貴方はわんこ。貴女はにゃんこ。

家を追い出されてしまいました

或る日突然、父は鬼籍の人となってしまいました。
取引先の会社で脳溢血を起こして倒れ、搬送先の病院での治療も空しく、意識を取り戻すこともなく息を引き取ったのだそうです。
私には家族は父しかいません。母は物心つく前に病で亡くなり、父は体裁を気にしてか、私のことを慮ったからか後妻を貰うことはしませんでした。
幸いなことに我が家は裕福でしたので金銭面で苦労をしたことはありません。その分、温かい家庭というものには縁遠かったようにも思えます。けれども、忙しい父に代わり、父が連れてきた”子守”がいてくれたので、寂しくはありませんでした。

父を失った衝撃が強すぎて泣くことが出来ず、”子守”に支えながらもどこか心ここにあらずといった調子で喪主を務めているとどうにか葬儀を無事に終えることが出来ました。
その後、親族が話し合いをすると言って何処かへと姿を消すと、私は仏間の畳の上に座り込んで父の遺影をぼんやりと眺めていました。
遺影に使われているのは、母が健在だった頃に一度だけ撮影した家族写真です。そこに写る穏やかな表情をした父を見ていると、これまでの日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、込み上げて来る衝動に逆らうことはせず、私は静かに泣き出しました。
幾つものグループ企業を束ねる会長職に就いていた父は、非常に忙しい人でした。国内は勿論、国外へも足を運ぶことも多く留守がちで、共にゆっくりと過ごした時間は少なかったように思います。

「こんな風になって漸く……お父さんとゆっくりと過ごせるなんて……皮肉なものですね」

出来ることならば、父が生きているうちにこんな時間を過ごしてみたかった。それはもう、決して叶うことはないのだと理解していても願わずにはいられません。

こうしたかった、ああしたかったと考えているうちに、どれほどの時間が流れたのでしょう。少しだけ、心が落ち着いたような気がします。周囲の様子を窺う余裕が生まれました。

「……クィン?」

クィンとは、父が連れてきた”子守”である異国の青年の名前です。通夜や葬儀の間ずっと傍にいてくれた彼の姿が見えず、私の中に得体の知れない漠然とした不安が生まれます。
――捜しに行こう。
痺れを訴える両足を叱咤してやおら立ち上がると、固く閉ざされていた仏間の襖が開かれました。

「ああ、こんなところにいたのね、朝雪(さゆき)

見たくないものを見るように、言葉をかけることも厭うように私の名前を呼んだのは、父の姉にあたる伯母の照子(てるこ)でした。目の前に立っているだけで威圧感を与えてくるこの伯母が苦手で、私はつい反射的に目を逸らし、俯いてしまいます。刺してくるようなあの視線がどうしても怖いのです。

「あんたに話があるのよ、今後についてのね」
「……はい」

財産分与についてでしょうか。そうでもなければ伯母が進んで私に語りかけてくることはありません。伯母は可愛げのない私を酷く嫌っているので。
父の生前にこの伯母が兎角金銭の話に口煩く干渉している場面に幾度も遭遇したことがあるので、きっとそうなのだろうと決めてかかってしまいます。

「親族全員での話し合いの結果、有照(ともあき)……あんたの父親の持ち会社は私の夫や兄弟たちが引き継ぐことになったわ。それと持ち株は私たち兄弟で分けることが決定したわ」

遺族である私を抜きにして行われた話し合いの結果に、私は異論を唱えませんでした。
会社経営など経営学も経済学も学んでいない一介の高校生である私には到底出来ませんし、また株主も務まりそうにありません。ですから、了承の意を籠めて頷きました。
話はこれだけだろうと思っていると、伯母の口から想像もしていなかった言葉が飛び出しました。

「この屋敷も、私たち一家のものになったわ。だからね、あんたには出て行ってもらうわよ」
「え?」

伯母の言葉を聞き間違えたのだろうと思いたかったのですが、面を上げると直ぐにその望みは絶たれました。伯母は憐憫の情もない冷酷な表情でもって私を見下ろしていたのです。

「……そう、ですか」

私は父を亡くした上に、生まれ育った家までも失うこととなりました。衝撃が強すぎて、心が再び麻痺してしまいます。ですから、泣き崩れることも、喚き散らすこともありませんでした――出来ませんでした。

「……私だけではなく、使用人も追い出されますか?」

自分の心配よりも他人の心配をしている私に、流石の伯母も驚きを露わにします。

「そんなことはしないわよ。退職金は出さなくちゃならないし、新しく使用人を雇うなら金がかかるわ」

彼らが職を失わずに済むと分かり、私は自分のことは放っておいて、ほっと胸を撫で下ろします。そして次に、もう一人の心配をします。いつの間にか傍からいなくなっていた、”子守”の心配を。

「クィン……クィンランはどうされますか?彼は使用人ではなく”子守”で……父の私的な秘書を務めていましたが……」
「クィンランは有照が目をかけていただけあって、優秀だわ。無論、このままよ。そうね、夫の秘書にでもしようかしら。何より、美空(みそら)が気に入っているから離さないわね」

美空とは伯母の末娘で、私と同い年の従姉です。伯母夫妻に溺愛されて育った彼女は高慢で思い込みが激しく、クィンに一目惚れをしていました。そして二年ほど前に遂に騒動を起こし、屋敷に住み込みをしていたクィンをアパート暮らしに追いやった原因の人物です。
何故でしょうか、私と違って喜怒哀楽の表現が激しい彼女の勝ち誇った顔が浮かんできました。

「……そうですか」

彼のこれからも保障されているのならば、安心です。美空さんに苦労をかけられるのは目に見えていますが、彼ならば何とかやっていけるでしょう――不器用な私と違って。
心配するような人たちの行く先が決まっているのであれば、私は心置きなく屋敷を出て行けます。私のこれからについては、この後考えることにしましょう。
落ち着いているようでいて頭の中が混乱しているので、今は考えられそうにないのです。

「あんたが通っていた高校だけれど、今日のうちに退学届けを出して、受理されたわ。あんたの学費なんて、これっぽっちも払いたくないからね」

ということは、父が亡くなった直後からそのつもりで事を進めていたのですね。用意周到な伯母に、思わず乾いた笑いを浮かべてしまいそうになりました。

「はい、それで結構です」

私が通っていたのは私立の高校でしたので、学費がかかることは承知いています。家を追い出されてからも通い続けようにも学費が払えませんから、丁度良いです。今まで必死になって打ち込んできた剣道が出来なくなるのは寂しいのですが、出来なくなるからといって死ぬわけではありませんし、大丈夫。

「そうそう。一文無しで放り出すのはどうかと夫が言っていたから、餞別に当面の生活費はくれてやるわ。感謝しなさいよ」

投げ寄越された分厚い封筒の中には、札束が入っています。金に執着している伯母のことですので、若しかすると中身は全て千円札という可能性もあります。後で確認しなければ。今この場でする勇気は、私にはないので。

「……お気遣い、有難う御座います」
「荷物を纏めたら、さっさと出て行きなさいよ」
「……分かりました」

言うべきことを言って用事を済ませた伯母は、やれやれと息を吐いてから去っていきました。

自室へと向かった私は喪服代わりに来ていた制服を脱ぎ、動きやすい私服に着替え、必要だと思うものを大き目のボストンバッグに詰めていきます。

「思い出くらいは持っていっても、良いですよね?」

父母と私が写っている家族写真と、高校に進学した記念に庭でクィンと並んで写った写真の収まっている写真立てが割れないようにとタオルで幾重にも巻いてから、バッグの中へ入れます。父やクィンから貰った全てのものを持っていきたかったけれど、バッグの中に全部は入りきらないことは分かっていたので泣く泣く諦めました。
剣道の防具と竹刀も諦めようとしたのですが、試しに防具入れを背負い、ボストンバッグを肩にかけて竹刀を手に持ってみたら意外にも大丈夫だったので、持っていくことにしました。護身用に、と自分に言い聞かせて。
結局は大荷物になってしまいましたが、これだけのものを持っていけるのならば重たくても我慢出来ます。
人一人いない長い廊下を歩いて、玄関へ。
歩きやすい靴を選んで履き、屋敷の玄関と門を繋ぐ道に敷かれた砂利の上を歩きながら、もうこの音を聞くことはないのだなとぼんやりと考えていました。
木製の立派な門を潜り抜けてた私は、生まれ育った屋敷を僅かの時間眺めて頭に焼き付けてから、徐に空を見上げます。曇り空はいつの間にか綺麗な夕焼けへと姿を変えていました。

「さて、と。どちらへ向かいましょうか……」

きょろきょろと忙しなく頭を左右に振って辺りを見渡した後、私は当てもなく大荷物を抱えて歩き出しました。