Post nubila Phoebus

焼き焦がすもの 1 ―迷宮(ラビリントス)

「ま、そういうわけだから。家に帰ったら、上手い事言い訳しておいて欲しいのよ。目的を果たしたら、ちゃんと家に帰るし、お説教も甘んじて受ける覚悟はしてるから」
ミレトスへと戻る船の中、ゲネトリクス姉弟はコガネたち一行と離れた場所で話し込んでいる。
「……分かりました。父さんと母さんの説得は任せてください。但し、特別無茶なことだけはしないでくださいね。僕だけではなく、皆、心配しますから……」
アルゴスの目の資料の原文を作成している手を止めて、トウマは真剣な面持ちでトウカを見つめた。
「……うん、分かってる」
二人はにっこりと笑い合うと、トウカは盲目的に心酔しているソウシの所へと向かって行った。
(今も充分無茶なことをしていますが、それには目を瞑りましょうか。トウカちゃんなりに考えた末の行動でしょうから……)
そして、トウマは再び机へと目を戻し、作業を再開させた。

***************

ミレトスに到着すると直ぐに、トウマと別れを告げる事になった。イーリオンに戻り、船に乗っている間に書き上げた文書を清書して役所に提出する為だ。

「有難う、トウマ。ここまで進めたのはトウマの御蔭だよ」
「僕の力と言っても、微々たるものです。でも、そう言って貰えて嬉しいです。貴方方が捜しているシリウスさんに無事に出会えますよう、祈っています」
コガネとトウマはしっかりと握手を交わした。するとトウカがずいっと前に進み出てくる。
「じゃあね、トウマ。気を付けて帰るのよ」
「はい、トウカちゃんも気を付けて」
にこやかに手を振る姉やコガネたちと別れ、トウマは鉄道の駅がある方へと歩いていった。

「……何で、トウカが残ってんの?」
トウマと見送った後、ソウシの腕にべったりとくっついているトウカに対して、アキヒが苛立ちを顕わにした。彼はてっきり、姉弟二人でイーリオンへと帰るものだと思い込んでいたようだ。
「私とソウシ様は一蓮托生、ずっと一緒にいなければならないのよ。あんたの方こそ、一人寂しくヘレネスに帰ったら?」
「んがっ!誰が決めたのさ、そんなこと!!!ムカつく~~~っ!!!」
段々と恒例になってきたソウシの取り合いが開始した時、コガネの顔が急に青くなる。
「……ハゼ!」
「はい、何でしょう?」
「酔い止め売ってた薬屋って何処!?」
ミレトスで酔い止めを貰ったので、ハゼが場所を知っているはずだと思ったコガネが必死の表情で問う。どうやら、あの時に貰った酔い止めがもう無くなりかけているらしい。
「其処でしたら、港の入り口の付近ですよ。大きな看板があるので、直ぐに分かると思います」
「そ、そっか。有難う!」
そうして、少年は即座に物凄い速度で駆けて行った。暫くして、小さな紙袋を抱え、満面の笑みを浮かべたコガネが戻ってきた。
「お薬、ちゃんと買えた?」
「うん」
「そう、良かったわね」
にこやかに会話を交わすと、コガネとトキワの二人はクレタ島行きの船が止まる船着場へと向かい始める。
「……俺、あんなに嬉しそうに薬買ってくる奴、初めて見た……」
「仕方がないよ、コガネにとっては死活問題だもん」
事情を知らない者が見たら、危ない子供に見えるかもしれない。
「そんなに凄いの?コガネの船酔いって……」
酔い止めの世話になっているコガネしか見たことがないので、トウカは首を傾げる。取り合いをする側とされる側に分かれていた三人は手を止め、コガネを哀れむような目で見つめたのだった。

***************

アシア連邦領土のミレトスから、フェレトリウス・アルカディア帝国領土のクレタ島のイラクリオンまでは、船で四日ほどかかる。悪天候に見舞われることもなく、四日目の早朝、コガネたちはイラクリオンへと辿り着いた。

「長いこと船の中にいるとよ~、身体を思いっきり動かせねえからよ~、辛いんだよなあ~」
首や肩の関節をゴキゴキと鳴らしながら、ソウシがぶつくさと文句をたれる。大人しくしているのは、どうにも性に合わないようだ。
「さて。シリウス・アイテルの居場所は判明してますが、念の為に情報を仕入れておくのが宜しいかと思うのですが?」
「それ賛成」
ハゼの提案に、アキヒが珍しく素直に賛同した。
「じゃあ、二時間後に此処で落ち合おう」
イラクリオンの広場にある噴水の前を集合場所に決めて、一行は二手に分かれて行動を開始した。

(……何で、あっちに行かなかったんだろ……)
ソウシの取り合いをして喧嘩を始めるアキヒとトウカの間に入るのは遠慮したかった。仲裁役は向いていないと判断したから、もう一方の組に付いていく事にしたのだが、此方もまた遠慮したくなってきた。
一行の保護者、といった役割になっているトキワの傍にいるのは全く問題ない。問題は、彼女の向こう側にあった。
(俺、コイツがちょっと苦手なんだよな~~~)
口を開けば嫌味や人の癪に障る言葉が多々出てくるハゼが、どうにも苦手なのだ。初めの頃よりは慣れてきたが、それでも苦手意識は拭えない。そんな彼とよく話をしているトキワは、何故ハゼと接するのが平気なのだろうか。不思議で堪らない。
「どうかしたの、コガネくん?」
難しい顔をして黙り込んでいるので、体調でも悪いのかと心配したトキワが不意に顔を覗きこんできた。
「えっ、いやっ、べ、別に……?」
何となく心の内を悟られたくなかったので、コガネは目を逸らして曖昧に答える。
「俺がいる方へ来たことを、今更ながらに後悔しているんですよ。俺が苦手なのでしょう?ねえ、コガネくん?」
ずばり心中を言い当てられてしまったコガネは、。蒼白になって言葉を失う。
(気が付かれてる!!!)
この場にアキヒが居たならば、「顔に全部出てるからバレるんだよ」と呆れたように突っ込みを入れてくれたことだろう。
「……に、苦手じゃないっ!」
言い当てられてしまった事が悔しかったので反論してやろうとしたのだが、そう言い返すのが精一杯だった。よくよく考えてみると、コガネでは到底ハゼには口で勝てないことは目に見えている。
イラクリオンの町の中を歩き回り、情報収集をし終えた三人は、ソウシたちと合流する為、集合場所へと戻っていった。

***************

迷宮(ラビリントス)には、イラクリオンの付近、クノッソス宮殿跡を通らなければ行くことは出来ないと、イラクリオンの住人に聞いた。

「そういえばさぁ~」
目的地へと向かう道すがら、アキヒが徐に口を開いた。
「町で妙な噂を聞いたんだよね。クノッソス宮殿跡の周辺には、夜な夜な得体の知れないものが出るから、地元の人は怖がって全く近寄らないんだってさ」
「俺も、その話は聞いたぞ。何だろうな、得体の知れないものって……」
聞き込みの最中、立ち寄った雑貨店の店主が大真面目に語っていた様子を思い出し、コガネが苦笑いをする。
「所謂お化け、幽霊、正体不明の魔物、或いは単なる勘違いなど、ね。この中のどれかでは?」
ハゼは大袈裟に肩を竦め、「まあ、噂話というものは八割方聞き流して良い代物なので、信憑性は殆どありませんね」と付け加える。
皆が談笑をしている中、トキワは一人浮かない表情をしている。
(大丈夫、大丈夫よ。お……お化けなんていないわ……!う、噂、ですもの!)
彼女の様子がおかしい事に気がついたアキヒが、上目遣いで顔を覗きこむ。
「……ねえ、若しかして……お化けとか、怖いの?」
図星を突かれた彼女は、ぎくりと身を強張らせると、慌てて笑顔を取り繕った。誤魔化す心算らしい。
「えっ?そ、そんなことは、ない、ないわ、よ?」
両手を忙しなく動かしながら数歩後退り、くるりと身体の向きを変えて歩き出したが、彼女は「この先注意」と大きな文字で書かれた看板に顔をぶつけた。
正面から突っ込んでいったので、かなり痛い。
(トキワは怖がり……っと)
心のメモ帳にそっと記しておく。表面では力なく苦笑してしまったが、怖がりであることを隠そうとしている彼女が可愛く見えた。

***************

「わ~、朽ち果ててるわねー!」
クノッソス宮殿跡に辿り着いた途端、目の前に広がる光景に唖然として、トウカが大声を上げた。『宮殿跡』という名称の通り、其処には嘗て壮大な建物があったのだろうと思われる土台と、途中で折れている柱の残骸などが残されている。
「この場所は、数百年程前からこうだったそうですよ」
数百年前に火事で修復できないほど燃えてしまい、それ以来そのままの姿で残されているのだと、あの雑貨店の店主が言っていた。
「得体の知れないものの正体って、火事で亡くなった人の幽霊……かな?」
自分が死んだ事に気が付かず、何百年もこの地に留まっているのかもしれない。そんなコガネの呟きを耳にしたハゼは、ふっと笑みを零した。
「……何だよ」
随分と幼稚な考えだと笑われたのかと思ったコガネは、口を尖らせる。
「いえいえ、想像力が豊かなことは良い事ですよ。……貴方は本当に、『望ましい環境で育った子供』ですね」
「……???」
言葉の意味が理解出来ない。その子供は首を傾げた。彼は意味を解説することもなく、意味深長な笑みを浮かべるだけだった。
「こんな所で何時までも話してたら、日が暮れちまう。迷宮はこの先なんだろ?早く行こうぜ」
ソウシが天を仰ぐ。太陽は天の中央から、僅かに西へと移動し始める頃合だった。

広大な敷地を有している宮殿跡を抜けると、入り口が崩れかけた巨大な建物が見えてきた。
「ちょっと壊れてて分かりにくいけど、……確かに『双斧(ラビリス)』の紋章があるね」
これこそが迷宮であると、アキヒが意気揚々と告げる。
「つか、本当に此処に来るまでに人っ子一人として出会わなかったな」
妙な噂話が流れている為か、人の気配が全く感じられない。ソウシが暢気に辺りを見渡す。
「昔の人間が考えることは分かんねえな。こんなでっかいモン作ってどうすんだよ?」
迷路を作るのが趣味だったのか?
情報収集の際に耳にした言葉は、右から左へと流れ出していってしまったので殆ど覚えていないらしい。ソウシの貧困な脳内に残っているのは、自分を取り合って無意味な争いを繰り広げる少年少女の姿くらいのようだ。
「神代の時、王位を得る為に自分には神の加護があるのだと知らしめたいと、海から牛を出現させて欲しいと海神ポセイドンに祈りを捧げたミノスという人物がいたそうです」
面倒臭がるのが常のハゼが珍しく解説を始めた。
「王座を手に入れた後、その牛を海神に捧げる事を条件に、その願いは聞き届けられました」
海から牛が現れたことで、海神の加護があるのだと認められたミノスは見事に王座を手に入れ、クノッソスを、クレタ島を支配する王となった。
約束通り、海より現れ出でた牛を捧げなくてはならないのだが、その牛があまりにも美しく立派だったので、欲に負けたミノス王は神への感謝を忘れ、約束を反故にして別の牛を奉納してしまった。
「この所業に腹を立てた海神は、ミノス王への罰として、王妃パシパエに呪いをかけます。呪いの所為で王妃は牛に恋情を抱き、紆余曲折ありまして、結果として牛頭人身の怪物ミノタウロスを生みました」
ミノス王は王妃の不義により生まれた怪物を閉じ込める為に、名工ダイダロスに依頼をする。怪物が出てこられないように設計し、建てられたのがこの迷宮だと言われている。
「――と、雑貨店の店主が懇切丁寧に教えてくださいましたよ」
解説を終えると、彼は入り口付近に生えている木の下へと歩いていった。
「要するに、古代の牧場って訳か」
「全然違うわよ、ソウシ様」
「牧場だったら、迷宮って名前が付くはずがないでしょ」
所々しか聞いていなかったので曲解しているソウシに、アキヒとトウカが揃って冷たい目をして突っ込みを入れる。

「ところで、前髪オバケ。途中、何かを割愛したわよね?」
雑貨店で購入したヒモを木の幹に括りつけているハゼに、トウカが胡乱気な目を向ける。彼が明白にしなかった部分が気になるようだ。
「詳細を言っても良いのですが、御子様方には刺激が強すぎると思いますよ?」
意味深長な笑みを浮かべるだけで、彼は詳細を語ることはなかった。答えが得られなかったトウカは追求を諦めて、妄想で補完する事に決め込んだのだった。
「んで、お前は何をしてんだ?」
ソウシは彼の下まで歩み寄り、幹の縛り付けられているヒモを指し示す。
「伝説とやらに基づいた、迷宮の攻略法を実践しようとしているところですよ」
ミノタウロス退治にやってきたアテナイの英雄テセウスがクレタの王女アリアドネから教えられた、迷宮に入り口に糸を結びつけてから中を進み、その糸を頼りに戻ってくるという方法を、例の店主が熱烈に語ってくれていた。
(……伝承とか伝説だとか、そんなのが大好きで喋りだしたら止まらないって言ってたよな、奥さんが)
困り顔で店主を眺めていた夫人を思い出し、コガネとトキワは顔を見合わせて苦笑した。

***************

迷宮に足を踏み入れたが最後。
二度と日の光を拝むことは出来ない。

そう言い伝えられている通り、迷宮内の構造は非常に複雑なものだった。僅かな陽光も届かぬ暗闇の中を、イラクリオンで調達したランタンの灯りを頼りに進んでいく。
人間が寄り付かない場所は、魔物の巣窟と化していることが多い。
不測の事態に臨機応変に対応出来る賞金稼ぎ組を戦闘にして、中央にコガネとトウカ、後方にハゼとトキワという隊列を組んでいる。
(……おや)
前の四人は取り留めのない会話を楽しんでいるようだが、トキワの顔色が芳しくない。
暗闇が恐ろしいのか、はたまた噂の得体の知れないものが恐ろしいのか。身体が微かに震え、目がキョロキョロと忙しなく動いている。
(得体の知れないものに一番反応していたのは、この人でしたね)
彼は隣を歩くトキワを一瞥して、やれやれとばかりに小さく息を吐いた。
「――トキワさん」
「えっ!?え、ええ、な、何、かしらっ!?」
声をかけただけでこの反応。後者だな、と彼は瞬時に悟った。
「後ろは俺が警戒していますから、貴女はコガネくんかトウカさんに順番を変えて貰いなさい」
「え、ええと、私は平気よ?」
明らかに怖がっているというのに、それを隠そうと彼女は強がっている。大人しく認めようとしない彼女が、少々気に食わない。
(……ふむ)
少しだけ意地悪をしてやることにした。
「おや、肩に何か白い靄のようなものが」
「い……っ、きゃあああああああっ!!!」
瞬間的に青ざめた彼女は絶叫して、目の前にいるハゼに抱きつく。その勢いが凄まじかったので、ハゼは危うく後ろに倒れそうになった。
「トキワッ!?」
「ど、どしたの……っ!?」
「何してんだ、お前ら?」
「あら、大胆ね……?」
突然の絶叫に驚いて振り向いた四人が、目を丸くして呆けている。どう見ても、トキワがハゼに抱きついているようにしか見えないのだ。そんな間柄ではなかったはずだが、と。
「とっ、ととっ、取って!お化け取って!!!」
――『お化け』であるとは断定していないのだが。
完全に混乱状態に陥り、死に物狂いで自分にしがみ付いている彼女の肩を、ハゼはぽんと軽く叩いた。
「冗談ですよ」
「え……?」
涙目の彼女が見上げると、彼は呆れたように息を吐いた。
「貴女が素直に怖いと認めないので、少し脅かしただけです。ほら、順番を変えてもらいなさい」
「う……っ」
茹蛸のように顔を真っ赤にして、彼女は素早くハゼから離れる。
「怖いのなら、私と手を繋いでいきましょう?少しは、怖い気持ちが紛れると思うのだけれど」
「え、ええ。有難う、トウカちゃん……」
握った手の暖かさに安心したのか、トキワが落ち着きを取り戻したようだ。
隊列の順番を変えて、一行は再び進み始める。
「あんたさ~、からかうなら、もっと慎重に相手を選びなよね」
先頭から後方に回されたアキヒが、それとなくハゼに釘を刺す。
「それは失礼致しました。まさか、それほど怖がっているとは思ってもいませんでしたのでね。これからは充分に気を付けますよ、小さな金の亡者くん」
その態度に、アキヒの額に青筋が浮かび出た。
――コイツ、嫌いだ。
アキヒは心の底から、そう思った。そして同時に、ハゼと気軽に会話が出来ているトキワの偉大さを思い知ったのだった。

「右に曲がったり、左に曲がったり……苛々するわねっ!誰よ、こんな変なもの作った奴はっ!?」
どの程度攻略出来ているのかが把握出来ないことに腹を立て、トウカが子供のように地団太を踏む。
「依頼したのがミノス王で、設計と建設はダイダロスって、さっき言ってたじゃないさ」
もう忘れてしまったのか。
アキヒが少々小馬鹿にした口調で言うと、トウカが勢い良く振り返り、じろりと睨みつける。
「閉じ込めた怪物は勿論、生贄にされた人間たちが出てこられないように造られているから、複雑な構造をしているのよね」
石の手触りを確かめるように壁に手を当てているトキワが、どこか遠い目をしながら呟いた。
「生贄?」
「毎年アテナイから連れて来られた生贄を迷宮に閉じ込めて、怪物に喰わせていたの。それを止めさせる為にアテナイからテセウスが生贄に紛れてクレタまでやって来て、王女アリアドネに糸玉を使った攻略法を教えられる。テセウスは怪物を退治して、無事に迷宮から脱出することが出来た……」
コガネが首を傾げると、トキワは詰まることもなく、すらすらとこの地に伝わる伝承を語ってみせた。
「……あら?生贄がどうとかの辺りは聞いていないわね。詳しいのね、トキワ?」
トウカは素直に感嘆する。
「テセウスはアテナイの英雄だもの。昔読んだ本に、テセウスの偉業が書かれていたことを漸く思い出したのよ。イラクリオンの人々に聞いてから徐々に思い出してきたから……意外と時間がかかってしまったわ」
トキワが苦笑気味に答えると、彼女はそれで納得をしたのか、直ぐに話題を変えた。
(……本当は、違うのだけれど……)
彼女は皆に見えないように目を伏せて、どこか寂しげに心中で呟いた。

***************

「ん?何だ、これ?」
ランタンを片手にずんずんと進んでいたソウシが、急に足を止めた。視界に入ったものを確かめる為、壁にランタンを近付けて照らしてみる。

――このボタンを押しちゃうと何かあるっぽいよ

壁に付いている怪しげなボタンの隣に、微妙な文章が書かれた紙が貼り付けてある。
「ええ~~~?あるっぽいって何なのさ!?凄く気になるんだけど!?」
「気になるんだったら押してみりゃいいじゃねえか」
――ポチッ。
誰かが制止するよりも早く、ソウシはボタンを押していた。暫し、場の空気が凍りつく。
「ちょっと、何してくれちゃってるのさ!?押したら駄目ってのは、空気読めば分かるでしょぉ!?」
「俺、読めないし読まないし」
「堂々と言い張るな、この生命の神秘!!!」
其処になおれ、もれなく説教してやるから。
息巻いたアキヒがソウシに近付こうと一歩を踏み出した途端、彼女の足下がひび割れ、一気に崩れる。
「うおっ!?」
「うわぁっ!?」
ソウシの傍にいたコガネも巻き込まれそうになる。だが、ソウシが寸でのところでコガネの身体を向こう側へと押したので、コガネは奈落に落ちずに済んだ。
「ソウシ!!!」
青い顔をしたコガネが、穴の中に向かって叫ぶ。無事だろうか、それだけが心配だ。
「お~、大丈夫だ。あのよ~、こっちにも道があるから進んでみるわ。お前らも先に進めよ~?そうすりゃ、何処かで合流出来るだろ」
此方の心配を余所に、酷く暢気な声が返ってきた。
「ハゼ、その紐を貸しなさいよ」
「その必要はありませんよ。先に進めと、あの方は言っていましたでしょう?」
ハゼは、ソウシの心配をするトウカを冷たく切り捨てた。
「ソウシ様が怪我をしていて、動けなくなってるかもしれないのに?今のは、私たちに心配させない為の嘘かもしれないじゃないの!」
「だけどさあ、この紐じゃあ、人間の重さには耐えられないよ」
彼女の進言を無視して今すぐに助けようにも、それは叶わないのだとアキヒは静かに告げる。
(意外だ……)
トウカとソウシの取り合いを繰り広げるくらい、アキヒは彼女のことを慕っている。コガネはてっきり、彼がトウカと同じことを言うだろうと思っていたが、殊の外アキヒは冷静だった。
「気が付いてないの?僕たち、右左に曲がってばかりじゃなくて、徐々に地下に降りていってるんだよ?ソウシは下に落ちていったんだから、このまま進んでいった方があっさり合流出来る気がするけどね」
「……魔物がいたら、どうするのよ?」
「ソウシは知性に関しては問題ありまくりだけど、戦闘と野生の勘に関しては天性のものがあるんだ。魔物に囲まれたとしても、一人で対処出来るんだよ、ソウシは」
淡々と語ると、アキヒは踵を返して歩み始めた。
「……何なの、あいつ!?」
「落ち着いて、トウカちゃん」
憤慨するトウカを、トキワが宥める。
「アキヒくんだって、本当は心配で堪らないのよ?」
「……え?」
歩を進めるアキヒの背に、目を向ける。握り拳を作っている手が、微かに震えていた。気丈に振舞ってはいるが、内心ではとても動揺しているのが見てとれた。
その様子を目にして、頭に血が上っていたトウカは漸く落ち着き始めた。
(頑張って、意地張ってるのかな)
その姿に、少し前の自分が重なった。気が付くとアキヒの傍に駆け寄り、声をかけていた。
「アキヒ」
「ん?」
振る舞いこそは普段通りだが、声に焦りの色が混じっているのが分かる。
「急ごうぜ。のんびりしてると、ソウシに怒られそうだ」
「……うん、そうだね」
どんな顔をして、どんな言葉をかけたらアキヒを安心させてやれるのだろうか。
考えていることが顔に出てしまっていたのだろうか、アキヒは困ったように、けれど、どことなくほっとしたように笑った。

***************

ソウシと離別してしまってから、只管に先へと進んでいると、一行は広間と思われる場所へと辿り着いた。

(……おかしい)
イラクリオンの人々の話では、迷宮はおろかクノッソス宮殿跡にさえも数十年の間、誰も近付いていないはずだ。何故、広間の中が灯りで照らされているのだ?
――誰かがいる。
「伏せろっ!」
初めて耳にするハゼの叫び声に驚き、一行は反射的にその場に伏せる。その後、近くで爆発音が聞こえた。恐る恐る起き上がりながら振り返ると、入り口だったものは大きな穴と化しており、生じた塵が煙のようになって周囲を漂っていた。
ハゼの警告がなければ、ああなっていたのは自分たちかもしれないと思うとぞっとする。

「あら、残念。避けられてしまったわねえ?」
耳慣れた声音が、一行の耳朶に触れる。
「……っ!リゲ……」
「きゃ―――っ!!!何あの超絶美青年!!!」
コガネの言葉を遮って、トウカが黄色い声を上げる。
「……」
見事に出鼻を挫かれた少年は、仕切り直しをするか否か、逡巡した。
「え~~~?何で、シロガネ・アイドネウスが此処にいるの?」
「さあ……?」
エレウテライで一度だけ対峙したことのある青年――アイギス総長シロガネ・アイドネウスが、リゲルの傍に控えているのだ。この二人には接点はないはずだがと、アキヒとトキワは顔を見合わせて、首を傾げる。
「ベテルギウス・エウメニスと出会ったか、と問われた時に黙殺したことが無駄になっていますよ。其処の彼と共に行動をするということは、それこそ浅慮なのではありませんか、リゲル・プラクシディケ?」
アイギスは、ニケ――ベテルギウスと共にある。その総長であるシロガネと共にいるということは、既にベテルギウスと手を組んでいるのだと宣言しているも同じだ。
熟考の末に行動をしたら如何かと、ハゼはリゲルに嘲笑を送った。
「シリウスを捜す気などなかったのだけれど、アルタイルが絡んでいるようだから気が変わっただけのことよ。これは、ただの『取引の道具』よ。協力しているわけではないわ」
彼女は艶然と微笑み、傍らに控えている青年を顎でしゃくってみせた。

「それにしても……、これほどまでに関わる事になるとは思いもしなかったわ。……ちょろちょろと、煩わしいわね」
眼前のコガネたちを一通り見渡すと、うんざりといった様子でリゲルが嘆息を吐いた。
それは此方の台詞だ、と言い返してやりたかったが、今はそんなことをしている場合ではないと思い直し、アキヒは鋭い目をしてリゲルを見据えた。
「煩わしい?だからって、僕らをどうかするっていうの?それって、マシロちゃんと交わしたっていう約束を破る事になると思うんだけど?」
コガネたちに手を出さないのであれば、身体を差し出す。
サモス島のヘライオンで対峙した際に、リゲルはマシロがそう言っていたと語っていた。
「私が直接手を出さなければ良い話よ。アイドネウス、これらを始末なさい」
「……御意のままに」
命が下されると、シロガネは鞘から細身の長剣を抜き放つ。軍靴を鳴らし、軍人らしい足取りで此方へと近付いてくる。
「顔だけじゃなくて、声も良いじゃないのよ」
トウカはそう言いながら矢立から矢を摘み取り、弓に番え、いつでも放てるように狙いをつけて構える。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろっ!?」
「そうだよ!この人の実力が分からないんだからっ!」
少年組はトウカに突っ込みを入れつつ、各々得物を手にして、相手がどう出てくるか注意深く見つめる。
――見つめていたはずだった。
「コガネッ!!!」
悲鳴のようなアキヒの叫び声が聞こえた時、シロガネが一気に距離を詰めて、自分の目の前にいる事に気が付いた。
「うわっ!?」
踏み込みと同時に繰り出された突きをかろうじて回避する事に成功したが、安心は出来ない。
(危なっ!!!)
ほんの少しでも遅れていたら、コガネは心臓を一突きされていたに違いない。想像しただけで、背筋が凍りつく。
「コガネ、油断しないで!」
眼帯をしている右目側――死角を突いて、アキヒが攻撃を仕掛ける。しかし気配を察していたのか、シロガネは難なく躱し、数歩後退する。
(やっぱり、死角から攻撃される事に慣れてるか)
死角となる右側から狙われることが多いのだろう。実際、アキヒもそれを狙った。だが、死角となる側から攻撃されたとしても、場数を踏めば、それを補う為の感覚が発達する。そう理解したアキヒは、攻撃を躱されても焦りはしない。
(そんなこと出来なきゃ、アイギスの総長になんてなれるわけがないよね~)
コガネを狙った攻撃を見た限り、突きが主体の攻撃をしてくることは予測出来る。また、あの剣は相手の攻撃を受け止めることには向いておらず、一定の距離を保たなければ攻撃することも出来ないという欠点がある。
つまり、懐に飛び込んでしまえば此方の勝ちとなる。
距離をとられないよう、アキヒは素早く間合いを詰めて、両手のトンファーを駆使して攻め込む。
(アキヒが美青年を抑えている今が好機だわね……)
シロガネに前衛を任せているリゲルは、離れている場所で呪文の詠唱に入っていた。呪文の完成を阻止するべく、トウカは目標を変えて、リゲルの足下目掛けて矢を射ろうとした時だった。
(あめ)の下知らしめす大神(おおかみ)さえも()(おそ)常夜(とこよ)()の神よ。何卒、下界の者どもにも恵み給いなんや。――『常闇の御帳(みちょう)下ろすニュクス』」
トウカが放った矢は、リゲルを包み込むようにして現れた半球状の闇に飲み込まれて消えてしまった。
「げっ、嘘でしょっ!?」
アキヒはぎょっとして、視線をリゲルの方へと向けた。
「アキヒ!!!」
シロガネは、隙を見逃しはしなかった。
コガネがアキヒを抱き込むように倒れ、共に床の上を転がらなければ、アキヒの身体に風穴が開いていたことだろう。二人は急いで立ち上がり、体勢を立て直す為に一旦距離をとる。

「精神を集中させ、呪文詠唱を完成させなければ魔法は発動しない」
気配を殺し、背後から忍び寄ったハゼがシロガネの首筋を狙って斬りつけるが、寸でのところで回避される。
「そして、詠唱の最中は無防備となるのが術者の常ですが……流石はアイギスの総長殿。常識破りなことをしてくださる。いえ、『貴方だからこそ出来る芸当』、ですかね?」
「……」
ハゼの問いかけに、シロガネは黙したまま答えない。
「……何か知ってるっぽくない、あの前髪オバケ?」
「……だよなあ」
アイギス総長には、何か秘密でも隠されているのだろうか。しかし、ハゼは何かを知っていたとしても、此方が尋ねない限り答えない。言葉の裏に隠された意味を理解出来ず、戦闘中だということも忘れて少年組は首を傾げてしまう。
「其処とも知らず奥津城を彷徨う死霊よ。我が力、生く魂により、冥き途から現し世に蘇るべし……」
シロガネの妙技やハゼの言葉に気を取られているうちに、リゲルが呪文を完成させてしまう。
「来たれ、ミノタウロス!――『ヘカテの御魂振り』!」
床一面に巨大な魔法陣が浮かび上がり、強烈な閃光と大気を震わす咆哮と共に、古の魔物が姿を現す。
「デルフォイの神殿で使った魔法と同じだ……っ!」
忘れられるはずがない、リゲルが呼び出した魔物に喰われかけたのだから。コガネは苦い思い出のある魔法を目にして、思わず声を出した。
「……私たちには手を出さない、のではなかったのかしら?」
「私ではないわ。手を出すのはアイドネウスとミノタウロスだもの」
それは屁理屈というものではなかろうか。あまりに堂々と言い切られてしまったので、トキワは面食らってしまった。
しかし、傍観している暇はない。召喚されたばかりの牛頭人身の魔物は、手にした巨大な斧を振り回して、得物を仕留めようと此方に向かってきている。
「ハゼがアイギス総長を抑えているうちに、俺たちはこっちの魔物を倒そう!」
戦闘に長けたソウシがいない今、シロガネと対等に渡り合えそうなのは彼くらいであろうとコガネは判断した。ならば、此方の魔物は自分たちでどうにかしなければならない。意を決したコガネは、剣先を魔物へと向ける。
「じゃあ、僕が牛の目を惹きつけるから、コガネたちは確実に傷つけて弱らせて!」
「分かった!」
「分かったわ!」
「任せなさい、了解よ!」
彼らは一斉に行動を開始する。