシュテフに尋ねてきた。フェレシュテフはフセヴォロドが淹れてくれたマサラチャイの香りを嗅ぎながら、暫し黙考する。

「……若様には、そのことについての御了承を頂いているのですか?」
「今度こそは、ちゃんと了承をして貰っているよ。……信用しては貰えないだろうけれども」

 信用を失うだけの真似をしてきたのだから、フェレシュテフに疑われても仕方のないことだと、ヴラディスラフは自嘲気味に笑って言った。

「御気持ちは大変嬉しく思います。けれども……申し訳ないのですが、折角の申し出をお断わりさせて頂きます」

 良いことも悪いことも含めて、沢山の思い出が詰まったマツヤの町を離れて、針の筵というべき異国の地へと赴く勇気はないと、フェレシュテフは正直に告白する。もう一つの理由があるのだが、そちらはヴラディスラフには告げずに、胸の内に秘めておく。

「……分かった、君の意見を尊重しよう。無理強いはしない。それともう一つ……君に伝えたいことがあるんだ、ついてきて貰えるかな?」

 ぎこちない動きで席を立ったヴラディスラフが彼女を案内したのは、人間の居住区だった。更に其処はフェレシュテフにとって最も馴染み深い区域だ。彼が足と杖を止めたのは、嘗てフェレシュテフが母親と共に暮らしていた、あの小さな家だった。

「全く買い手がつかなかったそうだから、買取の話をもちかけたら、あっさりと売ってくれてね」

 然し建物自体が老朽化していたので、再び人が暮らしていくには修繕が必要な状態だった。ヴラディスラフは大工を手配し、建物の補強と修理をさせてから、フェレシュテフにこのことを知らせようとしていたのだと告げてきた。彼は徐に懐から封筒を取り出すと、唖然としてしまっているフェレシュテフに渡してきた。封筒の中に入っているのは、土地と建物の権利書で、所有者の欄にはヴラディスラフではなく、フェレシュテフの名前が記載されていた。

「此処で暮らしていっても、良い、ですか?」
「勿論だとも」

 その為にこの家を買い戻したのだと言って、ヴラディスラフは苦笑を浮かべる。

「……この家を買い戻してくださって、有難う御座います。出来ることなら、手放したくなかったのです……」

 借金の返済に充てる為に家を手放して以来、フェレシュテフは此処に近寄ろうとはしなかった。自分ではない誰かが暮らしている光景を目にするのが悲しくて、怖くて、近寄ることが出来なかったのだ。

「私に出来るのは資金援助くらいだ。これからも困ったことがあれば……直ぐに私に頼って欲しい。償いを抜きにしても、私は君の力になりたいと思っている」

 それが父親でありたい者の務めだと、ヴラディスラフはフェレシュテフの目を真っ直ぐに見て告げた。
 フェレシュテフがこの家で暮らすことになり、ヴラディスラフとフセヴォロドがスネジノグラードに戻るというのであれば、三人で暮らしていたあの家はどうするのか。そのことを疑問に思ったので、フェレシュテフは彼に尋ねた。懐かしさと寂しさを織り交ぜた複雑な表情をして家を眺めていたヴラディスラフが視線を戻して、彼女の問いに答えてくれた。亜人の居住区に構えているあの家は引き払い、使っていた家具も売り払い、そうして得たお金はフェレシュテフに渡すつもりなのだそうだ。

「大した額にはならないかもしれないが、生活費の足しにはなるだろう。必ず、受け取って欲しい」
「……分かりました、有難う御座います」

 ふと、寄って行きたい場所があると思いついたフェレシュテフはヴラディスラフにその旨を伝え、二人はここで一度別れることにした。ヴラディスラフはゆっくりとした足取りで、亜人の居住区の方へと帰っていく。
 彼とは違う方向へと歩いていったフェレシュテフが訪れたのは、共同墓地にあるナーザーファリンの墓前だった。フェレシュテフはこの場所で眠っている母親に、これまでの出来事とこれからの出来事を報告していく。

「どうなっていくのか分からないことに不安はあるけれど、でも精一杯、やっていくわね。どうか見守っていてね、お母さん……」

 伝えたいことは全て伝えられただろう。買い戻して貰った家で暮らしていく為に、ぼちぼちと荷造りを始めていかなくてはと、フェレシュテフは母親の墓前から立ち去っていく。「また報告に来るわね」と語りかけてから。

(あら……?)

 共同墓地の入り口付近に馬車が止まっている。視線を動かした先でシャフラーイの姿を見つけてしまったフェレシュテフは思わず歩みを止めてしまった。
 フェレシュテフに気がついたらしいシャフラーイが馬車籠に向けて言葉をかける。すると中からキリールが現れてたものだから、フェレシュテフは完全に凍りつく。後に続こうとするシャフラーイを制したキリールは、立ち尽くしているフェレシュテフの前までやって来た。

(まだ何か……私に言い足りないことがあるのかしら……?)

 順調には行かなかったが、結果として、事はキリールの望む形に収まったはずだ。彼はもうフェレシュテフに用は無いはずではと、彼女は彼に胡乱な目を向けてしまう。

「……時間に余裕はあるカ、フェレシュテフ。それほど時間はとらせナイ。直ぐに終わらせル」
「そのようでしたら問題はありませんわ、若様。私めに御用とは如何なさいましたか?」
「……先日は申し訳ないことをシタ。その謝罪をしニ、貴方の下へとやって来たのダ」

 キリールは躊躇いがちに、ぼそぼそとした口調で話を切り出してきた。まさかキリールの口からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったフェレシュテフは、ぽかんと口を開けてしまう。目を逸らしているのでキリールはフェレシュテフの様子に全く気がついていない。

「……貴女の母君を侮辱してしまったコト、あなたに手を上げてしまったこコトは紳士にあるまじき恥ずべき行為ダ。深く反省をしてイル。……その、傷は……痛むのカ?」

 僅かに怯えの色を孕んだキリールの目が、フェレシュテフの顔――頬延べの辺りに向けられる。フェレシュテフはその箇所に触れて、笑顔の仮面を顔に貼り付けた。

「未だ痣が残っておりますが、痛みはもうありませんわ」
「そうカ、それは、良かっタ……」
「私の方こそ、若様に手を上げてしまい、申し訳ありませんでした」

 ほっと安堵の息を吐いているキリールにフェレシュテフが謝罪をすると、彼は複雑そうな表情で彼女を見てきた。そして、話題は別のことに移る。

「父上はフセヴォロドを伴ってスネジノグラードにお戻りなるガ、貴女も訪れるつもりなのカ?」

 フェレシュテフも当然のようについてくるのだろうと思っている口ぶりで、キリールが問うてくる。フェレシュテフは首を左右に振り、それを否定した。これまで通りマツヤの町で暮らしていくつもりだと伝えると、その答えが意外だったのか、キリールは僅かに瞠目していた。

「何故この町に留まるのダ?父上のお傍にいる方ガ今よりモ遥かに良い暮らしが出来るのだゾ?」
「それでは私めも若様にお尋ね致します。私がスネジノグラードへ赴くつもりだと答えておりましたら……貴方様はどのように思われますか?」

 スネジノグラードの地でフェレシュテフに敵意の目が向けられたならば、ヴラディスラフは迷うことなく彼女を庇うだろう。父親の目が彼女に向くことが許せないキリールに耐えられるのか。父親の機嫌を取ろうと心を殺して、毛嫌いしているフェレシュテフに掌を返したように気遣う振りをすることが出来るのか、などとフェレシュテフは意地の悪い問いかけをキリールにした。
 案の定、キリールは言葉を詰まらせた。暫しの間思案顔を浮かべていた彼は意を決したように、けれども躊躇いがちにフェレシュテフの質問に答えてきた。

「……僕は貴女がスネジノグラードにやってくることに賛成しナイ。母上を傷つけるような真似はしたくナイ。あの方は、哀れな方だから……」

 翠玉の目が翳ったように見えたが、フェレシュテフは見ない振りをした。彼が抱え込んでいるもの、彼の母親が抱え込んでいるものを解き解していくのは彼らと、ヴラディスラフだ。”他人”であるはずのフェレシュテフが首を突っ込んで良いことではないと、彼女は判断した。

「フェレシュテフ。僕は絶対に貴女を”異母姉(あね)”であるとは認めナイ。ヴラディスラフ・ラディミーロヴィチ・ネクラーソフの子女ハ、正妻プラスコーヴィヤ・イオーシフォヴナとの間に生まれタ、この僕……キリール・ヴラディスラヴォヴィチ・ネクラーソフだけダ」

 それが己の矜持なのだとキリールが言っているような気がした。フェレシュテフは彼の言葉を否定しないことにした。

「……若様の仰せの通りに。私めも貴方様を”異母弟(おとうと)”であると勘違い致しません、御安心ください」

 半分だけ血が繋がっているらしいキリールを目にしても、近親の情は全く湧いてこない。髪と肌の色が違うからそう思うのか、繋がりが見えてこないから実感がないだけなのかはフェレシュテフ自身にもよく分からなかった。キリールに言われるまでもない、という思いを僅かに込めて言い放ってしまったことは大人気なかったかもしれないとフェレシュテフが省みていると、キリールが再び口を開いた。

「貴女が父上の庶子であると認めはしないガ……貴女がこれから過ごしていく日々が安寧であるようニト、ほんの少しばかり……祈ることにスル」
「……有難う御座います、若様」

 想像もしていなかった言葉がまたしてもキリールの口から飛び出してきたので、フェレシュテフは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまった。だが、何とか咄嗟に謝辞を述べることが出来たので内心でほっとしている。

「……旅の支度が途中なのデ、これで失礼すル」
「畏まりました。ごきげんよう、若様。長の旅路が安泰でありますよう、心よりお祈り申し上げます」

 キリールは気まずそうに「ふん」と鼻を鳴らすと踵を返し、足早に待機している馬車の所まで戻っていく。そして馬車籠に乗り込み、共同墓地から去っていった。その素早さに、フェレシュテフは呆気にとられた。

「……どういう心境の変化なのかしら?」

 そういえば今回は、キリールに敵意の篭った視線を一切向けられなかった。彼は終始、どこか殊勝な態度を取っていたように見受けられる。
不可思議なこともあるものだと首を傾げたフェレシュテフは、心なしか軽く感じられる足どりで共同墓地を後にした。

***************

 帰国するに当たって、ヴラディスラフとフセヴォロドは職場を辞することになった。勤め先である”ヴィクラム商会”の主、鰐の亜人(マカラ)のヴィクラムに退職を願い出たところ、真面目な働き手である二人が抜けることを惜しまれつつも受諾して貰えたようだ。けれどもヴラディスラフの仕事の引継ぎなどがあるので、退職をするまでにはもう少しばかりかかる。三人で暮らしている家の引渡しについてはすんなりと話が纏まり、一週間以内に出て行くことが決まった。後は不必要な家具などを売り払ったり、フェレシュテフの引越しを手伝う作業だけだ。

「さあ、行こうか。セーヴァ、頼んだよ」
「うむ」
「あの、本当にお手伝いをしなくても良いのですか?」
「うむ、セーヴァに任せるのだ」

 この日は、フェレシュテフの引越しをする日となった。”ヴィクラム商会”で借りてきたという小さめの荷車――巨躯の亜人が扱う代物なので、小さなものでも充分に大きい――にフェレシュテフの荷物と彼女自身、そしてヴラディスラフを乗せて、フセヴォロドが荷車を牽いていく。フセヴォロド一人でこの重量の荷車を牽いていけるのかとフェレシュテフは不安になったが彼女の心配を他所に、彼は平気な顔をして荷車を牽いている。

「晴れ上がった空には雲がない。この良き日に引越しをすることが出来て良かっただろう、フェルーシャ?」
「はい」

 初めのうちはおろおろしながら見守っていたフェレシュテフだが、心配は不要だと分かると短い間過ごした亜人の居住区の町並みを眺めていた。
 人間の居住区内に入ると、途端に道幅が狭くなる。フェレシュテフとヴラディスラフには慣れた道幅だが、竜人(ジラント)であるフセヴォロドには狭すぎる道幅だ。荷車を移動させるのに多少苦戦したが、何とか”フェレシュテフの家”にたどり着くことが出来た。

「……この家は小さすぎる。セーヴァは中に入ることが出来ない……」

 人間であるフェレシュテフたちでさえも小さいと思う大きさの家は、巨躯を誇るフセヴォロドからしたらかなり大きな犬小屋のように感じられるかもしれない。少々無理をして背を丸めれば中には入れないこともないが、それではフセヴォロドが身動きをとれず、邪魔になってしまう。そもそも入り口も人間仕様なので、縦も横も幅があるフセヴォロドは其処を通過することさえも困難だった。

「……セーヴァは手伝いをしたい。だが、家がセーヴァを拒むのだ」
「そのお気持ちだけで充分ですわ、セーヴァさん。落ち込まないでくださいませ……」
「セーヴァ、君にも出来ることはあるよ。荷車から荷物を下ろすことは出来るだろう?労いの言葉をかけることも出来る。さあ、元気を出して」
「……うむ」

 しょんぼりとしてしまっているフセヴォロドを宥めたヴラディスラフは、「家の中に荷物を運び入れる手伝いをして貰えないか」と、近所の人々に声をかけた。薄謝を呈する、という彼の言葉を聞きつけた人々が集まり、荷物運びを手伝っても貰う。中にはフェレシュテフが娼婦をしていたことを知っている者がいて、彼女を色眼鏡で見てきたが、彼女は気付いていない振りをして終始笑顔を振り撒いて、彼らの相手をしていた。

「どうも有難う御座いました。親切な方々に恵まれたことを感謝します」

 荷物運びを手伝ってくれた人々にヴラディスラフが宣言した通りにお金を手渡していく。ささやかな額ではあるが、お金を貰えたことに満足した人々は散っていった。

「有難う御座います、ヴァージャさん、セーヴァさん。お疲れになりましたでしょう、中でお茶でも……」

 そこまで言って、フェレシュテフははっとする。ヴラディスラフは問題ないが、フセヴォロドには問題があったことを思い出した彼女は表情を曇らせた。

「セーヴァのことは気にするな。セーヴァは外でのんびりと茶を嗜もう」

 明後日の方向を眺めながら、フセヴォロドは哀愁を漂わせている。二人は顔を見合わせ、遠慮しつつも中でお茶を飲むことにした。
 先ずはヴラディスラフに紅茶を振舞い、フェレシュテフは一度外に出る。入り口の傍で待機しているフセヴォロドにも紅茶を振舞い、彼女は中に戻ってきた。
 穏やかな表情で紅茶を楽しんでいるヴラディスラフに改めて、近所の人々に声をかけて荷物運びを手伝って貰い、彼らに謝礼を払ってくれたことへの感謝を伝える。そこで、会話が途切れた。その場の空気がしんと静まり、フェレシュテフは何だか気まずくなってくる。何か話題はないかとフェレシュテフが考えを巡らせていると、ヴラディスラフの方から話を切り出してきた。

「スネジノグラードへと戻った後、年に一度はナージャの墓参りに訪れたいと思っているのだが……それは可能だろうか?」
「それは、ヴァージャさんの自由です。母が言うならまだしも、私がとやかく言うことではないと……思います」
「そうか。それでは……君の様子を窺いに来ても良いかな?」
「ここまでして頂いたのですが、それくらいは問題ありません。でも……若様の許可を頂いてからいらっしゃってくださいませね」

 キリールに嫉妬の炎を燃やされては敵わないと、フェレシュテフはつい意地の悪いことを言ってしまった。彼女の言葉を耳にしたヴラディスラフは、苦笑を浮かべるしか出来なかった。

「……ああ、そうだ。これを渡しておかないと……」

 ヴラディスラフは胸元から何かを取り出し、フェレシュテフに差し出してきた。彼の手の内にあるのは、目玉のお守り(チェシィ・ナザール)がついた首飾りだ。だがそれは罅割れていて、歪な形をしている。

「旅のお守りにと、ナージャが私に渡してくれたものだ。……私の不注意で壊してしまってね、直したのだけれど、このように不恰好になってしまった。ナージャに返そうと思っていたのだが、中々手放せなくてね」

 元々はナーザーファリンの物なので、彼女の娘であるフェレシュテフが持っていた方が良いだろうとヴラディスラフは結論づけたらしい。歪な形のお守りがついた首飾りを受け取ったフェレシュテフは、それをまじまじと見つめ、自信が身に着けているもう一つのお守りを握りしめた。
 ヴラディスラフに渡されたお守りにはどのような願いが篭められていたのだろうと、フェレシュテフは亡き母ナーザーファリンに思いを馳せる。

『これはお父さんがお母さんに贈ってくれた物よ。悪い視線を避けるこのお守りにはね、お父さんの思いも篭められているから……きっとフェルーシャを守ってくれるわ』

 そう言って、ナーザーファリンは幼いフェレシュテフに目玉のお守りがついた首飾りをかけてくれた。そのことを思い出したフェレシュテフの胸に言いようのない思いが込み上げてくる。

「……あの……ヴァージャさんのことを、”お父さん”とお呼びした方が……宜しいですか?」

 不意に浮かんできた言葉が口を突いて出てしまっていた。フェレシュテフの唐突な問いかけにヴラディスラフは面食らったようだが、直ぐに平静を取り戻した。

「そのように呼んで貰える資格は、私にはない。……君が呼びたいように呼んでくれたら良いんだよ」
「……そう、ですか」

 是非とも”お父さん”と呼んでくれ、と、言われなかったことにフェレシュテフは少し安堵していた。気持ちの整理がついているとは言い難い今、彼のことを”お父さん”とは到底呼べそうにない。

「そろそろお暇しよう。いつまでもセーヴァを外で待たせていては、彼が茹で上がってしまいそうだ」
「……セーヴァは未だ、茹で上がってはいない」

 ヴラディスラフの軽口が聞こえたらしく、不満そうに目を細めたフセヴォロドが開け放しにしていた入り口から顔を覗かせた。心なしか暑さに中てられて、ぐったりとしているように見受けられる。

「……あの、お見送りには、必ず参ります」
「有難う、”フェルーシャさん”」

 二日後の昼前に、ヴラディスラフたちは船に乗っていってしまう。別れの時が迫っているのだと実感したフェレシュテフは、キリールが待っている高級宿屋へと向かっていく二人の背中を見送った。

***************

 ――別れの日。
 停泊をしている客船の前でフェレシュテフやヴラディスラフとフセヴォロド、そして彼らの仕事仲間数人と雇い主が別れを惜しんでいた。キリールはシャフラーイと共に既に船に乗り込んでいるので其処にはいない。フセヴォロドと親しそうにしていたチャンドラの姿もなかった。”ヴィクラム商会”の主、ヴィクラム老――大人のマカラは外見の変化が少ないので年齢が判別し辛い――によると、辛気臭くなる別れの場にいるのが苦手なのでチャンドラは逃げたらしい。何となくチャンドラらしいと思ったフェレシュテフは、こっそりと微笑んだ。
 出航の時が近づき、ヴラディスラフはフセヴォロドに支えられながら船に乗り込んでいく。そして彼らは甲板に出て、船着場にいるフェレシュテフたちに手を振ってきた。
 やがて出航を知らせる汽笛が鳴り、碇を引き上げた船がゆっくりと動き始める。船着場に集まっている人々は船上の人々に向けて千切れんばかりに手を振ったり、別れの言葉を叫んだりしている。その中でフェレシュテフは手を振ったりせずに、ただただヴラディスラフとフセヴォロドを見つめていた。
 彼らを乗せた船が水平線の彼方に消えていくまで、ずっとそのままでいた。

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