どの雲も裏は銀色

《本編》

言い分(壱)

 ヴラディスラフの子息であるという美貌の少年、キリール。彼が突然この町に現れて以来、穏やかな日々は鳴りを潜め、ピリピリとした空気に包まれているので居心地が聊か悪い。町中を歩いているフェレシュテフは地面に目を落として、小さな溜め息をつく。
 昨夜も昨夜でキリールが現れ、ヴラディスラフの説得を試みては失敗し、肩を落として帰っていった。去り際に、フェレシュテフを憎しみいっぱいに睨みつけていくことを忘れずに。キリールは、フェレシュテフとヴラディスラフが実の親子であると主張する。一方のヴラディスラフは、それは違うと否定する。どちらの言い分が正しいのか、フェレシュテフにはよく分からない。必要な情報が充分に与えられていないからだろうか。
 それならばヴラディスラフに最も近しい人物――フセヴォロドに力を借りようと、彼女は考えた。彼はヴラディスラフのことを古くから知っている上に、何より、フェレシュテフに不可思議な力を貸してくれた。彼ならば協力してくれるだろうと期待したのだが――フェレシュテフの思い通りに事は進んでくれなかった。

『すまない、フェルーシャ。セーヴァはフェルーシャが求めていることを、話すことは出来ない。セーヴァはヴァージャを裏切るような真似は出来ぬのだ……。余計なお節介は、ヴァージャに叱られてしまうのだ……』

 ヴラディスラフは先手を打って、フセヴォロドに口止めをしていた。ヴラディスラフの不可解な行動は、キリールの主張を肯定しているようなものだとしかフェレシュテフには思えなかった。

(ヴァージャさんは口を割る心算はない。セーヴァさんはヴァージャさんに叱られたみたいで、しょんぼりとしてしまっているから、何だか可哀想で問い詰められないし……。真実を知っているだろうお母さんは、もうこの世の人ではないし……)

 彼ら以外に一人だけ、尋ねられそうな人物が思い当たる。だが、その人物はどうにもフェレシュテフを毛嫌いしているようにしか見えないので、彼女は首を横に振って、その考えを払拭した。きっと口を利いてはくれないだろうと、容易く想像出来た。

「……私だけ除け者になっているようで、嫌だわ」

 お前は関わっているのだと言うのであれば、ちゃんと話してくれても良いではないか。フセヴォロドもあの時に言っていた、フェレシュテフにも事実を知る権利があるのだと。その通りになってくれても良いではないか。そんなことを考えているうちに、フェレシュテフは目的にしていた場所に辿り着いていた。

 憂鬱になってしまいそうになると、フェレシュテフは或る場所へと赴くことが多い。一ヶ所は、最愛の母ナーザーファリンが眠る共同墓地で、もう一ヶ所は人間の居住区側にある港近くの浜辺だ。月に一度の墓参りはもう済ませてしまっているので、彼女は今回、後者を選んだ。
 悪天候の為か浜辺には漁師の姿も、波打ち際ではしゃぐ子供たちの姿も殆どない。妙に静かで、打ち寄せる荒い波の音が強く聞こえる。その場で立ち尽くすフェレシュテフは遥か向こうに見える水平線を眺めながら、過ぎ去った昔の出来事を思い出していた。
 幼い頃のフェレシュテフはよく泣きべそをかいていた。多くの町の人間とは違う色を持っていることをからかわれたことが悲しくて、悔しくて、恥ずかしくて。家に帰ると、内職に精を出していたナーザーファリンは手を止めて、泣きじゃくる娘を抱きしめて慰めていたものだ。時にはこの浜辺まで連れ出してくれることもあり、その際には「思いきり泣いてしまいなさい。すっきりするわ」と言って、大声を出せてくれたりもした。そして必ず最後には、魔法の言葉をくれるのだ。

『貴女の髪の色はお日様の光に当たると、金糸のようにキラキラと輝いてとても綺麗ね。貴女の緑色の目は宝石のようだわ。お母さんは髪も目も真っ黒だから、貴女が羨ましいわ』
『貴女のお父様もね、貴女と同じ髪と目の色をしていらっしゃったの。貴女が生まれた時、そのことを物凄く喜んでくださったのよ』
『お母さんは貴女の髪と目の色が大好きよ。貴女のことが、大好きよ』

 ”皆”と違うことを悲しむことはない、恥ずかしく思うことはない。異なる国で生まれ育った父母の良いところを併せ持って生まれたのだと誇りに思って欲しいと、ナーザーファリンは娘に言って聞かせていた。母の魔法の言葉はフェレシュテフに勇気を与えてくれる。落ち込んだりした時には思い出に浸りたくなって、それを強く思い描ける場所へと足を運び、心を落ち着けるのだ。
 フェレシュテフは徐に空を仰ぐ。薄曇りだった空はより黒味を増していて、次第に雨が降り出してきそうな気配が強くなっている。その前に家に戻ろうと、踵を返した瞬間に、不意に彼女の脳裏に或る光景が思い浮かんできた。

(そういえば……一度だけ、お母さんは此処で泣いていたわ)

 それは確か、彼女が三つか四つくらいの頃のことだっただろうか。どうしてそうなっていたのかは覚えていないのだが、その時の光景を断片的には覚えている。フェレシュテフの小さな手を握りしめて、海を渡る船を睨みつけるようにして、ナーザーファリンは唇を噛み締めながら泣いていた。

『逢いたい、逢いたいわ、――。どうして、逢えないの?』

 あまりにも幼い時分の記憶なので、ナーザーファリンがこの通りのことを言っていたのかどうだったのか。そうだったと胸を晴れる自信はない。あの日のナーザーファリンは誰を思って泣いていたのか。それは、誰だ?

(……逢いたいと言うからには、お父さん、よね?)

 母国に戻り、そのまま病死してしまったのだという夫――フェレシュテフの父親――に、ナーザーファリンは思いを馳せたのか。

(……待って。どうしてお父さんはスネジノグラードに戻ってしまったの?)

 駆け落ちまでして結ばれた妻と、物心もついていない我が子を置いてまで母国に戻った理由を、フェレシュテフはナーザーファリンから聞かされたこともなければ、そのことを母に訊いた試しもない。そのことよりも明日の生活の方が大事だったから、頭の中から除外していたのだろうか。
 フェレシュテフがもたもたとしているうちに、ぽつりぽつりと小さな雨粒が空から降ってきてしまった。びしょ濡れになるのを免れようとして、フェレシュテフは小走りで浜辺を後にする。亜人の居住区を目指して人間の居住区の中を駆けていると、誰かに声をかけられたような気がした。フェレシュテフは自然と足を止め、声がした方へと顔を向ける。彼女の視線の先にいたのは、町の住人とは違う肌の色をした髭面の体格の良い男性だ。彼はシャフラーイといって、キリールに付き従っている人物だとフェレシュテフは記憶している。シャフラーイは停車している馬車の前に佇んでおり、すました顔をしてフェレシュテフを見ていた。
 若しかして、待ち伏せをされていたのだろうか。それとも、どこかからずっと跡をつけられていたのか。何となく、嫌な予感がしたフェレシュテフは身を強張らせる。

「フェレシュテフとやら。ネクラーソフ伯爵子息キリール様がお呼びだ」

 御者の男性に命じて扉を開けさせ、早く馬車に乗れと言わんばかりにシャフラーイが顎をしゃくった。

(……どういうことかしら?)

 あのキリールから呼び出しを受けるとは思ってもみなかったので、彼女はつい、怪訝な表情を浮かべてしまう。あれだけフェレシュテフを毛嫌いしていると、全身で主張していたというのに。

「何をしている。さっさとしろ」

 立ち竦んで動かないフェレシュテフに痺れを切らしたらしい。シャフラーイは大股で彼女に近づくと、断りもなく彼女の腕を掴むと、馬車の方へと引き摺っていく。

「シャフラーイ様。若様は、私めに何の御用があると仰るのでしょうか?出来ましたら、理由を教えては頂けませんか?」
「今尋ねずとも、後に分かることだ。私の言葉に従え。尚、下民である貴様に若君の御命令に逆らう権利はない」

 フェレシュテフの問いに耳を貸さないシャフラーイは強引に彼女を馬車の内へと押し込むと、自身も乗り込んだ。準備を整えた御者にシャフラーイが命じると、馬車はゆっくりと発進した。

***************

 小雨の降る中を、フェレシュテフとシャフラーイを乗せた馬車が進む。
 雨粒が馬車に当たって奏でる軽快な音を耳にしながら、フェレシュテフは痛いほどの沈黙に耐えていた。目的地に辿り着いたのか、やがて馬車が動きを止める。御者が扉を開けると、シャフラーイは彼に命じてフェレシュテフを降ろさせるなり、彼女を置いてさっさと建物の中に入っていってしまう。

「此処は確か……?」

 彼女の目の前にあるのは、渡航してきた外国人の為に建設された宿で、マツヤの町でも一等高級であると謳われている場所だ。フェレシュテフが娼婦時代に耳にした噂話では、一晩宿泊するだけでマツヤの一般的な家庭の二か月分の生活費に相当するほどの額が必要となるらしい。
 フェレシュテフはシャフラーイの跡を追う為、恐る恐る宿の中に足を踏み入れる。重厚で豪奢な作りの木の扉の向こうには、別世界が広がっていた。天井に吊るされている透明度の高い硝子細工の巨大な照明器具、それを映し出すほどに磨かれた大理石の床、煌びやかな数々の調度品で飾られた絢爛豪華な世界に圧倒されて言葉を失っているフェレシュテフに気が付くと、先を歩いていたシャフラーイは顔を顰めた。

「何を呆けている。若君を更に待たせるつもりか。無礼にも程があるぞ」
「……失礼致しました」

 自分もなかなか無礼な口を利いているじゃないか、と喉元まで出かかっていた言葉を何とか飲み込んで、フェレシュテフは廊下を歩いていく。
 シャフラーイに案内されたのは異国の調度品ばかりで揃えられている部屋で、室内から手入れが行き届いている美しい庭が見渡せる仕様になっていた。大きな硝子板を利用して拵えられた机の席に腰掛けて、部屋の主――キリールが待ち構えている。相手に気付かれないように息を吐いてから、フェレシュテフは金糸、銀糸が織り込まれた高級なカーペットの感触に感動しつつ、彼の許へと歩み寄った。

「ようこそ、フェレシュテフ」
「ごきげんよう、若様。お招き頂きまして、誠に有難う御座います」

 手短に挨拶を済ませたキリールは気のない様子で、フェレシュテフに向かいの席を勧めてきた。シャフラーイが椅子を引いて待機しているのに若干の不安を覚えつつも、彼女はそれに従う。
 彼女が着席したことを確認してから、キリールは口を開いた。

「率直に言おウ。父上を解放しロ」

 率直過ぎはしないだろうかと呆気にとられているフェレシュテフを無視して、キリールは話を進めていく。

「父上には是非ともスネジノグラードへとお戻り頂きたいのだガ……息子である僕の願いヲ聞き入れてくださらナイ。貴女への償いガ済んでいナイ、の一点張りダ。家族よりモ償いとやらヲ優先さレルとは……父上は如何なおつもりであそばされるのカ。……貴女は知っているのカ?」
「……申し訳ないのですが、私めには伯爵閣下のお心積もりは存じかねます。私は伯爵閣下を束縛など致しておりませんし、償いが何のことを仰っているのかも存じ上げません。若様はそのことを御存知の様子ですので、宜しければ、物知らずの私めに教えて頂けないでしょうか?」

 相手は貴人である。そのことを念頭に置いて言葉遣いを選んだのが、功を奏したのかもしれない。フェレシュテフの尋ね方に気を良くしたらしいキリールは嘲笑を浮かべ、問いに応える姿勢を見せた。

「事の始まりは、二十数年前ニ遡ル。ネクラーソフ伯爵家の次男としてお生まれになった父上は、異国の文化を知る為に諸国を渡り歩いていらっしゃった」

 その時分に立ち寄った砂漠の国で出会ったのが、ナーザーファリンだった。やがて二人は内縁関係となり、ナーザーファリンはヴラディスラフの子供を産んだ。それが、フェレシュテフだとキリールは告げる。二人の内縁関係は続くかと思われたが、或る日、転機を迎える。爵位を継ぐはずだったヴラディスラフの実兄が未婚のまま、子供を残すことなく病死してしまったのだ。爵位継承権第二位の座にあったヴラディスラフはスネジノグラードへと呼び戻されることとなり、ナーザーファリン、フェレシュテフと別れた。
 故国へと戻ったヴラディスラフは父母や周囲の者たちの説得に応じ、爵位を継ぐと同時に結婚をした――予てより婚約話が持ち上がっていた令嬢と。そうして、キリールが生まれる。ヴラディスラフは内縁の妻と子供よりも、爵位と正妻、そして嫡子を選んだはずだったのに、とキリールが苦々しい表情を浮かべる。

「遠い異国の地に捨て置いた女と子供のことヲ、父上は決して忘れようとしなかっタ。父上は立派な御方ダ。一時の遊びとはいえ、血を分けた子供を産んだ野蛮人(イノロードツィ)の女を見捨てきれなかっタのだろう。その証拠に父上は我々に隠レテ、貴女方に月々送金をしていらっしゃっタ。……然し野蛮人の女は父上の善意に甘え、湯水のように金を使い果たした挙句、娘を娼館に売り飛ばし、その上で娘を助けて欲しいなどと書いた手紙を父上に寄越してきたというではないか。父上も御人が良い。嘘を真であると信じて疑わず、こんな薄汚い町にやって来て、嘗て捨てた女の娘を世話してやっているのだからな。……正当な妻である母上と、嫡子である僕を見捨てて」

 これが紛うことなき真実であると、キリールは言い切る。だが、フェレシュテフはその内容に違和感を覚えた。黙ってキリールの話を聞いていたフェレシュテフは意を決して、「恐れながら、若様」と前置きをしてから反論を始めた。

「伯爵閣下が私ども親子と関係があるのだろうことは、理解致しました。ですが、若様が仰ることが真実であるのならば不可思議なことが御座います。伯爵閣下は何故、今頃になって此方においでになったのでしょうか?母に送金をしていたのでしたら、連絡がつくということ。けれど、これまでに一度も伯爵閣下は此方においでになったことは御座いません。お手紙を頂いたことも御座いません。何より……お金を頂いたことも御座いません」
「何を言っているのダ?僕が嘘を言っているとでも言いたいのカ?」
「此方側の事実を申し上げているのですわ、若様。……それから、母が私を娼館に売ったのではありません。私が進んで娼婦になったのです。母の薬代を稼ぎたくて……」

 ナーザーファリンはいつでも、フェレシュテフのことを思いやってくれていた。自分のことならば何と言われようともどうにか我慢出来るが、敬愛する母親を悪く言われるのはどうしても許せない。ナーザーファリンを侮辱するな。フェレシュテフは真摯な目で、仏頂面をしているキリールを射抜いた。

「愛人の娘のくせに、野蛮人のくせに、誰に向かってそのような口を利いてイル?本来であれバ、貴族である僕とは気安く口を利くことも許されない身分にあるのだゾ、貴様ハ……っ!」
「大変申し訳ないのですが、私では若様のお役には立てません。伯爵閣下がなさりたいようになさるだけです。私には、何も出来ません……」
「貴様!父上に選ばれたからといっテいい気になっているのではあるまいナ!?」

 フェレシュテフはヴラディスラフを”父親のようだ”と思うことはあっても、”父親”だとは思っていない。ヴラディスラフは時折、フェレシュテフを知人の娘以上に気にかけていると感じることはあるのだが。ナーザーファリンも、父親はスネジノグラードの人間であると娘に教えはしても、父親の名前がヴラディスラフであるとは一度たりとも口にしたことはなかった。
 段々とある程度の事実が見えてきたような気がしたが、フェレシュテフはそれには触れないことにした。恐らくは叶わないと思うのだが、出来ることなら面倒ごとは避けたい。

「伯爵閣下が母の知人だと仰るのですから、それは事実なのではないでしょうか?」
「そんなはずはナイ!父上はいつだって僕と母上よりも、”ナージャ”と”フェルーシャ”を愛していタ!……本当に血が繋がっているのかどうかも怪しいのだがナ。何せ野蛮人ダ、嘘を吐くくらい造作もないことだロウ。父上は騙されているのダ、貴様たち親子ニ!貴様の母親は悪魔ダ!僕と母上から幸せを奪っていル!貴様も同罪ダ!」

 興奮しているキリールは矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。言いがかりにしても、質が悪い。すうっと血の気が引いていくのを感じながら、フェレシュテフは席を立つと、向かいの席に着いているキリールの許へと移動する。

「ナ、何だ、貴様……っ!?」

 フェレシュテフの異様な姿に怯えるキリールに白眼を送り、彼女は徐に大きく手を振り上げて――キリールの頬を思いきり引っ叩いた。じめついている室内に、高い音が響いた。

『何をする、野蛮人……!?』

 制止が間に合わなかったことに動揺したのか、キリールの傍に待機していたシャフラーイが母国語を口走り、行動に出る。もう一発見舞ってやろうと手を振り上げるフェレシュテフを羽交い絞めにして、主から引き離した。
 フェレシュテフに引っ叩かれたキリールは、じんじんと痛みを訴える頬を押さえ、呆然としている。完全に頭に血が昇ってしまっているフェレシュテフはキリールを睨みつけ、怒鳴りつけた。

「お母さんを侮辱しないで!お金を送っていた?そんなのは嘘よ!それならどうして、私たちは貧しい暮らしをしていたの!?」

 きちんと送金されていたのであれば、日々を生きていくことに苦労などしなかったはずだと、彼女は訴える。彼女の脳裏に浮かぶのは、自分の分の食料まで育ち盛りの娘に与えていたので栄養失調を起こしてしまっているナーザーファリンの痩せた姿だった。それでも彼女は、にこやかにしていた。娘に不安を与えないようにと。

「お母さんは私を売ったりなんてしていない、私が自分から娼婦になったのよ!お母さんが病気で倒れてしまって、死んで欲しくなくて、独りぼっちになりたくなくて……っ!お母さんは最期までそのことを、私が体を売って稼いだお金で薬を買うことを悔やんでた!何度も何度も、泣きながら御免ねって、一人残される私を心配して、亡くなっていったのよ!最低!亡くなった人を侮辱するなんて、最低だわ……!何一つ不自由な思いをしたことがないお坊ちゃまのくせに、知ったような口を利かないで!何も知らないくせに……っ!」

 一通り反論をして僅かばかりすっきりしたフェレシュテフに代わり、漸く我に返ったキリールが反撃に出た。シャフラーイに羽交い絞めされて抵抗出来ない彼女の顔を、彼は握り拳で殴った。頬骨の辺りを殴られたフェレシュテフはキリールを更に睨みつけ、他人を殴って痛みを訴える手を擦りつつキリールもフェレシュテフを睨み返す。

「何も知らないのは貴様の方だロウ!父上が何も言わないでいることに胡坐をかいテ、不思議に思うこともなくのうのうと暮らしてきただロウ!何一つ不自由したことがないだト?巫山戯るナ!父上は僕ヲ貴様の身代わりにしては、貴様に懺悔していタ!母上だってそうダ!正当な妻であるというのに父上に愛されズ、伯爵家存続の道具として扱われてテ……!貴様たちさえ存在しなけれバ、父上は僕たちを心から愛してくれたんダ!」

 キリールの悲痛な叫びは、今のフェレシュテフの耳には勝手な言い分にしか聞こえない。反論しようとしたフェレシュテフの口を背後にいるシャフラーイが塞ぐ。

「若君に何ということをするのだ、この野蛮人め!」
「うぐぅ……っ!」

 フェレシュテフは抵抗を試みたが、シャフラーイに力尽くで押さえ込まれてしまう。そして呆気なく、部屋から引き摺りだされてしまう。

『シャフラーイ!その野蛮人を放り出しておけ!』
『畏まりました、若君』

 扉が閉まる間際にキリールに命じられたシャフラーイは、土砂降りの雨の中、フェレシュテフを宿の外――ぬかるんだ地面の上へと容赦なく放り出した。無様に転がってしまったフェレシュテフは、泥塗れになる。シャフラーイが何事かを言い捨ててから去っていくのが分かったが、何を言われたのかは聞き取れなかった。

「……頭に来たわ」

 勝手に呼びつけられて、言いたい放題言われて、最後にはこうやって放り出されてしまった。流石のフェレシュテフも、怒りを覚える。
 身分の高い人物は、身分の低い人物に対して何をしても良いと思っているのだろうか。そうなのかもしれなくても、此方にも我慢の限界はあるのだ。フェレシュテフは立ち上がり、キリールたちがいる宿を睨みつけると、地面に打ちつけた腕を擦りながら歩き出した。

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